オリエント歴史回廊(遷都):(ウバイド・シュメル)
浦和レッズレディースの応援&歴史のブログのUP・ラフレでの温泉入浴さいたま新都心コックンへの寄道が至福の時。
201503<<123456789101112131415161718192021222324252627282930>>201505
末盧国と馬韓国

 『浦和レッズレディース』
 『湘南ベルマーレ』
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』
 『明星院・広島県歴史&地名他』

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ(History)
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 ≪末盧国と馬韓国
 ≪末盧国と馬韓国
 
「慕韓」は馬韓なのだろうか?。

 馬韓は、

 鹿児島半島南端の枕崎(マッラザキ)市のマッラから、

 九州北部の佐賀・長崎両県にまたがる

 松浦郡のマツラに移動拡大して、

 さらに朝鮮半島まで広がったものだった。

 これもマクラのマに馬の当て字をしたものだから、

 カラはクラと同じもの、

 その発音からみて、カンでなくカラだったのである。

 枕という当て字に意味がないとすると、

 そのもとの発音は「マカラ」で、

 これは海に棲む巨大な聖魚だとするインドの海の神である。

 枕崎は海港都市だから昔は海人の町で、

 その名がマカラだった可能性は非常に高い。

 するとそのはるか南にある

 臥蛇(ガジャ)島の名に結びっく。

 ガジャはインド語で象のことだが、

 マカラはガジャ・ミナ(水象・海象)とも呼ばれるからだ。

 この島が象と鯨の頭部によく似ていることも

 この講座でお話ししたが、

 インドの宗教画には長い鼻をかかげた象の頭をもった魚が、

 海を泳いでいる絵が多数みられる。

 それがマカラである。

 『三国史記』には

 「靺鞨(マッカツ)」という敵が記録されている。

 この字がマカラなのだから、

 半島側からみた海からの敵、

 それは『魏書倭人章』が

 末盧(まつろ)国の風俗として描く、

 あの

 「水が深くても気にせず、昔、沈み潜って魚蝮をとる」

 人たち=松浦海人以外には考えられない。

 この松浦が半島と分離したのも

 大化改新(乙巳の変)以後なのだから、

 『三国史記』の読み方がわかる。

 だが、

 インドにも「マツウラ=マトゥラ」という地名があって、

 今はマドラスと発音されているので、

 英語の「船乗り=マドロス」が、

 この地名から出ていることがわかる。

 これも枕崎と同じく、

 やはり海人を意味しているからである。

 インド語と英語はいうまでもなく印欧語で、

 もとは同じ言葉だ。

 マカラを松浦と馬韓の語源とみるよりも、

 このインドのマツウラのほうが、

 よっぽど語源らしく見える。

 これはどちらが正しいのであろうか?。

 この答はパーリ語にある。

 私(加治木義博)の研究では

 現在の時点で3000語を超える

 日本語との共通語があり、

 これはまだ日増しに増えつつある。

 日本語も印欧語に入るとする方が正しい。

 なぜなら過去の「文法」一辺倒の言語分類では、

 パーリ語にそんなに

 大量の共通語があることさえ知らなかったという

 事実があるからだ。

 文法はその土地に住んでいた古代人の語順が、

 居住者が変わっても言葉だけは受け継がれるから、

 いっまでも土着する。

 文法が全てではない。

 それに後から加わった単語があって

 初めて言語は進化して行く。

 その結果、今の日本語が完成したのだから、

 最初の言語の占める量はごく少いし、

 現実の日本語と全然ちがうからである。

 言語の全貌がわからない過去の分類は時代遅れだ。

 物理を応用した情報産業、

 生物や化学を応用した医学・薬学が進化している。

 古い言語学だけが正しいはずはない。

 ※出典:加治木義博

  「言語復原史学会・大学講義録33:29~30頁」
起首=キシュ

 『浦和レッズレディース』
 『湘南ベルマーレ』
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』
 『明星院・広島県歴史&地名他』

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ(History)
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 ≪起首=キシュ
 ≪起首=キシュ

 『ギルガメシュ叙事詩』などで

 細部まで判っている大洪水後の最初の都市国家は、

 キシュだが、

 それに次いで生まれた

 都市国家・ウルクの王がギルガメシュである。

 洪水が繰り返して町や村は洪積土層に覆われ、

 強い太陽が固めた大地は、

 木はもちろん、家を建てる石材も釘を作る金属も皆、

 地中深く埋没していて、

 不毛の大地が広がっているばかりだったが、

 両大河沿いの湾地は柔らかい海士が幾らでも取れるので、

 人々はそれを四角く切って固め、

 日干し煉瓦にして積み上げて家を作り、

 種や苗を捜し求めて穀物や玉葱を作り、ナツメ椰子を植えて、

 自給自足から再出発して、

 ついに最初の都市国家・キシュをつくりあげた。

 このキシュの史実と、私たちが物事の出発点を

 「キシュ=起首」というのとがよく一致している。

 この熟語は中国から借りた形容詞ではなく、

 新たに作った当て字である。

 初めなら「初」とすれば済むものを、

 わざわざ「首」の字を使って、

 発音に出来るだけ合わせようと苦労しているが、

 それがかえって「キシュ」という

 動かし難い言葉がわが国に定着していて、

 漢字を使い始めた後に当て字したことを物語っている。

 これはどう見ても

 最初の都市国家・キシュの記憶を物語り、記録し、

 立証する以外の何者でもないと考えなければ、

 折角の貴重な手掛り、記録、遺物、文化財、

 遥かな祖先の残してくれた宝物を失うことになる。

 しかし大河は幅広くても対岸が見えている。

 泳いで渡るには遠くても、」

 浮き袋さえあれば、渡ることができる。

 そこで家畜の皮に空気を吹き込んで作った浮き袋が発明され、

 対岸への人々の移住が始まった。

 発明家の知恵と家畜の皮が、

 大河の水面を通路に変えて新しい国を生み、

 それが

 人類最古のスメル都市国家群の巨大文明に発展したのである。

 その浮き袋はやがて丸太に変わり、

 筏になり、船に進歩した。

 スサから西へ進んだ文明が、

 何故?

