企業スポーツに厳しい逆風が吹くなか、古豪であり続けるのはなぜなのか?
拠点を移すことなく、今も広島の地で戦い続けるサンダーズを通じ、
企業スポーツとして、「地域とともに生きる」ことの重要性を見つめる。
伝説の名が、体育館の壁に刻まれている。
現在、JTサンダーズが練習を行なっている場所は、建物の名称を「猫田記念体育館」という。往年のバレーボールファンならばすぐに、猫田と聞いて躍動する名セッターの姿を思い浮かべるだろう。
JTサンダーズの前身、「専売広島」バレー部時代に猫田勝敏は広島を代表するスターだった。いや、その活躍と人気は地方都市にとどまらず、全国区として名を馳せた。
1972年のミュンヘンオリンピックで、日本の武器である「速攻とコンビネーション」を自在に操り、男子バレー界に初めての金メダルをもたらした功績は計り知れない。4度のオリンピック出場で3つのメダルを獲得。不動のセッターを務めたのが猫田である。
なぜ猫田は生涯、広島を離れなかったのか?
不思議に思うことが1つある。
なぜ猫田は生涯、広島を離れなかったのだろう――。
「中央へ出てきなさい」。何度もそう、松平康隆全日本監督から誘いを受けたと言われるが、けっして首を縦に振ることはなかった。
当時、専売広島といえば日本専売公社の広島地方局が有する田舎チームの1つに過ぎない。地理的にも、実力的にも、中央のチームとは差があった。にもかかわらず、猫田は広島でプレーすることにこだわりをみせたのだ。
猫田が活躍した'70年から'80年代は「ディフェンスのJT」と言われるチームの礎を築いた時期と重なる。今も広島の地で戦い続けるサンダーズの魅力を、猫田というキーワードで紐解いてみたい。企業スポーツに厳しい逆風が吹くなか、古豪であり続ける理由もまた見えてくるように思う。
戦前からバレーの盛んな広島市安佐南区で生まれ育った猫田。
広島市安佐南区。ここが猫田のふるさとだ。
戦前からバレーボールの盛んな地域で、猫田が通った古市小学校はその中心だった。校庭には今もいくつかの支柱が立っているが、かつては24ものコートが整備され、そのどれもが児童チーム同士の対戦で埋まったという。昭和8年に始まった「安佐郡少年少女排球大会」はやがて春と秋の年2回開催となり、名称を変えつつ今日まで続いている。
「今はコートが4面、集まるのは70チーム弱ですけど、それでも熱気はすごいです。うちは倉庫からボールが出し入れ自由で、ネットも簡単に張れるでしょ。だからスポーツ少年団に入ってなくても、みな上手いんですよ」(宮原正則校長)
<次ページへ続く>
Sports Graphic Number バックナンバー
- <バンディエラ対談・完全版> 小笠原満男×柳沢敦 「鹿島イズムとは、何だ」 2015年4月3日
- <なでしこのDFリーダーとして> 岩清水梓 「怖さを、強さに変えて」 2015年3月28日
- <ラグビーW杯に懸ける男たち> 畠山健介 「ジャパンの心臓を守る男」 2015年3月20日