パラオ:終わらない戦後抱え 両陛下待つ戦死者遺族

毎日新聞 2015年04月08日 15時21分(最終更新 04月08日 16時20分)

日本の慰霊碑「みたま」(奥)を訪れた村井少将の四男の村井正己さん=パラオ・ペリリュー島で2015年4月5日、長谷川直亮撮影
日本の慰霊碑「みたま」(奥)を訪れた村井少将の四男の村井正己さん=パラオ・ペリリュー島で2015年4月5日、長谷川直亮撮影
父からの手紙を広げる伝田忠子さん=長野市で2015年3月8日午後6時34分、古関俊樹撮影
父からの手紙を広げる伝田忠子さん=長野市で2015年3月8日午後6時34分、古関俊樹撮影

 太平洋戦争で約1万6000人の日本人が戦死した激戦地、パラオ。天皇、皇后両陛下は8日午前、特別機で羽田空港をたち、赤道に近い島国へと向かわれた。終戦から70年。現地に向かった遺族らは終わらない戦後を胸に抱えながら、両陛下の訪問を待ちわびた。【真鍋光之、古関俊樹】

 ◇慰霊碑でハーモニカ…盛岡の79歳

 約1万人が犠牲になったペリリュー島で旧日本軍守備隊を参謀として指揮した村井権治郎(ごんじろう)少将の四男、正己さん(79)は、5日に盛岡市から島に入り、両陛下を待つ。「父が亡くなった場所に両陛下が向かわれる。どうしても行きたかった」と明かした。

 権治郎さんが、駐屯地の京都からペリリュー島に向かったのは1944年6月ごろのことだ。正己さんは小学生だった。「いなくなる前、自宅で熱い風呂に抱かれて一緒に入ったのを覚えている」

 権治郎さんは家族の誰にも話さず、出征した。その後、「○○に十日着いた。暖かいので半ズボンをはいている」と書かれた軍事郵便が届いた。検閲を避けるためか、場所はやはり伏せてあった。戦死を知ったのは翌年5月。戦死者を読み上げるラジオから権治郎さんの名前が流れた。気丈だった母トキさんは、その場で泣き崩れたという。

 一人の米兵がトキさんを訪ねてきたのは46年1月だ。ペリリュー島の洞窟で権治郎さんの遺体を見つけ、遺品の懐中時計と、仲間の守備隊長の墓の写真を届けにきたと話した。「私は3回島に来たが母は一度も同行しなかった。写真も見なかった。父のことを思い出したくなかったんでしょうね」

 5日。正己さんは島にある日本の慰霊碑で黙とうし、持参したハーモニカで軍歌などを奏でた。「少しでも慰めになるかと思ってね」。後は言葉にならなかった。

 ◇島の砂を亡き母に…長野の73歳

 長野市の伝田忠子さん(73)も両陛下のパラオ訪問を機に現地に向かった。

 忘れられない思い出がある。5年前。96歳で亡くなった母の巴さんの遺品整理をしていて、押し入れに二つの柳ごうりを見つけた。ペリリュー島で戦死した父の加藤木正二(かとうぎまさじ)さんが出征先から送った100通を超えるはがきや手紙が入っていた。

 正二さんは41年7月に出征し、32歳で亡くなった。出征の10日後に生まれた忠子さんには正二さんの記憶がない。

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