 レバノン杉を屋久島まで運んだ大海運文明を生んだのか、

 理由が明瞭に確認できる。

 また鹿児島では新納を<ニイロ>と読む。

 で、

 水面は<スイメヌ>だから<スメル>にごく近い。

 しかしこれは漢字に合うのだから、

 古代中国語である。

 スメル文明は中国経由で我が国に入ったとすれば韓国でも、

 盧を<ノ>と発音するので

 鹿児島とは逆だが同じ転訛が起こるから、

 中国から朝鮮半島を経由して

 わが国へ入った可能性が読み取れる。

 その人々は

 水面を道具に使って繁栄し移動したことを特徴として

 「スメル人」と呼ばれた。

 それが拡大移動の先々で当て字や名詞を生んで、

 水面を滑る、から水面を滑る意味に発展、

 シベリヤの名を生んだ可能性も見た。

 またインド経由コースだったことは

 須弥山信仰で解るから

 大洪水伝説も御嶽信仰も手掛かりになる。

 コジつけだと頭から否定しては何も判らない。

 ここまで解ると

 神名のエンヒル・エンキ・アヌが

 何を意味していたか?まで、

 とてもよく見えてくる。

 大河は我が国では「江・エ」と呼ぶ。

 <ン>は助詞の「の」。

 ヒルは「神」だから、

 エンヒルは「大河の神」。

 エンキは「大河の王」にピッタリ合う。

 これまでエンヒルは「大地の神」。

 エンキは「水の神」だとされてきたが、

 水面は大地に優る通路になり、
 
 人を助ける水面の支配者という意味に発展したから、
 
 エリヅも選り水から

 「選り津」に意味が変わったのである。

 こうして日本語として読んだ方が、

 よりよく名詞の意味が理解できる。

 この事実を放置しておいては

 必要な史実の復元はできず、

 貴重な証拠も無になるのである。

 ではエレチの神・アヌは何を意味するか?。

 沖縄へくると N=M でアム、

 奄美ではアマ、

 鹿児島ではアメになる。

 天と雨と海を意味するから、

 天はその水を降らせて与えてくれる神、

 雨はその水そのもの、

 海はそれが大量に溜ったものであり、

 さらに広大な水面で人々を富み栄えさせる神で、

 水の神を超えた大神として、

 具体的な崇敬対象になる。

 これをみると、

 スサ文明の信仰体系がどんなもので、

 それがどう進展していったのかが、鮮明に見えてくる。

 またそれとの関連で国名を見ると、

 それがどんな思想で命名されたものかもまた明白になり、

 私たちの先祖が

 どういうふうに文化を築き上げて来たのかまで解る。

 また<キシュ>は

 初めて生まれた都市国家の名であることを考えると、

 我が国にも記念すべき国名として、

 どこかに残っていなければならないはずである。

 当然のことだが、それもある。

 紀州がそれだ。

 「紀州は紀伊の国で紀州は略称だ」

 と反対されそうだが、

 筑州とか豊州とか摂州という略称はなく、

 あべこべに「紀伊の国」というのは、

 『風土記』編纂時代の726年の民部省令、

 「郷名は好字二字で表記せよ」に従って、

 わざわざ余分な「伊」の字を加えたことが判っている。

 紀州は<キシュ>への当て字だった可能牲が限りなく強い。

 さらにもう一つ、

 紀州は大和朝廷の起首でもある。

 検討済みの淡路島首都時代の天皇だった

 履中天皇・伊邪木(イザナキ)和気が

 沼島から真東に海南市に渡ったのが、

 倭の五王の近畿遷都の起首で、

 そこが紀州の当て字名を今も保存している。

 それに続いて

 倭王・済=倭済の墨江中王の訓みに合う

 和泉、墨江の地域があり、

 倭王・興=安康天皇に合う

 河内=興王(キ)=コウキ⇒コウチ⇒カワチ、

 倭王・武に合う大和の高市と進んで、

 初めて大和に入り、奈良に移って遷都が一段落した。

 これが大和朝廷成立の真相なのだから、

 ここでも紀州は起首の重要地点に位置している。

 それは都市国家・キシュの記憶と伝承が、

 重く受け継がれた結果であり、

 それはスメル語の

 「キシュ」が「起首」を意味していた事実の、

 反論不可能な証拠なのである。

 ※出典:加治木義博

 「言語復原史学会・大学院講義録38:8~11頁」
バビロニヤの都市国家の名と神名

 『浦和レッズレディース』
 『湘南ベルマーレ』
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』
 『明星院・広島県歴史&地名他』

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ(History)
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 ≪バビロニヤの都市国家の名と神名
 ≪バビロニヤの都市国家の名と神名

