花鳥風月
気ままに回文歌、いろは歌を書いています。
まわりうた
なかきよの さけめいるみの
みかかみか かみのみるいめ けさのよきかな
(永き代の 裂け目入る身の 御鏡が 神の見る夢 今朝の良きかな)
雑感
入る(いる)は「人などが,ある建物・区画の中に移動する。はいる。」、夢(いめ)は「ゆめ。」の意味です。
余談
この歌は、ゲーム「luv wave」の中で流れている「stream memory」という曲を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
「永き代の 裂け目入る身の」というのは、「luv wave」の真由美1stがそうであったように、今生きているこの時間から世界を見渡すのではなくて、永遠性を帯びた時間軸から世界を見渡すということである。
「御鏡」は、生まれつき脳が弱かった真由美1stが、その脳にCPというプログラムが入れられた時の、下記セリフの世界観のことを指している。
真由美「本当のボクはこのとき実はすでに死んでいて、今いるボクはこのときに得た別のボクなんじゃないかってこと」
要するに、本来自分のものであるはずの脳がうまく働かないので、代替できる脳神経プログラムを入れたわけだが、その結果、目に映るもの聞くもの、その感覚の全てが自分の感覚として捉えられず、どこか遠い世界で起こっているような世界観の中で生きているということ。
そして彼女は神への道を歩みだす。
つまり鏡は化我身(かがみ)であり、この世界は神が見る世界そのものであるということだ。
そして神はワタシの意識を通して、この夢の世界――ワンダーランド――を認識し、体験しているということである。ゆえに私という存在は渡し(わたし)であり、神の意識を橋渡しをする存在であり、その意識を映す鏡そのものというわけだ。
その意識に至ることによって、日月神示でいうところの一厘へ達することができる。
この世界(物質)の中に囚われていた自分の意識(霊)が逆転し、今度は自分の意識(霊)がこの世界(物質)を支配するのである。いわゆる体主霊従から霊主体従へとひっくり返るのだ。
みかかみか かみのみるいめ けさのよきかな
(永き代の 裂け目入る身の 御鏡が 神の見る夢 今朝の良きかな)
雑感
入る(いる)は「人などが,ある建物・区画の中に移動する。はいる。」、夢(いめ)は「ゆめ。」の意味です。
余談
この歌は、ゲーム「luv wave」の中で流れている「stream memory」という曲を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
「永き代の 裂け目入る身の」というのは、「luv wave」の真由美1stがそうであったように、今生きているこの時間から世界を見渡すのではなくて、永遠性を帯びた時間軸から世界を見渡すということである。
「御鏡」は、生まれつき脳が弱かった真由美1stが、その脳にCPというプログラムが入れられた時の、下記セリフの世界観のことを指している。
真由美「本当のボクはこのとき実はすでに死んでいて、今いるボクはこのときに得た別のボクなんじゃないかってこと」
要するに、本来自分のものであるはずの脳がうまく働かないので、代替できる脳神経プログラムを入れたわけだが、その結果、目に映るもの聞くもの、その感覚の全てが自分の感覚として捉えられず、どこか遠い世界で起こっているような世界観の中で生きているということ。
そして彼女は神への道を歩みだす。
つまり鏡は化我身(かがみ)であり、この世界は神が見る世界そのものであるということだ。
そして神はワタシの意識を通して、この夢の世界――ワンダーランド――を認識し、体験しているということである。ゆえに私という存在は渡し(わたし)であり、神の意識を橋渡しをする存在であり、その意識を映す鏡そのものというわけだ。
その意識に至ることによって、日月神示でいうところの一厘へ達することができる。
この世界(物質)の中に囚われていた自分の意識(霊)が逆転し、今度は自分の意識(霊)がこの世界(物質)を支配するのである。いわゆる体主霊従から霊主体従へとひっくり返るのだ。
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05
まわりうた
なかきよの みつるはなかや
ひのてりて のひやかなはる つみのよきかな
(永き代の 満つる花香や 陽の照りて 伸びやかな春 雀鷂の良きかな)
解説
花香(はなが)は「におい。いろつや。人を引きつける美しさをいう。転じて、心ばえ。」「花の香気。また、茶の芳しい香気。」、伸びやかは「ゆるやかにくつろいださま。のびのびとしているさま。のびらか。」、雀鷂(つみ)は「タカ科の鳥。日本のタカ類で最小。雌は全長約30センチ。雄は少し小さく、悦哉(えっさい)とよぶ。低山の林で繁殖し、主に小鳥を捕食する。」の意味です。
余談
この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
今日、両親と花見に行ってきた記念(?)に書いてみました。
まあ、のんびりとしてよかったです。
ひのてりて のひやかなはる つみのよきかな
(永き代の 満つる花香や 陽の照りて 伸びやかな春 雀鷂の良きかな)
解説
花香(はなが)は「におい。いろつや。人を引きつける美しさをいう。転じて、心ばえ。」「花の香気。また、茶の芳しい香気。」、伸びやかは「ゆるやかにくつろいださま。のびのびとしているさま。のびらか。」、雀鷂(つみ)は「タカ科の鳥。日本のタカ類で最小。雌は全長約30センチ。雄は少し小さく、悦哉(えっさい)とよぶ。低山の林で繁殖し、主に小鳥を捕食する。」の意味です。
余談
この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
今日、両親と花見に行ってきた記念(?)に書いてみました。
まあ、のんびりとしてよかったです。
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04
まわりうた
なかきよの すきてはのこる
かさのまの さかるこのはて きすのよきかな
(長き夜の 過ぎては残る 香の間の 盛るこの場で キスの良きかな)
解説
香(かざ)は「におい。」の意味です。
余談
この歌は、Lady Antebellumの「Just a Kiss」を聴きながらそれをモチーフに書いた歌です。
雑感
なんか聴いた途端に歌にシビれて、ビビっと来て書いた歌です。
かさのまの さかるこのはて きすのよきかな
(長き夜の 過ぎては残る 香の間の 盛るこの場で キスの良きかな)
解説
香(かざ)は「におい。」の意味です。
余談
この歌は、Lady Antebellumの「Just a Kiss」を聴きながらそれをモチーフに書いた歌です。
雑感
なんか聴いた途端に歌にシビれて、ビビっと来て書いた歌です。
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04
まわりうた
なかきよの せかいはやさし
かゆるはる ゆかしさやはい かせのよきかな
(永き代の 世界は優し 変ゆる春 ゆかしさ野梅 風の良きかな)
解説
変ゆは「かえる(変)に同じ。」、ゆかしさは「恋しいこと。なつかしいこと。」、野梅(やばい)は「野に咲く梅。野生の梅。」の意味です。
余談
この歌は、-MYTH- The Xenogears Orchestral Albumの「やさしい風がうたう -Orchestra Version-」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
かゆるはる ゆかしさやはい かせのよきかな
(永き代の 世界は優し 変ゆる春 ゆかしさ野梅 風の良きかな)
解説
変ゆは「かえる(変)に同じ。」、ゆかしさは「恋しいこと。なつかしいこと。」、野梅(やばい)は「野に咲く梅。野生の梅。」の意味です。
余談
この歌は、-MYTH- The Xenogears Orchestral Albumの「やさしい風がうたう -Orchestra Version-」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
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02
まわりうた
なかきよひ こいぬきてには
とこはるは ことはにてきぬ いこひよきかな
(長き酔ひ 子犬来て庭 常春は 言葉に出来ぬ 憩ひ良きかな)
解説
常春は「一年中春のようにおだやかな時候であること。」の意味です。
余談
この歌は「大神 五重之音調」の中にある「Reset」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。
とこはるは ことはにてきぬ いこひよきかな
(長き酔ひ 子犬来て庭 常春は 言葉に出来ぬ 憩ひ良きかな)
解説
常春は「一年中春のようにおだやかな時候であること。」の意味です。
余談
この歌は「大神 五重之音調」の中にある「Reset」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。
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01
まわりうた
なかきよの みきはのとこと
きすのまの すきとことのは きみのよきかな
(長き夜の 身際の床と キスの間の 好きと言の葉 君の良きかな)
解説
言の葉は「ことば。」の意味です。
余談
この歌は、luv waveサウンドトラックの中にある「digital leaf」を聴きながら、それをモチーフにした歌です。
きすのまの すきとことのは きみのよきかな
(長き夜の 身際の床と キスの間の 好きと言の葉 君の良きかな)
解説
言の葉は「ことば。」の意味です。
余談
この歌は、luv waveサウンドトラックの中にある「digital leaf」を聴きながら、それをモチーフにした歌です。
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31
まわりうた
かひのあい あひたみなるる
かなたたた なかるるなみた ひあいあのひか
(佳美の愛 間見慣るる 彼方ただ 流るる涙 悲哀あの日が)
解説
佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、見慣るは「いつも見ていて目になれる。」、悲哀は「かなしく,あわれな・こと(さま)。」の意味です。
余談
この歌は、-MYTH- The Xenogears Orchestral Albumの「神無月の人魚 -Piano Version-」 を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
エメラダか……なつかしいな。。。ストーリー思い出したら泣けてきた。。。
かなたたた なかるるなみた ひあいあのひか
(佳美の愛 間見慣るる 彼方ただ 流るる涙 悲哀あの日が)
解説
佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、見慣るは「いつも見ていて目になれる。」、悲哀は「かなしく,あわれな・こと(さま)。」の意味です。
余談
この歌は、-MYTH- The Xenogears Orchestral Albumの「神無月の人魚 -Piano Version-」 を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
エメラダか……なつかしいな。。。ストーリー思い出したら泣けてきた。。。
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30
