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800号 掲載記事

<Number800号特別企画・地域に生きる> JTサンダーズ 「伝説の名セッター猫田勝敏を生んだ広島のバレー文化」

20歳で全日本正セッターの座を獲得した猫田だが……。

 校長室に案内されると、陳列棚にはトロフィーや優勝旗がところ狭しと並ぶ。むろん猫田少年が獲得した賞杯もあるだろうが、数が多すぎてわからない。「バレーの町、古市に生まれ、育ったから今の自分がある」。そんな猫田のコメントが載った古い新聞記事を読ませてくれた。

 広島でバレーを始めた少年は、少なからずこの大会に思い入れがある。山下仁もそのひとりだ。崇徳高校から猫田の後輩。年は4つ違い。専売広島で一緒にプレーし、コートを離れた後も無二の釣り仲間だった。

「ちょうど6人制が採用されたころで、当時の崇徳は全国制覇するほど強かった。稲葉(正文)監督いう名伯楽がおられて、猫田さんは慕うとったねえ。私も猫田さんも、稲葉さんのひと言で専売へ入ったんですよ」

 猫田の実力は昭和37年の入社当時から飛び抜けていた。ほどなくして全日本メンバーに選ばれると、弱冠20歳で正セッターの座を獲得したほど。だが一方で、このころまだ専売広島には自前のコートさえなかった。

「だから県立の体育館とか中学の体育館を借りてね、中学生のクラブ活動が終わった夕方から夜遅くまで練習するんです。翌朝はまた仕事でしょ。遠征へ行くのもマイクロバスで。うちへ来てほしいと思うても、体育館がないけえね。5時間も6時間もかけて、うちらが行くしかないんです」

東京五輪以降、日増しに高まっていった男子バレーへの関心。

 念願の体育館が完成したのは昭和45年のことだ。

 この間、日本男子バレーは東京オリンピックで銅メダル、4年後のメキシコオリンピックで銀メダルと、王者への階段を着実に上っていた。かつては「女子の前座」とさげすまれ、「東洋の魔女」にはるか及ばない人気と実力だったが、世間の関心は日増しに高まっていた。

 松平監督から「チーム移籍」の誘いがあったのはこの頃だった、と山下は記憶する。

「バレーはなんと言ってもセッターやからね。自分の目の届くところに置きたいと考えるんは自然でしょう。なんで専売に残ったんか? ……好きやったんでしょう。稲葉監督もおるし、故郷やから。背の高い選手はおらんけど、練習量とレシーブでカバーする。広島で強うなって、日本鋼管や松下電器を倒したい。そんな想いがあったと思いますよ」

<次ページへ続く>

【次ページ】 生真面目さが仇となった、ミュンヘン五輪前年の負傷。

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