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国民のための大東亜戦争正統抄史88~93近衛文麿の正体

【近衛文麿の正体】


88、密会

 昭和二十年六月二十五日、我が大本営は沖縄戦の終焉を公表した。沖縄に展開した我が軍は防衛隊員、鉄血勤皇隊員を含め、約十一万人が戦死し、沖縄県民約九万四千人も戦闘に巻き込まれ痛ましい死を遂げ、日本本土からは海軍機千六百三十七機、陸軍機九百三十四機合わせて二千五百七十一機もの特攻機が、沖縄を守らんとして沖縄海域の米英艦隊に突入し、散華した。

大本営陸軍部戦争指導班機密戦争日誌

 六月二十五日(昭和二十年)

 沖縄終戦に関する大本営発表あり。襟を正して自省自奮あるのみ、

 右に伴う明日行うべき総理談又は告諭に付内閣に於て討議の結果告諭として発表することとなれり。

 午後五時発小田原山荘に近衛公を訪る(種村)、途中国府津にて岡村憲兵と奇遇するあり秘密行す。政談を一切抜きにして専ら軍事情勢につき公に本土決戦必勝の信念を与うる如く力説すること三時間公をして電燈をとりて門前に予を送らしむるに至る。

 惓も死児の齢を数うるが如しと前提して公三国同盟の締結及独「ソ」開戦当時、大東亜戦争前等を思い感慨深く語る、食料問題は大政治問題化すべしとて陸戦隊化したる海軍の整備を論ず。

 再会を約して去る、一重臣をして戦意に燃えしめたりとせば千万人と雖も我往かん。

 午後十一時三十分徒歩三十分にして湯本吉池旅館に永井少将を訪れ同宿御見舞す。

 箱根街道は三百年前の昔の如く深夜人なし。感激深し。

 公曰く「此の次は陸軍の時代なり宜しく御奮闘を祈る」と。


89、近衛特使案

 陸軍強硬派の主張する本土決戦が間近に迫る中、六月十九日、東郷外相は駐日ソ連大使マリクと会談した(六月三、四日)広田弘毅元首相に、マリクとの交渉目的にソ連の和平仲介斡旋を加えるよう要請した。かねてよりソ連に警戒不信感を抱いていた駐ソ日本大使の佐藤尚武は三月末、駐ソ公使の守島伍郎を帰国させ、政府軍部の指導者にソ連を活用して時局の好転を図ることは不可能であることを説いて回っていた。だが東郷外相は、

 「ソ連に対しあらゆる努力をしなければならない。手があるとかないと云って居る場合ではない。何とかしなければならない事態に立ち至っているのだ」

とソ連を仲介とする対米英和平に固執し、二十三日、広田に二十二日の御前会議における昭和天皇の御言葉「亦一面時局収拾につき考慮することも必要なるべし」を伝え、マリクとの交渉を急ぐよう督促した。翌二十四日、広田はマリクと会談、まずアジアの平和のため、日ソ両国の立場が相互に饗応するが如き関係の設定を説いたが、マリクは、広田の提案は抽象的であると述べ、条件の具体化を求めた。二十九日、広田は東アジアの平和維持に関する相互支持協定と不侵略協定を提案すると同時に、

(1)満洲国の中立化
(2)石油供給の代償として漁業権の解消
(3)その他の条件についても議論の余地あり

という条件を提示し、至急回答を要請した。マリクは本国政府への伝達を約束したが、以後、我が国側の督促にも拘わらず病気を理由に引き籠もってしまい、広田マリク会談は事実上中断されることになった。

 七月八日、焦慮の色を濃くした東郷外相は軽井沢に近衛文麿を訪ね、彼にソ連に対米英和平仲介を求める特使としてモスクワに赴くよう要請したところ、近衛は、陛下からそういう御命令があれば行ってもよい、と返答した。十一日、鈴木内閣から近衛特使案を内奏された昭和天皇は、その翌日に近衛を御召しになり、

