林家木久蔵(現在は木久扇)が「笑点」などで披露する「♪いや〜ん、ばか〜ん」の歌を聞いたことのない人はいないだろう。これを「セントルイス・ブルース」のメロディに乗せ、あほな歌詞で延々と歌っていくところは、ジャズ好きな木久蔵の工夫だが、このセリフ自体は、日本一色っぽい芸で知られた三味線粋談の柳家三亀松(やなぎや・みきまつ、1901-1968)のネタだ。
三亀松が芸者の声色でやる「いや〜ん、……ばか」は有名であって、本物の芸者たちが自分よりも色っぽいと驚き、三亀松に惚れまくったほどだ。「いや〜ん」の後で、ちょっと間を置き、「ばか」は嬉しさを隠してそっとつぶやくのがコツである。
私は、寄席ではかなりの名人たちも目にしてきたが、高座で強烈なオーラを発しているのを見たのは、後にも先にもこの三亀松ただ一人だ。
新宿の末広亭で、畳を敷いた桟敷席の一番前に父親と並んで坐っていると、見るからに高級そうな紋付きをぴしっと身につけ、高級そうな三味線を手にした四角い顔のおじさんが高座に出てきた。そして、まだ小学生であった私を鋭い目でちらっと見た。
怖かった。やくざの親分のようであって、体の周辺の1メートルか2メートルあたりまで、ビシッとした気が張り詰めているように見えた。実際、若い頃は喧嘩っ早く、晩年になっても、山口組三代目組長のことを「田岡!」と呼び捨てにし、若い組員たちに苦い顔をさせていた三亀松だけに、迫力が違う。今にして思うと、「ちぇっ! 餓鬼が来てやがるのか。やりにくいな」と思ったのだろう。
しかし、そこはベテランである。その四角い顔でニコッと笑い、愛嬌のある表情を浮かべると、何とも艶っぽい音色の三味線をつまびきながら、唄いはじめた。何を唄ったか覚えていないのだが、定番の都々逸、
この袖でぶってやりたい もし届くなら こよいの二人にゃ 邪魔な月
あたりだったろう。
そして、美声で感心させ、時に笑わせながら明るい舞台をつとめ、悠然と退いていった。おそらく、ほどほどの色っぽいネタにとどめたことだろう。
三亀松は、以前紹介した歌謡声帯模写の元祖、白山雅一の師匠である。木場で材木の仕分けをする職人をしており、「木遣りくずし」を見事に唄う道楽好きの粋な深川っ子だったが、いかだが崩れた事故のため、川で死にそうになり、水が恐くなって幇間(ほうかん=たいこもち)に転じた。
客と喧嘩して幇間をやめ、新内流しとなったものの、そこでも一緒に流して歩いていた先輩と喧嘩し、寄席で唄と三味線を披露する音曲の芸人となった。艶っぽい唄と笑いをまぜる芸である。
去年の今夜は知らない同士 今年の今夜はうちの人
などといった都々逸を美声で唄い、粋筋の女性の声色で「ウフン……」とかやりながら男女の色っぽい会話を演じてみせるのだ。
とにかくもてたため、女遊びもものすごく、宝塚の純真なスターに一目惚れして強引に結婚した際は、身の回りを綺麗にしようと思い立って結婚式の途中で抜けだし、これまでの女たちのところに別れの挨拶に回ったところ、なかなか離してくれないため、あちこちで三晩泊まってから新妻が待つ家に帰って来たという。
以後も浮気はやまなかったものの、夫人を大事にし、最後まで添い遂げている。その夫人の方も、地方の仕事から帰ってくる三亀松の姿を見ると、60歳をすぎた身でありながら胸がドキン、ドキンと高鳴るほど好きだった、と三亀松没後に新聞記者にもらしたほどだ。それほど魅力があったのだ。
新内、都々逸、粋談、声色、形態模写、歌謡曲、その他何でも器用にこなすため、肩書きがつけられず、演芸場のプログラムなどでは「御存じ、柳家三亀松」で済ませていた時期もあったことは有名だ。落語と講談が柱である寄席でも抜群の人気であって、色物としては珍しく大看板となっており、破格の収入を得ていたが、散財もすさまじかった。
