ケープ植民地から南アフリカ連邦成立までの歴史まとめ

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最近更新が滞りがちになってきたので書きかけの記事を途中まででアップしてみる。アパルトヘイト体制成立に至る南アフリカ史の簡単なまとめで、とりあえず1910年の南アフリカ連邦の成立までを大まかに。

オランダ領ケープ植民地

十五世紀末まで南アフリカはヨーロッパと隔絶された地であったが、1497年ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰経由でのインド航路を開拓すると、まずポルトガルが、続いて十六世紀末までに欧州諸国が相次いでアジアへと進出する。南アフリカは航海の難所であったため補給地としてそれほど重視されていなかったが、十七世紀に入り、スペインとオランダとの海上覇権争いが熾烈なものとなると、オランダ東インド会社(VOC)は南アフリカに中継拠点を築くことを考え、1652年、ヤン・ファン・リーベックによってケープ半島とテーブル湾一帯に植民地(オランダ領ケープ植民地)が築かれた。

当初のVOCの目的は現地民との交易で船舶の水・食糧や薪等を調達することだったが、周辺のコイコイ人部族にはそのニーズをまかなうだけの能力はなく、中継基地として機能させることは難しい。そこで彼らは交易による調達ではなく、農業生産力のある土地と労働力としての奴隷の確保へと方針転換、武力侵攻を開始した。武器の性能で格段に勝るオランダ軍が現地のアフリカ人諸部族を次々と撃破して支配下に治め、十八世紀末までに断続的に戦闘が繰り返されつつオランダ系移民を中心とした白人自由農民と黒人労働者・奴隷からなる階層社会が植民都市ケープタウンとその周辺に作られていった。

イギリス領ケープ植民地

1795年、フランス革命軍によってオランダが占領されると、イギリスはケープ植民地がフランス革命政府の支配下となる恐れを抱き軍を派遣してケープタウンを占領、以後植民地全土を実効支配し1806年より正式にイギリス領ケープ植民地が成立する。

十九世紀初頭、イギリス統治下でケープ植民地は大きく変貌した。VOCが解体されて同社の独占・経済規制が取り払われた結果経済が急成長、1820年代から英国移民が次々と送られ、1833年には当時英国で大きな潮流となっていた人道主義の影響で奴隷制が撤廃、宣教師が多く訪れて黒人に対するキリスト教の布教が行われる。一方で、植民地外の黒人諸王国に対しては侵略戦争が繰り返され、人道主義の名のもとの帝国主義的拡大という世界中で見られた例に南アフリカも漏れなかった。

ズールー王国の勃興

十八世紀後半から南アフリカ東部では気候変動による干ばつと凶作、奴隷売買、白人植民地の圧迫などの影響で諸部族の戦いが激化した。激しい戦いはムフェカーネと呼ばれる民族大移動と、流動化した人びとを吸収する強力な王国への再編の動きを促す。その中で台頭したのがシャカ・カ・センザンガコーナ(シャカ・ズールー)に率いられたズールー族で、1819年、ムシャッセ川の戦いで当時の大国ンドワンドウェ王国を滅ぼし、ズールー族が従属していたムテトワ王国も支配下に置くとズールー王国を建国、次々と諸部族を糾合して強大な中央集権国家を築いた。欧州人はシャカをナポレオンに喩えるが、日本人的には織田信長などがイメージしやすいだろう。戦争の天才であり、専制的で残虐だが、強いカリスマ的指導力を持つ。最期は弟に殺されるが、それゆえにズールー王国は永続的な体制を築くことが出来たとも言われる。

最強ズールー王国に対抗して六つの部族王国が次々と誕生、さらにスワジランドやレソト王国など南アフリカ内に現在まで残る王国も十九世紀前半に登場する。重要なのはこの時期に誕生した諸国を大きな枠組として現在の南アフリカの黒人それぞれの民族意識が形成されたことだ。ツワナ王国は現在のボツワナになり、ズールー人意識はアパルトヘイト下で民族主義運動へと昇華されていく。また、同時期に植民地政府の侵攻を受けていたコーサ人も次第に民族としてのまとまりを持ち始めていた。

