陸軍参謀本部組織と海軍主要ポスト人名

天皇の帷幄(いあく)、陸軍参謀本部と海軍軍令部に詰めた者たちは、それぞれの蛸壺教育機関において記憶力(学業成績)だけ飛び抜けた人物が配置された。 彼らは人間的見識やリーダーシップ及びバランス感覚ならびに科学的知識が豊かだった訳ではない。 それは、東亜安定という虚構を標榜し民族未曾有の悲劇をもたらしたことで証明される。 この様なエリートが国家を破滅に導くことは、戦後にも東京大学法学部のトップが大蔵省に入省し、やがてこれが解体されたことも同根である。

1941年9月18日現在の参謀本部作戦課役割分担
参謀総長
杉山 元大将
参謀次長
塚田 攻中将
第一作戦部長
田中新一少将
第二作戦課長
服部卓四郎大佐

大本営陸軍参謀部の組織と任務
大本営陸軍参謀部総務部庶務課
第一課(演習)
第一部 第二課(作戦)
第三課(編成・動員)
第四課(要塞・防衛)
第二部 第五課(ソ連情報)
第六課(欧米情報)
第七課(中国情報)
第八課(宣伝・謀略)
第三部 第九課(交通)
第十課(船舶)
第十一課(通信)
 第二十課(戦争指導)
第十八班
研究班

課 名班 名担 当部 署氏名  階級
第二(作戦)課長
服部卓四郎大佐
作戦班長
櫛田正夫中佐
補助(総合)
瀬島龍三大尉
対南方全 般井本熊男中佐
政 策岡村誠之中佐
比 島佐藤徳太郎少佐
蘭 印近藤伝八少佐
馬 來国武輝人大尉
対北方高瀬啓治中佐
竹田宮恒徳少佐
対中国高山信武少佐
晴気 誠大尉
戦力班長(兵站) 辻 政信中佐重野誠雄少佐
加藤昌平少佐
首藤忠男大尉
岩越紳六大尉
航空班長 久文有文中佐松前未曽雄中佐
高木作之大尉

瀬島龍三大尉
大本営陸軍部参謀の瀬島龍三(陸士44期卒,陸大51期首席:1911年12月9日〜2007年9月4日) は幾多の作戦を立案し、彼の作戦で陸軍だけでも165万人もの戦傷病死者を出した。 彼は死ぬまで『自存自衛』の戦いと言い続けた。戦後も生き延び『昭和の参謀』と云われた。  瀬島龍三の訃報を報じた読売新聞(9月5日、朝刊)は少なくとも彼には彼が係わった作戦について説明責任がある。 ダンマリを決め込むなど『卑劣で卑怯』とまで言い切った。

瀬島は晩年になって一冊の本を著した。『大東亜戦争の実相 1989/7/23 PHP研究所刊』である。 序章・終章を含め10章からなる。その中でも彼が係わった作戦については一言も述べていない。彼が係わったとされる 作戦での死者,ソ連抑留に関係した戦病死を含め100万人とさえ云われているのに。
終章 教訓六『的確さを欠いた戦局洞察』 頁230 『太平洋正面の運命は、ひとえに大艦巨砲による艦隊決戦によって決せられ、大きな陸軍兵力は必要ない』と判断したが 『米軍の対日反攻は、航空勢力を骨幹とする陸、海、空、海兵、四軍の総合戦』だった。と記述するにとどまる。 我々が知りたいのは、彼瀬島がなぜ今時大戦が『大艦巨砲』による戦いと判断したのか。 その判断の背景の基になったであろう彼が知り得た情報と知見と、熟慮の結果の判断だったのかを知りたいのであり、 同書はまったく無責任な責任逃れの記述に終始している。  国鉄民営化の黒幕と云われた人物としては、多くの餓死者(戦死者より多かった)を愚弄するものでしかありえない。  瀬島は「「特攻は自然発生的なもの」で、特攻作戦に関する上官の責任など、一切ありえないとの立場をとった。

 

瀬島は開戦前にはTと判断していた。実際はUであった。 判断の根拠を知りたい。
瀬島龍三の著書
『瀬島龍三日本の証言 / 扶桑社 / 2003.2』   瀬島龍三の頭の回転の程度はこちら。
『幾山河 : 瀬島龍三回想録 / 産経新聞ニユースサービス / 1995.9』
『元大本営参謀の太平洋戦争 : 瀬島竜三インタビユー / 瀬島龍三‖[述] / 東京新聞出版局 , 1995.5 』
などがある。 『文藝春秋 2007/11月号 瀬島龍三 昭和の参謀ついに死す/ 保阪正康』 ぜひご一読を

瀬島龍三はその著書や発言で先の大戦は 「自存自衛」 だと述べている。 戦争をそれで始めたのなら、終わりがあるはずだ。 彼の著書をいくら読んでも終わる節目が書いてない。 参謀本部の参謀たち全員が終わることを考えていなかった証であろう。  「自存自衛」 が確立されたら、米英は自然に戦争をやめて和平を申し込んだと思いこんでいたとしたら、とんでもないお笑いぐさである。
航空機の戦い+電子戦の戦いだった。 欧米技術の模倣国家は、斬新な思考と柔軟な対応が出来なかった。
瀬島龍三について、詳しくはWikipediaでどうぞ。
 海軍大臣海軍次官軍務局長法務局長人事局長軍需局長
開戦時 嶋田繁太郎沢本頼雄岡 敬純尾畑茂純中原義正御宿 好
敗戦時 米内光政多田武雄保科善四郎島田 清大野竹二森田貫一
 
 軍令部長軍令部次長軍令部1部長
(作戦)
軍令部2部長
(軍備)
軍令部3部長
(情報)
軍令部4部長
(通信・暗号)
開戦時 永野修身伊藤整一福留 繁鈴木義尾 前田 稔金子繁治
敗戦時 豊田副武大西瀧治郎富岡定俊 高田利種中瀬 泝野村留吉
塚原二四三(1944/7/29)は一時期軍令部次長二人制の時期に就任。
軍令部各部局詳細はこちら
 艦政本部航空本部連合艦隊長官連合艦隊参謀長第一艦隊長官第二艦隊長官
開戦時岩村清一片桐英吉山本五十六宇垣 纏高須四郎近藤信竹
敗戦時渋谷隆太郎和田 操小澤治三郎(兼務)矢野志加三南雲忠一−−

1941年以降 海軍所属人員
 現役軍人軍 属合 計
1941年 219,359 387,000 606,359
1942年 408,789 511,000 919,789
1943年 622,184 733,000 1,355,184
1944年 1,177,838800,000 1,977,838
1945年 1,693,223916,757 2,609,980

太平洋戦争取材班
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