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【戦後70年】
特攻(2)「父に幸福な生活、母に愉快な生活をなしていただくべく戦うこと」特攻の命が下った日、予備学生は書いた
出撃時、18歳の海軍飛行予科練習生(予科練)から「笑って死にましょうね」と言われ、潔いと思った。「予科練は若くて血気盛ん。生への執着がなかったとは言えないが、われわれのように娑婆(しゃば)を知っている者と違い、特攻隊員としての立ち居振る舞いができていた」と振り返る。
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江名さんと同じ海軍飛行14期予備学生で、東京農業大から学徒出陣して特攻隊員となった富山県黒部市出身の森丘哲四郎少尉=当時(23)、戦死後大尉=の日誌がある。
森丘少尉は20年4月29日、神風特別攻撃隊第5七生隊員として鹿児島県の鹿屋基地を出撃し、南西諸島海域で特攻を敢行した。日誌は大学ノート8冊に及び、出撃直前までの2年半の心境がつづられている。文言は江名さんの回顧を裏付けるように揺れている。
海軍に入団直後の18年12月21日。舞鶴海兵団で教班長から「武士道とは」と聞かれ、「桜の花の散るが如(ごと)く、腹を切ることのできる人」と答えたと記した。19年2月14日には、土浦海軍航空隊で教育主任に「諸子の命は八月までだ」と訓示され、「何たる無上の栄光よ。一日を大切にして身の修養を忘れず、最大栄光の下に死なん」と意気込む。