 「ソ連に使いしてもらうことになるかも知れないから、その時はよろしく頼む」

との御言葉を述べられた。近衛は、

 「いかなる条件でソ連に仲介を頼むかこれから至急研究致しまして、改めて拝謁致したく存じます」

と奉答した後、富田健治を介して酒井鎬次と協議し、「和平交渉に関する要綱」をまとめあげた。十五日、松本俊一外務次官が近衛を来訪して交渉の訓令について相談しようとすると、近衛は「訓令などいらない」と拒絶し、語気鋭く彼の決意を語った。

 「この際は無条件降伏以外には戦争終結の途はない。まだ名誉ある講和、交渉による講和を考えている様だが、もう手遅れだ。自分はモスコーへ行ったら、スターリンの考えを直接陛下にお伝えする考えだ。」       

 東郷外相は佐藤大使宛に、近衛特使派遣をソ連政府に申し入れ、ソ連側の同意を取り付けるよう訓令した。十三日、佐藤大使はソ連外相モロトフに面会を求めたが、この日はモロトフとスターリンがベルリンに出発する日であった為、ソ連当局の要請により、佐藤大使はやむなくロゾフスキー次官に、近衛特使案に関するモロトフ宛の親書を渡し、早急なる回答を求めた。しかし十八日、ソ連側は近衛特使の使命が不明瞭なことを理由にして「確たる回答を為すことは不可能なり」との書簡を送ってきた。

 これに接した東郷外相は、佐藤大使に対し「近衛特使の使命はソ連政府の尽力により戦争を終結せしむる様斡旋を依頼し此に関する具体的意図を開陳すること」であることをソ連側に伝え特使派遣の同意を取り付けるよう再度訓電した。但し「ソ連側の望む具体的条件を示すことはこれ又対内関係上並びに対外関係上不可能且つ不利」であると付け加えた。 

 二十五日、佐藤大使はロゾフスキーと再度会見した。ロゾフスキーは、日本政府が戦争終結の為ソ連に斡旋を求める点は了解したものの、近衛はどのような具体的提議を為すのか、と迫ったが、佐藤大使は特使の使命の重要性を強調する以外に応じ得なかった。

 一方、東京では、ソ連側の回答が思わしくないにも拘わらず、「スターリンが二十五日頃帰るだろう。そうすれば急にソ連に行くことになるかもしれない」との予想の下に、近衛の随員の選定が行われていた。近衛は首席随員に酒井を望み、さらに「自分の気持ちの分かる者」として、富田、細川護貞、伊藤述史、松谷誠大佐、高木惣吉少将そして同盟通信の松本重治等を推した。


90、聖断

 だが二十六日、米英中よりポツダム宣言が発表され、ソ連の対日参戦が、ソ連に対米英和平の仲介を依頼するという鈴木内閣の既定方針を砕いた為、近衛特使案は中断された。我が国政府の終戦外交の重点はポツダム宣言受諾の是非に移行し、八月十、十四日の御前会議において鈴木首相より非常措置として聖断を仰がれた昭和天皇は、ポツダム宣言の受諾を御決断された。我が国は辛うじて敗戦革命を免れ、「大戦を最後まで戦い抜くために」と政府を煽動した尾崎秀実の野望は、我が国においては達成されなかった。

終戦の詔書(昭和二十年八月十五日の玉音放送内容)

 朕深く世界の大勢と帝国の現状とに鑑み非常の措置を以て時局を収拾せんと欲し茲に忠良なる爾臣民に告ぐ。
 朕は帝国政府をして米英支ソ四国に対し其の共同宣言を受諾する旨通告せしめたり。

 抑々帝国臣民の康寧を図り万邦共栄の楽を偕にするは皇祖皇宗の遺範にして朕の拳々措かざる所先に米英二国に宣戦せる所以も亦実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出て他国の主権を排し領土を侵すが如きは固より朕が志にあらず。