 エリヅの主神は水の神・エンキだった。

 乾燥に悩む環境から

 水に深い関心のある国だったことは間違いない。

 それも灌漑用水なら、

 大河沿いの土地はどこも同じだから国名にすることはない。

 これは飲料水としての水質が良いことの、

 神への感謝と宣伝のための国名で、

 屋久という名と、全く同じ発想なのだ。

 それを我が国なら何と表現するだろう?。

 清水や吉水は各地にある。

 エリヅに合う当て字を考えると

 「選(え)り水(ず)」がある。

 選(え)り津(ず)にすると良港にもなる。

 どちらにしても水の神の担当である。

 ではそんな名の土地が我が国にあるか?。

 津は沖縄語ではチと発音する。

 次の国のErech エレチは、

 エリヅから分かれた国だと解る。

 エレチは沖縄ではイリチと発音する。

 それは鹿児島ではイリキになる。

 入来という地名と姓は

 エレチ人が鹿児島へ来たことを伝え続けているのである。

 その氏神は天の神「アヌ」。

 沖縄でNがMになるとアム。

 それが鹿児島へ行くとアマ、

 天の神は天津神で

 意味も発音もスメルと我が国は完全に同じだ。
 
 エリヅの神はエンキである。

 これは標準化されて

 「榎木(エノキ)」という姓になっている。

 さらに付け加えると榎という木は

 川や池などの水辺を好む。

 環境が良ければ大樹になって葉を垂れ、

 実をたくさんつける。

 古代人は

 それを水の神・エンキの化身として祈ったのだ。

 ラルサの神はウツで太陽神である。

 宇都の宮はまさにウツの宮である。

 その祖先もやはり古代日向の東端の、

 昇る太陽の光をさえぎるもののない太平洋岸に、

 古風きわまる洞窟神社として現存している。

 鵜戸神宮である。

 何時からか「ウド」神宮と訛ってしまっているが、

 その地理条件は、

 間違いなくウツの宮だったことを証言して余りがある。

 しかし、「ラルサ」という国名はどこにもありそうにない。

 一体、どうなっているのだろう。

 ご存知の通り、

 南九州語はラ行音はダ行音に変わる。

 ラルはダヅになる。

 またサはセになるから、ダヅセ。

 これは耳で聴くと「ダッセ」になる。

 鹿児島には田布施という地名と姓がある。

 これはいまではタッセと呼ばれるが、

 田はダとも読むから、

 本来はダッセへの当で字で、

 それも布施という用字で、

 仏教の影響が大きくなってからの当て字だと解る。

 ウルは沖縄の古名で、

 今もウル国(マ)という。

 漆間と当て字した姓もある。

 その神は新月の神で「ナンナル」である。

 新月は、月とは名ばかりで、無くなってしまう。

 「無くなる」を古代は「無(ナ)ンナル」と言った。

 「無(むん)になる」は、

 無を漢音に変えただげである。

 このナンナルは、

 その正反対の語を生み出していることもまた、

 重要な証拠のうちに加えなければならない。

 その新しい日本語は、沖縄で生まれている。

 沖縄語の特教の一つに、

 本土語NをMにして発音するクセがある。

 それは前にも

 ニワトリをミヤドリと発音するとお話しした。

 ナンナルはマンマルになる。

 新月の反対は満月である。

 満月は

 「マンマル=真ん丸」と表現される代表的な対象である。

 しかしよく考えてみると、

 真ん丸という表現は、

 真ん中などと共に、日本語特有の強調詞である。

 それは太古の原始日本語には有り得ない文化語である。

 それが世界の先進文化圏だった

 スメル起源の神名から生まれたとすれば

 初めて納得がいくのである。

 同じことは物々交換以外にはなかった太古に、

 「売る」という言葉が生まれたとすれば、

 それ相応の理由がなければならない。

 古代沖縄人は

 貝貨による売買という新文明を東アジアに広めた。

 「売る」という行為によって必要品を「得(う)る」。

 それを教えた国が「ウル」国(マ)だから、

 その人々が「ウル人」だったことは動かない。

 これまでイヤという程、証拠を挙げてお話ししてきた。

 沖縄人はウル人だという論拠に、

 また最も強力な証拠がが加わったのである。

 いやまだまだ沖縄語には

 隅々までウル語すなわちウバイド語が充満しているが、

 本講では以上でもう充分だと思う。

 ハランも月を主神にしているが、

 こちらは新月でなく「月」である。

 それなのに「シン=神⇒神道?」という名なのである。

 女性は月齢に支配される

 「月経」という生理作用をもっているが、

 古来の名前は「つきのもの」だった。

 それは神聖な受胎の可能なときを教える神の御業で、

 それに付随する現象がハランと呼ばれていたことを、

 今も立証し続けている方言が日本語中にある。

 それはやはり南九州語で、
 
 ハランという発音まで、そのままの言葉だ。

 それは漢字で書けば「孕む」である。

 それまで無かった言葉が、

 ハラン人たちがやってきて、

 進んだ産科医学の知識で、

 女性たちに幸福を授けた事実が、

 このハランという動詞に

 篭っていることを見落としてはいけない。

 これと全く同じことが

 現代のイラン語にも起こっている。

 私生児のことを

 ハラーム ザーデ=harmam zadeというのである。

 ハラは腹(ハラ)の語源なのだ。

 またハラは原で高天(たかま)が原は首都だった。

 当然のことながらこの国名は、

 わが国では名乗りになって、

 今も由緒ある姓や地名として健在だ。

 原野(ハラノ)がそれであり、

 原園(はらぞん)もまた、

 その伝承者のお一人である。

 なぜなら英語でよくご存じの

 Horizonは、

 欧米人の発音を聴くと、

 ハラゾンと聞こえる。

 それは地平線や水平線を意味するが、

 そこはまさに月が現れては昇り、

 下っては姿を消す、

 「月の神の国」そのものである。

 ウムマの神は穀物の神・ニダバである。

 マを「国(マ)」と読むと「産む国」である。

 穀物の神を主神にしているのだから、

 穀物を産む国なのだ。

 我が国の穀物の神は宇迦(うか)の御魂(みたま)と呼ばれ、

 『延喜式』の「大殿祭祝詞」には

 「稲の霊だ」と書いてあるが、

 実際には五穀から食物全般の守り神として崇められてきた。

 魚はもちろん馬や牛の肉も入っている。

 Ummaはウマと読まれるから、

 太古のアラビアでは、

 まず食料だった「馬」の語源でもある。

 このUmma=ウマを

 「宇間」と書くと「ウカン」とも読める。

 ニダバはNをMに発音する沖縄では

 ミダバになり、

 それが清音の南九州では「ミタマ」になる。

 宇迦(うか)の御魂(みたま)は、

 それを写した当て字としてピッタリであると同時に、

 この国名と神名が、

 沖縄を経由して入ってきたことを記録していたのである。

 馬が古代アラビアで重要だったことを考えると、

 バビロンは馬広野(パピロン)によく合う。

 漢字も元をただせば

 楔型文字から進化したのだから

 重箱読みは当たり前なのである。

 その主神は朝日の神で、

 その名はマルヅク。

 これは「丸、出来(づく)」に合う。

 人類が最初に意識した丸いものは、

 月は欠けるから太陽である。

 出て来る太陽とは「旭日昇天」で、

 我が国と同じ信仰だ。

 一つ一つを見ているとコジつけに見えるのに、

 数千年昔の名詞の総てが、

 こんなに合理的に日本語で読めて、

 その内容が合理的で、

 よく理解できるというのは、

 何故なのだろう?。

 これだけの国々の人が全部、

 引っ越して来たとは考えられないから、

 移住者が各国からの参加者で構成されていたことになるが、

 そもそも、その国々はどんな国だったのか?。

 シカゴ大学のヤコブセン教授が1942年以降、

 次々にスメル都市国家の実態を

 合理的に復元して説明した論文が最も史実に近いので、

 それを要約してお話しすると、

 国家体制などの言語以外の要素もまた、

 我が国と一致しているものが多く、

 我が国のウバイド女帝制から男子天皇制への移行の原形が、

 すでにスメルにあったことまで明瞭にお解りになる。

 ウルク都市国家の形成途上に当たる

 ウルクNo.4層から発掘された、

 スメル最古の絵文字で書かれた粘土板には、

 Ukkin ウキン=国会⇒(ウチナ)や、

 Abba アバ=指導者・議員⇒(阿婆)、

 Sangu サングウ=司祭者⇒(参宮)

 という名詞が書かれているが、

 後代の粘土板に多出する、

 ルガルやエンシ(ともに独裁的国家支配者)

