今回の震災後の福島第一原子力発電所における賠償は東京電力にあるのは間違いがありません。
そして当然ながら政府にもその責任があるのも論をまちません。
しかし、これから共済制度を作るというのに、原発の数に応じて供出する金が・・・となると、それが何をさしているのか大変に気になります。
東京電力の福島第一原子力発電所の事故による被災者に対する賠償策の原案が12日、明らかになった。
米スリーマイル島の原発事故の賠償制度を参考に、東電以外の電力各社も加わった「共済制度」の仕組みを創設する。各社には保有する原発1基あたり300億~500億円の負担を求める案を軸に検討する。東電の負担額は2兆~3・8兆円とし、電力各社の支払い上限を超える部分は政府が全面支援する。賠償制度の実現に向け、政府は特別立法の制定も視野に入れる。
政府と東電は近く賠償案の本格検討に入る。原案では東電は同社の毎年の利益から1000億~2000億円を15年間払うほか、保有する原発17基分の負担金5100億~8500億円程度を支払う。東電以外の電力各社も国内に37基の原発を保有しており、基数に応じて負担金を拠出する。電力9社の合計は1・1兆~1・8兆円程度となる。
なるほど賠償がきちんとなされれば良い訳であるが、この基金の意味するところはなんだろうと揶揄してしまいそうなのです。
つまり政府や電力会社は「未来永劫原子力発電は続けるんでよろしく」といいたいのではないかと感じるわけです。
例えそうではないとしても、反原発論者でもない私から見てもそう感じるのです。
電気エネルギーを作ることだけではなく、利用することから見直しをしなければ、今後は自然との共生さえできないのではないかと感じていますし、そもそも人間なぞは自然にはるかに及ばないと思っているわけで、それを無視して生きる者にはそれこそ何かが起こるのではないかと感じてしまいます。
今回の震災でなくなられた方たちは本当にいたましいと感じますし、なぜその方々がその場にいて、被害を受けなければならなかったのか、これが東京ではなかったのかなどいろいろと考えてしまいますが、東北の太平洋岸でその被害は起きてしまいました。
これは残念ながら事実です。
しかし津波や地震の被害にあわれた方にはなんの罪もなく、これが人間による傲慢への仕打ちなどとは考えたくもありません。
しかしながら福島第一原子力発電所においては間違いなく人災であり、この被害にあわれている方は自然な形のエネルギーとは乖離したところが原因の一つであると考えます。
先ほど原発反対派ではないと書きましたが、震災が起こってもつい最近までは容認派でありました。
ですが今回の東京電力と政府の対応の遅さ・・・これは現場の方々に対しての批判ではなく・・・あくまでもそうした「上で」鉛筆を転がしているような人たちの対応を見ていると、御すことのできないものを永遠に使い続けることへの考えが改まってきています。
まだまとまりはないのですが、ある冷静な反対派の方のブログにおいて「未来へ責任を負わせるもの」で、今の自分がその一時の楽を享受するべきではないと考え始めています。
ですから現実として原発をしばらくの間使い続けるとしても、必ずここ数年で見直しをしなければならないと考えていますし、例えば使い続けるのであればどういう条件においてどういうことが行われるのか、使わないのであれば何年後に全てを閉鎖してどういう代替発電とするのか、エネルギーの使い方をどうするのかを決めていかなくてはならないと感じています。
しかしながら今回の共済制度にはどうも裏があるような気がしてなりません。
まずは福島を静めること、これを第一義にして付近住民の方々に何をするのか、関東圏の電力はどう保持するのかを東京電力と政府には求めたいと考えます。