 然るに交戦既に四歳を閲し朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の励精、朕が一億衆庶の奉公、各々最善を尽せるに拘らず戦局必ずしも好転せず世界の大勢亦我に利あらず加之敵は新に残虐なる爆弾を使用して頻りに無辜を殺傷し惨害の及ぶ所真に測るべからざるに至る、而も尚交戦を継続せんか終に我が民族の滅亡を招来するのみならず延て人類の文明をも破却すべし。斯の如くんば朕何を以てか億兆の赤子を保し皇祖皇宗の神霊に謝せんや。是れ朕が帝国政府をして共同宣言に応ぜしむるに至れる所以なり。

 朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し遺憾の意を表せざるを得ず。 帝国臣民にして戦陣に死し職域に殉じ非命に斃れたる者及び其の遺族に想を致せば五内為に裂く。且戦傷を負い災禍を蒙り家業を失いたる者の厚生に至りては朕は深く軫念する所なり。

 惟うに今後帝国の受くべき苦難は固より尋常にあらず、爾臣民の衷情も朕善く之を知る。然れども朕は時運の赴く所堪え難きを堪え忍び難きを忍び以て万世の為に太平を開かんと欲す。

 朕は茲に国体を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し常に爾臣民と共に在り、若し夫れ情の激する所濫に事端を滋くし或いは同胞排擠互に時局を乱り為に大道を誤り信義を世界に失うが如きは朕最も之を戒む。宜しく挙国一家子孫相伝え確く神州の不滅を信じ任重くして道遠きを思い総力を将来の建設に傾け道義を篤くし志操を鞏くし誓つて国体の精華を発揚し世界の進運に遅れざらんことを期すべし。

 爾臣民其れ克く朕が意を体せよ。

  御名 御璽

   昭和二十年八月十四日

    内閣総理大臣他各国務大臣 副署


91、昭和という時代

 昭和時代―我が国がマルクス・レーニン主義に汚染され尽くした思想的国難―において、昭和天皇は、三度、『悪魔とその祖母』とさえ妥協する共産主義者から我が国を救い出されたのであった。

 戦後、東京裁判裁判長を務めたウェッブは、戦史家の児島襄氏から昭和天皇に関する質問を受け、

 「神だ。あれだけの試練を受けても帝位を維持しているのは、神でなければできぬ。そうじゃないか」

と即答したことは有名である(1)。

 神道のカミ即ち日本の神々は、キリスト教のゴッド(天主)ではなく、隠(クム)にして上(カミ)であり、隠(こも)れる生命の根源にして、見えざる畏れ多き聖霊(holly spirit)である。語源的にクム(隠れる)やクマ(見えない影)という古語が語形変化してカミとなった。従って日本のカミは何か隠れて目に見えないという語意を強く持った神秘的な存在をいう。しかもカミは、川下に対する川上、水上のカミにも通じて水源や本源を意味し、また古典に、国魂の神、生魂の神、足魂の神ともあるように、タマ=霊魂・ムスビ=産霊つまり物を生み成す生命霊という意味を併せ持っている。

 我々日本民族は、生活を支える豊かな自然風土に潜む不可視の霊性を指してカミと呼ぶのである。日本の神は、山、川、草、木、海、岩といった自然や柱、刀、厠、竃といった器物など森羅万象に宿り、また先祖や偉人の霊魂も神となる。だからこそ我が国は八百万(やおよろず)の神々の国なのである。

 日本共産党再組織評議会が開かれた直後に践祚され、昭和六十四年(一九八九)一月七日、ベルリンの壁とソ連の崩壊を直前にして崩御された昭和天皇は、我が国が共産主義者によってソ連の如き全体主義国家―現存するこの世の地獄―に貶められることを阻止する為に、我が国を守護する八百万の神々から遣わされた現人神―現実に生きている人間でありながら崇高な霊魂を秘めた畏れ多き存在だったのであろう・・・。


(1)児島襄【天皇5】三七二頁。


92、近衛の和平条件

 ところで昭和十五年に八百万の神々のにくませ給うた孟子の一節を引用して昭和天皇に対する憎悪を露わにしていた近衛文麿は、如何なる条件でソ連に和平仲介を依頼しようとしていたのであろうか?