まわりうた
なかきよの みからひたすら
このときと のこらすたひら かみのよきかな
(永き代の 身から一向 この時と 残らず平ら 神の良きかな)
解説
一向(ひたすら)は「ただその事だけに心が向かうさま。いちず。ひたぶる。」「すっかり。全く。」、平らは「平らな場所。平地。」の意味です。
余談
この歌は、ゼノギアスアレンジヴァージョン-CREIDの中にある「MELKABA」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
自分で書いておきながら意味不明な歌。まあいっか。
このときと のこらすたひら かみのよきかな
(永き代の 身から一向 この時と 残らず平ら 神の良きかな)
解説
一向(ひたすら)は「ただその事だけに心が向かうさま。いちず。ひたぶる。」「すっかり。全く。」、平らは「平らな場所。平地。」の意味です。
余談
この歌は、ゼノギアスアレンジヴァージョン-CREIDの中にある「MELKABA」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
自分で書いておきながら意味不明な歌。まあいっか。
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30
まわりうた
むからひと みよたまかへし
ことのとの とこしへかまた よみとひらかむ
(無から人 見よ霊返し 言の音の 常しへがまた 黄泉門開かむ)
解説
音(と)は「おと。ひびき。こえ。」、常しへ(とこしえ)は「変わらずにいつまでも続く・こと(さま)。とこしなえ。えいきゅう。」、黄泉門は「黄泉にはいる入り口。」の意味です。
余談
この歌は「大神 五重之音調」の中にある「Reset」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
三千世界一度に開く梅の花
ということで、ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。
言は九十(こと)で、一から八の一八(岩)の中の世界の外にある世界のこと。つまりナギとナミの神様の世界がいよいよ入り混じるということ。
日月神示参照
『ナギ、ナミ夫婦神は八分通り国土を生み育てられたが、火の神を生み給ひてナミの神は去りましたのであるぞ。物質偏重の世はやがて去るべき宿命にあるぞ、心得なされよ。ナミの神はやがて九と十の世界に住みつかれたのであるぞ。妻神に去られたナギの神は一人でモノを生むことの無理であることを知り給ひ、妻神を訪れ給ひ、相談されたのであるなれど、話が途中からコヂレて遂に別々に住み給ふ事となり、コトドを見立てられて千引の岩戸をしめ、両神の交流、歓喜、弥栄は中絶したのであるぞ。』(至恩の巻 第八帖)
『千引岩をとざすに際して、ナミの神は夫神の治(し)らす国の人民を日に千人喰ひ殺すと申され、ナギの神は日に千五百の産屋(うぶや)を建てると申されたのであるぞ。これが日本の国の、又地上の別名であるぞ、数をよく極めて下されば判ることぞ、天は二一六、地は一四四と申してあろうが、その後ナギの神は御一人で神々をはじめ、いろいろなものを生み給ふたのであるぞ、マリヤ様が一人で生みなされたのと同じ道理、この道理をよくわきまへなされよ。此処に大きな神秘がかくされている、一神で生む限度は七乃至八である、その上に生まれおかれる神々は皆七乃至八であるが、本来は十万十全まで拡がるべきものである。或る時期迄は八方と九、十の二方に分れてそれぞれに生長し弥栄し行くのであるぞ。』(至恩の巻 第九帖)
『岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。次の岩戸しめは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ。次の岩戸しめは素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神であるぞ。天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであって、よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤って了ったので、これが正しく岩戸しめであったぞ、命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せんぞ。絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。素盞鳴の命にも二通りあるぞ、一神で生み給へる御神と、夫婦呼吸を合せて生み給へる御神と二通りあるぞ、間違へてはならんことぞ。神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ。仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光がさしてゐたのであるなれど、仏教と共に仏魔わたり来て完全に岩戸がしめられて、クラヤミの世となったのであるぞ、その後はもう乱れほうだい、やりほうだいの世となったのであるぞ、これが五度目の大き岩戸しめであるぞ。』(碧玉の巻 第十帖)
『いよいよ判らんことが更に判らんことになるぞと申してあるが、ナギの命の治らす国もナミの命の治らす国も、双方からお互に逆の力が押し寄せて交わりに交わるから、いよいよ判らんことになるのであるぞ。』(至恩の巻 第十一帖)
『高天原に 千木高しりて 仕へまつらむ。 岩戸(言答)のひらけた、その当座は、不合理に思へることばかりでてくるぞ、逆様の世界が、この世界に入り交じるからであるぞ、親よりも子の方が早く目さめるぞ、子が親となるぞ、さかさまの世界と申しても悪の世界ではないぞ、霊の世界には想念のままにどんなことでも出来るのであるぞ、うれしい、こわい世界が近づいて来ているのであるぞ。』(扶桑の巻 第三帖)
『ツミケガレ 今はあらじと はらえ給ひそ。 空白とは九八九であるぞ、八と九、九と八の境をひらくことが岩戸を開くことぢゃ、空白とは最も根本を為す最も力あることであるぞ。』(扶桑の巻 第四帖)
ことのとの とこしへかまた よみとひらかむ
(無から人 見よ霊返し 言の音の 常しへがまた 黄泉門開かむ)
解説
音(と)は「おと。ひびき。こえ。」、常しへ(とこしえ)は「変わらずにいつまでも続く・こと(さま)。とこしなえ。えいきゅう。」、黄泉門は「黄泉にはいる入り口。」の意味です。
余談
この歌は「大神 五重之音調」の中にある「Reset」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
三千世界一度に開く梅の花
ということで、ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。
言は九十(こと)で、一から八の一八(岩)の中の世界の外にある世界のこと。つまりナギとナミの神様の世界がいよいよ入り混じるということ。
日月神示参照
『ナギ、ナミ夫婦神は八分通り国土を生み育てられたが、火の神を生み給ひてナミの神は去りましたのであるぞ。物質偏重の世はやがて去るべき宿命にあるぞ、心得なされよ。ナミの神はやがて九と十の世界に住みつかれたのであるぞ。妻神に去られたナギの神は一人でモノを生むことの無理であることを知り給ひ、妻神を訪れ給ひ、相談されたのであるなれど、話が途中からコヂレて遂に別々に住み給ふ事となり、コトドを見立てられて千引の岩戸をしめ、両神の交流、歓喜、弥栄は中絶したのであるぞ。』(至恩の巻 第八帖)
『千引岩をとざすに際して、ナミの神は夫神の治(し)らす国の人民を日に千人喰ひ殺すと申され、ナギの神は日に千五百の産屋(うぶや)を建てると申されたのであるぞ。これが日本の国の、又地上の別名であるぞ、数をよく極めて下されば判ることぞ、天は二一六、地は一四四と申してあろうが、その後ナギの神は御一人で神々をはじめ、いろいろなものを生み給ふたのであるぞ、マリヤ様が一人で生みなされたのと同じ道理、この道理をよくわきまへなされよ。此処に大きな神秘がかくされている、一神で生む限度は七乃至八である、その上に生まれおかれる神々は皆七乃至八であるが、本来は十万十全まで拡がるべきものである。或る時期迄は八方と九、十の二方に分れてそれぞれに生長し弥栄し行くのであるぞ。』(至恩の巻 第九帖)
『岩戸しめの始めはナギ(伊邪那岐命)ナミ(伊邪那美命)の命の時であるぞ、ナミの神が火の神を生んで黄泉国に入られたのが、そもそもであるぞ、十の卵を八つ生んで二つ残して行かれたのであるぞ、十二の卵を十生んだことにもなるのであるぞ、五つの卵を四つ生んだとも言へるのであるぞ、総て神界のこと、霊界のことは、現界から見れば妙なことであるなれど、それでちゃんと道にはまってゐるのであるぞ。一ヒネリしてあるのぢゃ、天と地との間に大きレンズがあると思へば段々に判りてくるぞ。夫神、妻神、別れ別れになったから、一方的となったから、岩戸がしめられたのである道理、判るであろうがな。その後、独り神となられた夫神が三神をはじめ、色々なものをお生みになったのであるが、それが一方的であることは申す迄もないことであろう、妻神も同様、黄泉大神となられて、黄泉国の総てを生み育て給ふたのであるぞ、この夫婦神が、時めぐり来て、千引の岩戸をひらかれて相抱き給う時節来たのであるぞ、うれしうれしの時代となって来たのであるぞ。同じ名の神が到るところに現はれて来るのざぞ、名は同じでも、はたらきは逆なのであるぞ、この二つがそろうて、三つとなるのぞ、三が道ぞと知らせてあろうがな。時来たりなば この千引の岩戸を倶にひらかんと申してあろうがな。次の岩戸しめは天照大神の時ぞ、大神はまだ岩戸の中にましますのぞ、ダマシタ岩戸からはダマシタ神がお出ましぞと知らせてあろう。いよいよとなってマコトの天照大神、天照皇大神、日の大神、揃ふてお出まし近うなって来たぞ。次の岩戸しめは素盞鳴命に総ての罪をきせてネの国に追ひやった時であるぞ、素盞鳴命は天下(あめがした)を治しめす御役(おんやく)の神であるぞ。天ヶ下(あめがした)は重きもののつもりて固まりたものであるからツミと見へるのであって、よろづの天の神々が積もる(と言ふ)ツミ(積)をよく理解せずして罪神と誤って了ったので、これが正しく岩戸しめであったぞ、命(みこと)をアラブル神なりと申して伝へてゐるなれど、アラブル神とは粗暴な神ではないぞ、あばれ廻り、こわし廻る神ではないぞ、アラフル(現生る)神であるぞ、天ヶ下、大国土を守り育て給う神であるぞ、取違ひしてゐて申しわけあるまいがな。このことよく理解出来ねば、今度の大峠は越せんぞ。絶対の御力を発揮し給ふ、ナギ、ナミ両神が、天ヶ下を治らす御役目を命じられてお生みなされた尊き御神であるぞ。素盞鳴の命にも二通りあるぞ、一神で生み給へる御神と、夫婦呼吸を合せて生み給へる御神と二通りあるぞ、間違へてはならんことぞ。神武天皇の岩戸しめは、御自ら人皇を名乗り給ふより他に道なき迄の御働きをなされたからであるぞ。神の世から人の世への移り変りの事柄を、一応、岩戸にかくして神ヤマトイハレ彦命として、人皇として立たれたのであるから、大きな岩戸しめの一つであるぞ。仏教の渡来までは、わずかながらもマコトの神道の光がさしてゐたのであるなれど、仏教と共に仏魔わたり来て完全に岩戸がしめられて、クラヤミの世となったのであるぞ、その後はもう乱れほうだい、やりほうだいの世となったのであるぞ、これが五度目の大き岩戸しめであるぞ。』(碧玉の巻 第十帖)
『いよいよ判らんことが更に判らんことになるぞと申してあるが、ナギの命の治らす国もナミの命の治らす国も、双方からお互に逆の力が押し寄せて交わりに交わるから、いよいよ判らんことになるのであるぞ。』(至恩の巻 第十一帖)