 と書いた文字は見当たらないし、

 エリヅの遺跡では、

 何一つ遺物のないところに、

 一辺3mの方形神殿がみつかっているが、

 後世になるにつれて神殿は大きくなり、

 穀物や油の倉庫が付属するようになって行く。

 これは、

 我が国で神殿を祠(ほこら)というのは、

 「穂倉」のことだったと教えてくれる。

 ウキンは沖縄へ来ればウチナーで「沖縄」。

 そこではウチナに大天と当て字している。

 いまなら国会議員に当たるから官名である。

 すると卑弥呼たちの使者が

 「大夫」と称していたと言うのは、

 「大夫」と「大天」はそっくりだから、

 この大天を写し間違えたのだと見た方がいい。

 議員が親善外交に出張するのは、

 昔も今も当然な任務だからである。

 ヤコブセン教授はこれらの状態から、

 農耕国家群・スメルの政治牲、死活問題である

 灌漑事業や工事も、

 皆、司祭が指揮して行なっていた。

 その町村規模のものが発展・拡大すると、

 近隣の神殿中心の組織が一つに合併して都市化し、

 その経済力で防壁や宮殿などが新たに建設され、

 強化されて都市国家に成長した。

 その内の最も有力な勢力の氏神が国の主神になり、

 その神の神官が総理総裁に当たるエンシになり、

 ルガルになったのだと結論した。

 このエンシという名称は、

 役の行者を、

 古風に「役之」と書くと「エンシ」になるから、

 役の行者というのは、

 行者の総裁という意味だったと解るし、

 スメル語のENは主だから、意味は変わらない。

 「役」の字もヤクと訓むと

 屋久、役人、役者などに結び付き、

 役者は俳優と書かれ、

 俳は隼と同音で、

 鹿児島神宮は古代俳優=隼人の総元締めだった。

 俳優はワザオギと訓み、

 オギは「招(お)ぎ」で、

 神や死者の霊を招くのが本来の仕事である。

 静御前などの歩き巫女が舞うのもそれだった。

 それが出雲お国の「お国歌舞伎」になり、

 今の歌舞伎に発達したのである。

 それは今も鹿児島に伝統として残り、

 映画スターや、アイドル歌手などを大量に輩出し、

 歌舞伎役者もまた西方人の容貌を遺伝したり、

 化粧によって作ったりしているのである。

 これだけでも

 スサとスメルの神殿文明と我が国の神道文明が直接、

 繋がっていることが確認できる。
 
 氏神、八百万の神、神官兼為政者と数え上げると、

 遺物はまだまだ揃う。

 その鹿児島神宮と同じ所に上井という地名が残り、

 倭と同じウワイと読む。

 そこが倭人の都の跡であることも解っている。

 そして本来はイドに当て字した

 「委奴」国の金印は九州の北端、志賀の島にあった。
 
 ウバイドの名は

 百済・出水(ポセイヅン)などの神名と同じく、

 上井と委奴(ウバイド)に分割されていたのである。

 ここでもポセイ・イヅンと、ウワイ・イドが共に、

 「イ」が双方に分割されて併用されている。

 こうした原則が、

 世界最古の国名でも厳密に守られている事実から、

 遥か後世に来航したことの明らかなギリシャ神名の分割は

 ウバイドに始まるスメル文明のシステムを

 踏襲したものだったことまで解るのである。

 ※出典:加治木義博

 「言語復原史学会・大学院講義録37:23~30頁」
遷都の実態と地名の分割

 『浦和レッズレディース』
 『湘南ベルマーレ』
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』
 『明星院・広島県歴史&地名他』

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ(History)
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 ≪遷都の実態と地名の分割
 ≪遷都の実態と地名の分割

