独身底辺層


独身底辺層か。さっきネットニュースで高崎の硫酸事件のことが出ていたけど、独身無職底辺層が犯罪者予備軍と出てる。私も底辺層なので世間にはそう思われてるのか?

独身無職って理解されない度低いね。

さて今朝はRの法則の録画を見たあと、短歌を書こうということで短歌5首書いた。そんなことをしていたら俳句だ、漢詩だと。気になるけど、作曲の時間がない。

や〜〜〜〜めた。ということで作曲へと入る。しかし毎日毎日書いてるとネタが尽きるような尽きないようなになってくるけど。自由度の高い作曲における引用の実践をしてる。

最近の現代音楽界の作曲シーンは引用が流行してるようですね。音楽における引用だったか。YouTubeにも黛敏郎先生の解説で出てるけど、古い技法の焼き直しなのか?

音楽は順繰り順繰りと回転するのかもしれない。おまけに調性音楽まで大流行してる有様。特殊奏法はそろそろ頭打ちだろうな。そういう意味ではまた音楽はどこか行き詰まりだとか言い始めるだろう。

同じことです。誰かがやれば俺が僕がと同じようにして食いつぶす。しかし誰かがやる作曲の真似です。オリジナリティがない。

どこかで国際コンクールで入賞?だかってプロフの人の日本人のCDを買ったことがあるけど、いわゆる誰でもする音楽でしたね。

なんでも万人受けするのがいいのだろうかね?短歌でもどこかの主宰がその歌語を使えばその会員が真似をして歌に織り込むという。

あれも引用なのか?しかしそういう引用は好きではない。古典から引用すべきだ。時代様式の違う破綻したところにこそ味わいがあるのだ。

そういう音楽が愛される楽壇は諦めてしまえばいい。私の生きられる場所はある。音組にある。そこで活動すればいいのさ。万人受けする音楽のどこがいいんだ。

大衆迎合なんてとんでもない。私の嫌いなことばは「大衆」大衆が集まるところが嫌い。ワーキングプアだけど安っぽいことでは満足しないのである。

どうせするなら交響曲作家だ。独身底辺層らしい生活ってのはこういうことだ。ワーキングプアでも漢詩はするし、短歌も俳句も小説も。

銀河鉄道999の「フィーメルの思い出」?だったけかそこの物語のような世界かもしれない。独身底辺層って本来そういう使われ方をするんじゃないのか?

夢を追うから底辺層なのでは?と思う。何もギャンブルでお金がないだけではないはずだけど、どこかそういう言われ方をするようになってしまった。

お金持ちがだらしない生活をしてるという妄想もそうだ。実際いろいろな会社の役職だったような人とも話をしたけど、文化的な生活していてとてもだらしない生活をしてるとは思えない。

むしろ定職につかず、ぶらぶらして汚い格好で漢詩を書いたりしてる方がだらしなく思える。新聞に短歌をやる人は年間千首作って年俸一千万と言った歌人もいた。

だらしない人でしょうか?だらしないのは私です。身なりをキチッとしないとかな?と思います。でもワーキングプアでしょうがない。

定職につかずぶらぶら生活を説教する人もいましたけど、どこへ行けばいいのか?社員にはなりたくない。もう年齢制限でなれないでしょうけどね。

しかしどこでも言われるのが作曲の仕事をしなさいとね。ないものねだりをしてる。編曲とかしてアイデアを得るものだと言われたことがあるけど、凡人の仕事の仕方だね。

みんなやるから私も僕もやる。そんなの芸術じゃないよ。音楽をやるには音楽しか見ないっておかしいと思う。俳句やるにに俳句だけ読んだのではうまくならないですよ。

これ名言だ。音楽は日記である。

和声の響きがいいから、この転調がいい。『極めてどうでもいい』
音楽は面白い、つまんないがわかればいいと思うな。

ミーハー音楽は去ってしまえ。
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思う


眠いから外出先から早々帰宅。何事も1点集中か。古典を愛するとか新品を愛するでもいい。でも共通点は評価の定まったものを好む。

CDを題名で買うとかじゃない。作曲家がなんであろうと聴いてみたいとかじゃない。ooさんが有名だから買う。ooさんのooがいい曲らしいから買う。

そんなところじゃないのかな?しかしそれで音楽を好き?有名な物食いじゃないの?ミーハー自慢をしてるだけで、プロの音楽家のすることではないと思う。

プロプロと自称してる割にはミーハーなところな人しかいない。私はそれに疲れてると言っていいかもしれない。作曲もとってつけたような決まり切ったセオリーで。逝ってしまえ。と思う。