『高天原に 千木高しりて 仕へまつらむ。 岩戸(言答)のひらけた、その当座は、不合理に思へることばかりでてくるぞ、逆様の世界が、この世界に入り交じるからであるぞ、親よりも子の方が早く目さめるぞ、子が親となるぞ、さかさまの世界と申しても悪の世界ではないぞ、霊の世界には想念のままにどんなことでも出来るのであるぞ、うれしい、こわい世界が近づいて来ているのであるぞ。』(扶桑の巻 第三帖)
『ツミケガレ 今はあらじと はらえ給ひそ。 空白とは九八九であるぞ、八と九、九と八の境をひらくことが岩戸を開くことぢゃ、空白とは最も根本を為す最も力あることであるぞ。』(扶桑の巻 第四帖)
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30
まわりうた
なかきよの きつきたましひ
たかひあひ かたひしまたき つきのよきかな
(長き夜の 気付き魂 互ひ合ひ 我他彼此全き 月の良きかな)
解説
我他彼此(がたひし)は「我と他と,彼と此とを対立的に見ること。個物を個物としてのみ把握して,根元的な万物の同一性を見失っていること。我他彼此の見。」、全い(またい)は「完全である。欠けていない。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「RAKA」の中にある「Luna piena」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
たかひあひ かたひしまたき つきのよきかな
(長き夜の 気付き魂 互ひ合ひ 我他彼此全き 月の良きかな)
解説
我他彼此(がたひし)は「我と他と,彼と此とを対立的に見ること。個物を個物としてのみ把握して,根元的な万物の同一性を見失っていること。我他彼此の見。」、全い(またい)は「完全である。欠けていない。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「RAKA」の中にある「Luna piena」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
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29
まわりうた
なかきよの きすとまくはひ
あてとへと てあひはくまと すきのよきかな
(長き夜の キスと目合ひ 当て所へと 出合ひ吐く間と 好きの良きかな)
解説
目合ひ(まぐはひ)は「目を見合わせて愛情を通わせること。めくばせ。」、当て所は「あてる所。あてるべき所。」、出合ひは「合うこと。」「調和すること。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「Istoria~Musa~」の中にある「POLYMNIA-ポリュムニア-」を聴きながら、それをモチーフにした歌です。
あてとへと てあひはくまと すきのよきかな
(長き夜の キスと目合ひ 当て所へと 出合ひ吐く間と 好きの良きかな)
解説
目合ひ(まぐはひ)は「目を見合わせて愛情を通わせること。めくばせ。」、当て所は「あてる所。あてるべき所。」、出合ひは「合うこと。」「調和すること。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「Istoria~Musa~」の中にある「POLYMNIA-ポリュムニア-」を聴きながら、それをモチーフにした歌です。
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29
まわりうた
かみのつけ うふめつしのま
たみてまて みたまのしつめ ふうけつのみか
(神の告 産女辻の間 廻みて真手 御魂の鎮め 風月のみが)
解説
告(つげ)は「告げること。しらせること。特に神仏の託宣。お告げ。」、産女(うぶめ)は「難産のために死んだ女性の幽霊。通行人に赤子を抱かせようとしたり,幼児に危害を加えたりするといわれる。うぶめどり。」、辻は「二つの道路が十字形に交差している所。また,四方からの道が集まりゆききする人が出会い別れる交通の要所。辻堂・辻社(つじやしろ)が置かれ道祖神がまつられることが多い。十字路。四つ辻。」、廻む(たむ)は「めぐる。まわる。まがる。」、真手(まて)は「両手。左右の手。」、御魂は「死者の霊魂を尊んでいう語。」、風月は「風と月。自然界の風物。」の意味です。
余談
この歌は、神人さんのアルバム「神 2010」の中にある「鎮魂(みたましずめ)の音」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
自分で書いておきながら、よくわからん歌。たぶん鎮魂のための歌かと思われる。イメージとしては、辻で鎮魂の儀式をすることによって産女が消えさり、あとには自然の景色だけが残ったというもの。
たみてまて みたまのしつめ ふうけつのみか
(神の告 産女辻の間 廻みて真手 御魂の鎮め 風月のみが)
解説
告(つげ)は「告げること。しらせること。特に神仏の託宣。お告げ。」、産女(うぶめ)は「難産のために死んだ女性の幽霊。通行人に赤子を抱かせようとしたり,幼児に危害を加えたりするといわれる。うぶめどり。」、辻は「二つの道路が十字形に交差している所。また,四方からの道が集まりゆききする人が出会い別れる交通の要所。辻堂・辻社(つじやしろ)が置かれ道祖神がまつられることが多い。十字路。四つ辻。」、廻む(たむ)は「めぐる。まわる。まがる。」、真手(まて)は「両手。左右の手。」、御魂は「死者の霊魂を尊んでいう語。」、風月は「風と月。自然界の風物。」の意味です。
余談
この歌は、神人さんのアルバム「神 2010」の中にある「鎮魂(みたましずめ)の音」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
自分で書いておきながら、よくわからん歌。たぶん鎮魂のための歌かと思われる。イメージとしては、辻で鎮魂の儀式をすることによって産女が消えさり、あとには自然の景色だけが残ったというもの。
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28
まわりうた
はるつきと いめのきさくら
はやかはか やはらくさきの めいときつるは
(春月と 夢の黄桜 早川が 和らぐ先の 冥途来つる場)
解説
夢(いめ)は「ゆめ。」、黄桜は「サトザクラの園芸品種。花は淡黄緑色の八重咲きで新緑と同時に開花。」、早川は「流れの早い川。」、冥途は「 死者の霊魂が行く暗黒の世界。冥界。よみじ。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「RAKA」の中にある「Luna piena」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
三途の川というのがあるが、重罪のものは流れの速い川を渡るのだそうな。この歌は、そのような人たちすら救い、極楽浄土に誘(いざな)うというイメージの歌です。
はやかはか やはらくさきの めいときつるは
(春月と 夢の黄桜 早川が 和らぐ先の 冥途来つる場)
解説
夢(いめ)は「ゆめ。」、黄桜は「サトザクラの園芸品種。花は淡黄緑色の八重咲きで新緑と同時に開花。」、早川は「流れの早い川。」、冥途は「 死者の霊魂が行く暗黒の世界。冥界。よみじ。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「RAKA」の中にある「Luna piena」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
三途の川というのがあるが、重罪のものは流れの速い川を渡るのだそうな。この歌は、そのような人たちすら救い、極楽浄土に誘(いざな)うというイメージの歌です。
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28
まわりうた
はるたから くさのはかをる
かひのひの ひかるをかはの さくらかたるは
(春田から 草の葉香る 佳美の陽の 光る小川の 桜が垂る場)
解説
春田(はるた)は「稲を刈り取ったあと,春までそのままにしてある田。また,春にすき起こされた田。」、佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「RAKA」の中にある「春告げ ~Raggi di primavera~」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
草の葉香る春の田んぼと、陽に照らされてきらきら光る小川と、枝垂れ桜のコンボで、まるで天国の風景さながらだわ。
かひのひの ひかるをかはの さくらかたるは
(春田から 草の葉香る 佳美の陽の 光る小川の 桜が垂る場)
解説
春田(はるた)は「稲を刈り取ったあと,春までそのままにしてある田。また,春にすき起こされた田。」、佳美は「りっぱで美しい・こと(さま)。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「RAKA」の中にある「春告げ ~Raggi di primavera~」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
草の葉香る春の田んぼと、陽に照らされてきらきら光る小川と、枝垂れ桜のコンボで、まるで天国の風景さながらだわ。
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28
まわりうた
なかきよの たうとみのみか
かみとひと みかかみのみと うたのよきかな
(永き代の 田人身の身が 神と人 御鏡のみと 歌の良きかな)
解説
田人(たうど)は「《‘たひと’の音変化》田仕事に従事する人。田子(たご)。」の意味です。
余談
この歌は、神人さんのアルバム「神 2010」の中にある「神」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
日月神示参照
『そなたの用意が足らんぞ。日々の人間の御用を、神の御用と和すように、神の御用が人の御用、人の御用が神の御用となるのがまことの道であり、弥栄の道であり大歓喜であるぞ。いつでも神かかれるように神かかってゐるように、神かかっていても、われにも他にも判らぬようになりて下されよ。鍬とる百性が己をわすれ、大地をわすれ、鍬をわすれてゐる境地が、まことのみたましづめであり、神かかりであるぞ。そこらでなさる行も、それに到る一つの道ではあるが、それのみではならんぞ。気つけ合ってよきに進んで下されよ。そなたが歩むのぢゃ。道は自分で歩まねばならんぞ。他人におんぶしたり、他人が歩かしてくれるのではないぞ。そなたの力で、そなた自身の苦労で人を助けねばならんぞ。人を助ければその人は神が助けるのであるぞ。この道理なぜに判らんのぢゃ。人を助けずに我を助けてくれと申しても、それは無理と申すもの。神にも道はまげられんぞ。』(月光の巻 第四十九帖)
『一度に立替へすると世界が大変が起るから、延ばし延ばしてゐるのざぞ、目覚めぬと末代の気の毒できるぞ。国取られた臣民、どんなにむごいことになりても何も言ふこと出来ず、同じ神の子でありながら余りにもひどいやり方、けものよりもむごいことになるのが、よく分りてゐるから、神が表に出て世界中救ふのであるぞ、この神示腹に入れると神力出るのざぞ、疑ふ臣民沢山あるが気の毒ざぞ。一通りはいやがる臣民にもこの神示一二三(ひふみ)として読むやうに上の人してやりて下されよ。生命あるうちに神の国のこと知らずに死んでから神の国に行くことは出来んぞ、神の力でないと、もう世の中は何うにも動かんやうになってゐること、上の番頭どの分かりて居らうがな、何うにもならんと知りつつ まだ智や学にすがりてゐるやうでは上の人とは申されんぞ、智や学越えて神の力にまつはれよ、お土拝みて米作る百姓さんが神のまことの民ぞ、神おろがみて神示取れよ、神のない世とだんだんなりておろがな。真通(まつ)ることは生かす事ぞ。生かす事は能(はたら)かす事ぞ。神の国には何でもないものないのざぞ、神の御用なら何でも出て来る結構な国ぞ、何もなくなるのは やり方わるいのぞ、神の心に添はんのぞ。』(地つ巻 第三十帖)
