数字は証言する データで見る太平洋戦争
70年前の1945年4月7日、沖縄を目指した戦艦大和が航空攻撃を受け、九州・坊ノ岬沖で乗員2740人と共に撃沈された。上空直援のない裸艦隊の出撃は無謀でしかなかったが、メンツにこだわった海軍は「一億総特攻の先駆け」とうそぶいた。この海上特攻作戦で、巨大戦艦が撃墜したとされる敵機はわずかに3機。就役後3年半足らずの生涯のうち、世界最大の46センチ主砲が敵戦艦に火を噴くことはついになかった。国家予算の4%強の建造費をつぎ込み、大艦巨砲主義の誇大妄想が生んだリバイアサン。大東亜共栄圏を夢見た日本の象徴は、無敵の〝不沈艦〟だったのか。データをひもといてみた。【高橋昌紀/デジタル報道センター】
出典:軍艦大和戦闘詳報
海軍の公式記録である「軍艦大和戦闘詳報」(1945年4月20日作成)によると、第1遊撃部隊による沖縄突入の海上特攻作戦で、戦艦大和が上げた戦果は撃墜3機、撃破20機とされている。戦訓として、同詳報は米軍機の被弾・防火対策がほぼ完全だったと指摘。「機銃弾は相当命中し火を発するもの多数ありしも間もなく消火し 撃墜に至らざりしもの極めて多かりき」(一部略、原文はカタカナ)という。
米軍はまた、戦闘機・爆撃機・雷撃機を組み合わせた対艦攻撃法に習熟していた。編隊は高性能の機上レーダーに誘導され、敵艦隊上空に到達。各機は高周波無線機を搭載しており、戦闘空域にいる機上の「攻撃調整官」がタイミングを計り、効果的に攻撃目標を振り分けた。直援機のない水上艦艇にとって、同時多方向からの統制された攻撃を回避し続けることは難しかった。
戦史研究家の原勝洋氏は戦例として、第84雷撃機中隊(空母バンカーヒル所属)の記録を挙げる。計14機が小隊ごとの5編隊に分かれ、大和の左舷側を3編隊、右舷側を2編隊が個別に挟撃。わずか1分ほどの間に13本の魚雷を投下し、計9本の命中を報告した(報告に重複があったと思われる)。これは日本艦隊に対する第2次空襲(4月7日午後0時57分~同1時27分)の一部で、同時に参加した第84戦闘機中隊も通常爆弾14発の投下、ロケット弾112発の発射の記録を残している。
日本艦隊は情報戦の段階で、既に敗れていた。海上特攻作戦は突然に決まったため、物資補給に関する交信などが急増。米軍は暗号を解読(通称「マジック情報」)し、その意図を4月5日には察知されてしまった。6日午後3時20分の出撃直後には豊後水道で、哨戒中の米潜水艦2隻に発見される。
「大和出撃」の報に米第5艦隊のスプルーアンス大将は、第54任務部隊(旧式戦艦10隻など)に迎撃準備を命令した。しかし、第58任務部隊(正規空母7隻など)のミッチャー中将は戦艦に対する絶対的優位性を証明するため、独断での航空攻撃を決意した。大和が引き返すことを恐れ、潜水艦に攻撃禁止を命じたという。
7日午後0時34分、大和は主砲による対空射撃を開始。3次にわたる空襲を受け、約2時間後の午後2時23分に転覆した。損害には諸説あり、「軍艦大和戦闘詳報」は魚雷10本、爆弾6発とする。第1遊撃部隊(戦艦1、軽巡洋艦1、駆逐艦8)の残存艦は駆逐艦4隻のみ。大和の2740人を含め、計3721人が戦死した。米軍は計367機が出撃。10機が撃墜され、戦死者は12人だった。
出典:「戦史叢書」など
4月7日の帝都・東京。4カ月後にはポツダム宣言を受諾する鈴木貫太郎内閣が組閣された。親任式後の控室で、閣僚らに海戦の結果が伝わってきたという。
「一同は、そこまで戦局が逼迫(ひっぱく)していたのかと唖然(あぜん)とした」
内閣書記官長(当時の官僚トップ、現在の内閣官房長官の前身)となった迫水久常氏は後に回想している。
「この戦艦大和沈没の悲報は、国民の間に大きな信頼を獲(か)ち得ていただけに、これからの一つの使命を暗示しているように感じたのであった」
大角岑生海相=1934年08月撮影
