戦後教育は、かつて日本を戦争に追いやった国家主義、全体主義的な国民教育への反省に立って行われてきた。

 安倍晋三政権はそうした戦後教育の歩みを否定しようとしているのか。そうとしか思えない。

 教科書検定の基準が強化されて初の検定が行われた。2016年度から中学校で使われる。

 新基準などで文部科学省が政府見解を盛り込むよう求めた結果、社会科では領土問題の記述が倍増した。

 一方で、過去の誤った政策や方針が、あたかもそうではなかったようにとられかねない書き換えも目立つ。

 過去の誤りも認め、ありのままを正視してこそ歴史から教訓をくみ取れる。もう一つ、教育には多様性や自主性も欠かせない。

 教科書づくりからそうした大事な精神が消えていくことに危惧の念を禁じ得ない。

■出版社はすでに萎縮

 「政府見解や確定判例を確実に反映させる」「学説が確定していない場合はバランスを取り、通説がないと明示する」。13年の検定基準の改定で、近現代史ではこの2点が新たに求められた。

 加えて、愛国心を養うことを盛り込んだ改正教育基本法の教育目標などに照らして、文科省が不合格にできることにもなった。

 国の考えを前面に押し出す一方、国の立場にそぐわない学説は根拠薄弱として曖昧にする―。そんな意図があるとすれば、ご都合主義と言われても仕方あるまい。

 今回の検定では、領土問題が「歴史」「公民」「地理」のすべての分野で取り上げられた。

 領土をめぐる認識は確かに大切だが、歴史的経緯などに触れなければ視野の狭いナショナリズムを助長しかねない。

 出版社にとって、教科書が合格するかどうかは経営に直結する。政府がたとえ直接、圧力をかけなくても敏感に反応せざるを得ない立場にいる。

 政権の意を忖度(そんたく)する。教科書づくりの現場でそんな萎縮が進んでいることを憂慮する。

■負の歴史正視せねば

 教育基本法に照らした不合格はなかったものの、新基準に沿わないとの修正は6件あった。厳格に適用しようとする文科省の姿勢は明らかだ。

 典型的な例は、関東大震災後に起きた朝鮮人殺害の犠牲者数だ。

 「数千人」との当初の記述が「当時の司法省は230名あまりと発表した。数千人になるとも言われるが、人数に通説はない」と改められた。

 歴史に複眼的発想は必要だが、一つの見方に「通説はない」とあえて付け加えれば、見解自体が否定されたかのように映る。

 現行教科書では通っていた記述が書き換えられる事例もあった。

 例えば、差別法とされた北海道旧土人保護法をめぐる記述だ。

 「アイヌの人々の土地を取り上げ」の記述が「政府はアイヌの人々に土地をあたえて、農業中心の生活に変えようとした」と、あたかも恩恵を施したように書き換えられた。

 アイヌ民族への支配や同化の歴史をねじ曲げ、薄めようとしているようにしかみえない。

■改変の動き急すぎる

 これほど矢継ぎ早に教育の根幹へ介入した政権がかつてあっただろうか。

 安倍首相は第1次政権で愛国心を改正教育基本法に盛り込んだ。続く第2次政権で掲げたのが、検定基準の見直しだった。愛国心教育の延長線上に検定強化があるのは間違いあるまい。

 政権に返り咲いた後の2年余りの間に、教育行政の独立・中立性を揺るがしかねない教育委員会制度改革を行い、規範意識や愛国心の押しつけが懸念される道徳の教科化にも道筋をつけた。

 安倍首相は「戦後レジーム(体制)からの脱却」を唱えている。それから察すると、一連の動きの目指すところは戦後積み上げてきた教育の空洞化と読める。

 安倍政権と歩調を合わせて、自民党内には記述の内容や検定のあり方を包括的に示す教科書法(仮称)の制定を目指す動きがある。そうなれば教育がますます画一的なものに変質しかねない。

 教科書採択は各教育委員会に権限がある。それぞれの教育観、歴史観に基づいた教科書候補を、使う側が丁寧に比較したうえで政治から離れて採択するのが筋だ。

 次世代を担う子供たちをどう育てるか。それが教育の原点である。だからこそ、教科書づくりでは多様性や自主性が最大限尊重されるべきだ。

 教科書の自由度が教育現場に反映されることで、自ら発見し、学ぶという本来の教育理念が保障される。