『二二は晴れたり日本晴れ、二二に御社(みやしろ)してこの世治めるぞ。五大州ひっくり返りてゐるのが神には何より気に入らんぞ。一の大神様まつれ、二の大神様まつれよ、三の大神様まつれよ、天の御三体の大神様、地の御三体の大神様まつれよ、天から神々様 御降りなされるぞ、地から御神々様おのぼりなされるぞ、天の御神、地の御神、手をとりてうれしうれしの御歌うたはれるぞ。◎の国は神の国、神の肉体ぞ、汚(けが)してはならんとこぞ。』(天つ巻 第一帖 ◎は原文では「○にヽ」の形)
かみとひと みかかみのみと うたのよきかな
(永き代の 田人身の身が 神と人 御鏡のみと 歌の良きかな)
解説
田人(たうど)は「《‘たひと’の音変化》田仕事に従事する人。田子(たご)。」の意味です。
余談
この歌は、神人さんのアルバム「神 2010」の中にある「神」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
日月神示参照
『そなたの用意が足らんぞ。日々の人間の御用を、神の御用と和すように、神の御用が人の御用、人の御用が神の御用となるのがまことの道であり、弥栄の道であり大歓喜であるぞ。いつでも神かかれるように神かかってゐるように、神かかっていても、われにも他にも判らぬようになりて下されよ。鍬とる百性が己をわすれ、大地をわすれ、鍬をわすれてゐる境地が、まことのみたましづめであり、神かかりであるぞ。そこらでなさる行も、それに到る一つの道ではあるが、それのみではならんぞ。気つけ合ってよきに進んで下されよ。そなたが歩むのぢゃ。道は自分で歩まねばならんぞ。他人におんぶしたり、他人が歩かしてくれるのではないぞ。そなたの力で、そなた自身の苦労で人を助けねばならんぞ。人を助ければその人は神が助けるのであるぞ。この道理なぜに判らんのぢゃ。人を助けずに我を助けてくれと申しても、それは無理と申すもの。神にも道はまげられんぞ。』(月光の巻 第四十九帖)
『一度に立替へすると世界が大変が起るから、延ばし延ばしてゐるのざぞ、目覚めぬと末代の気の毒できるぞ。国取られた臣民、どんなにむごいことになりても何も言ふこと出来ず、同じ神の子でありながら余りにもひどいやり方、けものよりもむごいことになるのが、よく分りてゐるから、神が表に出て世界中救ふのであるぞ、この神示腹に入れると神力出るのざぞ、疑ふ臣民沢山あるが気の毒ざぞ。一通りはいやがる臣民にもこの神示一二三(ひふみ)として読むやうに上の人してやりて下されよ。生命あるうちに神の国のこと知らずに死んでから神の国に行くことは出来んぞ、神の力でないと、もう世の中は何うにも動かんやうになってゐること、上の番頭どの分かりて居らうがな、何うにもならんと知りつつ まだ智や学にすがりてゐるやうでは上の人とは申されんぞ、智や学越えて神の力にまつはれよ、お土拝みて米作る百姓さんが神のまことの民ぞ、神おろがみて神示取れよ、神のない世とだんだんなりておろがな。真通(まつ)ることは生かす事ぞ。生かす事は能(はたら)かす事ぞ。神の国には何でもないものないのざぞ、神の御用なら何でも出て来る結構な国ぞ、何もなくなるのは やり方わるいのぞ、神の心に添はんのぞ。』(地つ巻 第三十帖)
『二二は晴れたり日本晴れ、二二に御社(みやしろ)してこの世治めるぞ。五大州ひっくり返りてゐるのが神には何より気に入らんぞ。一の大神様まつれ、二の大神様まつれよ、三の大神様まつれよ、天の御三体の大神様、地の御三体の大神様まつれよ、天から神々様 御降りなされるぞ、地から御神々様おのぼりなされるぞ、天の御神、地の御神、手をとりてうれしうれしの御歌うたはれるぞ。◎の国は神の国、神の肉体ぞ、汚(けが)してはならんとこぞ。』(天つ巻 第一帖 ◎は原文では「○にヽ」の形)
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27
まわりうた
ままのこく たいちのいきと
ふたりきり たふときいのち いたくこのまま
(儘の極 大地の息と 二人きり 尊き命 抱くこの儘)
解説
儘は「成り行きに従うこと。他のものに任せ従うこと。」「状態が続いていること。一つの動作・作用が終わり,それに続くはずの動作・作用が始まらないこと。」、極は「一番すぐれていること。また,最もよいもの。」の意味です。
余談
この歌は下記動画を見て、それをモチーフに書いた歌です。
「椎名もた(siinamota)- DrugScore / ドラッグスコア」
雑感
今日ふと思ったのが、当たり前だけど彼女の代わりはどこにも居ないということ。
それを感じたら、さらに幸せな気持ちがこみ上げてきました。
ふたりきり たふときいのち いたくこのまま
(儘の極 大地の息と 二人きり 尊き命 抱くこの儘)
解説
儘は「成り行きに従うこと。他のものに任せ従うこと。」「状態が続いていること。一つの動作・作用が終わり,それに続くはずの動作・作用が始まらないこと。」、極は「一番すぐれていること。また,最もよいもの。」の意味です。
余談
この歌は下記動画を見て、それをモチーフに書いた歌です。
「椎名もた(siinamota)- DrugScore / ドラッグスコア」
雑感
今日ふと思ったのが、当たり前だけど彼女の代わりはどこにも居ないということ。
それを感じたら、さらに幸せな気持ちがこみ上げてきました。
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27
まわりうた
なかきよの つまとひたくひ
まつりなり つまひくたひと まつのよきかな
(長き夜の 妻問ひ焚く火 祭りなり 爪弾く田人 松の良きかな)
解説
妻問ひ(つまどい)は「異性のもとを訪ねて言い寄ること。求婚すること。特に、男が女を訪ねる場合にいう。また、(恋人や妻である)女のもとに通うこと。」、爪弾くは「弦楽器を指先ではじいて鳴らす。」、田人(たひと)は「田を耕作する人。農夫。田子。たうど。」の意味です。
余談
この歌は、神人さんのアルバム「神 2010」の中にある「神」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
五穀豊穣を願う祭りのイメージです。
「妻問ひ」は五穀豊穣と一見無関係に見えるかもしれませんが、たとえば稲妻(いなづま)は「稲の妻(つま=配偶者)』という意味で,電光が稲に当たると稲が妊娠して子を孕み、豊作になると考えられていたようです。
それを踏まえてこの歌を詠んでみると、また違った趣を感じられるかもしれません。
まつりなり つまひくたひと まつのよきかな
(長き夜の 妻問ひ焚く火 祭りなり 爪弾く田人 松の良きかな)
解説
妻問ひ(つまどい)は「異性のもとを訪ねて言い寄ること。求婚すること。特に、男が女を訪ねる場合にいう。また、(恋人や妻である)女のもとに通うこと。」、爪弾くは「弦楽器を指先ではじいて鳴らす。」、田人(たひと)は「田を耕作する人。農夫。田子。たうど。」の意味です。
余談
この歌は、神人さんのアルバム「神 2010」の中にある「神」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
五穀豊穣を願う祭りのイメージです。
「妻問ひ」は五穀豊穣と一見無関係に見えるかもしれませんが、たとえば稲妻(いなづま)は「稲の妻(つま=配偶者)』という意味で,電光が稲に当たると稲が妊娠して子を孕み、豊作になると考えられていたようです。
それを踏まえてこの歌を詠んでみると、また違った趣を感じられるかもしれません。
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27
まわりうた
きしのたそ よちすますまと
こひるはる ひことますます よちそたのしき
(岸の誰そ 輿地澄ます間と 恋ひる春 日毎益々 千代ぞ楽しき)
解説
誰そ(たそ)は「だれですか。」、輿地(よち)は「大地。地球。全世界。」、恋いるは「‘恋う’に同じ」、日毎は「毎日毎日。ひび。一日一日。」、益々は「以前より程度がはなはだしくなるさま。なおいっそう。」、千代は「非常に長い年月。千年。永遠。ちとせ。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「RAKA」の中にある「春告げ ~Raggi di primavera~」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
イメージとしては、岸辺に立っている誰か(おそらく女性)が全世界を清めるための歌を唄っているというもの。その愛の波が世界中に響き渡って、それぞれ誰かを想う心、恋しい心が胸の内から花開いていき、晴れやかな春の季節と共に、永遠なる世界が形作られていくというものです。
話は変わって・・・。
先週末好きな人に告白してOK貰って、付き合うことになりました!!!!
嬉し嬉しです!!!
不思議なことに、前よりさらに恋しい気持ちが膨れ上がってもう止まらん!!!!!
ということで、何かこの気持ちを歌にしたくて書いた次第です。
こひるはる ひことますます よちそたのしき
(岸の誰そ 輿地澄ます間と 恋ひる春 日毎益々 千代ぞ楽しき)
解説
誰そ(たそ)は「だれですか。」、輿地(よち)は「大地。地球。全世界。」、恋いるは「‘恋う’に同じ」、日毎は「毎日毎日。ひび。一日一日。」、益々は「以前より程度がはなはだしくなるさま。なおいっそう。」、千代は「非常に長い年月。千年。永遠。ちとせ。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「RAKA」の中にある「春告げ ~Raggi di primavera~」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
イメージとしては、岸辺に立っている誰か(おそらく女性)が全世界を清めるための歌を唄っているというもの。その愛の波が世界中に響き渡って、それぞれ誰かを想う心、恋しい心が胸の内から花開いていき、晴れやかな春の季節と共に、永遠なる世界が形作られていくというものです。
話は変わって・・・。
先週末好きな人に告白してOK貰って、付き合うことになりました!!!!
嬉し嬉しです!!!
不思議なことに、前よりさらに恋しい気持ちが膨れ上がってもう止まらん!!!!!
ということで、何かこの気持ちを歌にしたくて書いた次第です。
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25
まわりうた
なかきよの きすくなひとみ
そのはるは のそみとひなく すきのよきかな
(永き代の 生直な瞳 その春は 望み問ひ無く 好きの良きかな)
解説
生直(きすぐ)は「素朴で飾りけのないさま。きまじめなさま。」の意味です。
余談
この歌は、アニメ「四月は君の嘘」の最終話「春風」を見ながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
二十一話に続いて、ただただ泣いた。。。
そのはるは のそみとひなく すきのよきかな
(永き代の 生直な瞳 その春は 望み問ひ無く 好きの良きかな)
解説
生直(きすぐ)は「素朴で飾りけのないさま。きまじめなさま。」の意味です。
余談
この歌は、アニメ「四月は君の嘘」の最終話「春風」を見ながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
