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【元ネタ】( ´H`)y-~~日本軍のベトナム蛮行を捏造する韓国人 (ENJOY Korea)


( ´H`)y-~~日本軍のベトナム蛮行を捏造する豚より卑しく虫けらより愚かな韓国人のために掲示

http://japanese.joins.com/transboard/jp_bbs/content.html?tname=history&num=37577&page=1&startpage=1&oDest=num&sc=desc
中央日報掲示板のwhy氏の投稿より。


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仏印の歴史をしっている?




サイゴン中央郵便局、フランス統治時代の建造物


 この事件を考えるためには、当時のインドシナが仏領であったことを知っておく必要がある。1940年フランスはドイツに攻め込まれ、パリは陥落し、親独的なヴィッシー政権が成立した。仏印はこのヴィッシー政権の支配下にあった。
 日本軍は1941年大東亜戦争の開戦に先立ち仏印政府と協定して仏印に進駐した。当然のこと行政権はフランスが持っていた。しかし44年8月連合軍が反攻し、パリを奪還してしまった。

それに伴う仏印政府の立場の変更を考慮して、日本は仏印の兵力を増強し、45年にはいるとそれまでの一個師団に加え、三個師団を投入し、3月9日に仏印の行政権を奪取した。この後ヒトラーが自殺したのは4月30日のことであった。

 一方南シナ海を挟んだ対岸のフィリピンでは、44年10月に米軍がレイテ島に上陸した、そして45年1月にはルソン島に上陸した。

 それと共に米軍による仏印爆撃が強まり、南北を結ぶ鉄道が破壊され、船舶の被害も多くなり、仏印の南北輸送路は壊滅した。

 この様な状況下、日本軍は約10万人であり、10万人しかいない日本軍が如何に食料を調達しても、200万人餓死するわけがない、しかも問題の北部には一個師団(2万5000人)しか駐屯していなかった。

 重要なことは44年の秋から冬にかけ、ベトナム中・北部に大風水害が起こり、米作は大変な凶作になったことである。更に米軍による輸送路の破壊が米の豊かな南部から北部への輸送を阻んでしまったことである。

 仏印政府には対処する力がなかった、餓死者が本当に200万人もいたかどうかは、政治的宣`色が濃いが実際問題として日本がベトナムを支配したのは、45年3月からの5ヶ月の短期間に過ぎない。仮に200万人が事実であったにしろ責任の全てを日本に押しつけることはできない。

 ベトナムとの保障協定は1954年南ベトナム政府がベトナム全土を代表するとの立場で結ばれた。北ベトナムとは1973年国交を回復した、更に1978年南ベトナムの155億円の債務を北ベトナムが継承して、その代わり日本は無償160億円、有償200億円の援助協定を結んですべて解決済みである。

 尚、第二次世界大戦で当時の仏印に駐留していた日本軍の一部の兵士がベトナムに残り、植民地にしていたフランスを相手にベトナム人民とともにベトナムの独立のために戦い、ついに1954年7月20日ジュネーブ協定を結びました。

 そのあと、日本に帰国した兵士を中心に1955年3月19日「日本ベトナム友好協会」を結成し、以後休まず活動を今日まで続けてきています。