「ワシントン海軍軍縮条約」(1922年)と後の「ロンドン海軍軍縮条約」(1930年)により、列強の海軍力には制限が加えられた。しかし、軍整備は天皇の大権に属するとして、「統帥権干犯問題」が政争化する。海軍内では国際協調路線の「条約派」に対し、強硬路線の「艦隊派」が反撃。1933年に大角岑生(おおすみ・みねお)海相により、「条約派」の提督たちは一斉に予備役に編入されてしまった。この「大角人事」を経て、日本は軍縮条約を破棄。「ネイバル・ホリデー(海軍休日)」は終わり、世界の海軍は無制限時代に突入する。
大和型戦艦の建造について、海軍航空本部長の山本五十六、海軍省軍務局長の豊田副武(そえむ)らは反対を唱えたという。だが、帝国海軍は航空主兵論をしりぞけ、大艦巨砲主義を固守する。
出典:「戦史叢書」、財務省資料など
※グラフ中の海軍省費は、大和型戦艦2隻の予算(要求ベース)を除いたもの
大和型戦艦の2隻(大和、武蔵)は1937年の第3次海軍軍備充実計画(通称・マルサン計画)で、建造が決定された。1隻当たりの予算は1億1759万円に上り、その年度の国の一般会計歳出(決算ベース)では約4.3%を占める。
これはどの程度の規模なのか。JR東海によるリニア中央新幹線(品川―名古屋)の土木工事費(駅舎、車両などを除く)は約4兆158億円。国の一般会計予算(2014年度計約95兆8823億円)と比べると、約4.2%に相当する。感覚的には大和1隻の建造費用はほぼ、リニアの建設費に匹敵するといえよう。
この大和型戦艦2隻の予算要求に対する大蔵省査定において、海軍は〝ごまかし〟をした。すなわち、駆逐艦3隻と潜水艦1隻の予算を架空計上。大和型戦艦の建造費は過少(3万5000トン級戦艦並み)に見積もった。これは予算額から、実際の大きさ(6万4000トン)を推察されることを避けるためだった。大和型戦艦の秘匿対策は徹底しており、艦載した世界最大の46センチ主砲は書類上は「九四式四十糎(センチ)砲」と命名された。
出典:「戦史叢書」、財務省資料など
※偽装予算の内訳は、3万5千トン級戦艦2隻、駆逐艦3隻、潜水艦乙級1隻
貴重な国力を費やした巨大戦艦は、華々しい戦果を上げられずに水没した。
1987年12月23日未明、東京・霞が関の大蔵省。88年度の政府予算大蔵原案の説明会の席上、整備新幹線計画(5線10兆円超)の採算性を批判する同省の田谷広明主計官はたとえ話をした。
「昭和の三大バカ査定といわれるものがある。それは戦艦大和・武蔵、伊勢湾干拓、青函トンネルだ」「航空機時代が到来しているのに大艦巨砲主義で大和、武蔵をつくった」
なぜ、日本海軍は世界最大の砲口径46センチ(18インチ)にこだわったのか。それは仮想敵国の〝弱点〟に由来する。米海軍は太平洋と大西洋に分断されており、当時のスエズ運河の閘門(こうもん)幅は33.3メートルだった。通過するために艦の大きさが制限され、主砲の搭載能力に影響した。その最大値を日本海軍は40.8センチ(16インチ)と判断。当時の米英海軍の主力艦の砲口径も実際、その数値だった。これを上回ることで、建艦能力の差がもたらす数的な劣勢を補おうとした。大和型戦艦は相手の射程外からの「アウトレンジ」攻撃を期待し、同級戦艦の46センチ砲からの打撃にも耐えられるように耐弾防御を施す。
主砲の射撃は
の繰り返しとなる。敵艦の前後を砲弾が包み込む「挟叉(きょうさ)」を続けていくうち、やがては命中弾を得られるようになる。しかし、敵艦は回避運動をとるかもしれない。自艦も動いている。風速、波浪などの自然条件も影響する。
さらに46センチ砲を最大射程4万メートル超で射撃した場合、砲弾(1.46トン)が着弾するのは約90秒後。有効射程とされる2万~3万メートルにおいても、30秒前後かかるという。敵艦の未来位置を予測し、命中させるには神業的と言える技量が要求された。
※ドラム缶1本200Lとして換算