グレート・トレックとアフリカーナーの誕生

1836年、ケープタウンのオランダ系移民たち数千人が大挙してケープ植民地領から脱出を図った。植民地政府による奴隷解放、侵略戦争によって支配下に入ったコーサ人優遇政策と植民者の増加による土地不足などを大きな要因とした新たな開拓地を求めての脱出で、後に「グレート・トレック」と呼ばれてアフリカーナーの民族意識の中で記念碑的事件となる。彼ら「フォルトレッカー」はアメリカの西武開拓者よろしく、新天地求めて北へ北へと向かいながら黒人諸王国と戦火を交え、1838年にはシャカ王亡き後のズールー王国をも撃破(「血の川の戦い」)、オレンジ川沿岸からナタールにかけての一帯に彼らの土地を確保していった。

英国植民地政府は当初、彼らの征服地を英国領とする宣言を出してフォルトレッカーと黒人諸王国との対立に介入しようとしたが、強引に境界線を引いたことから植民地政府への不満が高まり、1851年から52年にかけて英国軍がモシェシェ王率いるレソト王国軍に大敗を喫したことでオレンジ川北部の植民地統治を諦めて撤退、フォルトレッカーたちの国家として「トランスバール共和国」(1852)「オレンジ自由国」(1854)が相次いで誕生した。

このころから彼らフォルトレッカーは民族としての「アフリカーナー」と認識されるようになった。アフリカーナーはオランダ系移民の子孫だが、南アフリカに生まれたいわば「白いアフリカ人」である。主人と奴隷という関係を通じた「黒いアフリカ人」とのコミュニケーションの中で生まれたクレオールである「アフリカーンス語」を公用語とし、自由農民(「ブール」)であることを誇りとしていた。彼ら「アフリカーナー」が後にアパルトヘイトの実行者となっていく。

ダイヤモンド・金鉱床の発見

1867年、グリカ首長国とオレンジ自由国の中間地帯で大規模なダイヤモンド鉱床が発見され、両者の間で領有権が争われたが英国が植民地に併合、ケープ植民地から鉱山まで鉄道が敷設され、採掘が開始されて一攫千金を狙う人びとが南アフリカから集結、彼らの中からセシル・ジョン・ローズなど大規模経営者が登場してくる。

採掘現場で問題となったのが一部の労働者によるダイヤモンドの横流しであった。そこで経営者たちは労働者を隔離宿舎に収容する「コンパウンド制度」を成立させるが、このとき、白人商人からの反発が大きかったことで、アフリカ人労働者だけを隔離宿舎に収容する一方で、白人労働者を優先的に監督職に就ける人種差別的な労務管理が行われる。

またトランスバール共和国でも金鉱床が発見されるなど、南アフリカは英国にとって一気に重要な植民地となってくる。英国は南アフリカ統合に本格的に乗り出し、1877年、ペディ王国とトランスバール共和国の国境争いに介入してペディ王国を撃破するとそのままトランスバール共和国を併合するがこれは抵抗が大きく81年に再独立。1879年、ズールー王国とトランスバール共和国との領土紛争に英国軍を投入してズールー王国を滅ぼし、以後、1898年までに南アフリカ全土のアフリカ人王国・首長国はほぼ英国植民地とアフリカーナー国家の支配下に入ることとなった。

ガンディーのサティヤーグラハ運動

十九世紀後半、南アフリカはアフリカーナー国家である「オレンジ自由国」「トランスバール共和国」と英国植民地である「ケープ植民地」「ナタール植民地」の四つに収斂してそのいずれも白人が土地を独占し、アフリカ人・有色人種が参政権を制限され労働者として従属する社会になりつつあった。一方で白人とそれ以外の二項だけで貧富の差が分けられるものではなく、白人――特に農民が大半のアフリカーナー――の中に、産業化の波に乗り遅れて没落するものが少なくなく、「プアホワイト」と呼ばれる低所得層が登場しつつあった。

1833年の奴隷解放以後、農作業労働者の減少に対応して英国ナタール植民地政府はインドからの年季奉公移民を多く募った。五年間の年季奉公を終えてわずかながらの土地を得て南アフリカに定住するものも少なくなかったが、彼らに対する白人からの差別も強かった。