自己模倣もいいけど、コピペじゃないの?と。私は以前自己模倣のしすぎを言われたけど、実際それでも曲は成り立つしと思ったが、コピペではなかったようにも感じた。

半音階で上っていくシーンはうるさいからいらないとまで言われたけど、ある人には5連符の和音はこれはよくないと言われたことがある。今はあまり好きではないですね。

以前師事していた師匠の影響でそういうのをしていたことがあるが、オケで5連符の和音はもしかしたらこれからもあるかもしれないが、今のところオケを書く気もないし、書く話もない。

紹介すると言って紹介しない。作曲家の発掘をすると言ってしないそれが演奏家です。演奏家の仕事は有名な人の作品を演奏するのが仕事ですから、音楽に偏りが生じるのである。

私が紹介されないから僻みで言ってるのではない。演奏技術の偏りもある。この型しか演奏できないので、テクニシャンかもしれないが、味のない演奏かもしれない。小手先が器用だから器用自慢したいだけじゃないのか?

そういうことが言える。有名な人の有名な作品しか紹介しないのだから、プロが趣味になってると言っていい。好きでしてるだけだ。

実際私は好きなことをしてるというか奉仕のつもりで今、作曲してる。

以前いた会社で「会社のために仕事をしてる。って言ったら俺も頭にくるけど、この商品を楽しみにしてくれるお客さんの元に届けるための仕事をしてる。そういう意味では奉仕なんだよ。そういうつもりで仕事をしてほしい」そう言った。今もその話には感銘を受けてる。

個人的な主張もあるけど、奉仕。私もコンサートのためにだけ、目先のお金ことだけでコンサートのことを考えるんだったら頭にくるけど、無理でも気になるからとか理由つけて忙しい中聴きに行きたいという人のための奉仕作業かな?という気持ちが最近ある。

実際コンサートでお金なんか入らないじゃん(笑)以前私に文句をたくさん垂れて去った人が考え方が違うと言ったけど、やはりその人も採算のことを考えるコンサートを作りたかったのか?

ということです。私はいつでも予算があればいくら使ってもいい。採算は考えないでがモットーだった。やれ金が高いからよくないとかいう人もいた。

それでいてコンサート代金は高いので行きません。演奏家の賃金が安すぎますとかそういう文句を垂れる人がいました。作曲家は社長ではないし、どこで儲けが発生するんだろうか?

そういう意味では知らない人に言っても仕方ないことなのです。理解する力がないからです。諦めるのが一番です。演奏家の態度を考えてみると楽しさ優先でプロ。

鼻歌で有名人の有名曲を演奏できればそれでいい。私は「君の曲を社会に紹介したい」こう言った音楽家がかつていたけど、実際そんなのでまかせで、何もないのです。

所詮マイナーな俗世間に認知されない芸術家なんかには興味関心などないのです。そんなのを発掘してる時間があったら名曲を演奏してる方がいいのです。

無責任なものもほどがあるのですが、実際人間評価の定まった音楽の方が気持ちいいに決まってる。私も知り合いよりも黛敏郎の音楽を聴いてる方がいいと思ったりもするけど、音楽の幅が狭くなるので雑多に聞くようにしてる。

最近はモノドラマの勉強で「期待」をたくさん聴いてる。楽譜も買ったので楽譜を時折読みながら。他にモノドラマがあったのをYouTubeで見つけて聴いたことがある。

日本人のモノドラマだったけど。聴いた。しかし現代、現代と新しいものを好む人もいるけど、それも有名な作曲家に限るのです。賞歴のある人。

私が歪んでるのでしょうか?賞歴がないと評価できないという人もいましたね。賞歴あるなしに名曲が書ける人がいいのではないか?紹介できないのだったらしないと最初から言えばいいのだ。

あれは詐欺師じゃないのか?と思う。演奏家の口の悪さだ。なまじ人を信用するとろくなことがないので自主主催で息のかかった奏者だけに演奏をしてもらえばいいだけのことをこの3年で感じた。

プロというのが安い言葉になったなと。
 

花見大会


きょうは朝ちょっと用事を済ませてから期待を聞きつつ。10時半の迎えで花見へ行った。カレー屋のカレーを食べてからちょっと遠方の公園で花見。

缶ビールも飲みつつ下品な話もでましたが、建設的な話もありました。苦しみをどう解決するか?その個人によって諸問題があるけど、私はこう克服したという話。

目標が今ないから何かないか?面白いことがあったら教えてくれとかそういう話をしていたが、それぞれにあるね。自分で探すものだと感じた。

私はとりあえずは今年のコンサートを成功させることだなと思いました。私利私欲ではないコンサート作りです。先日人気作曲家に委嘱してその客層をみたいと言ったところ、人気作家じゃない?我々とは毛色が違うという意見しか仲間内であって却下した。

