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【主張】
親の賠償責任 「日常感覚」に沿う判断だ
多くの人が、「それはそうだろう」と納得した判決ではないか。
11歳の児童が蹴ったサッカーボールが校庭を飛び出し、これを避けようとしてバイクで転倒、負傷した85歳の男性が、入院先の病院で誤嚥(ごえん)性肺炎のため亡くなった。
1、2審は児童の両親が監督責任を怠ったとして1千万円超の賠償を命じたが、最高裁は「通常は危険でない行為でたまたま人を死傷させた場合、親は賠償責任を負わない」などとして、原判決を破棄した。
不幸にして亡くなった男性は大変気の毒である。だが、被害救済を重視するあまり、無条件に保護者の責任を認める判断は、国民の理解を得られまい。
裁判員制度は、国民の司法参加によりその日常感覚や常識などを裁判に反映することなどを目的に導入された。損害賠償訴訟は制度の対象ではないが、すべての司法判断が国民の常識と乖離(かいり)すべきでないことは当然である。
児童は放課後、開放された校庭で友人らとゴールに向け、フリーキックの練習をしていた。
ゴールの後方10メートルには門扉があり、その外側に道路があった。1、2審判決は、ゴールの後方には道路があり、ゴールに向けて蹴らないよう指導する監督義務があったなどとして、両親に賠償金の支払いを命じていた。
ゴールに向けてボールを蹴らなくては、競技が成り立たない。ゴールと道路の位置関係に問題があるとすれば、両親の監督責任ではなく、小学校の施設管理を問うべきだったろう。
平成25年8月には名古屋地裁で、認知症の91歳男性がJR東海の電車にはねられ死亡した事故で、JR側が遺族に振り替え輸送代など損害賠償を求め、720万円の支払いが命じられた。
男性には徘徊(はいかい)の症状があり、85歳の妻らが介護していたが、目を離したわずかの間に男性は自宅を出て、線路内に立ち入った。
2審で賠償額は半分に減額されたが、大きすぎる責任と隣り合わせでは、在宅介護が立ちゆかなくなる恐れもある。今回の最高裁の判決は、認知症患者の家族の責任範囲や賠償義務など、今後の判断にも影響を与えるだろう。
子供が外で遊べない、認知症高齢者の閉じ込めといった悪習を助長するような結果を招くことは、司法の本意ではないはずだ。