第2次大戦後に、もの心のついた世代の多くは、歴史は暗黒世界から光明世界へと直進的に前進するのが当たり前だと思い込んでいる。
世界には暗黒と薄明の間を彷徨している国が多くある。軍出身の権力者を打倒したら、その権力の空白を宗教指導者が占め、それを嫌った軍部が指導者を排除して、再び軍を政治の前線に呼び戻す。
4月5日の日曜日、多摩の東京外国語大学・プロメテウスホールへ出かけて「シンポジウム・朝日新聞問題を通して考える――「慰安婦」問題と日本社会・メディア」を拝聴した。500人を収容できる大教室が満員になった。
議論は日本政府の、世界基準から外れてガラパゴス化された人権感覚、戦後例を見ない政治のメディア介入(安倍政権のNHKへのお友達の送り込み、自民党のテレビへの圧力)、秘密保護法、右派マスコミと政権による朝日新聞バッシングなど、予想されるトピックがとりあげられ、予想される観点から論じられた。
そんな中で、興味深かったのは、朝日新聞第三者委員会のメンバーで、海外メディアの慰安婦報道の盛り上がりは、朝日新聞の論調や吉田ニセ証言とは関係が薄く、むしろ安倍晋三日本国首相の存在と分かちがたく結びついているという、海外新聞の記事の内容分析(コンテント・アナリシス)結果をひき出した林香里氏(詳しい内容はこの欄の2014年12月24日付「寒々とした師走の風景」参照)と、個人としてバッシングにあっている植村隆氏の話だった。
シンポジウムのおわりに、論者全員がステージに並んで座り、会場からの質問に答えた。
20年ほどの歳月が一瞬にして消え失せ、筆者は1990年代前半のジャカルタでしばしば行われていた「プレスの自由」に関するシンポジウムの風景を思い出した。当時のスハルト政権が批判的だった3週刊誌・紙を発禁処分にしていた。スハルト政権の情報省からの新聞社幹部への事前検閲風の申し入れはしばしば行われていた。
民主化をめぐって繰り広げられるプレスと権威主義政治の軋轢をテーマに博士論文を書いていた当時の筆者にとっては、またとない参与観察の機会だった。インドネシアの高級日刊紙の記者は、インドネシアはコメの自給を達成したが、数年後に作柄不良でタイからコメを輸入することになったという記事を書いたら、その記事の見出しが「インドネシア、タイからコメ輸入」ではなく、「タイ、インドネシアにコメ輸出」となっていた、という話を聞かせてくれた。コメ自給を達成したというスハルトのメンツをつぶさないように、政府の顔色をうかがう編集幹部の生存のための知恵・婉曲語法だった。
この先、日本のメディアを子細に観察し続けると、同じようなパンチ力のない婉曲表現法の増加に気づくことになろう。パリのNGO国境なき記者団が発表した2015年の世界報道自由度ランキングでは、日本は61位(対象180ヵ国・地域)である。国境なき記者団の日本の報道についての評価は厳しいが、それでもかつては10位(2010年)を占めたことがある。
日本で呼吸している者が気づかない異臭が、海外の人にはにおうのかもしれない。その異臭に引かれてかつて筆者がジャカルタへ参与観察に出かけたように、間もなく、今度はインドネシアから研究者が日本にやって来て、「美しい国におけるプレスの自由崩壊過程」の参与観察をすることになるだろう。
(2015.4.5 花崎泰雄)