1893年、ナタール植民地を弁護士として訪れたのがモハンダス・カラムチャンド・ガンディー、のちにインド独立の父マハトマ・ガンディーとして知られる青年である。ガンディーは現地のインド人差別を目の当たりにしてインド人移民待遇改善のための運動を組織、人頭税撤廃運動に始まり、1906年の「インド人登録法案」(インド人に対し名前、カースト、指紋登録義務を課す)反対運動を展開、その中で「サティヤーグラハ」と名付けられた非暴力不服従の手法を見出していく。1915年まで、南アフリカのインド人の地位向上活動を主導したあとインドに帰国、インド独立運動の指導者となるが、ガンディーが南アフリカで始めた非暴力不服従の「サティヤーグラハ」運動は南アフリカで反差別・反アパルトヘイト運動の基盤として受け継がれていくことになった。

南アフリカ戦争(ブール戦争)の勃発

無尽蔵とも思える金鉱と莫大な利益を生むダイヤモンド鉱山を前にして、英国政府は南アフリカに帝国傘下の統一自治国家樹立を目指す動きを本格化させる。その最大の障害となったのが二つのアフリカーナー国家、特にトランスバール共和国であった。ケープ植民地政府は1885年にベチュアナランド(現在のボツワナ)を保護領とし、91年にはローデシア(現在のジンバブエ)を武力制圧してトランスバール共和国の拡大を阻止していた。

トランスバール南部ウィットウォーターズランド丘陵地帯で金鉱が発見されるとたちまち採掘業者が集まり大都市ヨハネスブルクが建設される。1896年までにウィットウォーターズランドには約四万四千名のアイトランダーと呼ばれる白人移民を中心とした外国人居住者がいたが、トランスバール共和国政府は外国人の増加を危惧してアイトランダーの参政権を制限(十四年滞在して初めて選挙権が与えられる)していた。

1896年、ケープ植民地政府首相セシル・ローズは彼らアイトランダーを使ってヨハネスブルクに暫定政府を樹立させた上でトランスバールのアフリカーナー政府を転覆させる計画を立てるが実行者であるレンダー・スター・ジェームソンが組織をまとめきれず、わずか五百名で暴発的に蜂起、敢え無く鎮圧され、セシル・ローズ自身も失脚を余儀なくされる「ジェームソン侵攻事件」が起きる。

侵攻事件の無様な失敗で英国は直接の武力行使以外に無いと決断、南アフリカ高等弁務官アルフレッド・ミルナーを通じてアフリカーナー両国に対しアイトランダーへの参政権付与を強硬に要求し、これが退けられると英国植民地の軍備を増強して最後通牒を突きつけた。熱心なアフリカーナー民族主義者として知られるトランスバール共和国大統領ポール・クリューガーはこれを民族の危機と理解して英国に対し独立戦争を行うことを決意、オレンジ自由国も同調し、かくして1899年、南アフリカ戦争(ブール戦争)が始まった。

このとき、植民地相ジョゼフ・チェンバレンや南アフリカ高等弁務官ミルナーなど英国政府首脳陣の間では「英国人とオランダ人=アフリカーナーは相容れない二つの民族」という認識が強く、ゆえに「英国人がアフリカーナー、アフリカ人、有色人種らを支配する」ことの正当性を信じる人種主義的観念が強かった。遡ること二百年前にオランダから王を迎え入れてそれを「名誉」としていたことを綺麗に忘れている滑稽さはさて置こう。

南アフリカ連邦の成立

せいぜい二、三ヶ月・・・英国軍はそう高をくくっていた。両国の人口は三十万人で、総兵力は八万八千、これに対し英国軍は四十五万もの大兵力である。にもかかわらず始まってみるとアフリカーナー両国は徹底したゲリラ戦に出て五倍以上の英国軍をさんざん苦しめ、まるまる三年間総力戦を戦い抜いた。しかし、衆寡敵せず、後半に入ると両国のアフリカ人、有色人種が次々と英国側に付くようになり、アフリカーナーの土地を占拠するようになる。これまで自国が敷いた奴隷制的体制のツケを払わされることでアフリカーナー両国家は追い詰められ、1902年フェレニヒング和平条約で降伏。トランスバール共和国、オレンジ自由国はそれぞれトランスバール植民地、オレンジ植民地として英国植民地に併合された。

戦後、旧アフリカーナー国家地域ではアフリカーナー地主の没落と、それまで隷属的地位に甘んじていたアフリカ人が自立農民になる例が広く見られるようになった。この動きは英国植民地にも波及して、農業から鉱業まで単純労働者の不足が見られるようになり、その穴をインド系移民だけでなく中国系移民で埋める政策を採った。一方でこのような黒人の台頭と有色人種(カラード)の増加はイギリス人の移民意欲を減退させる一方で、没落して低賃金労働者化したアフリカーナーによる外国人排斥運動を強めることとなり、混乱に拍車をかけた。