和平交渉に関する要綱、一九四五年(1)

 一、方 針

一、聖慮を奉戴し成し得る限り速に戦争を終結し以て我国民は勿論世界人類全般を迅速に戦禍より救出し御仁慈の精神を内外に徹底せしめることに全力を傾注す。

二、これが為め内外の切迫せる情勢を広く達観し交渉条件の如きは前項方針の達成に重点を置き、難きを求めず悠久なる我国体を護持するを主眼とし細部に就ては他日の再起大成に俟つの宏量を以て交渉に臨むものとす。

三、ソ連の仲介による交渉成立に極力努力するも万一失敗に帰したるときは直ちに英米との直接交渉を開始す。

 その交渉方針及条件に就ては概ね本要綱によるものとす。


 二、条 件

(一)国体及び国土

イ、国体の護持は絶対にして一歩も譲らざること。

ロ、国土に就ては成るべく他日の便なることに努むるも止むを得ざれば固有本土を以て満足す。

(二)行政司法

イ、我国古来の伝統たる天皇を戴く民本政治には我より進んで復帰するを約す。之が実行の為若干法規の改正教育の革新にも亦同意す。

ロ、行政は右の趣旨に基き帝国政府自らこれに当るに努むるも止むを得ざれば、若干期間監督を受くることに同意す。

ハ、司法は帝国司法権の自立に努むるも戦争に関係ある事項の処理につき止むを得ざれば一時監督を受くることに同意す。

ニ、戦争責任者たる臣下の処分は之を認む。之が実行に関し止むを得ざれば彼我協議の上一部の干渉を承諾す。

(三)陸海空軍々備  

イ、国内の治安確保に必要なる最少限度の兵力は之を保有することに努むるも、止むを得ざれば一時完全なる武装解除に同意す。   

ロ、海外にある軍隊は現地に於て復員し内地に帰還せしむることに努むるも止むを得ざれば当分その若干を現地に残留せしむることに同意す。

ハ、内地にある軍隊は(イ)項に関するものを除き他を悉く速に復員す。

ニ、兵器弾薬、軍用船舶、航空機は(イ)項に関するものを除き之を廃棄又は提出することに同意す。

(四)賠償及び其の他

イ、賠償として一部の労力を提供することには同意す。

ロ、条約実施保障の為めの軍事占領は成るべく之を行わざることに努むるも止むを得ざれば一時若干軍隊の駐屯を認む。

(五)国民生活

イ、窮迫せる刻下の国民生活保持の為め、食料の輸入、軽工業の再建等に関し必要なる援助を得るに努む。

ロ、国土に比し、人口の過剰なるに鑑み、之が是正の為必要なる条件の獲得に努む。   

 三、休戦と平和との関係

一、本要綱の諸条件は、成るべく之を休戦条約に包含せしむることに努むるも、まず速に休戦を成立せしめ国民を戦禍より救うの必要上、止むを得ざれば、その一部を平和会議に移すことに同意す。

二、右の場合、前諸項条件中、重要なるものに関しては少くも好意ある保障を取付くるに努む。


 要綱解説

 第一、目 的

 予(註、近衛文麿)は飽く迄も聖慮を奉じ本交渉を纏めんとする決意を以て出発せんとす。之を以て別紙要綱につき聖断を仰ぎ度所存なる所、余りに細部に亘り断を仰ぐは恐懼に堪えざるを以て別紙要綱の細部につき両人の解釈を一致せしめ所期の効果を発揮せんとす。

 第二、方針に就て

(一)の(二)につき。要綱は条件の下限を明かにしあり。勿論交渉に当りては成るべく有利なる条件を取り付くるに努むるも、最悪の場合には此線に踏み止らんとするものなり。然るに国内一部の方面に於ては、此等に関し反対の起ることなきを保し難し。然れども概ね六月の経験に徴するも、一度聖断下らば之を統一し得ることに確信を得たるを以てこの点特に木戸侯の力に期待するものなり。