一方で、交戦時には、敵弾を回避するための操舵(そうだ)性能が要求される。大和型戦艦1番艦の大和は就役前の公試運転で、20ノットで転舵したところ、艦首が回頭を始めたのは約40秒後だった。最大速力27ノットでは約90秒後にもなった。基準排水量6万4000トンという巨大さは当然、機動性の低下をもたらした。空母が中心の高速機動部隊に追随するには速力が十分ではなく、艦隊運用は難しかった。燃費は1リットル当たり62センチ。航行しなくとも、港に停泊しているだけで自家発電用などに重油を消費した。ちなみに、より小さい長門級戦艦(3万2720トン)でさえ、1日50トン消費したとされる。前時代的な大艦巨砲主義に基づいた大和型戦艦は就役後も、金食い虫だった。
連合艦隊は大和を温存。将兵は皮肉を込め、豪華装備の巨大戦艦を「大和ホテル」とあだ名した。
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太平洋戦争開戦劈頭(へきとう)の1941年12月10日、日本海軍基地航空隊は英東洋艦隊のZ部隊を壊滅させた。3時間足らずで、英戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」と巡洋戦艦「レパルス」を撃沈。「戦争の全期間を通じて、私はそれ以上の衝撃を受けたことがなかった」と英首相ウィンストン・チャーチルを涙に暮れさせた。
英海軍によるタラント空襲(1940年11月、伊戦艦3隻撃沈破)、日本海軍による真珠湾空襲(米戦艦4隻撃沈破)は港内に錨泊(びょうはく)中の艦隊に対する攻撃だった。しかし、このマレー沖海戦では史上初めて、航行中の戦艦が航空攻撃のみで撃沈された。大和就役は6日後の1941年12月16日。既に戦艦の時代は終わっていた。
欧州海域では独海軍の「ビスマルク」が英空母機の魚雷攻撃でかじを傷つけられたために航行の自由を失い、優勢な英戦艦隊に捕捉された。姉妹艦「ティルピッツ」はフィヨルド内に退避中、大型爆撃機からの特殊爆弾「トールボーイ」に転覆させられた。ソ連海軍「マラート」は独空軍ルーデル大佐の急降下爆撃を受け、大破着底。伊海軍「ローマ」は独空軍の誘導爆弾「フリッツX」のたった1発の命中で、轟沈(ごうちん)してしまった。
真珠湾空襲の第1航空艦隊航空参謀などを務めた源田実(戦後に航空自衛隊航空幕僚長)は戦時中、大和型戦艦を揶揄(やゆ)したという。「ピラミッド、万里の長城と並び、大和と武蔵は『世界三大無駄』の一つだ」
時代の変化に順応したのは真珠湾で痛打された米海軍で、
――と新たな役割を担わせた。日本機動部隊を率いた小沢治三郎中将は「敵の輪形陣(空母を中心とした隊形)を鉄壁としているのは、戦艦群である」と指摘する。味方航空機による上空直援があれば、戦艦は本来の打たれ強さを発揮できた。
日本海軍はしかし、期待できる航空戦力を失っていた。艦隊決戦の主力は日露戦争の時代と変わらず、戦艦に担わせるしかなかった。1944年10月の一連のレイテ沖海戦で、日本海軍が喪失した戦艦は3隻。大和型2番艦の「武蔵」は空襲を受け、シブヤン海に沈んだ。史上最後の戦艦同士の砲撃戦が起き、扶桑型戦艦の「扶桑」と「山城」が夜間に米旧式戦艦6隻の待ち伏せを受け、全滅した。日本海軍はお家芸とした砲雷撃戦においても、新式レーダーを装備したうえに数的優勢に立った米海軍に敵し得なくなっていた。
ロイヤル・オーク[英]
| 基準排水量 | 28000 |
|---|---|
| 主砲 | 38.1×8 |
| 沈没 | 1939/10/14 |
アドミラル・グラフ・シュペー[独]
| 基準排水量 | 10800 |
|---|---|
| 主砲 | 28×6 |
| 沈没 | 1939/12/17 |
コンテ・ディ・カブール[伊]
| 基準排水量 | 27726 |
|---|---|
| 主砲 | 32×10 |
| 沈没 | 1940/11/11 |
フッド[英]
| 基準排水量 | 42670 |
|---|---|
| 主砲 | 38.1×8 |
| 沈没 | 1941/5/24 |