 都が移るという点だけ見れば確かに遷都だが、

 遷都といえば都だけが移ったという印象がある。

 ウバイド~インダス~倭人の場合は、

 都だけでなく国家集団全体が首都もろとも移動し続けたのだから、

 遷都ではなく国家が拡大したのであって、

 それにつれて都も位置を変えて行ったということでしかない。

 それは当然のことで、

 氷河期直後と言っていい8000年前には、

 国境などというものはなく、

 全世界に無人の荒野が涯てしもなく広がっていたのである。

 そのウバイド移動の痕跡は当然、日本列島中でも見られる。

 まず思い出して頂きたいのは天皇たちの名乗りは、

 国名の羅列だったことである。

 天命開別という天智天皇のそれは

 天=アマ・チヌの付く地名であり、

 開=ヒラキ・シラキという地名だった。

 彼の弟とされている天武天皇の名乗り「大海人」も、

 やはり地名でなければならないのである。

 それはどこか?。大はオオで倭であり、大隅である。

 海人は隼人だから彼も兄とされる

 天智天皇と同じ鹿児島県の東半の領主だったのである。

 この名乗りは在来はオオアマと読まれて

 疑いをもった学者はいなかった。

 しかし大隅では大はオオとは発音しない。

 それはウと読まねばならない。

 海人はハイトだからウハイト、これが正しい発音なのだ。

 こうした名乗りの地名、国名は、

 住民や国民が自分でつけたものだと思われているが、

 正しいか?。

 現代では国名は政府が決めて法制化して使っているが、

 古代の実情を見ると、

 それらは他人がつけた区別のための名であって、

 自分たちで付けたものではない。

 いちばん判り易い例を挙げると、

 殷は、自分でつけた正式の国名は「商」だったのに、

 今に至るまでインと呼ばれ続けている。

 また姫路は姫児が語意で卑弥呼を意味しているが、

 ヒミコともヒメコとも発音せず、

 児をコでなくジと発音して、

 何のことかまるで判らない地名にしてしまっている。

 ウバイド人も何処まで行っても、

 その居住地はウバイドと呼ばれた。

 それもポセイドンやアンピトリテのように

 ハッセやハセ、アンビやアマミと略して呼ばれる。

 それが分かれると、

 弟分のほうは原名の残りを使って

 イヅンやイヅモ、

 トリテやトイと呼ばれる。

 これが地名の語源の名が分割されている理由だったのである。

 これは今でも日常的に、

 渾名などで行なわれているのでご納得がいくと思う。

 ではウバイドは隼人から何処へ行ったか?。

 鳥羽へ行き、分かれて伊豆へ行った。

 それは双方とも太平洋側の温暖な海人地帯で、

 トバという語源はないが鳥を烏に変えると、

 ウハ・ウバで、

 伊豆は元の発音はイトウ・イドだと簡単に判るからである。

 地名は、

 時間がたつとどんどん読み方が変わってしまう。

 それは私たちの偉大な祖国であった

 ウバイドへの当て字『倭人』ですら、

 それをウワイトと読めた学者がいない

 事実が一番よく立証しでいる。

 烏羽が鳥羽に変っても、

 誰もそれが間違いだとは思わなくなってしまった。

 それがそのまま現代まで来たことが、

 地名の命名者が他人だったことの証拠でもある。

 ではなぜ?、烏を鳥に変えた者がいたのか?。

 それはウバイド系の記憶が薄れたあとに来た

 ギリシャ系の人々のせいである。

 彼等はアンピトリテの名で呼ばれたが、

 その分家の移住者たちは、

 南九州ではトイ(鳥の訛り)と呼ばれた。

 その名が

 宮崎県南海の太平洋に突き出た都井(とい)岬に残っている。

 鳥羽も全く同じ姿で太平洋に突き出ているから、

 烏でなく鳥が正しいと思って当然なのである。

 ちなみに伊豆もまた同じ姿で太平洋に突き出ている。

 こと、

 取手市も同じ条件の房総半島の付け根の要衝に

 その名を残していること、

 さらにその北隣りは稲敷郡で、

 その名も伊奈(=殷)という自治体がある。

 なぜ南九州からこんなに離れた土地に

 関連地名が集中しているのか?。

 それは千葉県の夷隅郡が説明してくれている。

 夷(イ)は倭(イ)オオだから大隅、

 どこから誰がやって来たのか一目瞭然である。

 そしてその倭や大という好い字を、

 わざわざ、嫌われた「夷」の字に変えている。

 これは地名の命名者が他人だという、

 さらに動かない証拠なのである。

 その伊豆半島の西の対岸にある静岡市の、

 JR静岡駅の南2キロほどの一帯に

 弥生時代の広大な特別史跡・

 登呂遺跡(約160平方キロ)がある。

 その地名はトロイ戦争という名で知られてきた

 ギリシャ史に名高い国名と同じ地名なのである。

 トロイというのは英語読みの略称で、

 正しくはトロイヤだったのであり、

 語尾のイヤは

 ギリシャ語の「国・地域」という名詞だから、

 本来の国名は「トロ」だからである。

 取手市だけがギリシャ人の遺跡ではない。

 その登呂遺跡の東北に隣接して清水市の草薙がある。

 ここは倭建命の革薙の剣伝承で有名な地名である。

 倭建命の物語は

 トロイ戦争最大のヒーロー=アキレウスの物語と

 多くの共通点をもっているから、

 ここへギリシャ系の海人が住んだことは間違いない。

 そして彼等は倭建命の伝承通りに房総半島を北上している。

 『日本書紀』は日本武尊=倭建命が

 相模から上総へ行こうと船出して

 「馳(はし)り水」という海域で暴風に遭い、

 后の弟橘姫が投身して暴風を鎮め、

 命たちを救ったという一節がある。
 
 これらを一人の武尊の歴史だとするのは無理だが、

 こうした伝承を生んだ史実があったことは、

 これらの地名や遺跡の分布からみて、

 間違いなく真実だったと認めるしかない。

 『日本書紀』は

 多くの伝承を混合して一事跡としている例が少なくないが、

 個々の伝導は事実の記録だからである。

 ※出典:加治木義博

  「言語復原史学会・大学院講義録35:7~10頁」
『地名文化財』は祖先からの大遺産・至宝

 『浦和レッズレディース』
 『湘南ベルマーレ』
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』
 『明星院・広島県歴史&地名他』

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ(History)
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 ≪『地名文化財』は祖先からの大遺産・至宝
 ≪『地名文化財』は祖先からの大遺産・至宝