1903年、チェンバレン植民地相が職を辞し、続いて1905年保守党政権に変わり自由党政権へと交替、ミルナー高等弁務官も失脚して英国至上主義的傾向が弱まると、対南アフリカ政策も強硬策ではなく融和策へと転換した。秩序の維持を最優先し、アフリカーナーを取り込んでの白人による統一国家の樹立である。開戦前と打って変わって「英国人とアフリカーナーとはともに同じ白人である」というロジックが使われた。両者の融和のために必要となったのが共通の敵、すなわち黒人・有色人種である。これが後にアパルトヘイト体制下では「アフリカーンス語系と英語系という構成要素からなる単一の民族」という概念へと昇華していく。

1907年、白人のみが選挙権を持つ選挙が行われて非白人排斥を主張するアフリカーナー政党「ヘット・フォルク」がトランスバール州議会選挙で勝利すると英国政府もこれに接近して1910年、ケープ植民地、ナタール植民地、オレンジ植民地、トランスバール植民地を統合し、「南アフリカ党(旧ヘット・フォルク)」党首ルイス・ボータを首相とする英国植民地国家「南アフリカ連邦」が建国された。白人百二十七万五千人、アフリカ人四百万人、カラード五十万人、インド人十五万人。約二十パーセントの白人がそれ以外の人びとを支配する白人至上主義国家の誕生であった。

(つづく・・・たぶん)

この続きについては1910~1939までの政局の流れについてもすでに書き終えているので、あとは「1910年~39年の隔離政策」と「1910年~39年の黒人・カラードによる抵抗運動の潮流」、そして1939~1948の国民党政権成立に至る全体的な動きまでをまとめるとアパルトヘイト体制成立前史が書ける。当然、対立しあうアフリカーナーと英語系白人とがすぐに一枚岩になるわけではなく貧富の差もあって両者の溝は埋まらず反乱、衝突などの紆余曲折があり、一方で白人支配を確立するためのアパルトヘイト以前の居住制限等を始めとする諸隔離政策があり、それに対する黒人・有色人種の様々な抗議・抵抗活動がある。そういう流動化する国内状況の中で幾度と無く隔離政策の撤廃が主議題に上りながら、むしろそれと正反対のアパルトヘイトを主張する国民党が政権を獲得し、やがて一党独裁へと突き進む過程は非常に示唆に富む。まぁ、数ヶ月中に書ければいいなぁぐらい。

一応、以前書いた以下の記事でもアパルトヘイト体制および南アフリカについては触れているので参照ください。特に『「カントリー・オブ・マイ・スカル―南アフリカ真実和解委員会“虹の国”の苦悩」アンキー・クロッホ 著』ではアパルトヘイト下での様々な抑圧と暴力、アパルトヘイト後の同国の模索を紹介しているので、ぜひあわせて読んでいただきたいところです。

「カントリー・オブ・マイ・スカル―南アフリカ真実和解委員会“虹の国”の苦悩」アンキー・クロッホ 著
1990年、ネルソン・マンデラが釈放され、アパルトヘイト政策の撤廃がデクラーク大統領によって宣言されると、南アフリカは内戦の危機に陥った。そ...
「人種主義の歴史」ジョージ・M・フレドリクソン 著
「人種主義(Racism:レイシズム)」は歴史上どのような過程を経て登場してきたのか?西洋における人種主義の歴史と全体像を丁寧に描いた一冊。...
「サッカーが勝ち取った自由―アパルトヘイトと闘った刑務所の男たち」チャック・コール/マービン・クローズ著
アパルトヘイト体制下の南アフリカで悪名高かったのがロベン島刑務所である。ケープタウン沖11キロ、周囲は流れの速い潮流で航行上の難所であり、人...
「エイズを弄ぶ人々 疑似科学と陰謀説が招いた人類の悲劇」セス・C・カリッチマン 著
HIVは無害でエイズの原因ではなく、治療に用いる抗レトロウィルス薬こそがエイズの原因で、政府、製薬会社、科学者がその有害な薬を売るためにエイ...

参考書籍

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