歴史そのものにおいても、理論的な解放はドイツにとって特別に実践的な意義を持っている。ドイツの革命的な過去も、つまるところ理論的であって、それが宗教改革である。当時は僧侶の、そして今は哲学者のそれらの頭脳の中で革命が始まる。l
04-07 17:12
「哀れな犬!人間はおまえたちを人間並みに扱おうとしているのだ。」と、その計画された飼い犬税に対してフランス人が叫んだほどには、誰も良く表現できないような関係である。k
04-07 16:55
宗教に対する批判は、「人間が人間にとって最高の存在である」という教えに尽きる。それは同じく、人間がこの上なく卑しめられ、この上なく奴隷化され、打ち棄てられ、侮蔑された存在である全ての諸関係を、転覆せよという定言命法をもって終わる。その諸関係というのは、j
04-07 16:55
過激であることは、事柄を根本から掴むことである。人間にとって根本であるとは人間自身であることである。過激主義としてのドイツの理論の明白な証拠は、実践的なエネルギーとしての証明とおなじく、宗教の断固たる積極的な廃止によって明確になる。 i
04-07 15:57
批判の武器はもちろん武器の批判に取って換えることはできない。物理的な暴力は物理的な暴力によって倒されなければならないが、しかしまた、理論も、それが大衆を捉えるやいなや物理的な暴力になる。理論は、感情に訴えて人身攻撃で証明すれば、それはすぐに過激になる。h
04-07 15:55
これらの諸民族が近い未来にあるような、人間的な高みにまで、到達することができるのか?ということである。g
04-07 14:55
そこで問題になることは、ドイツが、原則の高さ(à la hauteur des principes)にまで向上した実践へと自らを高めることができるのかということ、すなわち、革命へと、たんに現代的な諸民族の公式の水準に達するのみではなく、f
04-07 14:55
弁証法的な法哲学に対する批判は、すでに、これまでのドイツの政治的意識の様式に対する決定的な敵対者としてだけにとどまらず、むしろその解決が唯一の仕事である、実践へと自らを進めてゆく。f
04-07 14:21
ドイツの国家制度の現状が、旧体制の完成を、近代国家の肉体おける棘の完成を実現しているとすれば、ドイツの国家認識の現状は、その肉体そのものの欠陥を、近代国家の未完成を表現している。e
04-07 14:21
Author:enzyklo
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