(一)の(三)につき。ソ連の仲介による交渉失敗せば直接英米と交渉せんとする所以は由来予はソ連の仲介を必ずしも有利なりとは考えあらざるも国内の情勢上敢て異見を立てざりしものなり。さればソ連との交渉に失敗せば聖慮貫徹の必要上、直ちに英米との直接交渉に移らんことを強く主張せんとす。故に聖断を得ば、予め之が為め所要の準備を整えたる上、出発したし。而してその条件は概ね本要綱によるも情勢によりては若干条件の低下を要することあるべし。

 第三、条件に就て

(一)の(イ)国体の解釈に就ては皇統を確保し天皇政治を行うを主眼とす。但し最悪の場合には御譲位も亦止むを得ざるべし。此の場合に於ても飽く迄も自発の形式をとり、強要の形式を避くることに努む。之が為めの方法に就ては木戸侯に於て予め研究し置かれ度。

(一)の(ロ)固有の本土の解釈に就ては最下限沖縄、小笠原、樺太を捨て千島は南半部を保有する程度とすること。

(二)の(イ)若干法規の改正とは、止むを得ざれば憲法の改正、以下民本的法令に及ぶこと。

(二)の(ロ)彼我協議の上、一部の干渉とは恐らく先方には「リスト」あるべきも、我国内事情に通せざる為、誤りあるべきを以て脱漏を補足する等の口実により協議を求め、之に該当せざるものは誠意を以て説明し之を思い止まらしむる等のことをいう。 

(三)の(イ)治安確保に必要なる兵力とは戦后の国内状勢に鑑み、必要なる武装せる団体の意にしてその名称、所属官衙等に就ては敢て名目上の主張をなさざる考なり。

(三)の(ロ)若干を現地に残留とは、老年次兵は帰国せしめ、弱年次兵は一時労務に服せしむること等を含むものとす。

 第四、休戦と平和との関係に就て

(二)の好意ある保障とは例えば休戦条約の前文に、その意味を挿入するか或は別に非公式文書による言明を取り付くるか或は会議々事緑にその意味を記録する等、各種の方法あるべし。


 近衛は我が国の領土を固有の本土に限定し、我が国がソ連に米英との和平仲介を要請する代償として、スターリンのソ連に対して我が国から朝鮮、台湾、沖縄、小笠原、北千島、南樺太を割譲する準備を整えたのである。ソ連は日本本土を完全包囲して之を侵略し、東アジア全域を共産化することが出来るではないか!

 近衛の和平交渉に関する要綱は、ポツダム宣言、ヤルタ密約より我が国に過酷であり、種村佐孝大佐の対ソ施策に関する意見と変わりない。 

<ポツダム宣言>

一、吾等合衆国大統領、中華民国政府主席、及グレート・ブリテン国総理大臣は、吾等の数億の国民を代表し協議の上、日本国に対し、今次の戦争を終結するの機会を与うることに意見一致せり。

二、合衆国、英帝国及中華民国の巨大なる陸、海、空軍は、西方より自国の陸軍及空軍に依る数倍の増強を受け、日本国に対し最後的打撃を加ふるの態勢を整えたり。右軍事力は、日本国が抵抗を終始するに至る迄、同国に対し戦争を遂行するの一切の連合国の決意に依り支持せられ且鼓舞せられ居るものなり。

三、蹶起せる世界の自由なる人民の力に対するドイツ国の無益且無意義なる抵抗の結果は、日本国国民に対する先例を極めて明白に示すものなり。現在日本国に対し集結しつつある力は、抵抗するナチスに対し適用せられたる場合に於て全ドイツ国人民の土地、産業及生活様式を必然的に荒廃に帰せしめたる力に比し測り知れざる程更に強大なるものなり。吾等の決意に支持せらるる吾等の軍事力の最高度の使用は、日本国軍隊の不可避且完全なる壊滅を意味すべく、又同様必然的に日本国本土の完全なる破壊を意味すべし。

