2014年03月02日
F/サン=テグジュペリ「星の王子さま」<中>
『星の王子さま』のナゾを追って <中>
アンガージュマン(参加)への疼き
『星の王子さま』を草案したのが1939年、第二次世界大戦の勃発した年である(刊行は1943年)。翌年5月にはパリが陥落、フランス領土の5分の3はナチス・ドイツの占領下に置かれた。作者は飛行大隊を除隊になったあとすぐ、戦火を逃れてマルセイユから船でアメリカに亡命した。ここばかりは戦争の影はなく、緊張から解き放たれた、けだるいほどの平和な空気が澱んでいた。『戦う操縦士』をここで書いてアメリカで出版、たちまち注目されるところとなり、6か月にわたってベストセラーの第一位を占めるなどの成功を得た。しかしながら、この作者は片時もナチス・ドイツに踏みしだかれている祖国のことを忘れてはいなかった。こんなところでのうのうと高みの見物をしていていいのだろうか、いまの自分に何ができるのか――そんな思いに衝き動かされて書いたのが、この『星の王子さま』である。

「かんじんなことは、目に見えない」という観念がこの作品のひとつの主旋律をなしているが、作者の内面でうずましている心情は『人間の土地』や『戦う操縦士』を読むと透視図のように見えてくる。また、この本の最初のページをめくると、レオン・ウェルトへの献辞が書かれている。このひとは、サン・テックスより23歳も年上の、父親のような存在のユダヤ人作家で、ドイツ軍占領下のフランスにあって、飢えと寒さと貧苦に耐えながらひっそり隠れて抵抗運動を戦っていた。そういう尊敬する友人を遠くから思い、居ても立ってもいられない、そんな行動派人間、実存型人間の止むに止まれぬ思いが書かせた作品と見ていいだろう。
こうしてもう一度、あの六つの星のことを振り返ってみると、「王様の星」とは、「ノー」と言えず、唯々諾々とナチスに従うヴィッシィ政権(ペダン元帥)の傀儡性に対する批判であるとわかるし、「うぬぼれ男の星」は、戦火の及ばないところ、サン・テックスの周辺にいて根拠のないプライドに酔っている作家仲間や批評家たち、真実を見抜く目を失っためでたい友人たちを指しており、「呑み助の星」とは、嘆いたり傷ついたりすることを大げさに演じて、寄り集まればかならず議論はするけれど、じっと坐ったきりで行動をしない亡命フランス知識人、文化人を比喩しているとわかる。非常時にあって自分を役に立たぬダメな存在と思うことはつらく、だから酒を飲んで退廃気分の底でごまかし、わずかに自己主張するしかないちっぽけな存在。「実業屋の星」の、想像力を欠く、数字信仰の人はどこにも、いつの時代にもいたろうし、その闇に突っ込まれることによって身を隠し、本質的な問題から目をふさいで「おじょうず」に生きる人たちを指していよう。
「点燈夫の星」では、世界全体を襲う全体主義の猛烈な嵐に対してさえ、自分の声をあげようとせず、ただ黙って時の過ぎるのを待っている人びとへの痛烈な批判であり皮肉であって、人類全体に関わる問題に責任を持とうとしない人びと、かんじんなときには戦わずして逃げてしまう人びとに対する嘆きの声が聞こえてくる。あるいは、今日の高度な情報社会の写し絵で、コンピューターを駆使すると見えてじつはコンピューターに使われている現代人の愚かしい戯画に見えなくもない。
「地理学者の星」はどうか。現実から目を逸らしている人びとは、結局のところ、ナチスの犯罪者と同類じゃないか、学者にも「良心」「信仰」「哲学」がなくてどうするのだ、と激しくなじっていると読み取ることができる。モノ・モノ、カネ・カネ…と、数字と物質を神のごとく信仰するおとなが、あれから4分の3世紀を経たこの時代になってなお爆発的に増えているのを実感できないだろうか。

あるいは、本の最初のほうで、バオバブの木が三方からまるいものをガチッと噛んでいる絵がある。どうしてなのか、作者はこの絵ばかりはほかのものよりていねいに描きこんでいるかに見える。ひとはこれをいろいろに解釈しており、中には、CO2(二酸化炭素)の増大とオゾン層の破壊、地球規模の砂漠化――、つまり環境破壊の危機を表わすと解く専門家もいる。そう読めないこともないが、わたしはそうじゃないと思う。一本の木はドイツのナチズムであり、一本はイタリアのファッシズムであり、もう一本の木は日本の帝国主義的侵略を表わし、恐ろしい全体主義が地球全体をギュギュッと握りつぶそうとしている図以外に、わたしには見えないのだが、どうだろうか。〔つづく〕
「丘の上文庫だより」第45号所収 口演記録より
アンガージュマン(参加)への疼き
