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<パラオ 忘れられた戦場>(下) 遠ざかる記憶

「なぜ私たちの島で戦ったのか」と話すケイティ・ジラケさん=パラオ・コロール島で、伊藤遼撮影

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日本、パラオ、米国の国旗を背に、平和への思いを語るミノル・ウエキ前駐日大使=パラオ・コロール島で、伊藤遼撮影

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 太平洋戦争の激戦地パラオ。ペリリュー島南隣のアンガウル島で生き残ったのは五十人ほどとされる。陸軍二等兵だった倉田洋二(88)は戦後、「墓守」として慰霊碑を守り続けた。

 「生き残ってしまい、戦友に申し訳ない」。東京都職員を退職した後、パラオの中心のコロール島に移住。約六十五キロ離れたアンガウル島に船で通い、「英霊よ安らかに」と刻まれた慰霊碑の清掃を続けた。腰が悪くなり帰国した今も現地を訪問。ジャングルに放置された仲間の遺骨を思う。「故郷に帰してあげたい。お迎えを待っている連中はたくさんいる」

 元兵士や遺族らがつくる団体も、会員の減少や高齢化で解散が相次ぐ。「群馬県パラオ会」は今月五日、最後の慰霊祭を開き解散。ペリリュー島守備隊の関係者でつくる水戸市の「水戸二連隊ペリリュー島慰霊会」も二〇〇三年を最後に、現地慰霊を終えた。

 父の武治=享年七十四=が連隊の物資調達に関わった事務局長の影山幸雄(70)は、これまでに現地を三十回以上訪問。なぜ無謀な戦争をしたのか、当事者の人生に思いを巡らせる。「平和は七十年しか続いていない。自分たちで努力してつくっていかないと」

 戦争がもたらす悲劇は、兵士にとどまらない。

 焼き尽くされたジャングルに、ばらばらになった日本軍の戦闘機や戦車。太平洋戦争終結後、ペリリュー島に戻った島民は変わり果てた風景を目にした。「家や森がなくなり、母親は泣いていた」。レイコ・グバリ(79)は振り返る。親から授かった日本風の名前に、複雑な思いを抱く。

 コロール島で育ったケイティ・ジラケ(87)は学校で日本語教育を受けた。毎朝、三千キロも離れた皇居に向かって敬礼した。日本がパラオを統治して三十年。美しかった故郷は戦場にされた。「なぜ、この島で戦争をしたの。私たちには関係ないことなのに」

 戦争に巻き込まれたパラオは一九八一年、非核憲法を公布。核兵器の持ち込みは国民投票が必要と定めた。ただ、当時は米国の信託統治領。九四年、米国の軍事力の傘の下で独立を果たし、憲法は「米国との盟約に矛盾する条項は適用されない」と修正された。

 「本当は非核憲法を変えたくなかった」。パラオの前駐日大使ミノル・ウエキ(84)は残念がる。日本人の父を持ち、中学二年の時は飛行場建設に加わり、米軍機の銃撃で学友二人を亡くした。戦後は医師となり、新政府では厚生・教育担当大臣も務めた。

 あの戦争が遠ざかる中、平和の礎にと願った非核憲法の理念が揺らぐ。「戦争を見てきた私たち世代は、その苦しさが体に染み付いている。でも、今の子どもたちは戦争を知らない」。パラオと日本、米国の国旗を掲げた事務所で、表情を曇らせた。

 =文中敬称略 (土門哲雄)

 

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