ビスマルク[独]
| 基準排水量 | 41700 |
|---|---|
| 主砲 | 38×8 |
| 沈没 | 1941/5/27 |
アリゾナ[米]
| 基準排水量 | 29157 |
|---|---|
| 主砲 | 35.6×12 |
| 沈没 | 1941/12/7 |
オクラホマ[米]
| 基準排水量 | 26115 |
|---|---|
| 主砲 | 35.6×10 |
| 沈没 | 1941/12/7 |
レパルス[英]
| 基準排水量 | 27650 |
|---|---|
| 主砲 | 38.1×6 |
| 沈没 | 1941/12/10 |
プリンス・オブ・ウェールズ[英]
| 基準排水量 | 38031 |
|---|---|
| 主砲 | 35.6×10 |
| 沈没 | 1941/12/10 |
比叡[日]
| 基準排水量 | 26330 |
|---|---|
| 主砲 | 35.6×8 |
| 沈没 | 1942/11/13 |
霧島[日]
| 基準排水量 | 26330 |
|---|---|
| 主砲 | 35.6×8 |
| 沈没 | 1942/11/15 |
陸奥[日]
| 基準排水量 | 32720 |
|---|---|
| 主砲 | 41×8 |
| 沈没 | 1943/6/8 |
ローマ[伊]
| 基準排水量 | 43835 |
|---|---|
| 主砲 | 38.1×9 |
| 沈没 | 1943/9/10 |
シャルンホルスト[独]
| 基準排水量 | 32100 |
|---|---|
| 主砲 | 28×9 |
| 沈没 | 1943/12/25 |
武蔵[日]
| 基準排水量 | 65000 |
|---|---|
| 主砲 | 46×6 |
| 沈没 | 1944/10/24 |
扶桑[日]
| 基準排水量 | 29326 |
|---|---|
| 主砲 | 35.6×12 |
| 沈没 | 1944/10/25 |
山城[日]
| 基準排水量 | 29326 |
|---|---|
| 主砲 | 35.6×12 |
| 沈没 | 1944/10/25 |
ティルピッツ[独]
| 基準排水量 | 41770 |
|---|---|
| 主砲 | 38×8 |
| 沈没 | 1944/11/12 |
金剛[日]
| 基準排水量 | 26330 |
|---|---|
| 主砲 | 35.6×8 |
| 沈没 | 1944/11/21 |
信濃[日]
| 基準排水量 | 65000 |
|---|---|
| 主砲 | - |
| 沈没 | 1944/11/29 |
グナイゼナウ[独]
| 基準排水量 | 32100 |
|---|---|
| 主砲 | 28×9 |
| 沈没 | 1945/3/23 |
アドミラル・シェア[独]
| 基準排水量 | 10800 |
|---|---|
| 主砲 | 28×6 |
| 沈没 | 1945/4/10 |
日向[日]
| 基準排水量 | 29990 |
|---|---|
| 主砲 | 35.6×12 |
| 沈没 | 1945/7/24 |
伊勢[日]
| 基準排水量 | 29990 |
|---|---|
| 主砲 | 35.6×12 |
| 沈没 | 1945/7/28 |
榛名[日]
| 基準排水量 | 26330 |
|---|---|
| 主砲 | 35.6×8 |
| 沈没 | 1945/7/28 |
主砲:Cm×門数 / 基準排水量:トン / 軍港内での大破着底を含む / 出典:「世界の戦艦プロファイル」など
日本の連合艦隊は戦艦10隻をもって、太平洋戦争に突入した。開戦後に就役した大和型2隻を含めると計12隻。4年足らずの戦いで、残存したのは1隻だけだった。その「長門」は1945年9月15日に艦籍を抹消され、大蔵省財務局の管理下に移された。46年7月1日。マーシャル群島ビキニ環礁での原爆実験で、「長門」は標的艦の1隻に使われた。呉軍港に擱坐した戦艦3隻は47年までに解体され、各2700~4400トンの貴重な鋼材を得ることができたという。