二十一話に続いて、ただただ泣いた。。。
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24
まわりうた
なかきよの きゆるふしきは
まいのちの いまはきしふる ゆきのよきかな
(永き代の 消ゆる不思議は 真命の 今は岸降る 雪の良きかな)
雑感
アニメ「四月は君の嘘」の最終話を見てたら、なんとなく出てきた歌です。
まいのちの いまはきしふる ゆきのよきかな
(永き代の 消ゆる不思議は 真命の 今は岸降る 雪の良きかな)
雑感
アニメ「四月は君の嘘」の最終話を見てたら、なんとなく出てきた歌です。
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24
まわりうた
せまるうた みなみなかはる
ゆきとおと きゆるはかなみ なみたうるませ
(迫る詩 皆々変はる 雪と音 消ゆる儚み 涙潤ませ)
解説
詩(うた)は「近代・現代の詩。」の意味です。
余談
この歌は、アニメ「四月は君の嘘」の第二十一話「雪」を見ながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
またしても泣いてしまった。
「迫る詩」の詩は、第二十一話で公生が弾いている「ショパン バラード第1番 ト短調 作品23」と解釈したい。このバラードは、ショパンがポーランドの詩人アダム・ミツキェヴィッチの詩に霊感を受けて作曲されたものと言われているそうな。
ゆきとおと きゆるはかなみ なみたうるませ
(迫る詩 皆々変はる 雪と音 消ゆる儚み 涙潤ませ)
解説
詩(うた)は「近代・現代の詩。」の意味です。
余談
この歌は、アニメ「四月は君の嘘」の第二十一話「雪」を見ながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
またしても泣いてしまった。
「迫る詩」の詩は、第二十一話で公生が弾いている「ショパン バラード第1番 ト短調 作品23」と解釈したい。このバラードは、ショパンがポーランドの詩人アダム・ミツキェヴィッチの詩に霊感を受けて作曲されたものと言われているそうな。
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24
まわりうた
はるのいと ちちとおるなか
そひらから ひそかなるおと ちちといのるは
(春の糸 千々と織る中 背から 密かなる音 遅々と祈る場)
解説
千々(ちぢ)は「数の多い・こと(さま)。たくさん。」「変化に富んでいるさま。さまざま。」、織るは「経(たて)糸と緯(よこ)糸を一定の規則で交差させ布を作る。」「いろいろなものを組み合わせ,一つのものを作り上げる。」、背(そびら)は「背。背中。」、密かは「人に知られないようにこっそりとするさま。ひそやか。みそか。」、遅々(ちち)は「日が長くのどかなさま。」、祈るは「心から願っている。希望する。望む。」の意味です。
雑感
急に恋しい人をイメージした歌を作りたくなってしまったので、思い切って書くことにしました。
イメージとしては、様々な春(色)の糸を使って錦の機(はた)を織っているといったもの。彼女は春の生まれで、またいろいろと創作することが好きなようなので、このような表現としました。
また彼女はあまり自分を出さずに、人のことを優先しまくるので「密かなる音」としています。人の喜びをすぐに自分の喜びとできるような感じを受けます。
さらに、おそらく出会った人全てに春爛漫的な雰囲気を振りまいているので「遅々と祈る場」としました。皆がのどかな春の日の中にいるように幸せに過ごして欲しい、という願いすらあるように感じられるのは、私の考えすぎでしょうか。
そひらから ひそかなるおと ちちといのるは
(春の糸 千々と織る中 背から 密かなる音 遅々と祈る場)
解説
千々(ちぢ)は「数の多い・こと(さま)。たくさん。」「変化に富んでいるさま。さまざま。」、織るは「経(たて)糸と緯(よこ)糸を一定の規則で交差させ布を作る。」「いろいろなものを組み合わせ,一つのものを作り上げる。」、背(そびら)は「背。背中。」、密かは「人に知られないようにこっそりとするさま。ひそやか。みそか。」、遅々(ちち)は「日が長くのどかなさま。」、祈るは「心から願っている。希望する。望む。」の意味です。
雑感
急に恋しい人をイメージした歌を作りたくなってしまったので、思い切って書くことにしました。
イメージとしては、様々な春(色)の糸を使って錦の機(はた)を織っているといったもの。彼女は春の生まれで、またいろいろと創作することが好きなようなので、このような表現としました。
また彼女はあまり自分を出さずに、人のことを優先しまくるので「密かなる音」としています。人の喜びをすぐに自分の喜びとできるような感じを受けます。
さらに、おそらく出会った人全てに春爛漫的な雰囲気を振りまいているので「遅々と祈る場」としました。皆がのどかな春の日の中にいるように幸せに過ごして欲しい、という願いすらあるように感じられるのは、私の考えすぎでしょうか。
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19
まわりうた
くらくこの ちあかくそのを
ちこくのく こちをのそくか あちのこくらく
(暗くこの 血赤くその緒 地獄の苦 此方を覗く我 彼方の極楽)
解説
緒は「糸やひもなど,細長いもの。」「長く続くもの。」「魂をつなぐもの。いのち。玉の緒。」、此方(こち)は「近称の指示代名詞。方向を指し示す。こちら。こっち。」「人代名詞。一人称。私。私ども。」、彼方(あち)は「遠称の指示代名詞。あちら。あっち。」の意味です。
余談
この歌は、下記動画を見て、それをモチーフに書いた歌です。
「sasakure.UK - Spider Thread Monopoly feat. Hatsune Miku / 蜘蛛糸モノポリー」
ちこくのく こちをのそくか あちのこくらく
(暗くこの 血赤くその緒 地獄の苦 此方を覗く我 彼方の極楽)
解説
緒は「糸やひもなど,細長いもの。」「長く続くもの。」「魂をつなぐもの。いのち。玉の緒。」、此方(こち)は「近称の指示代名詞。方向を指し示す。こちら。こっち。」「人代名詞。一人称。私。私ども。」、彼方(あち)は「遠称の指示代名詞。あちら。あっち。」の意味です。
余談
この歌は、下記動画を見て、それをモチーフに書いた歌です。
「sasakure.UK - Spider Thread Monopoly feat. Hatsune Miku / 蜘蛛糸モノポリー」
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17
まわりうた
ひらはのほ いちたうむかふ
けさのひの さけふかむうた ちいほのはらひ
(平場の歩 一道向かふ 今朝の陽の 叫ぶ神歌 千五百の祓)
解説
平場は「平たんな土地。平地。」、一道は「一つの道路。」「(光や煙などの)細長い一筋。一条。」、千五百は「数のきわめて多いこと。無数。ちいほ。」、祓(はらい)は「神に祈って罪・けがれ,災禍などを除き去ること。また,そのための儀式や,その祈りの言葉。おはらい。はらえ。」の意味です。
余談
この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
けさのひの さけふかむうた ちいほのはらひ
(平場の歩 一道向かふ 今朝の陽の 叫ぶ神歌 千五百の祓)
解説
平場は「平たんな土地。平地。」、一道は「一つの道路。」「(光や煙などの)細長い一筋。一条。」、千五百は「数のきわめて多いこと。無数。ちいほ。」、祓(はらい)は「神に祈って罪・けがれ,災禍などを除き去ること。また,そのための儀式や,その祈りの言葉。おはらい。はらえ。」の意味です。
余談
この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
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16
まわりうた
よのくろみ のこふなかいま
うさのまの さうまいかなふ このみろくのよ
(世の黒み 拭ふ中今 憂さの間の 草昧叶ふ この弥勒の世)
解説
拭う(のごう)は「ぬぐう。」、中今は「永遠の過去と未来の中間にある今。当世を最良の世としてほめる語。 」、憂さは「心が晴れ晴れしないこと。気がめいること。」、草昧(そうまい)は「世の中が未開で,物事が混沌としている状態。」、弥勒の世は「弥勒菩薩が兜率天(とそつてん)から天降って人間世界に現れ,衆生(しゆじよう)を救うという未来の世。」の意味です。
余談
この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk4の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。
うさのまの さうまいかなふ このみろくのよ
(世の黒み 拭ふ中今 憂さの間の 草昧叶ふ この弥勒の世)
解説
拭う(のごう)は「ぬぐう。」、中今は「永遠の過去と未来の中間にある今。当世を最良の世としてほめる語。 」、憂さは「心が晴れ晴れしないこと。気がめいること。」、草昧(そうまい)は「世の中が未開で,物事が混沌としている状態。」、弥勒の世は「弥勒菩薩が兜率天(とそつてん)から天降って人間世界に現れ,衆生(しゆじよう)を救うという未来の世。」の意味です。
余談
この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk4の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
ミロクの世の到来を言祝ぐ歌です。
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16
まわりうた
しらなみの みきはとふとり
うなはらは なうりとふとは きみのみならし
(白波の 水際飛ぶ鳥 海原は 脳裏訪ふ永久 君のみならし)
解説
永久(とわ)は「いつまでも変わらない・こと(さま)。永久(えいきゅう)。永遠。」、ならしは「…であるよ。…だなあ。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「Istoria~Musa~」の中にある「OURANIA-ウラニア-」を聴きながら、それをモチーフにした歌です。
うなはらは なうりとふとは きみのみならし
(白波の 水際飛ぶ鳥 海原は 脳裏訪ふ永久 君のみならし)
解説
永久(とわ)は「いつまでも変わらない・こと(さま)。永久(えいきゅう)。永遠。」、ならしは「…であるよ。…だなあ。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「Istoria~Musa~」の中にある「OURANIA-ウラニア-」を聴きながら、それをモチーフにした歌です。
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16
まわりうた
なかきよの みなきしまたら
かひなひな ひからたましき なみのよきかな
(永き代の 見和ぎし斑 佳美な鄙 陽から玉敷き 波の良きかな)
解説
見和ぐ(みなぐ)は「見て心がなごやかになる。」、佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、鄙は「都から離れた土地。いなか。」、玉敷き(たましき)は「玉を敷いたように美しいこと。」、野田は「野の中にある田。平野にある田。」の意味です。
余談
この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
ミロクの世の到来を寿ぐ歌です。