それより賞歴のある人を起用しようとかそういう意見もある。私みたいな賞歴のない人を使いたいなというのもある。賞歴ないけどすごい人。こういう人は聞いたことがないね。

ちょっとまた話をしてみたいと思ってる。花見のあとは寝るしかないな。明日の作業のために。今回の作曲は感謝というものに献呈したいものだ。以前話すべきことがないと言った人がいたけど、私に振り回されるので疲れたのだと言えるでしょう。

きょうの花見も振り回されるけど、おつきあいする。しかしきょうは忙しいのにどうもありがとうと言ってきました。でも音楽もそういう意味でどこかで私の曲を理解する人がいるし、いるのはわかってる。

しかし紹介したくないという人もわかってる。演奏家の性格の問題だろうなと思っています。しかし音楽には無限の可能性がある。制限してはいけない。

私の音楽を紹介したい人と期待する人のために感謝の念を込めて今度こそコンサートを開催することです。
 

趣味の素人


趣味は素人か?玄人か?だ。以前ある人が「君の作曲活動に意見するなんてとんでもない」こう言ったことがある。確かに私は師事歴は多いけど、果たしてそれがいいのか悪いのか?

レッスン慣れしてるけど、効果があるかそれは今もわからない。ただ言える、その時々に師事した作曲家のくせを吸収することはある。

いいか悪いか別として。そういうことを見た人がいた。留学も考えたこともあるけど、十分勉強したんじゃない?何を学ぶの?となる。確かに。という問答になるのです。

ソルフェージュのレッスンでこれ以上伸びないのかで、もういいんじゃない?と言われたこともある。なんか何をなしても同じことのようにも感じてレッスン内容も2周くらい回ったかのように感じた。

よく趣味のピアノでレッスンしてもらってるとかあるけど、何年も通ってる人何を学ぶのか?文芸でもそうだ。何十年のその文芸をしているけど、何十年も同じ人に指摘されたり見てもらってる。

もうある師匠はとある作曲家のレッスンを作曲家が死ぬ直前まで受けて生きていたらまだ師事していたとおっしゃる人がいたり、ピアノでもできなくなると飛行機に乗って海外の先生のところへレッスンに行く人を聞いたことがある。

きょうは歌会だったけど、なんか見てると私の指摘はリズムと文法くらいであと何も言われないけど、とられることがない。他の人は歌語選びから指摘される人もいたりするから添削でも行き過ぎたものもあった。

選者の作品になるんじゃないか?と。

しかし実際作者がいるわけだからそんなに直す必要があるのか?というのはある。脇でどのくらいやってるのかわからないけど、自分の知識をアピールしたがる人がいた。

しかし私のきょうの歌はそんじょそこらでわかるものじゃないし、選者もわからない単語を使った。漢詩からヒントを得たもので、漢語をほとんど使って平仮名は一切使ってないものだった。

そんな短歌でいいのか?ということで漢語で看るは看病の看るだけではなくある対象を見るという意味になる。きょうは看梅と書いて梅を看るで漢語を使うと梅を看病するみたいな見方をする人がいて困った。

そこで観梅ではどうか?と選者が言った。読者サービスだと言った。なんかこれも好きではないのですけどね。選者の言い分では読まれないと言った。

確かにきょうのは読まれてない。私は読まれるために書いてる意識はあまりにも素白かもしれない。作曲もあまり人に聞かせるために書いてる気がしないけど、聞かせてる。

いや、そんなことを言ったら書くものは全てそれは当てはまるかもしれない。大衆に迎合するのが嫌だからです。現代音楽である作曲家に師事したけど、難しい音楽を作曲されていた人がいる。

一時期その人のパクリじゃないか?という気がしたほど感じは似ていたけど、この頃はデタラメじゃなかったと指摘されます。

どの時代の有名作曲家の問題作ってデタラメだとか酷評されるものです。きょうの短歌も評価されなかった。しかし今、評価されないからと言って将来も悲観する必要があるか?それは誰もわからない。

悲観するのはその評価が正しいか正しくないかを正当に判断できる人かどうかである。過去にとらわれない生き方をしたいなと思ったが、今をいじるにはそれは判断力が問われる。

最初に出た私の作曲活動に意見をするということはできるものじゃないと言ってる話は、我が団所属のプロの作曲家の人です。趣味の作曲家に意見できなくてどうするんだろうか?