戦艦大和を軍港に係留し、浮き砲台とする――。
事実上の〝大和廃艦〟を大戦末期の1945年1月、日本海軍は検討していた。南方油田地帯からの輸送ルートはほぼ途絶。「戦艦ヲ主トシテ燃料ノ見地ヨリ第二艦隊ヨリ除キ軍港防空艦トス」(「第二艦隊改編要領」)。この結果、第1戦隊(戦艦3隻)の「長門」は横須賀、「榛名」は呉に回航された。ところが、大和だけは残された。連合艦隊首席参謀の神重徳(かみ・しげのり)大佐は「大和ヲ旗艦」として、「第二艦隊ヲ特攻的ニ」使用したいとの意向を明らかにしたという。
1945年3月29日の東京・宮城(きゅうじょう)。3日前に沖縄に上陸した米軍を迎撃する「天一号作戦」について、海軍軍令部総長の及川古志郎大将は昭和天皇に奏上した。航空機による特攻作戦を徹底的に実施するとの及川総長の説明に対し、天皇は「海軍にはもう艦はないのか。海上部隊はないのか」と下問したともされる。奏上の結果を伝達された連合艦隊司令長官の豊田副武(とよだ・そえむ)大将は同日夜、緊急電報を発した。
「怖レ多キ御言葉ヲ拝シ、恐懼(きょうく)ニ耐ヘズ」「全将兵殊死奮戦誓ツテ聖慮ヲ安ンジ奉リ」「作戦ノ完遂ヲ期スベシ」
第1遊撃部隊(大和と第二水雷戦隊)には4月5日午後、出撃準備の命令を下した。豊田長官は再び、全軍に電報を発する。
「皇国ノ興廃ハ正ニ此ノ一挙ニアリ」「帝国海軍力ヲ此ノ一戦ニ結集シ光輝アル帝国海軍海上部隊ノ伝統ヲ発揮スルト共ニ其ノ栄光ヲ昆(のち)ニ伝ヘントスルニ外ナラズ」「以テ皇国無窮ノ礎ヲ確立スベシ」(GF機密第〇六〇〇〇一番電)
海上特攻は実施部隊の意向とは異なるものだった。第2水雷戦隊(古村啓蔵少将、旗艦は軽巡洋艦「矢矧(やはぎ)」)の司令部は独自に検討を重ね、突入作戦が目的地到達前に壊滅することはほとんど必至との結論に達していた。4月3日には「水上部隊は兵器・弾薬・人員を陸揚げし、残りは浮き砲台とする」との案を第2艦隊司令部に意見具申。同意を得ていた。
しかし、出撃命令が先んじた。連合艦隊参謀長の草鹿(くさか)龍之介中将が大和に出向き、第2艦隊司令長官の伊藤整一中将の説得に当たる。「一億総特攻の魁(さきがけ)となってほしい」。草鹿参謀長自身も海上特攻には否定的だったが、伊藤長官に懇請したという。
第5航空艦隊司令長官の宇垣纏(まとめ)中将は独断で、出撃した第1遊撃部隊の上空直援(7日午前6~10時)を行った。大和沈没を記した7日付の日記。
「全軍の士気を昂揚(こうよう)せんとして反(かえ)りて悲惨なる結果を招き痛憤復讐(ふくしゅう)の念を抱かしむる外何等(なんら)得る処(ところ)無き無暴の挙と云(い)はずして何ぞや」
〝大砲屋〟である宇垣長官は、戦艦は野戦7個師団に相当するとし、大和も決戦のために保存すべきだったと指摘。昭和天皇の下問に「海軍の全兵力を使用する」と無思慮に奉答してしまい、無謀な海上特攻に到ったとして、及川総長を批判している。
戦後、大和特攻を回想し、もう一人の海軍トップ、豊田長官は吐露した。「成功率は50パーセントはないだろう。うまくいったら奇跡だ、というくらいに判断したのだけれども……(後略)」
片道燃料での特攻出撃――。大和をめぐる「伝説」のなかでも、特に有名なものの一つだろう。事実は異なっていたようだ。確かに連合艦隊は第1遊撃部隊の搭載燃料を片道分の2000トン以内とすることを指示(GF機密第〇六〇八二七番電)。しかし、連合艦隊参謀の小林儀作中佐は戦後に証言する。
「呉のタンクは350万トンあったが、当時は大部分が空になっていた。しかし、タンクの底はおわんを伏せたように山型になっているので、両サイドには油がたまっている。武士の情を知らん様なことはできない。タンクの底の重油を集めれば約5万トンの在庫があった。『緊急搭載であわてて積み過ぎた』ということにした」(一部抜粋)