『星の王子さま』を草案したのが1939年、第二次世界大戦の勃発した年である(刊行は1943年)。翌年5月にはパリが陥落、フランス領土の5分の3はナチス・ドイツの占領下に置かれた。作者は飛行大隊を除隊になったあとすぐ、戦火を逃れてマルセイユから船でアメリカに亡命した。ここばかりは戦争の影はなく、緊張から解き放たれた、けだるいほどの平和な空気が澱んでいた。『戦う操縦士』をここで書いてアメリカで出版、たちまち注目されるところとなり、6か月にわたってベストセラーの第一位を占めるなどの成功を得た。しかしながら、この作者は片時もナチス・ドイツに踏みしだかれている祖国のことを忘れてはいなかった。こんなところでのうのうと高みの見物をしていていいのだろうか、いまの自分に何ができるのか――そんな思いに衝き動かされて書いたのが、この『星の王子さま』である。
「かんじんなことは、目に見えない」という観念がこの作品のひとつの主旋律をなしているが、作者の内面でうずましている心情は『人間の土地』や『戦う操縦士』を読むと透視図のように見えてくる。また、この本の最初のページをめくると、レオン・ウェルトへの献辞が書かれている。このひとは、サン・テックスより23歳も年上の、父親のような存在のユダヤ人作家で、ドイツ軍占領下のフランスにあって、飢えと寒さと貧苦に耐えながらひっそり隠れて抵抗運動を戦っていた。そういう尊敬する友人を遠くから思い、居ても立ってもいられない、そんな行動派人間、実存型人間の止むに止まれぬ思いが書かせた作品と見ていいだろう。
こうしてもう一度、あの六つの星のことを振り返ってみると、「王様の星」とは、「ノー」と言えず、唯々諾々とナチスに従うヴィッシィ政権(ペダン元帥)の傀儡性に対する批判であるとわかるし、「うぬぼれ男の星」は、戦火の及ばないところ、サン・テックスの周辺にいて根拠のないプライドに酔っている作家仲間や批評家たち、真実を見抜く目を失っためでたい友人たちを指しており、「呑み助の星」とは、嘆いたり傷ついたりすることを大げさに演じて、寄り集まればかならず議論はするけれど、じっと坐ったきりで行動をしない亡命フランス知識人、文化人を比喩しているとわかる。非常時にあって自分を役に立たぬダメな存在と思うことはつらく、だから酒を飲んで退廃気分の底でごまかし、わずかに自己主張するしかないちっぽけな存在。「実業屋の星」の、想像力を欠く、数字信仰の人はどこにも、いつの時代にもいたろうし、その闇に突っ込まれることによって身を隠し、本質的な問題から目をふさいで「おじょうず」に生きる人たちを指していよう。
「点燈夫の星」では、世界全体を襲う全体主義の猛烈な嵐に対してさえ、自分の声をあげようとせず、ただ黙って時の過ぎるのを待っている人びとへの痛烈な批判であり皮肉であって、人類全体に関わる問題に責任を持とうとしない人びと、かんじんなときには戦わずして逃げてしまう人びとに対する嘆きの声が聞こえてくる。あるいは、今日の高度な情報社会の写し絵で、コンピューターを駆使すると見えてじつはコンピューターに使われている現代人の愚かしい戯画に見えなくもない。
「地理学者の星」はどうか。現実から目を逸らしている人びとは、結局のところ、ナチスの犯罪者と同類じゃないか、学者にも「良心」「信仰」「哲学」がなくてどうするのだ、と激しくなじっていると読み取ることができる。モノ・モノ、カネ・カネ…と、数字と物質を神のごとく信仰するおとなが、あれから4分の3世紀を経たこの時代になってなお爆発的に増えているのを実感できないだろうか。
あるいは、本の最初のほうで、バオバブの木が三方からまるいものをガチッと噛んでいる絵がある。どうしてなのか、作者はこの絵ばかりはほかのものよりていねいに描きこんでいるかに見える。ひとはこれをいろいろに解釈しており、中には、CO2(二酸化炭素)の増大とオゾン層の破壊、地球規模の砂漠化――、つまり環境破壊の危機を表わすと解く専門家もいる。そう読めないこともないが、わたしはそうじゃないと思う。一本の木はドイツのナチズムであり、一本はイタリアのファッシズムであり、もう一本の木は日本の帝国主義的侵略を表わし、恐ろしい全体主義が地球全体をギュギュッと握りつぶそうとしている図以外に、わたしには見えないのだが、どうだろうか。〔つづく〕
「丘の上文庫だより」第45号所収 口演記録より
F/O.ワイルド『幸福な王子』
F/アンティゴネ=ギリシア悲劇<2>
F/オイディプス=ギリシア悲劇<1>
F/ドーデー 「風車小屋だより」
F/ツイアビ『パパラギ』
F/星の王子さまの実像を求めて<3>
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Posted by 〔がの〕さん at 11:13│Comments(0)
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