 順序立てて検討してみると、

 台湾から沖縄に入った人々が、

 大隅を基地に鳥羽~伊豆~房総と

 太平洋岸を北上して稲敷に至ったことと、

 その先駆者だったウハイド人が、

 霊域ラインに導かれて海路を西に向かい、

 中国に古代「商」帝国をつくった経路と、

 その後、

 ギリシャ人が同じ太平洋岸コースを通って北上したことが、

 理解できるようになってくる。

 それは古代人が自分たちの守護神や英雄の名を、

 集団名として名乗っていたために、

 それが他部族に地名として使われて、

 要所要所に順序正しく顕著に残っているお陰である。

 だから地名文化財は私たちの祖先の一大遺産であり、

 彼等の血を分けた、

 故郷に残った人々の子孫にとってもまた同様に、

 失ってはならない至宝なのである。

 ところが無知な政府や地方自治体、建売屋などが、

 どれ程それらを消し去って

 「××台」といったチャチな名にしてしまったか数知れない。

 これをみると、

 昭和以前にも改悪された地名は大量にあったはずで、

 その大半は記録さえも失われている。

 それは倭建命の伝承を考えてみても

 草薙・焼津といった新地名が作られているのだから、

 それ以前の歴史地名を消してしまっていることは疑う余地がない。

 だからこそ一時も速く徹底した調査と保存が不可欠なのである。

 ここでウバイドの移動と殷への渡航について、

 精密に再検討してみよう。

 鳥羽、伊豆と太平洋岸を北上して着いた土地=

 房総半島に残る「夷隅」の地名も、

 イズミ=イヅミで、

 伊豆から来た人々を意味することはすぐ判る。

 では語尾の「ミ」は何を意味するのか?。

 これは古代の命名法をみると、

 イサナミの命の「ミ」である。

 イサナキの「キ」は男王を意味し、

 イサナミの「ミ」は女王を意味していたから、

 イヅミはイド女王という国名の遺物だったのである。

 それが伊奴になり伊奈と変わり、

 殷と変わって、稲敷という部名を残しているので、

 インダの名も共に使われていたことがわかる。

 そして漢字の当て字が使われ、

 時の経過につれて読み方が変化したから、

 伊ン奴(ド)の奴がドからナと読み方が変ったので、

 当て字も伊奈に変ったという歴史まで理解できる。

 ウバイドの女帝制は間違いなく稲敷まで継続していたのであり、

 中国へ渡ってから男王制になったようにみえるが、

 その滅亡の原因は、

 紂王が妲己(ダッキ)という妃に支配されて、

 悪政を犯したためだとされているから、

 やはり女性上位だった可能性が浮かび上がってくる。

 それは殷の政治が神託によるものであって、

 巫女の託宣に左右されていた事実が、

 遺品の甲骨文から鮮明に読み取れるからで、

 ウバイドから来た文明が、

 殷・商に色濃く残っていることは疑いない。

 この巫女の神託はギリシャ文明の特徴でもある。

 その中でも最も有名なそれは

 デルポイの神殿に三脚の鼎(かなえ)を据えて、

 それに乗った巫女のピューティヤが口走る託宣を、

 付き添いの巫女が書き留めるもので、

 今でも中国南部から東南アジアにかけて勢力をもつ宗教

 『天道』などで、

 台に乗って催眠状態になった少女巫女が、

 専用机に敷いた細砂に杖で文字を書くのを、

 介添えの巫女が紙に写しとるシステムと全く同じである。

 そして我が国では

 『古事紀』の序文に登場する

 「稗田阿礼」がこれと同じことをするし、

 その稗田阿礼という当て字の文字は、

 ピューに稗、

 テーに田、

 エヤに阿礼(あや)の字を当てて、

 その筆者が大隅人だったことまで解るので、

 完全にビューテイヤに合い、

 これもギリシャ文化が古代の我が国に実在した重要証拠群中の、

 決定的な一つに数えられるのである。
          
 またそのピューティヤが神託に際して、

 必ず腰かけた「青銅の鼎」は、

 殷の国器と呼べるほどの特異な器物である。

 それがデルポイ神殿で重要な役割を担っていたという証拠は、

 殷とギリシャの血縁や往来が、

 実に密接なものだった事実を教えてくれる。

 そしてさらにギリシャ人が、

 我が国に大量の言語を残した程、

 移住して来て溶け込んだ大きな史実は、

 この殷との共通点の濃度を見れば、

 予測を遥かに超えた必然的なものだったのである。

 だがウバイド、ギリシャ、倭人といっても、

 もちろん時代が大きく違う。

 その時間差も明らかにしないといけないが、

 ウバイドについての研究は、

 過去の業績で明らかになっていた遺跡の下層に、

 さらに8000年前と測定された遺跡の存在が確認され、

 発掘作業進行中、

 ブッシュ大統領父子による湾岸戦争とイラク戦争という

 二度にわたる惨劇が起こり、

 発掘が中断されたままになっているから、

 8000年前という概数しか判らないが、

 我が国の発祥がいっか?という命題には、

 これで充分であるし、

 カルデア人がカリエンとして

 台湾・沖縄に土着し、高句麗・モンゴルまで支配して

 貝貨幣を中国へ運び、

 殷帝国の興隆に貢献した事実も解っているから、

 これがウバイド人の1ルートであったことは間違いないので、

 時代は特定できている。

 次はギリシャ人はいっやってきたか?だが、

 これは考えなけれはならない問題に満ちている。

 それを一つずっクリアーして行ってみよう。

 ①アレクサンドロスの東征によるものか?。
 
 ②その東征の結果、

  生まれたマウリア王朝のアソカ王仏教宣布団によるものか?。

 ③海の先進国フェニキヤ人の来航によるもものなのか?。

 この②はソナカが卑弥呼の夫である仲哀天皇なので

 時代は限定されているし、

 ①によると考えられる2~3世紀の東夷ユーロは、

 先で見たように、

 筑紫であることの確かな粛慎を経由しているので、

 渡来の事実と時期が確認できている。

 では、在来、

 ギリシャ人とは別けて考える人の多かった

 フェニキヤ人について、

 今少し詳しく確認してみよう。

 彼等は『旧約聖書』の箱船で有名な

 ノアの子孫・ハムの一族で、

 セムの一族がヘブライ人のヤベテの一族がギリシャ人だから、

 ギリシャ人と祖先は同じである。

 B.C.E.20世紀ごろから

 シリア地方にシドン・ビプロス・ウガリットなどの

 都市国家群をたて、

 それがフェニキヤと総称されたもので、

 人種名としてはカナン人というのが通称だった。

 航海と通商の先進国で

 東はイランから西はシラキウス、

 大西洋やアフリカ沿岸にも植民し、

 インドに入り、スリランカにも顕著な遺物を残しているが、

 B.C.E.9世紀にアッシリアに併呑され、

 その後またアレクサンドロス大王に征搬されてギリシャに属し、

 B.C.E.63年にはローマ領に編入された。

 そのため彼等が使っていた

 22個の子音文字がローマ字の原形になったが、

 それ以前にもヘブライ、アラム、ギリシャ文字もまた、

 昔、

 このフェニキヤの線文字アルファベットから

 生まれたことが確認されていて、

 武装国家の暴力には屈しても、

 征服者より優れた偉大な文化人たちだったことが判る。

 スリランカは南進仏教の大本山で、

 ソナカらを乗せて来たのが彼等だった可能性も強く、

 アレクサンドロス軍の一部として、

 また単独で我が列島まで来た可能性もある。

 ※出典:加治木義博

 「言語復原史学会・大学院講義録35:11~15頁」
パーリ語から生まれた「大王」

 『浦和レッズレディース』
 『湘南ベルマーレ』
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』
 『明星院・広島県歴史&地名他』

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 ≪パーリ語から生まれた「大王」
 ≪パーリ語から生まれた「大王」

 「大王」という称号は、

 天皇という呼称が作られるまで使われていた

 我が国史学の根底にある

 大問題の鍵を開く大切な基礎語だが、

 これもまたパーリ語である。

 Deva  デワ  大王。 

 大・ダイは南九州語では「デ」。王は本来の発音は「ワゥ」。
 
 大王という当て字は、

 本来の<デワ>を南九州で旨く表現したものである。

 他の地域の発音では、

 こうは旨く行かないから、

 大王とはパーリ語から生まれた

 南九州産の当て字だと定義できる。

 念のため、やってご覧になるといいが、

 他の地域の日本語では、これは絶対に不可能である。

 王は大隅語では「ウ」だから大王は<デウ> 。

 これもゼウスのラテン語訛り=デウスに合う。

 さらに、「女王」はバーリ語では deviである。

 『記・紀』には、

 彦火火出見の尊、日子穂穂出見の命があり、

 男性の名乗りとされているが、

 deviを<デビ>と読むと、

 「美」が<ビ>と<ミ>の発音をもつように、

 <デビ>は<デミ>になって「出見」に一致するから、

 ヒコホホデミとは「ヒコホホ女王」なのである。

 ヒコホホデミは最高支配者名だから「女性」なのだ。

 この名乗りの持ち主は薩南藷島から大隈で活躍した人物だから、

 パーリ語人なので性別が男女逆転している。

 これもまた、

 女王制の倭国の記録を払拭しようと努めた

 天智天皇の意向によって、

 『日本書紀』編纂時に、

 名乗りの性別まで逆転させたものだということになる。

 パーリ語には前にもお話ししたが、

 今までに発見しただけでも4000語近くの、

 日本語との共通語がある。

 その中からウバイドが語源とみられる語を、

 幾つかご覧に入れておこう。
                                                               
 Ubbadhati  ウッバダチ   殺す、破壊する(討果(ウッバ)たし・器断(ウッワだ)ち)

 ubba-hika ウッバーヒカ  裁定者、裁判長、断事人=(上彦(ウワヒコ))
 
               大隅の行事 『大人(ダンジイ)・弥五郎』は、

この断事王(ダンジ・イ=ウワ卑拘)

ubbha    ウップハ 上、上部、上方(ウワ)

ubbhata ウッバハタ 奪った、取り去った、撤去した

ubbinaya ウッビナヤ 無法、非律、法の不備 (大備(うび)、無(な)や)

ubbilla ウッビラ 自慢、大言(南九州語ウビラ→大法螺)

ubbisati ウッビサチ 家を離れて他に住む=海幸=浦島太郎

               海人=ウバイト=倭人=ウワイト

               貴人=ウマヒト→馬人→馬子=厩戸(うまこ・ウマヤト)

                  馬津国(マツラ)=松浦=馬韓国=馬国(クダラ)

               ウバイド=大隼人=大海人(ウハイド)=天武天皇

 ※出典:加治木義博「言語復原史学会・大学院講義録33:23~24頁」
ツルカルニン=アレクサンドロス大王

 『浦和レッズレディース』
 『湘南ベルマーレ』
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 ≪ツルカルニン=アレクサンドロス大王
 ≪ツルカルニン=アレクサンドロス大王