四、無分別なる打算に依り日本帝国を滅亡の淵に陥れたる我儘なる軍国主義的助言に依り日本国が引続き統御せられるべきか又は理性の経路を日本国が履むべきかを日本国が決定すべき時期は、到来せり。

五、吾等の条件は、左の如し。

 吾等は、右条件より離脱することなかるべし。右に代る条件存在せず。吾等は、遅延を認むるを得ず。

六、吾等は、無責任なる軍国主義が世界より駆逐せらるるに至る迄は、平和、安全及正義の新秩序が生じ得ざることを主張するものなるを以て、日本国国民を欺瞞し之をして世界征服の挙に出づるの過誤を犯さしめたる者の権力及勢力は、永久に除去せられざるべからず。

七、右の如き新秩序が建設せられ且つ日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証あるに至るまでは、連合国の指定すべき日本国領域内の諸地点は、吾等の茲に指示する基本的目的の達成を確保する為占領せらるべし。

八、カイロ宣言の条項は、履行せらるべく、又日本国の主権は、本州、北海道、九州及四国並に吾等の決定する諸小島に局限せらるべし。

九、日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し、平和的且生産的の生活を営むの機会を 得しめらるべし。

十、吾等は、日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざるも、吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対しては厳重なる処罰を加えらるべし。日本国政府は、日本国国民の間に於けるデモクラシー的傾向の復活強化に対する一切の障礙を除去すべし。言論、宗教及思想の自由並に基本的人権の尊重は、確立せらるべし。

十一、日本国は、其の経済を支持し、且公正なる実物賠償の取立を可能ならしむるが如き産業を維持することを許さるべし。但し、日本国をして戦争の為再軍備を為すことを得しむるが如き産業は、此の限に在らず。右目的の為、原料の入手(其の支配とは之を区別す)を許さるべし。

十二、前記諸目的が達成せられ且日本国国民の自由に表明せる意思に従い平和的傾向を有し且責任ある政府が樹立せらるるに於ては、連合国の占領軍は、直に日本国より撤収せらるべし。

十三、吾等は、日本国政府が直に全日本国軍隊の無条件降伏を宣言し、且右行動に於ける同政府の誠意に付適当且充分なる保障を提供せんことを同政府に対し要求す。右以外の日本国の選択は、迅速且完全なる壊滅あるのみとす。


(1)【終戦工作の記録下】二三二~二四二頁。


93、正体

 昭和二十年六~七月にかけて近衛文麿が、「専ら軍事情勢につき公に本土決戦必勝の信念を与うる如く力説すること三時間」に及んだ陸軍の親ソ狂信的革新幕僚たる種村佐孝大佐を、

 「此の次は陸軍の時代なり宜しく御奮闘を祈る」

と煽動し、種村と同じくソ連を全面的に利導しソ連に我が国を含む東亜を共産化する機会を与えようと画策したこと、そして近衛が尾崎秀実と共に支那事変を長期化させた松本重治、種村と共に大東亜戦争終末方策を作成し、昭和十九年七月一日「此の際の条件は唯国体護持あるのみ而して政略攻勢の対称は先ず「ソ」に指向するを可とす斯かる帝国の企図不成功に終りたる場合に於ては最早一億玉砕あるのみ」と決定した松谷誠大佐を「自分の気持ちの分かる者」と述べてモスクワへの随員に選定したことは、昭和二十年二月の近衛上奏文が彼の真意と正体を隠蔽するための演技であり、近衛がこの種の韜晦を得意とする狡猾な政治家であったことを如実に示している。 

 近衛文麿は中学生の頃、自分が高貴な華族の家柄であるが故に貧困に喘ぐ下層階級を見て良心の呵責に苛まれ、弟の秀麿に「社会主義談義」を頻繁に行い、京大学生時代には貧困の問題を研究し、大正三年(一九一四)、近衛は新思潮五、六月号にオスカーワイルドの「社会主義下の人間の魂」を翻訳掲載し(発売禁止処分)、ワイルドの言葉を借りて次のように断言した(1)。