やたらチップをばらまき、東京駅でも、改札係の「先生、お帰りなさい」という挨拶に「おう」と応えるだけで、切符を渡さず、いつも顔パスで通っていたとか、面白すぎる逸話が多いが、それらは省く。
ものまねに関しては、歌舞伎役者、時代劇俳優、無声映画の弁士、落語家その他、様々な人物のセリフや動物の鳴き声などを真似る声色をやった。また、阪東妻三郎や大河内伝次郎など、大人気の時代劇俳優については、声帯模写だけでなく、立ち回りの真似も新たに手がけた。これを、古川ロッパの「声帯模写」になぞらえ、「肉体模写」と称したが、この言葉は定着しなかった。
三味線をハスに構えて「寄らば切るぞ!」などとやってみせる立ち回りの模写は大ウケしたが、調子にのりすぎて、阪妻が立ち小便し、しずくを切るところまでやってしまったため、警察署に引っ張られたこともある。「阪妻なら、確かにああいう風にやるだろうな」と思われる形でやったのだろう。
新しいもの好きでタンゴを習ったこともあり、ダンスなどもなかなかうまかった三亀松は、他にも早くからいろいろな試みをしているので感心させられる。
たとえば、寄席でなく、大きな劇場に出る場合は、三味線の弾き語りだけでは見栄えがしないため、端唄の一種で「さのさ」という言葉で終わる「さのさ(節)」などを唄う際の伴奏にピアノも使った。戦前のことである。そのお気に入りのピアニストに娘が生まれ、楽屋にもよく連れてきていたため、三亀松はその娘を可愛がり、おしめを代えてやったこともあるという。
その娘は「さのさ」も覚えてしまい、ジャズや流行歌を歌う歌手になって活躍し始めてから、この唄を披露してヒットさせたが、それが江利チエミだ。「なんだ、なんだ、なんだね〜」と唄うチエミの「さのさ」が流行しすぎたため、三亀松が高座でこれを歌うと、逆に「チエミのまねしてらあ」と言われたという。
チエミに先行する人気者であった美空ひばりとも親しかった。初めて共演した際、まだ小学生だったひばりにすっかり食われてしまった三亀松は、「まったく小憎たらしいが、ありゃあ、天才だ」と認め、以後、可愛がって都々逸を教えてやったりしたこともある。チエミとひばりは、三亀松を「お父さん」と呼んで慕っていた。
ものまねも斬新な試みをやっている。「野球忠臣蔵」というネタは、『忠臣蔵』の登場人物たちが野球をするところをラジオ中継するという声色ものであり、「月形半平太」というネタは、沢田正二郎の声色で月形半平太を演じ、半平太が愛人ひな菊のいる銀座のバーにやって来て、近藤勇と決闘となり、ボクシングの試合となったところをアナウンサーが中継するというものだ。
達者な声色を披露するにとどまらず、当時流行していた大学野球やボクシングの中継という形式を取り入れ、思いがけない人物の声によって意外で面白い会話を展開させていくという内容である。しかも、その途中で、流行している歌を美声で歌ってみせたりするのだ。
これは、声色の技術と、臨機応変の笑いの才と、音曲・音楽の伎倆がないとできない。まさにショーだ。私のものまね分類で言えば、方向としてはむしろ「ジャズ系ものまね」に近いかもしれない。こうした新しい試みを戦前からやっていたのだ。
三亀松の最高のネタは、芸者と客の色っぽい対話だろう。これは幇間の芸の系統だが、これなどは物真似がいきつくところまでいったものだ。つまり、個々の芸者と客のやりとりの物真似が、四畳半における芸者一般と客一般のやりとりを描く芸にまで至ったものである。物真似を表芸としていた大和猿楽が、観阿弥・世阿弥と進む過程で「能」という芸能になっていった事態に近い。三亀松の場合は、色っぽい方向に行きすぎだが……。