 パーリ語辞典では、

 SとHは最後にあって、

 本来のサ行やハ行ではなく、

 他の言語からの借用語だとわかるように分類されて、

 最後の補足部分に付け加えられているのだった。

 そのS中に「singa シンガ 角・小牛」が含まれている。

 さきにお話しした通り、

 本来のパーリ語では、

 S(サ行)は「C」だったから、

 これは「cinga チンガ」で、

 古沖縄語では「チヌガ」になる。

 『日本書紀』の垂仁天皇の項に書かれた

 角我阿羅斯等は、

 古代ペルシャの神・ツルカルニンを、

 「ツ→チ、ル→ヌ、カル→ガアル。ニン=人→シト」

 と訛っていることが判り、

 間違いなく、その当て字だと確認できているし、

 ツルカに当てた角我が敦賀(つるが)で、

 この文字をわざわざ「ツルガ」と発音していることが、

 それがツルカルニン以外に語源がないことを、

 強く立証している。

 このツルカルニンの神名を名乗った最有名人は、

 アレクサンドロス大王である。

 彼は東征の第一歩で古代ペルシャ帝国を併合した後、

 自分を神格化して、

 この名を称号に加え、

 王冠に当たるももとして頭に2本の角をつけ、

 コインにまで彫刻させた。

 ツルカルニンはギリシャ+ペルシャ帝国の大王を

 意味する正式の称号=名乗りだったのである。

 そのコインは通貨というより、

 神体に相当するものなのだと考えることが必要である。

 皇帝を神とする神格化思想は、

 こうしてアレクサンドロスが継承した

 ペルシャ皇帝のものだったのであり、

 それはウバイド以来のスメル文化の遺産だったのである。

 我が国に現われたツルカルニンは、

 それを受け継いだ仲哀天皇だった。

 『記・紀』はそれを知らずに、

 または天智天皇が嫌って、

 卑弥呼を天照大神とし、

 夫・仲哀天皇は別人に見えるように小細工をしてしまった。

 だが私たちの「言語復原史学」はそれらに騙されないで、

 角我阿羅斯等とはツルカルニンであり

 アレクサンドロス以前に遡るウバイド~スメルの神号で、

 真の大王のみが名乗ることのできた

 『称号』だったことを確認したのである。

 スメルの神殿には牛頭が祭られていた。

 いま我が国の神社には、

 それを象徴化した千木を戴く神殿が建てられ、

 それをさらに変形した鳥居が建てられている。

 それらがすべて

 太古のウバイドの信仰以来のツルカルニンを

 継承した象徴建築であり、

 スメル文明の遺物に描かれた主神が被る、

 角をもった神冠と同じものだと、

 脳に銘記する必要があるのである。

 その神殿と角飾りのバリエーションは、

 インドから我が国に至る間に、

 様々な姿で伝承し、

 ブータンからタイの山地居住民の、

 鳥居として現存しているのを、

 私(加治木義博)は確認し続けて来た。

 疑う余地なく、

 それらはウバイドから倭人までのコースを、

 鮮明に記録していたのである。

 ※出典:加治木義博

  「言語復原史学会・大学院講義録33:25~26頁」
統べる人=スメル人

 『浦和レッズレディース』
 『湘南ベルマーレ』
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 ≪統べる人=スメル人
 ≪統べる人=スメル人

 主食の話のついでに今度は『住』の話をしよう。

 といっても、

 これは『魏書倭人章』中にある『住』の文字の、

 かつて考えられたこともない「真意」は、

 どういうものだったかを、

 確実に定義する、重要きわまりない文字なのである。

 卑弥呼が出現する前の倭国について、

 『魏書倭人章』は、

 「其 国 本 亦 以 男子 為王 住 七 八十年」
 
 と書き始める。

 三品彰英氏の編著『邪馬台国研究総覧』の解釈は

 *この「住七八十年」の一句は、

  従来「住すること七八十年」あるいは

  「住(とど)まること七八十年」と読み、

  それを上文に記された「其国本亦以男子為王」に

  かけて理解しようとしてきた。

  しかしこれに対して植村清二は、

  住は往の誤りであろうと推定し、

  榎一雄もまたこれに賛同して、

  菅政友の「ソレヨリ前七八十年」の

  解釈をもって妥当と考えた。

  井上光貞もまた末松保和の教示に基づき、

  南北朝時代の金石文にはしばしば

  行人偏を人偏に作る用例が見られるので、

  住はすなわち往で、ともに同意であるとした。

  住を往と解するとき、

  当然「住七八十年」は後文に係り、

  卑弥呼の即位以前七八十年ということになる。

  卑弥呼が盛んに通魏した時代が240年代であるから、

  それから七八十年さかのぼればちょうど

  「桓霊間」にあたり『後漢書』の記事と一致する*

 と結論している。 

 しかしこうした研究史には触れずに、

 『住』を「とどまること」と

 読んだ岩波文庫の石田道博訳が、

 少数の論文にそのまま踏襲されている程度で、
 
 武光誠編の『馬台国辞典』などに至っては、

 辞典と名乗りながら、

 まるで触れてもいないという有様である。

 この「住」の字は、

 何を意味するか?と考えるなら、

 注意点は単純明快である。

 王は一体?何をしたというのか?と考えればいい。

 七八十年の間、

 男王が「治めていた」という意味であることは、

 一見してわかる。

 これを「止どまる」と訳したのでは何のことかわからない。

 もう少し詳しく訳すなら

 「統治していた」と書けば、

 いっそう正確な印象が伝わる。
 
 「統治」は漢文だから

 「統(す)べていた」と書いてもいい。

 するとこの「統べる」という日本語は、

 <馬>を<バ>と<マ>と発音する2語のうちの清音語では、

 <ベ>は<メ>になるから「スメル」になる。

 これは「住める」と同音である。

 「住」の字は日本語のうちの鼻濁音語で読めば、

 「スベル=統べる」という正確な意味が伝わる。

 これは偶然のいたずらなのであろうか?。

 スメラミコトは統治者を意味する代名詞なのだから、

 スメルから

 「スベル=統べる」

 という日本語が生まれたとみると、

 スメル=シュメルから来たカリエン人が、

 3000年前からの統治者だった史実と重なり合って、

 「統べる人=スメル人」という意味が確認できる。 

 ※出典:加治木義博

  「言語復原史学会・大学院講義録30:5~6頁」 
主馬寮(しゅめりょう)

 『浦和レッズレディース』
 『湘南ベルマーレ』
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 ≪主馬寮(しゅめりょう)
 ≪主馬寮(しゅめりょう)