 「私有財産が諸悪の根源であり財産と貧困の害悪を断ち切るには社会主義を実現するしかない。」  

 近衛は後年に京大時代を語り、河上肇について次のように回顧している。

 「当時の河上氏は已にマルクスの研究をしていて、我々にマルクスが読めるようにならなければだめだと始終云っていたが、極端に左傾してはいなかったようだ。氏の宅を訪問すると、書斎に通され、火鉢を囲み刻煙草を吹かしながらもの静かな気持ちでいつまでも話相手になってくれた。この頃私は河上氏から二冊の本を貰った。一つはスパルゴーの『カール・マルクスの生涯と事業』であり、一つはイタリーのトリノ大学のロリア教授の『コンテンポラリーソシャル・プロブレムズ』であった。後者に就ては特に『とても面白い本で、やめることが出来ず徹夜して読んだ』と云って渡された。私も亦昂奮して、一気呵成にそれを読み了った事を今も記憶している。」

 もはや近衛文麿の正体は明白であろう。近衛は、日本随一の共産主義者であった恩師の河上肇(京都帝大教授、共産党員)の教えを忠実に守り「共産主義者はあらゆる詐術手練手管策略を用い真実をごまかし隠蔽しても差し支えない」というレーニンの教義を信奉するマルクス・レーニン主義者であり、ゾルゲ事件の調査において検察が察知した通り、ソ連を守り、中国共産党に漁夫の利を与え、東南アジア、インドを英米帝国主義より解放し、我が国を敗戦革命に追いやり、東亜新秩序を実現すべく、支那事変の解決を妨害し我が国を対米英戦に誘導し、八千万同胞に十五年間もの戦争の惨苦をもたらし、三百万同胞を死に至らしめた尾崎秀実の同志―東亜協同体論者であり、

 「昨今戦局の危急を告ぐると共に一億玉砕を叫ぶ声次第に勢を加えつつありと存候。かかる主張をなす者は所謂右翼者流なるも背後より之を煽動しつつあるは、之によりて国内を混乱に陥れ遂に革命の目的を達せんとする共産分子」

とは近衛自身だったのだ。近衛文麿こそ陸軍中央を背後より巧みに操った政界の黒幕だったのである。

 昭和十八年一月、近衛は木戸に参考として送った書簡の中で「軍部内の或一団により考案せられたる所謂革新政策の全貌を最近見る機会を得たり。勿論未だ全貌を露呈するには至らずと雖、徐々に巧妙に小出しに着々実現の道程を進みつつあるが如し」と述べているが(2)、近衛自身がこれを承認し、種村ら陸軍の革新幕僚に実行させたのであろう。

 そして昭和十五年七月の陸軍中堅層による米内内閣の倒閣「上からの政権奪取」と昭和二十年八月十四日の陸軍省軍務局軍務課軍事課による継戦宮城クーデターの首謀者も近衛であったに違いない。

 近衛が第三次内閣を投げ出す直前、色紙に「夢」と大書しながら「二千六百年、永い夢でした」と呟いたのは、我が国が対米英戦から敗戦革命に巻き込まれ、神武肇国以来二千六百年に亘る万世一系の皇統が槿花一朝の夢と化して儚く消滅する、と確信したからであろう。

 木戸幸一日記(昭和十九年一月六日の条)には、

 「我が国がアングロサクソンたる米英に対するに、大体東洋的なるソ支と提携し、臨機応変の態勢を整え、ひそかに内に実力を蓄えるを最も策の得たるものなりと信ず」

と記述されており、おそらく木戸も近衛と同様に、東亜新秩序構想を抱いていたのであろう…。

 戦後、矢部貞治は近衛文麿の評伝の中で次の近衛の遺言を紹介し、服毒自殺した彼のことを「正義と法になんの根拠もない戦勝者の思い上がった裁き(東京裁判)を、身をもって拒否することにより、かれらの前に立ちはだかって、天皇をお護りするというのが彼の凛然たる心事であったようである」と解説している(3)。

