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広島ブログ - まぼろしのキャベツ「広甘藍(ひろかんらん)」

まぼろしのキャベツ「広甘藍(ひろかんらん)」

カテゴリ : 
ブログ
執筆 : 
広島禅会 2014/7/27 20:24
 甘藍(かんらん)とはキャベツの和名である。

 時には呉のスーパーなどで見かけることもあるが、現在では広甘藍は「幻のキャベツ」扱いされている。広甘藍は、小玉で葉脈が密で甘い。呉市広町の大新開で、戦前は生産が盛んだったが、戦後には広町の宅地化が進んだこともあり、次第に終息へ向かった…

 広に豊栄新開、弥生新開、大新開という地名がある。埋立地である。江戸時代、広島藩の官営事業として干潟を干拓し、嘉永3年(1850年)頃にはほぼ現在の形になり、広村は、三千石の米を収穫する広島藩きっての裕福な村となった。

 しかし満潮になると海面より低いため、堤防が破壊するたびに被害を受け、農作物の不熟で広村は困窮した。堤防の修復には巨費を要したが、ほとんど庄屋などの私財が宛てられた。

 こうした広村の苦境を救ったのが甘藍、キャベツである。

 甘藍は広村の新開地で良く育った。少しずつ改良も加えられ冬場の青物として栄養的にも貴重なものとなった。

 呉に海軍鎮守府が開庁した明治22年以後、呉は一躍海軍の町として賑わっていく。海軍は、日持ちがよくて調理が簡単、輸送が便利で俵つめして積みあげても傷まないという甘藍を、軍用食材として指定し大量に買い上げるようになった。呉は甘藍の一大消費都市となり、広村は全国的にも裕福な村となった。

 広村以外に、呉近郊では甘藍を栽培できる地域がなかったので、広の甘藍は無競争で海軍へ納入され大きな利益が得られるようになった。日清戦争(明治27~28年)、日露戦争(明治37~38年)には、広甘藍は軍艦に積まれ中国大陸まで運ばれた。

 1000円で家が建つと言われた明治43年頃には、一反(300坪)当り300円/年の収入があった。全国的にも裕福になった広村は、日露戦争後の外債支払いに窮していた海軍に、多額の寄付を行ない、明治40年には広島県、更に明治44年には内務省から「模範村」として表彰された。広村が背負っていた堤防修復などによる莫大な借金(村債)を完済したばかりか、租税を滞納する者が一人としていない裕福な村に改善したのである。

 明治20年代以降、歴史的にも大きな役割を果たしてきた広甘藍だが、昭和20年の海軍消滅と共に、徐々に栽培量が少なくなっていった。

 戦後はいろんな野菜が品種改良によって栽培されるようになったこともあって、広甘藍は隅に追いやられ、昭和35年以降は栽培されなくなった。

 

 この様に、キャベツ一つで、広という地域の浮き沈みを見てきたが、栄枯盛衰は人の世の常でもある。

 私自身が、そして誰しも皆が例外なく、無常の風の中で過ごしている。少しもじっと留まってなどいない。一期一会の出会いと別れを繰り返しながら、流れうごめいている。

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