かひなひな ひからたましき なみのよきかな
(永き代の 見和ぎし斑 佳美な鄙 陽から玉敷き 波の良きかな)
解説
見和ぐ(みなぐ)は「見て心がなごやかになる。」、佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、鄙は「都から離れた土地。いなか。」、玉敷き(たましき)は「玉を敷いたように美しいこと。」、野田は「野の中にある田。平野にある田。」の意味です。
余談
この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
ミロクの世の到来を寿ぐ歌です。
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15
まわりうた
よしつうる すけるみへなし
ことのねの とこしなへみる けするうつしよ
(余日得る 透ける身へ成し 琴の音の 常しなへ見る 化する現世)
解説
余日(よじつ)は「残りの日。余りの日。」「ひまな日。」、得る(える)は「うる。」、常しなへは「とこしえ(永久)に同じ。」、化すは「形を変える。変化する。ばける。」、現世は「この世。げんせ。」の意味です。
余談
この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
ミロクの世の到来を寿ぐ歌です。
琴(コト=九十)の音によって八方的世界から十方的世界へ移行する様をイメージしています。
今のような忙殺の日々から、何もかもタダになってゆとりある嬉し楽しの日々へと変わる。また物質も根本から変わって、身体も透け透けになって永遠の命と世界を遊べる。
日月神示参照
『四と八によってなされたのであるから、森羅万象の悉(ことごと)くがその気をうけてゐるのであるぞ。原子の世界でもそうであろうが、これが今の行き詰りの原因であるぞ、八では足らん、十でなくてはならん、○でなくてはならんぞ。岩戸ひらきの原因はこれで判ったであろうがな。』(至恩の巻 第六帖)
『人民の肉体も心も天地も皆同じものから同じ想念によって生れたのであるぞ。故に同じ型、同じ性をもっているぞ、そのかみの天津神はイザナギ、イザナミの神と現われまし、成り成りの成りのはてにイザナギ、イザナミの命となり給ひて、先づ国土をつくり固めんとしてオノコロの四音の島をならし八尋殿(やひろどの)を見立てられたのであるぞ、これがこの世の元、人民の頭に、東西南北の四方があり八方と拡がるであろうが、八十となり、八百、八千と次々に拡がりて八百万(やをよろづ)となりなるのであるぞ。』(至恩の巻 第五帖)
『だました岩戸からはだました神が出て、ウソの世となったのぢゃ、この道理判るであろう、ニセ神やら、だました神やら、次々に五度の岩戸閉めと申してあろが、タンバはタニハ、田庭とは日の本の国ぞ、世界の事ぞ、タンバとはタンバイチとは世界の中心と云ふ事ぞ、日の本と云ふ事ぞ、キミの国ざぞ、扶桑の国ざぞ、地場ざぞ、判りたか。地場を固めなならんぞ、五十鈴の川はムツの川、和合の川ぞ。社殿(やしろ)は八方に開く時来たら八尋殿(やひろどの)建てて下されよ、マコトの八尋殿。何も判らん無茶苦茶者が、偉ら相な名の神がかりして、何も知らん人民をたぶらかしてゐるが、今に尻尾を出して来るぞ、尻尾つかまらん内に改心して神の道に従って来いよ』(海の巻 第十一帖)
『千引岩をとざすに際して、ナミの神は夫神の治(し)らす国の人民を日に千人喰ひ殺すと申され、ナギの神は日に千五百の産屋(うぶや)を建てると申されたのであるぞ。これが日本の国の、又地上の別名であるぞ、数をよく極めて下されば判ることぞ、天は二一六、地は一四四と申してあろうが、その後ナギの神は御一人で神々をはじめ、いろいろなものを生み給ふたのであるぞ、マリヤ様が一人で生みなされたのと同じ道理、この道理をよくわきまへなされよ。此処に大きな神秘がかくされている、一神で生む限度は七乃至八である、その上に生まれおかれる神々は皆七乃至八であるが、本来は十万十全まで拡がるべきものである。或る時期迄は八方と九、十の二方に分れてそれぞれに生長し弥栄し行くのであるぞ。』(至恩の巻 第九帖)
『死ぬか生きるかは人民ばかりでないぞ、神々様も森羅万象の悉くが同様であるぞ、しばらくの生みの苦しみ。八の世界から十の世界になるのであるから、今迄の八方的な考へ方、八方的な想念や肉体では生きては行かれんのであるぞ、十方的想念と肉体でなくてはならんぞ。』(至恩の巻 第十三帖)
『八方的地上から十方的地上となるのであるから、総ての位置が転ずるのであるから、物質も念も総てが変るのであるぞ。これが元の元の元の大神の御神策ぞ、今迄は時が来なかったから知らすことが出来んことでありたなれど、いよいよが来たので皆に知らすのであるぞ。百年も前からそら洗濯ぢゃ、掃除ぢゃと申してありたが、今日の為であるぞ、岩戸ひらきの為であるぞ。今迄の岩戸ひらきと同様でない、末代に一度の大岩戸(言答)ひらきぢゃ。』(至恩の巻 第十四帖)
ことのねの とこしなへみる けするうつしよ
(余日得る 透ける身へ成し 琴の音の 常しなへ見る 化する現世)
解説
余日(よじつ)は「残りの日。余りの日。」「ひまな日。」、得る(える)は「うる。」、常しなへは「とこしえ(永久)に同じ。」、化すは「形を変える。変化する。ばける。」、現世は「この世。げんせ。」の意味です。
余談
この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
ミロクの世の到来を寿ぐ歌です。
琴(コト=九十)の音によって八方的世界から十方的世界へ移行する様をイメージしています。
今のような忙殺の日々から、何もかもタダになってゆとりある嬉し楽しの日々へと変わる。また物質も根本から変わって、身体も透け透けになって永遠の命と世界を遊べる。
日月神示参照
『四と八によってなされたのであるから、森羅万象の悉(ことごと)くがその気をうけてゐるのであるぞ。原子の世界でもそうであろうが、これが今の行き詰りの原因であるぞ、八では足らん、十でなくてはならん、○でなくてはならんぞ。岩戸ひらきの原因はこれで判ったであろうがな。』(至恩の巻 第六帖)
『人民の肉体も心も天地も皆同じものから同じ想念によって生れたのであるぞ。故に同じ型、同じ性をもっているぞ、そのかみの天津神はイザナギ、イザナミの神と現われまし、成り成りの成りのはてにイザナギ、イザナミの命となり給ひて、先づ国土をつくり固めんとしてオノコロの四音の島をならし八尋殿(やひろどの)を見立てられたのであるぞ、これがこの世の元、人民の頭に、東西南北の四方があり八方と拡がるであろうが、八十となり、八百、八千と次々に拡がりて八百万(やをよろづ)となりなるのであるぞ。』(至恩の巻 第五帖)
『だました岩戸からはだました神が出て、ウソの世となったのぢゃ、この道理判るであろう、ニセ神やら、だました神やら、次々に五度の岩戸閉めと申してあろが、タンバはタニハ、田庭とは日の本の国ぞ、世界の事ぞ、タンバとはタンバイチとは世界の中心と云ふ事ぞ、日の本と云ふ事ぞ、キミの国ざぞ、扶桑の国ざぞ、地場ざぞ、判りたか。地場を固めなならんぞ、五十鈴の川はムツの川、和合の川ぞ。社殿(やしろ)は八方に開く時来たら八尋殿(やひろどの)建てて下されよ、マコトの八尋殿。何も判らん無茶苦茶者が、偉ら相な名の神がかりして、何も知らん人民をたぶらかしてゐるが、今に尻尾を出して来るぞ、尻尾つかまらん内に改心して神の道に従って来いよ』(海の巻 第十一帖)
『千引岩をとざすに際して、ナミの神は夫神の治(し)らす国の人民を日に千人喰ひ殺すと申され、ナギの神は日に千五百の産屋(うぶや)を建てると申されたのであるぞ。これが日本の国の、又地上の別名であるぞ、数をよく極めて下されば判ることぞ、天は二一六、地は一四四と申してあろうが、その後ナギの神は御一人で神々をはじめ、いろいろなものを生み給ふたのであるぞ、マリヤ様が一人で生みなされたのと同じ道理、この道理をよくわきまへなされよ。此処に大きな神秘がかくされている、一神で生む限度は七乃至八である、その上に生まれおかれる神々は皆七乃至八であるが、本来は十万十全まで拡がるべきものである。或る時期迄は八方と九、十の二方に分れてそれぞれに生長し弥栄し行くのであるぞ。』(至恩の巻 第九帖)
『死ぬか生きるかは人民ばかりでないぞ、神々様も森羅万象の悉くが同様であるぞ、しばらくの生みの苦しみ。八の世界から十の世界になるのであるから、今迄の八方的な考へ方、八方的な想念や肉体では生きては行かれんのであるぞ、十方的想念と肉体でなくてはならんぞ。』(至恩の巻 第十三帖)
『八方的地上から十方的地上となるのであるから、総ての位置が転ずるのであるから、物質も念も総てが変るのであるぞ。これが元の元の元の大神の御神策ぞ、今迄は時が来なかったから知らすことが出来んことでありたなれど、いよいよが来たので皆に知らすのであるぞ。百年も前からそら洗濯ぢゃ、掃除ぢゃと申してありたが、今日の為であるぞ、岩戸ひらきの為であるぞ。今迄の岩戸ひらきと同様でない、末代に一度の大岩戸(言答)ひらきぢゃ。』(至恩の巻 第十四帖)
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15
まわりうた
なかきよの ちみてはいさむ
すすまむま すすむさいはて みちのよきかな
(永き代の 地見ては勇む 進まむ間 涼む最果て 道の良きかな)
余談
この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk2にある「TAO -melfes version-」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
すすまむま すすむさいはて みちのよきかな
(永き代の 地見ては勇む 進まむ間 涼む最果て 道の良きかな)
余談
この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk2にある「TAO -melfes version-」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
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14
まわりうた
なかきよの ひかりとこのは
かをりけり をかはのことり かひのよきかな
(永き代の 光と木の葉 香りけり 小川の小鳥 佳美の良きかな)
解説
佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」の意味です。
余談
この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk2にある「鳥は鳴き、僕は歌う」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
かをりけり をかはのことり かひのよきかな
(永き代の 光と木の葉 香りけり 小川の小鳥 佳美の良きかな)
解説
佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」の意味です。
余談
この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk2にある「鳥は鳴き、僕は歌う」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
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14
まわりうた
なかきよの さけるはなのひ
まいのちの いまひのなはる けさのよきかな
(長き夜の 咲ける花の火 真命の 今火の隠る 今朝の良きかな)
解説
隠るは「かくれる。」の意味です。
余談