 「自分が罪に問われている主たる理由は、日支事変にあると思うが、日支事変で責任の帰着点を追及してゆけば、政治家としての近衛の責任は軽くなり、結局、統帥権の問題になる。したがって窮極は陛下の責任ということになるので、自分は法廷に立って所信を述べるわけにはゆかない。」

 昭和天皇の御意向を幾度となく無視し、陸軍参謀本部の猛反対を恫喝してトラウトマン和平工作を打ち切り支那事変を拡大長期化させた張本人は、近衛文麿自身である(第一次近衛声明、東亜新秩序声明、汪兆銘工作、汪兆銘政権の正式承認)。従って支那事変で責任の帰着点を追及していけば、昭和天皇は無論のこと陸軍首脳すら免責され、三度内閣総理大臣を務めた政治家としての近衛の責任が最重大になることは必至である。

 なぜならば帝国憲法は、天皇を、処罰と侮辱の対象にならない無答責(法的政治的無責任)の地位に置き(第三条、天皇の神聖不可侵)、天皇を輔弼する国務大臣に、君主に対する直接的責任と人民に対する間接的責任とを負わせている(第五十五条)。天皇が裁可し公布する法律勅令および国事に関する詔勅は、国務大臣の副署(同意のサインつまり承認)に依って始めて実施の効力を得、国務大臣の副署が大臣担当の権と責任の義を表示するからである(4)。

「内閣総理大臣は機務を奏宣し、旨を承けて大政の方向を指示し、各部統督せざる所なし。職掌既に広く、責任従て重からざるを得ず。
 大臣の副署は二様の効果を生ず。一に、法律勅令及び其の他国事に係る詔勅は大臣の副署に依て始めて実施の効力を得。大臣の副署なき者は従て詔命の効なく、外に付して宣下するも所司の官吏之を奉行することを得ざるなり。二に、大臣の副署は大臣担当の権と責任の義を表示する者なり。蓋し国務大臣は内外を貫流する王命の溝渠たり。而して副署に依て其の義を昭明にするなり。
 大臣政事の責任は独り法律を以て之を論ずべからず、又道義の関る所たらざるべからず。法律の限界は大臣を待つ為の単一なる範囲とするに足らざるなり。故に朝廷の失政は署名の大臣其の責を逃れざること固より論なきのみならず、議に預かるの大臣は署名せざるも亦其の過を負わざることを得ざるべし。」(大日本帝国憲法義解第五十五条解説)

 予算執行の手続きにおいて天皇の統帥大権は予算編成権を持つ内閣から独立できず、近衛内閣が支那事変を積極的に拡大するために必要な巨額の戦時予算を編成、これを帝国議会に提出したにも拘わらず、近衛は「日支事変で責任の帰着点を追及してゆけば、政治家としての近衛の責任は軽くなり、結局、統帥権の問題になる。したがって窮極は陛下の責任ということになる」などと真赤な虚言を弄し、昭和天皇に責任を転嫁するのである。そしてもし近衛の言葉通り、昭和天皇に統帥権を行使し支那事変を拡大長期化させた責任があるならば、近衛が自殺し出廷を拒否しても、天皇を護ることはできない。にも拘わらず矢部は「かれらの前に立ちはだかって、天皇をお護りするというのが彼の凛然たる心事であったようである」などと詭弁を弄すのである。

 虚言、詭弁、そして責任転嫁。これがレーニンを崇拝する共産主義者の政治信条だからである。

(1)矢部【近衛文麿上】六十八頁
(2)【木戸幸一関係文書】五九一~五九二頁。
(3)矢部【近衛文麿下】六〇四頁。
(4)伊藤【憲法義解】第五十五条解説。



テーマ : 歴史
ジャンル : 学問・文化・芸術

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