と、思うと、いろいろなところで知り合いになる音楽家もあまり意見しない。しても妨げになる意見はしない。なぜかな?と思ってしまう。

きょうも歌会でいつもコメントする人がコメントしなかったのは漢字が読めないと言ったからだ。正しく鑑賞できる自信がなかったのかもしれない。

私の文芸はコメントしにくいと言います。よく難しいと言われます。でもなんかそういう意味では点じゃないと思った。作曲も賞歴じゃないと思った。

そんな名誉がなくてもかつて騒ぎを起こした有名作曲家は今も騒ぎを起こしてる。名誉があった作曲家はなんて名前?そこからです。さぁきょうの歌会で騒ぎを起こしてどこが湧いたか?内容で勝ったのである。

点数で騒ぎを起こすなんて小さいことです。
 

理解力


音楽家批判もそうですが、実際人間の理解力。例えば暑いとか寒いとかくらいしかないのか?とかそういうことを感じてしまいますけど、他人を理解するという気持ちがないのではないか?

実際自分もかもしれない。演奏家が演奏しない理由に自分の演奏力がないからというのもある。やりますと言ってできないというのもそういうのもそうだと知人に言われたことがある。

己の力を知っての上だという。ある知人は『お前の曲は難しい』と言ったことがある。嘘だと思ったけど、以前ピアノ曲を学校で弾いてもらったけど、音が気持ち悪いからと言って下手くそに演奏されたことがある。

評価の定まった音楽は弾きやすい。誰でもそうだ、名曲を演奏するほど気持ちのいいものはないが、私の曲は評価が定まってるわけではないのです。

だから変動する評価のある作家の曲を自分がやってみてできるか?解釈については自分で作らなければいけない。そうなると自分で音楽を組み立てなければならない。

どこかで演奏されてるならば、それをモデルにできるが、初演ものは自分で作らないといけない。特に私の音楽は得体のしれない音楽である。

そういう意味では並の演奏家の演奏力では無理なわけだ。という言い方もできる。自分を正当化しているのではなくてです。私が気に入らないから演奏しないという狭い了見で答えてる人もいるのもわかってる。

楽譜を見ずに考えるなんて類はその例であるし、楽譜を読んで嫌がらるのもあるけど、音楽に『笑い』を導入するというのが嫌な人もいるのも最近わかってる。

『笑い』の表現は自分が笑い者になるわけだから恥をかくことにもなりかねない。


演奏家熟達したものを狙ってヴィルトゥオーゾな世界を表現し、マエストロ!!と呼ばれたいものだ。しかし笑いでマエストロ!!とはいかず、恥と捉えてしまうのである。

世の中には評価されないことが評価という人もいるけど、実際どの名曲の作曲家でもそういう時代はあるのです。私の交響曲が反応ない。これが評価だというのも安易な表現だと言える。

初演を聞いて即座に駄作といえばいいのですが、駄作とは言わない。感想をまともには言わないのです。おかしいですけどね。

音楽はそういう意味で演奏拒否って単に嫌いだからではないのかもしれないしというのもあるが、実際演奏されなければ音楽は生まれない。

またそんな音楽シーンを排除するも今の演奏家の仕事だ。だって私の音楽はいらない。そう言ってる。口はでまかせというのは演奏家。

真のプロだったら正確にどんな曲でも演奏し、音楽を仕上げることができて当然だ。しかし実際には演奏できません。なぜなら演奏力がないのであります。

音組の演奏家以外でみたいものです。小さな音楽団体はなんであるか?真っ向勝負かな?音楽表現に限界はないが、昨今の演奏家は限界を自分で作ってるところがすごいものだ。

演奏家への理解がない私の理解力ってどうしもないものです。だから軋轢が生まれるのである。音楽は自分の限界は作るべきではない。常に挑戦すべきことじゃないかな?

今回参加される演奏家は自分の演奏可能範囲を広げ得意でないものにも挑戦し、今後の演奏家としてのスキルにしたい。こうおっしゃる。

これは人間のあるべき姿だ。自分の首までしめてできませんじゃね。それでプロだと言って胸を張ってるんだからお粗末。

プロな演奏可能範囲を広げる挑戦を引退まで続けるべきだ。所詮音大での授業は教習所みたいなものでそんなに身につくものでもないと私は思う。

私の音大生活で得た知識よりも卒業後の方がついてるし、勉強になった。それは実際の楽曲が音になることだ。リハを通してどうやったら相手に伝わるか?などということを感じるとまだまだ挑戦は足りないと思う。

しかしどこまでが限界か?などは考えない。できる限りやるというスタンスだ。私は趣味。プロが趣味に負けてるのだと言いたい。

音楽って表現範囲ってそんなに狭かったのか?いろいろな音楽があっていいと思う。演奏家がジャンルを狭くしてるのである。
 
プロフィール

楽聖散人

Author:楽聖散人
作曲家、絶叫家、漢詩人、俳人、歌人、2008−12まで作曲家集団音組幹事長を勤めた。現在埼玉県漢詩連盟、俳誌嵯峨野、花実短歌会会員。作曲家は休業中。誰か仕事の話をして下さい。

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