この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk2にある「hotarubi」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
まいのちの いまひのなはる けさのよきかな
(長き夜の 咲ける花の火 真命の 今火の隠る 今朝の良きかな)
解説
隠るは「かくれる。」の意味です。
余談
この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk2にある「hotarubi」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
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14
まわりうた
くらしのま まきはたなかむ
すすかせか すすむかなたは きままのしらく
(暮らしの間 牧畑眺む 涼風が 進む彼方は 気儘の至楽)
解説
牧畑(まきはた)は「数年ごとに放牧と耕作とを交互に行う畑。かつての隠岐島などに見られた。」、気儘は「他人に気兼ねなどせず自分の思ったとおりに行動する・こと(さま)。 」、至楽は「この上なく楽しいこと。」の意味です。
余談
この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk2にある「鳥は鳴き、僕は歌う」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
すすかせか すすむかなたは きままのしらく
(暮らしの間 牧畑眺む 涼風が 進む彼方は 気儘の至楽)
解説
牧畑(まきはた)は「数年ごとに放牧と耕作とを交互に行う畑。かつての隠岐島などに見られた。」、気儘は「他人に気兼ねなどせず自分の思ったとおりに行動する・こと(さま)。 」、至楽は「この上なく楽しいこと。」の意味です。
余談
この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk2にある「鳥は鳴き、僕は歌う」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
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13
まわりうた
なかきよの またきとすたき
かみとひと みかきたすとき たまのよきかな
(永き代の 全き音集き 神と人 磨き出す時 玉の良きかな)
解説
全い(またい)は「完全である。欠けていない。」、音(と)は「おと。ひびき。こえ。」、集く(すだく)は「群がり集まる。」の意味です。
余談
この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
日月神示参照
『元の人三人、その下に七人、その下に七七、四十九人、合して五十九の身魂あれば、この仕組は成就するのざ、この五十九の身魂は神が守ってゐるから、世の元の神かかりて大手柄をさすから、神の申すやう何事も、身魂みがいて呉れよ、これが世の元の神の数ぞ、これだけの身魂が力合はしてよき世の礎となるのざ。この身魂はいづれも落ちぶれてゐるから、たづねて来てもわからんから、よく気をつけて、どんなに落ちぶれている臣民でも、たづねて来た人は、親切にしてかへせよ。何事も時節が来たぞ。』(上つ巻 第十三帖)
『あら楽し、すがすがし、世は朝晴れたり、昼晴れたり、夜も晴れたり。あらたのし、すがすがし、世は岩戸明けたり、待ちに待ちし岩戸開けたり、此の神示の臣民と云ふても、人間界ばかりでないぞ。神界幽界のことも言ふて知らしてあると、申してあろが。取違ひ慢心一等恐いと申してあろが。祭典(まつり)、国民服もんぺでもよいぞ。天明まつりの真似するでないぞ。役員まつりせい。何も云ふでないぞ。言ふてよい時は知らすぞよ、判りたか。仕へる者無き宮、産土様の横下にいくら祀ってもよいぞ。天明は祈れ。祈れ。天に祈れ、地に祈れ、引潮の時引けよ。満潮の時進めよ。大難小難にと役員も祈れよ。口先ばかりでなく、誠祈れよ。祈らなならんぞ。口先ばかりでは悪となるぞ。わかりたか。今度は借銭済(な)しになるまでやめんから、誰によらず借銭無くなるまで苦し行せなならんぞ、借銭なしでないと、お土の上には住めん事に今度はなるぞ。イシの人と、キの人と、ヒの人と、ミヅの人と、できるぞ。今にチリチリバラバラに一時はなるのであるから、その覚悟よいか。毎度知らしてあること忘れるなよ。神示 腹の腹底まで浸むまで読んで下されよ。神頼むぞ。悟った方 神示とけよ。といて聞かせよ。役員 皆とけよ。信ずる者皆人に知らしてやれよ。神示読んで嬉しかったら、知らしてやれと申してあらうが。天明は神示書かす役ぞ。アホになれと申してあろが、まだまだぞ、役員 気付けて呉れよ。神示の代りにミ身に知らすと申してある時来たぞ。愈々の時ぞ。神示で知らすことのはじめは済みたぞ。実身掃除せよ。ミ身に知らすぞ。実身に聞かすぞ、聞かな聞く様にして知らすぞ。つらいなれど、がまんせよ。ゆめゆめ利功出すでないぞ。判りたか、百姓にもなれ、大工にもなれ、絵描きにもなれ。何にでもなれる様にしてあるでないか。役員も同様ぞ。まどゐつくるでないぞ、金とるでないぞ。神に供へられたものはみな分けて、喜ばしてやれと申してあろが。此の方 喜ぶこと好きぞ、好きの事栄えるぞ。いや栄へるぞ。信者つくるでないぞ。道伝へなならんぞ。取違へせん様に慢心せん様に、生れ赤児の心で神示読めよ。神示いただけよ。日本の臣民 皆勇む様、祈りて呉れよ。世界の人民 皆よろこぶ世が来る様 祈りて呉れよ、てんし様まつれよ。みことに服(まつ)ろへよ。このこと出来れば他に何も判らんでも、峠越せるぞ。御民いのち捨てて生命に生きよ。「鳥鳴く声す 夢さませ、見よ あけ渡るひむかしを、空色晴れて沖つ辺に、千船行きかふ靄(もや)の裡(うち)。」「いろは、にほへとち、りぬるをわかよ、たれそ、つねならむ、うゐのおくやま、けふこ、えてあさき、ゆめみしゑひもせすん。」 「アオウエイ。カコクケキ。サソスセシ。タトツテチ。ナノヌネニ。ハホフヘヒ。マモムメミ。ヤヨユエイ。ラロルレリ。ワヲウヱヰ。」 アイウエオ。ヤイユエヨ。ワヰヱヲ。カキクケコ。サシスセソ。タチツテト。ナニヌネノ。ハヒフヘホ。マミムメモ。ヤイユエヨ。ラリルレロ。ワヰウヱヲ。五十九柱ぞ。此の巻 夜明けの巻とせよ。この十二の巻よく腹に入れておけば何でも判るぞ。無事に峠越せるぞ。判らん事は自分で伺へよ。それぞれにとれるぞ。天津日嗣皇尊(あまつひつぎすめらみこと)弥栄(やさか)いや栄(さか)。あら楽し、あら楽し、あなさやけ、あなさやけ、おけ。 一二三四五六七八九十百千卍(ひふみよいつむゆななやここのたりももちよろず)。 秋満つ日に、アメのひつ九かみしるす。』(夜明けの巻 第十三帖)
『世界中から神示通りに出て来て足元から火が付いても、まだ我張りてゐる様では今度は灰にするより方法(ほか)ないぞ。恐しなっての改心では御役六ヶ敷いぞ。因縁あるミタマでも曇りひどいと、御用六ヶ敷い事あるぞ、神示頂いたとて役員面(やくいんづら)すると鼻ポキンぞ、と気付けてあろがな、五十九柱いくらでもあるのざぞ、かへミタマあると申してあろがな、務めた上にも務めなならんぞ、因縁深い程 罪も借銭も深いのざぞ、岩戸閉めにもよき身魂あるぞ、岩戸開きにも悪きあるぞ、気付け合ってよき御用結構ざぞ、勇んで務め下されよ。心から勇む仕事よき事ぞ、此の方の好く事ざぞ。木の葉落ちて冬となれば淋しかろがな、紅葉(もみじ)ある内にと気付けおいたが紅葉の山も落ちたであろがな、他で判らん根本のキのこと知らす此の方の神示ぢゃ、三千世界のこと一切の事 説いて聞かして得心させて上げますぞや。落ち付いて聞き落しのない様になされよ、悔しさ目に見へておろがな、どぶつぼに我と落ち込む人民許り出て来て、神の国 臭くて足の踏場もないぞ、なれども見て御座れ、三千世界一度にひらいて世界一列一平一つのてん詞(四)で治めるぞ。地の世界に大将なくなって五大州引繰り返りてゐると申すことまだ判らんのか、目に見せても耳に聞かしても、まだ判らんか、尻の毛まで悪魔に抜かれてゐて まだ判らんのか、あんまりな事ぢゃなあ。是までは高し低しの戦でありたが、是からは誠の深し浅しの戦(いくさ)ざぞ、誠とはコトざぞ 口でないぞ、筆でないぞ コトざぞ、コト気付けと申してあろがな。コト、コト、コト、ざぞ。始めウタあったぞ、終もウタぞ、今も昔もウタざぞ、人民も動物もウタ唄ふのざぞ、終の御用の始はウタぞ、ウタの集団(つどひ)とせよ。此の神示ウタとして知らす集団とせよ、ウタの集団 始ざぞ、表ざぞ、裏の裏ざぞ、表の表ぞ、道開く表の終の御用ぞ、江戸の御用すみたから、尾張の御用と申してあろがな、カイの御用も忘れてならんのざぞ。食物(おしもの)の集団も作らなならんぞ、カイの御用の事ぞ、此の集団も表に出してよいのざぞ、時に応じてどうにでも変化(へんげ)られるのがまことの神の集団ざぞ。不動明王殿も力あるに、あそこ迄落してあるは神に都合ある事ぞ。世に落ちて御座る守護神と 世に落ちてゐる神々様と 世に出てゐる神々様と 世に落ちて出てゐる守護神殿と 和合なさりて物事やって下されよ、二人でしてくれと申してあろがな、判りたか。』(雨の巻 第十三帖)
『神の智と学の智とは始は紙一重であるが、先に行く程ンプ出来て来て天地の差となるぞ、◎の神の薬のやり方 悪の神の毒のやり方となるぞ、神の御用が人の御用ぞ、人の御用が神の御用であるなれど、今の臣民 神の御用するのと人の御用するのと二つに分けてゐるが、見苦しき者にはこれからは御用致させん事にきまりたから気付けておくぞ、何事も順正しくやりて下されよ、神は順であるぞ、順乱れた所には神の能(はたらき)現はれんぞ。何もせんでゐて、よき事許り持ちてゐると物事後戻りになるぞ、神の道には後戻りないと申してあろがな、心得なされよ、一(ハジメ)の火 消へてゐるでないか、まだ判らんか、都会へ都会へと人間の作った火に集まる蛾(が)の様な心では今度の御用出来はせんぞ、表面(うわつら)飾りてまことのない教への所へは人集まるなれど、誠の道伝へる所へは臣民なかなか集まらんぞ、見て御座れよ、幾ら人少なくても見事なこと致して御目にかけるぞ、縁ある者は一時に神が引寄せると申してあろがな、人間心で心配致して呉れるなよ。目眩(めまひ)する人も出来るぞ、ふんのびる人も沢山に出来て来るぞ。行けども行けども白骨許りと申してあろがな、今のどさくさにまぎれて悪魔はまだえらい仕組致して上にあがるなれど、上にあがりきらん内にぐれんぞ、せめて三日天下が取れたら見物であるなれど、こうなることは世の元から判ってゐるから もう無茶な事は許さんぞ。軽い者程 上に上に上がって来るぞ、仕組通りなってゐるのざから臣民心配するでないぞ。今度 神の帳面から除かれたら永遠に世に出る事出来んのであるから、近慾に目くれて折角のお恵みはづすでないぞ、神 キつけておくぞ。人の苦しみ見てそれ見た事かと申す様な守護神に使はれてゐると気の毒出来るぞ、世建替へて先の判る世と致すのぢゃぞ、三エスの神宝(かんだから)と、3S(スリーエス)の神宝とあるぞ、毒と薬でうらはらであるぞ。五と五では力出んぞ、四と六、六と四、三と七、七と三でないと力生れんぞ、力生れるから、カス出来るのざから掃除するのが神の大切な仕事ぞ、人民もカスの掃除する事 大切な御役であるぞ、毒と薬と薬と毒で御座るぞ、搗(つ)きまぜて こねまぜて天晴(あっぱれ)此の世の宝と致す仕組ざぞ、判りたか。一方の3Sより判らんから、人民 何時も悪に落ち込むのぢゃ、此の道は中行く道と申して知らしてあろがな、力余ってならず、力足らんでならず、しかと手握りてじっと待ってゐて下されよ、誠の教ばかりでは何もならんぞ、皆に誠の行(オコナイ)出来んと此の道開けんぞ、理屈申すでないぞ、幾ら理屈立派であっても行(オコナイ)出来ねば悪であるぞ、此の世の事は人民の心次第ぞ。』(雨の巻 第九帖 ◎は原文では「○にヽ」の形)