 これは

 「スメル人=住める人(現代語なら、住んでいる人)=国民」

 を意味するから、

 住むという日本語が生まれたのは、

 シュメル人政権時代のことだったとわかる。

 また「スベル=滑る」だから、

 いま試験に落ちることを「滑る」ということを考えると、

 スメル人は統治者の地位を失ったことから

 「滑る」という日本語が生まれたこともわかる。

 その不様(ぶざま)な様子から、

 ぬかるみなどで滑って尻餅をっくことも

 また「滑る」という言葉で表現することになり、

 氷で滑るのが日常の北国で、

 凍結で滑るという意味に多用されたから、

 そちらのほうが一般化したとみると、

 滑るを語源にして、

 滑る土地という意味でシベリヤという地名が生まれたのは、

 その政権喪失以後のことになる。

 それはギリシャ人の強力な勢力が

 政権移譲を迫ったからだということも、

 スサノオの政権追放や大国主の国譲りとして

 記録されているから現実にあったことで、

 アレクサンドロス東征後、

 あまり時間の経たない時期、

 弥生時代の初めだったことは動かない。

 ではシュメル系の人は完全に排除されたのか?。

 『大宝令』の官制をみると、

 春宮(東宮)に「主馬署(しゅめしょ)」が設けられて

 馬や馬具を管理したことが紀録され、

 アラブ馬の産地を故郷にもつ人たちが、

 その特技活かして勤務した様子が眼にみえる。

 そして今も宮内庁には、馬事と車両を管理する

 「主馬寮(しゅめりょう)」がある。

 <主馬>は<シュメル>に対する巧妙な当て字なのである。

 それも現在の<シュメリョウ>のほうが、

 より語源の発音に近いのも面白い。

 <スメラギ>、

 <スメラミコト>、

 <スベル>、

 <スメル>だけでなく。

 住、済、壷、炭、隅、角、寿美、鷲見、須磨など、

 皇室の伝統のシュメル起源を語っている。

 「スム」は「清む」だから、

 <スサノオ>が<出雲>で

 結婚した媛の父

 「須賀(清)の八耳」一族もまた

 「清める人=スメル人」だったのである。

 それはさらに政権委譲が<大国主国譲り>が教える通り、

 死闘によるものではなく、

 平和裏に融合することで収まって、

 婚姻や養子縁組による合体で、

 血の繋がりを絶たなかった事実を裏書きしている。

 それは当然で、国家の起源は古い方がいいから

 『記・紀』も建国を神代だと主張したのである。

 それを遥か後世の神武天皇時代に引きずり下ろして

 建国記念日を制定した連中は国民の敵なのだ。

 だがこのお話はまだ終わりではない。

 「スム、スミ」は「済む、済み」だから

 倭王・済もこの伝統名を名乗ったのである。

 彼は和泉を倭済(いずみ)と名乗ったが、

 そこは住江に隣接している。

 マルセイユの例のように

 <L音>は<Y音>に変わるから

 沖縄ではスメルはスミユーになる。

 奄美の住用村はその当て字で、

 それが住吉になり、

 スミエ・住江・墨江と変ったもの。

 彼は後世の肩書なら

 「スメルの守(かみ)」と名乗ったのである。

 それは一体?何故だったか?。

 ※出典:加治木義博

  「言語復原史学会・大学院講義録30:7~8頁」 
倭の五王「済」=住吉仲皇子

 『浦和レッズレディース』
 『湘南ベルマーレ』
 『広島・明星院』
 『広島・明星院』

 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
 セブンネット

 ≪倭の五王「済」=住吉仲皇子
 ≪倭の五王「済」=住吉仲皇子

 皇位を奪おうとして天皇が寝ている神殿に放火したので、

 もう一人の弟・水歯別=のちの反正天皇が、

 中王の家臣・ソバカリを使って暗殺させたということになっている。

 しかし『宋書』が記録した倭の五王の名乗りは、

 讃=仁徳、

 珍=履中、

 済=住吉仲皇子

 興=安康、

 武=雄略の順にピッタリ一致し、

 間に挟まった允恭天皇だけ

 名乗りの形式が根本的に違う高句麗の足根号もち、

 それも「おわさず(架空の)」天皇だというもので、

 済は住吉仲皇子以外にありえないことをすでに明らかにしてあり、

 発音も<スミ>だったこと、

 その名乗りの地名群と遺跡群と、

 その時間帯による拡大発展を徹底的に跡付けて確認してある。

 『宋音』が記録した五天皇の治世のうち、

 済=住吉天皇の治世は、

 443年と451年で9年間に亘り、

 彼が死んだといって

 興=安康天皇が遺使したのが462年だから、

 在位は20年に及んでいた可能性がある。

 それがまるで歪められているのは、

 仁徳系の記事には極悪非道なものや悲惨なものが多いし、

 後世の官籍に仁徳系の子孫は一人も名がないなど

 顕著に排斥されているように見えるから、

 同じ扱いがこんな記事を生んだのである。

 即位もせずに横死したのでは、

 巨大古墳の立ち並ぶ近畿の中央=和泉に進出した

 倭王済の事跡はどうなるのか?。

 この答も『宋書』にある。

 讃と珍は倭の次に百済(モズミ)を名乗るが、

 済は百済を消してしまう。

 何故か?。

 彼の時にはそこは和泉に併合されて

 百舌鳥耳(モズミ)の原(首都)になっていたから

 国名は消えて当然なのだ。

 そして、

 この<和泉>こそ南九州語で「イズン」と呼んだ国土であり、

 そこが次の<興=安康天皇>が、

 巨大天皇陵群を造った国の中心であり

 最高の繁栄時代を物語る地域だから<済>の力が判る。

 それが仇して<興>が国力を消耗、

 高句麗に敗北して政権を譲り渡し、

 イズン「出雲」を山陰に移して

 引退した史実が細部まで判っている。

 墨江、住吉、当て字は異なるが、

 このスミエ=スメは、

 スメル発祥の「統べる者」という名乗りだから、

 済が五王中でも最も優れた統治力をもった

 大王だったことは間違いない。

 「住」の一字でも、

 こんなに謎の連鎖が解け、

 それが私たちが

 <シュメル文明の後継者>であることの証拠群を形成し、

 言語復原史学による、

 『魏書倭人章』解読がどれほど精密なものかを立証し、

 五王の史実にさらなる知見を加え、

 <出雲のスサノオ>と

 <大国主の国譲りの真相>が、

 さらに明確に理解できた。

 わが言語復原史学の

 徹底した証拠発掘力、史実復元力がどこからくるものか、

 まざまざと教えてくれたのである。

 ※出典:加治木義博

  「言語復原史学会・大学院講義録30:9~10頁」 
copyright © 2004-2005 Powered By FC2ブログ allrights reserved.
豪華賞品当たる!?  モデルへの第一歩  私が痩せれた理由