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■寄る辺なさに寄り添って
詩は日常の言葉で作られながら、日常を超越し、新世界への扉を開いてくれる。今日は三人の詩人を紹介したい。
辻征夫(ゆきお)が逝って今年で十五年。立ってるだけで詩人とわかる、懐かしい面影を持つ人だった。谷川俊太郎編『辻征夫詩集』(岩波文庫)はハンディな薄さながら、詩人の生涯が見渡せる一冊だ。軽妙でユーモラスな初期の詩群が、病(やま)いに苦しんだ晩年に至ると、そこに、ある「壮絶さ」が加わったのがわかる。
収録詩集『萌えいづる若葉に対峙(たいじ)して』は、死の一年半ほど前に刊行されたもの。実に怖(おそ)ろしい詩集である。タイトルポエムの末尾三行は評判になり、記憶にまだ新しい。「血まみれの抒情(じょじょう)詩人がここにいて/抒情詩人はみんな血まみれえと/ほがらかに歌っているのですよ」。
血まみれというのは比喩ではない。病気やら怪我(けが)やらで、詩人は本当に満身創痍(まんしんそうい)だった。同詩集に収められた「ワイキキのシューティングクラブ」には、ハワイでの「実弾射撃」経験が書きつけられてあるが、彼が最後、残した詩作品の中心には、そうして拳銃の重みほどの暗黒の固まりが在った。発射寸前の黒い拳銃を蔵した詩。強く、血だらけの抒情である。
■心解くまじない
一九六〇年代を牽引(けんいん)した詩人岩田宏は、小説も書き、露・仏・英語に通じ、とりわけマヤコフスキーの訳者・研究者としても知られた。昨年、自選による『岩田宏詩集成』(書肆〈しょし〉山田)が刊行されたが、詩人本人はその翌月に逝去。この詩群を前に、わたしは新たな驚きに打たれている。敵を倒すならこんなふうに、朗らかな歌心を携え、深く適確(てきかく)に言葉を刺し入れたい。心が鬱屈(うっくつ)したときには、ナンセンスな呪文を。「無理なむすめ むだな麦/四角いしきたり 海のウニ」(「未婚」)。この人の言葉遊びは、心の縄を解くまじないだ。
「逢(あ)えない」では、地球人と他の天体に住む異生物との交信が物語風に書かれている。会話の一部を抜き出してみよう。
「あなた方は何者か」
「われわれはわれわれである」
「あなた方は地球へ来るつもりか」
「行きたい 行きたい」
「あなた方は何を求めているのか」
「なつかしさを」
さて異生物は地球へ来たか。続きはどうぞ『詩集成』で。
半世紀以上前に書かれた「夢は笑う」には、原子炉を思わせるものが登場する。「アメンボのような詩を断じて書かない詩人と/顔を水にぬらすことをこわがらない子供」だけが、その、「ウラニウム製の底なし沼」を語れるとあって、こういう比喩は今も新鮮だ。
■言葉が直接泣く
詩は確かに「言葉」で作られる。だが時に現代詩は、言葉だけで出来ていて、それが固い殻のように作品を覆い、息苦しさを感じることもある。
そういうときには『三角みづ紀詩集』(思潮社現代詩文庫)を開こう。ここには確かに人間がいて血や涙を流している。だが言葉が、そうしたものの「描写」に使われているというわけではない。もっと直接的に言葉が泣き、言葉が読む者の心を殴るのである。本書未収録の単行詩集『隣人のいない部屋』(思潮社・2376円)も薦めたい。スロヴェニア、イタリア、ドイツへの旅。土地の肌から剥離(はくり)するように、危うげに移動する無垢(むく)なからだ。その寄る辺なさに寄り添って読む。わたしたちもまた、淋(さび)しい旅人だ。
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こいけ・まさよ 詩人・小説家 59年生まれ。『詩についての小さなスケッチ』『たまもの』など。