【麻生財務大臣の父・麻生太賀吉】将来の国家産業は石炭に懸っている―筑豊の風土が麻生家を大きくした

福田和也・世界大富豪列伝「蕩尽の快楽」連載第119回麻生太賀吉(その一)

2015年04月10日(金) 福田 和也

今年2月6日、第三次安倍内閣の首相、閣僚合わせて19人の資産が公開された。
最も多かったのが、麻生太郎副総理兼財務相の4億9127万円。次が竹下亘復興相の4億5772万円。その次が安倍晋三首相の1億528万円。1億円を超えたのは、この三人であった。

トップの麻生の資産は、東京都渋谷区の自宅と地元の福岡県飯塚市などに所有する不動産が大部分を占めるという。
飯塚市に拠点を置く、株式会社麻生は明治の初め、目尾御用炭山を採掘し石炭業に着手したことにその端を発する。

初期の麻生は筑豊の発展とともに成長。
石炭業以外に銀行、電力、鉄道、病院などの事業も手がけるようになる。
戦後は石炭からコンクリートへ大転換に成功し、さらに福祉、教育、建設、環境、地域開発など多角的に事業を展開。現在70社を超える麻生グループを形成するに至っている。

この礎を築いたのが、太郎の曽祖父・麻生太吉であり、戦後のエネルギー革命を乗り切り、さらなる発展を実現させたのが父・太賀吉であった。

麻生の先祖は福岡県の中央部、筑豊地方に古くから住み庄屋として地域を治めていたが、そもそもは武士の出であったらしい。

「麻生家は古来士族として武を以て立つて居たが、孰れの時代からか此の地立岩栢の森に土着し、一大丘陵の麓に家を構へて連綿として帰農土豪の生活を続けて居た」(『麻生太吉翁伝』)

慶応4(1868)年1月、明治が始まる直前に、太吉の父・賀郎が村に対する貸渡金595両余りを免除したために、倅の代までの「大庄屋格」を申し付けられ、「麻生」の苗字を名乗ることを許された。

太吉は明治5年、16歳で元服すると、村人三人と共同で目尾御用炭山の採掘を始めた。
まだまだ石炭が注目されていない時代である。庄屋のおぼっちゃまが炭塵にまみれ、濁水に浸って働く姿に周囲は驚愕し、麻生の家も終わりだと囁き合った。

しかし、将来の国家産業の興隆は燃料である石炭に懸っているのだという太吉の確信は揺るがなかった。
弱冠16歳の少年がこうした確信を持つにいたったのは、生まれ育った筑豊という土地が広大な炭田を擁していたことが無関係ではないだろう。風土が太吉の中に石炭への関心を喚起させたのだ。

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