担当の呉鎮守府補給参謀の今井和夫中佐をはじめ、同鎮守府の参謀長や先任参謀、第2艦隊先任参謀の山本裕二大佐らも、承知していたという。この結果、第1遊撃部隊には計1万475トンが補給された。大和への割り当ては4000トンで、燃料タンクの6割以上に達する。矢矧は1250トン、駆逐艦は満載だった。
元海軍軍令部員(中佐)の吉田俊雄氏によると、警戒や戦闘行動時には燃料消費量が急増するが、満載の3分の2の重油があれば往復は可能とみられる。沖縄への往路の5分の3で沈没した駆逐艦は、油を3、4割程度消費していたという。
出典:「戦史叢書」など
「人情美談といえばそうともいえる。(中略)しかし、お涙頂戴や武勇伝で戦略指導ができるものではない」。海上護衛総司令部参謀の大井篤大佐は指摘する。総司令部は島国日本のシーレーン防衛を担っていた。ところが大和の特攻に必要として、重油割当量7000トンのうち約6割が割かれることになった。
この重油は中国大陸からの物資輸送、日本海での対潜水艦哨戒に役立つはずだった。「大和隊に使う4000トンは、一体、日本に何をもたらすのだろう」。4月5日付の豊田長官の訓示(前述)を連合艦隊参謀から聞き、大井大佐は激怒する。
「国をあげての戦争に、水上部隊の伝統が何だ。水上部隊の栄光が何だ。馬鹿野郎」
戦艦大和の46センチ砲が敵艦に火を噴いたのは、たったの1回だった。レイテ沖海戦におけるサマール沖海戦(1944年10月25日)で、主砲用1式徹甲弾104発、3式通常弾6発を砲撃。戦艦「長門」「金剛」「榛名」、重巡洋艦「羽黒」「利根」などを含めた第1遊撃部隊(栗田健男中将)は合計1300発以上を発射した。ただし、米海軍が失ったのは護衛空母「ガンビア・ベイ」と駆逐艦2隻、護衛駆逐艦1隻の4隻でしかなかった。このうち駆逐艦「ホエール」について、「日本戦艦戦史」(木俣滋郎著)は大和の副砲がとどめを刺したと記している。
宗教学者の山折哲雄さん=京都市中京区で2015年3月23日、後藤由耶撮影
日本人にとって、戦艦大和とはどのような存在なのか。〝不沈艦〟を生み出した天皇主権下の日本を「いびつな時代」と喝破する宗教学者の山折哲雄さん(83)に聞いた。【聞き手・高橋昌紀/デジタル報道センター】
戦艦大和とは日本そのものでした。大和という国土を象徴し、大和という民族を象徴しました。世界最大最強の不沈艦です。だからこそ、最初の朝廷が置かれた奈良の古名が与えられたのです。大和という言葉は、日本人の源流につながっています。「敷島の大和心を人問はば、朝日に匂ふ山桜花」と、本居宣長は詠みました。大和という言葉を耳にして、日本人は何がしかの感情を抱かざるをえない。1隻の戦艦としての存在を超越していた。海戦の主役が航空機となっても、日本海軍の象徴であり続けたのです。富士山との共通性を感じます。古来、日本人は山を神とあがめてきました。その中心は富士山でした。巡洋艦や駆逐艦を従えて海上を突き進む戦艦大和はまるで、山のようにそびえていたことでしょう。
「巨大なるもの」への根強い信仰が、日本人にはもともとあります。大和朝廷創成の記紀神話で、天照大神に「国譲り」をした大国主命(おおくにぬしのみこと)は非常に大きな神様でした。皇孫である聖武天皇は「国家鎮護」を祈り、大和の中心に当時最大の盧舎那大仏(東大寺)を祀(まつ)りました。ところが、そうした「巨大なるもの」の傍らに、「小さきもの」が存在していたことに注意しなければなりません。大国主命には少彦名命、そして盧舎那大仏には釈迦誕生仏です。
「巨大なるもの」をあがめる一方で、こうした「小さきもの」をいとおしみ、大事にするという心性です。たとえば一寸法師、桃太郎、瓜子姫などを例に挙げ、そうした日本人の特質を解き明かしたのが民俗学者の柳田国男でした。戦艦大和の場合はどうでしょうか...
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