三亀松の芸を録音したレコードは、「あまりに纏綿たる艶情を表現し過ぎ」るという理由で、戦時中は次々に発禁になっていったが、そうした三亀松も、戦後にはまた自由に演ずることが出来るようになり、1965年には粋談「吉原情緒」で芸術祭奨励賞をもらっている。ただ、三亀松は授賞式で文部大臣にこう言ってのけたという。
「賞をいただくのはありがたいんですが、賞金が二万円というのはあまりにも安すぎませんかねえ。しかも、賞状の額の代金が差っ引かれるというセコさだ。今の物価を考えて、来年から少し上げてもらえると、参加するほうも張りがあると思うんですがね」
実際、三亀松は祝いにきた人たちに大盤振る舞いしたため、50万円もかかってしまい、大損だったのだ。翌年から、奨励賞の賞金は5万円にあがったそうだが……。
三亀松は、胃癌の手術をして間もなく亡くなるが、流動食をなめてみてまずさに驚き、十二指腸に直接入れるため味など関係ないのに、弟子に「味の素」を取り出させ、看護婦に無理を言って流動食に入れさせるなど、最後までわがままを押し通していた。
言葉もしゃべれなくなり、いよいよ息をひきとる前に、三亀松はかすかに唇を動かしていたという。夫人は、その唇の動きは「さのさ」のように見えたと語っている。三亀松は、手術室にストレッチャーで運ばれていく時も、夫人に手を握られながら「さのさ」を唄っていたのだ。「お前 また泣いているんだねえ 泣いたって 泣いたって しかたがないじゃないか 僕まで悲しくなってくる……ハ、さのさ」
【参考】
吉川潮『浮かれ三亀松』(新潮社、2000年)
長谷川幸延『三亀松さのさ話ー寄席交友録』(日芸出版、1971年)
木下英治『美空ひばり 不死鳥伝説』(廣済堂出版、2001年)
【追記:2014年9月27日】 三亀松のSPについて紹介した(こちら)。
「いきの構造」で九鬼は、「いき」は西洋にもあるのか?と問題提起しています
ボードレールのダンディズムと比較していたりしてました(^▽^)/
結局西洋には無いという結論だったみたいですが、西洋比較もなかなか面白いテーマですね(^_^)
こういうタイプの芸は、「三味線漫談」と言われることが多いですが、情緒のある唄が中心だったり、明るいエロ話が中心だったりすると、「三味線粋談」と呼ばれることもあります。今でもいますよ。
三亀松は、とにかくとんでもない人です。影響も大きく、めちゃくちゃな散財の面でこれを真似て慕っていたのが勝新太郎と藤山寛美、まわりをすべて呼び捨てにするやり方を真似たのが、大橋巨泉その他であって、これが島田紳助などにまで及びます。
大きな劇場で、ピアノ伴奏で「さのさ」を唄ったりしたのは、感心します。
「いき」は、欧米にもあると思いますよ。遊郭の情緒となると、また別でしょうけど、そちらは中国などにも早くから日本と少し違った形であり、江戸時代の日本は、明代以後の中国のそうした遊郭文化・遊女文学の影響も受けてます。
私の恩師筋では、「いき」だった先生は2人。本当に何から何までお洒落だったのは、そのうちのお一人だけですね。まさに「大人」でした。下ネタを上品に語れるかどうかが大きいというのが私の説なんですが……。
ダンディーな日本人というと、文人を思い出すなああ、「金沢」の吉田健一とか 。゚+.゚(・▽・)゚.+゚。
> ダンディーな日本人というと、文人を思い
> 出すなああ、「金沢」の吉田健一とか
吉田健一ですか。神保町でたまに「ランチョン」に寄ると、吉田健一がここで飲んでいたんだなあ、と思います。
xxaaeeddxxさんは、海外出張が多いようですが、一度、飛行機内で吉田健一を真似、客室乗務員に言ってみたらどうでしょう。
「気に入らない! ここで降りる!」
どうぞ、と言われたら恐いですが……。
あんな感じの日本人はそうそういませんね、、、酔っぱらったような、トリップしているような納豆のような文体も好きです、「時間」とか久しぶりに読もうかな(o´∀`o)