『土地分け盗りばかりか、天まで分け盗って自分のものと、威張ってゐるが、人民の物一つもないのぢゃ。大引上げにならんうちに捧げた臣民 結構ぞ。宮の跡はSとなるぞ。ナルトとなるぞ。天の言答(一八十)は開いてあるぞ。地の言答(一八十)、人民 開かなならんぞ、人民の心次第で何時でも開けるのざぞ。泥の海になると、人民思ふところまで一時は落ち込むのぢゃぞ、覚悟はよいか。神国には神国の宝、神国の臣民の手で、元の所へ納めなならんのざ。タマなくなってゐると申してあらうがな。何事も時節到来致してゐるのざぞ、真理(ふじ)晴れるばかりの御代となってゐるのぢゃぞ。人民 神に仕へて下さらんと神のまことの力出ないぞ、持ちつ持たれつと申してあらうがな、神まつらずに何事も出来んぞ、まつらいでするのが我よしぞ、天狗の鼻ざぞ。まつらいでは真暗ぞ、真暗の道で、道開けんぞ。神は光ぞと申してあらうが、てん詞(し)様よくなれば、皆よくなるのざぞ。てん詞(し)様よくならんうちは、誰によらん、よくなりはせんぞ、この位のことなぜにわからんのぢゃ、よくなったと見えたら、それは悪の守護となったのぢゃ。神がかりよくないぞ、やめて下されよ、迷ふ臣民出来るぞ。程々にせよと申してあらうが。皆々心の鏡掃除すれば、それぞれに神かかるのぢゃ。肉体心で知る事は皆粕(カス)ばかり、迷ひの種ばかりぢゃぞ、この道理判りたであらうがな、くどう申さすでないぞ。』(風の巻 第九帖)
『神が引寄せるからと申して懐手してゐては道は拡まらんぞ、弥栄とは次々に限りなく喜びをふやして養って行くことざぞ、喜びとはお互ひに仲よくすることぞ、喜びは生きものぞ、形あるものぞ、色あるものぞ、声あるものぞ、判りたか。教会つくれと申しても今迄の様な教会ではならんぞ、今迄の教会も元はよいのであるぞ、いづれも取次役員がワヤにいたしたのぢゃ、神の心からはなれて人間心となったからぢゃ。神の動きは、アヤワ○(ヤ)○(ワ)ざと申してあろが、それをヤワ○(ヤ)○(ワ)となしワ○(ヤ)○(ワ)と致し、○(ヤ)○(ワ)となし○(ヤ)○(ワ)にして分らんことにいたしたのぢゃ、タマなくなって その上に上下、下ひっくり返ってゐると申してあらうがな、分りたか。』(青葉の巻 第二十一帖 ○(ヤ)、○(ワ)はそれぞれ○の中に「ヤ」「ワ」の形)
『メリカもギリスは更なり、ドイツもイタリもオロシヤも外国はみな一つになりて神の国に攻め寄せて来るから、その覚悟で用意しておけよ。神界ではその戦の最中ぞ。学と神力との戦と申しておろがな、どこから何んなこと出来るか、臣民には分かるまいがな、一寸先も見えぬほど曇りて居りて、それで神の臣民と思うてゐるのか、畜生にも劣りてゐるぞ。まだまだわるくなって来るから、まだまだ落ち沈まねば本当の改心出来ん臣民 沢山あるぞ。玉とは御魂(おんたま)ぞ、鏡とは内に動く御力ぞ、剣とは外に動く御力ぞ、これを三種(みくさ)の神宝(かむたから)と申すぞ。今は玉がなくなってゐるのぞ、鏡と剣だけぞ、それで世が治まると思うてゐるが、肝腎の真中ないぞ、それでちりちりばらばらぞ。アとヤとワの詞(四)の元要るぞと申してあろがな、この道理分らんか、剣と鏡だけでは戦勝てんぞ、それで早う身魂みがいて呉れと申してあるのぞ。上下ないぞ、上下に引繰り返すぞ、もう神待たれんところまで来てゐるぞ、身魂みがけたら、何んな所で何んなことしてゐても心配ないぞ、神界の都にはあくが攻めて来てゐるのざぞ。』(富士の巻 第三帖)
かみとひと みかきたすとき たまのよきかな
(永き代の 全き音集き 神と人 磨き出す時 玉の良きかな)
解説
全い(またい)は「完全である。欠けていない。」、音(と)は「おと。ひびき。こえ。」、集く(すだく)は「群がり集まる。」の意味です。
余談
この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
日月神示参照
『元の人三人、その下に七人、その下に七七、四十九人、合して五十九の身魂あれば、この仕組は成就するのざ、この五十九の身魂は神が守ってゐるから、世の元の神かかりて大手柄をさすから、神の申すやう何事も、身魂みがいて呉れよ、これが世の元の神の数ぞ、これだけの身魂が力合はしてよき世の礎となるのざ。この身魂はいづれも落ちぶれてゐるから、たづねて来てもわからんから、よく気をつけて、どんなに落ちぶれている臣民でも、たづねて来た人は、親切にしてかへせよ。何事も時節が来たぞ。』(上つ巻 第十三帖)
『あら楽し、すがすがし、世は朝晴れたり、昼晴れたり、夜も晴れたり。あらたのし、すがすがし、世は岩戸明けたり、待ちに待ちし岩戸開けたり、此の神示の臣民と云ふても、人間界ばかりでないぞ。神界幽界のことも言ふて知らしてあると、申してあろが。取違ひ慢心一等恐いと申してあろが。祭典(まつり)、国民服もんぺでもよいぞ。天明まつりの真似するでないぞ。役員まつりせい。何も云ふでないぞ。言ふてよい時は知らすぞよ、判りたか。仕へる者無き宮、産土様の横下にいくら祀ってもよいぞ。天明は祈れ。祈れ。天に祈れ、地に祈れ、引潮の時引けよ。満潮の時進めよ。大難小難にと役員も祈れよ。口先ばかりでなく、誠祈れよ。祈らなならんぞ。口先ばかりでは悪となるぞ。わかりたか。今度は借銭済(な)しになるまでやめんから、誰によらず借銭無くなるまで苦し行せなならんぞ、借銭なしでないと、お土の上には住めん事に今度はなるぞ。イシの人と、キの人と、ヒの人と、ミヅの人と、できるぞ。今にチリチリバラバラに一時はなるのであるから、その覚悟よいか。毎度知らしてあること忘れるなよ。神示 腹の腹底まで浸むまで読んで下されよ。神頼むぞ。悟った方 神示とけよ。といて聞かせよ。役員 皆とけよ。信ずる者皆人に知らしてやれよ。神示読んで嬉しかったら、知らしてやれと申してあらうが。天明は神示書かす役ぞ。アホになれと申してあろが、まだまだぞ、役員 気付けて呉れよ。神示の代りにミ身に知らすと申してある時来たぞ。愈々の時ぞ。神示で知らすことのはじめは済みたぞ。実身掃除せよ。ミ身に知らすぞ。実身に聞かすぞ、聞かな聞く様にして知らすぞ。つらいなれど、がまんせよ。ゆめゆめ利功出すでないぞ。判りたか、百姓にもなれ、大工にもなれ、絵描きにもなれ。何にでもなれる様にしてあるでないか。役員も同様ぞ。まどゐつくるでないぞ、金とるでないぞ。神に供へられたものはみな分けて、喜ばしてやれと申してあろが。此の方 喜ぶこと好きぞ、好きの事栄えるぞ。いや栄へるぞ。信者つくるでないぞ。道伝へなならんぞ。取違へせん様に慢心せん様に、生れ赤児の心で神示読めよ。神示いただけよ。日本の臣民 皆勇む様、祈りて呉れよ。世界の人民 皆よろこぶ世が来る様 祈りて呉れよ、てんし様まつれよ。みことに服(まつ)ろへよ。このこと出来れば他に何も判らんでも、峠越せるぞ。御民いのち捨てて生命に生きよ。「鳥鳴く声す 夢さませ、見よ あけ渡るひむかしを、空色晴れて沖つ辺に、千船行きかふ靄(もや)の裡(うち)。」「いろは、にほへとち、りぬるをわかよ、たれそ、つねならむ、うゐのおくやま、けふこ、えてあさき、ゆめみしゑひもせすん。」 「アオウエイ。カコクケキ。サソスセシ。タトツテチ。ナノヌネニ。ハホフヘヒ。マモムメミ。ヤヨユエイ。ラロルレリ。ワヲウヱヰ。」 アイウエオ。ヤイユエヨ。ワヰヱヲ。カキクケコ。サシスセソ。タチツテト。ナニヌネノ。ハヒフヘホ。マミムメモ。ヤイユエヨ。ラリルレロ。ワヰウヱヲ。五十九柱ぞ。此の巻 夜明けの巻とせよ。この十二の巻よく腹に入れておけば何でも判るぞ。無事に峠越せるぞ。判らん事は自分で伺へよ。それぞれにとれるぞ。天津日嗣皇尊(あまつひつぎすめらみこと)弥栄(やさか)いや栄(さか)。あら楽し、あら楽し、あなさやけ、あなさやけ、おけ。 一二三四五六七八九十百千卍(ひふみよいつむゆななやここのたりももちよろず)。 秋満つ日に、アメのひつ九かみしるす。』(夜明けの巻 第十三帖)
『世界中から神示通りに出て来て足元から火が付いても、まだ我張りてゐる様では今度は灰にするより方法(ほか)ないぞ。恐しなっての改心では御役六ヶ敷いぞ。因縁あるミタマでも曇りひどいと、御用六ヶ敷い事あるぞ、神示頂いたとて役員面(やくいんづら)すると鼻ポキンぞ、と気付けてあろがな、五十九柱いくらでもあるのざぞ、かへミタマあると申してあろがな、務めた上にも務めなならんぞ、因縁深い程 罪も借銭も深いのざぞ、岩戸閉めにもよき身魂あるぞ、岩戸開きにも悪きあるぞ、気付け合ってよき御用結構ざぞ、勇んで務め下されよ。心から勇む仕事よき事ぞ、此の方の好く事ざぞ。木の葉落ちて冬となれば淋しかろがな、紅葉(もみじ)ある内にと気付けおいたが紅葉の山も落ちたであろがな、他で判らん根本のキのこと知らす此の方の神示ぢゃ、三千世界のこと一切の事 説いて聞かして得心させて上げますぞや。落ち付いて聞き落しのない様になされよ、悔しさ目に見へておろがな、どぶつぼに我と落ち込む人民許り出て来て、神の国 臭くて足の踏場もないぞ、なれども見て御座れ、三千世界一度にひらいて世界一列一平一つのてん詞(四)で治めるぞ。地の世界に大将なくなって五大州引繰り返りてゐると申すことまだ判らんのか、目に見せても耳に聞かしても、まだ判らんか、尻の毛まで悪魔に抜かれてゐて まだ判らんのか、あんまりな事ぢゃなあ。是までは高し低しの戦でありたが、是からは誠の深し浅しの戦(いくさ)ざぞ、誠とはコトざぞ 口でないぞ、筆でないぞ コトざぞ、コト気付けと申してあろがな。コト、コト、コト、ざぞ。始めウタあったぞ、終もウタぞ、今も昔もウタざぞ、人民も動物もウタ唄ふのざぞ、終の御用の始はウタぞ、ウタの集団(つどひ)とせよ。此の神示ウタとして知らす集団とせよ、ウタの集団 始ざぞ、表ざぞ、裏の裏ざぞ、表の表ぞ、道開く表の終の御用ぞ、江戸の御用すみたから、尾張の御用と申してあろがな、カイの御用も忘れてならんのざぞ。食物(おしもの)の集団も作らなならんぞ、カイの御用の事ぞ、此の集団も表に出してよいのざぞ、時に応じてどうにでも変化(へんげ)られるのがまことの神の集団ざぞ。不動明王殿も力あるに、あそこ迄落してあるは神に都合ある事ぞ。世に落ちて御座る守護神と 世に落ちてゐる神々様と 世に出てゐる神々様と 世に落ちて出てゐる守護神殿と 和合なさりて物事やって下されよ、二人でしてくれと申してあろがな、判りたか。』(雨の巻 第十三帖)
『神の智と学の智とは始は紙一重であるが、先に行く程ンプ出来て来て天地の差となるぞ、◎の神の薬のやり方 悪の神の毒のやり方となるぞ、神の御用が人の御用ぞ、人の御用が神の御用であるなれど、今の臣民 神の御用するのと人の御用するのと二つに分けてゐるが、見苦しき者にはこれからは御用致させん事にきまりたから気付けておくぞ、何事も順正しくやりて下されよ、神は順であるぞ、順乱れた所には神の能(はたらき)現はれんぞ。何もせんでゐて、よき事許り持ちてゐると物事後戻りになるぞ、神の道には後戻りないと申してあろがな、心得なされよ、一(ハジメ)の火 消へてゐるでないか、まだ判らんか、都会へ都会へと人間の作った火に集まる蛾(が)の様な心では今度の御用出来はせんぞ、表面(うわつら)飾りてまことのない教への所へは人集まるなれど、誠の道伝へる所へは臣民なかなか集まらんぞ、見て御座れよ、幾ら人少なくても見事なこと致して御目にかけるぞ、縁ある者は一時に神が引寄せると申してあろがな、人間心で心配致して呉れるなよ。目眩(めまひ)する人も出来るぞ、ふんのびる人も沢山に出来て来るぞ。行けども行けども白骨許りと申してあろがな、今のどさくさにまぎれて悪魔はまだえらい仕組致して上にあがるなれど、上にあがりきらん内にぐれんぞ、せめて三日天下が取れたら見物であるなれど、こうなることは世の元から判ってゐるから もう無茶な事は許さんぞ。軽い者程 上に上に上がって来るぞ、仕組通りなってゐるのざから臣民心配するでないぞ。今度 神の帳面から除かれたら永遠に世に出る事出来んのであるから、近慾に目くれて折角のお恵みはづすでないぞ、神 キつけておくぞ。人の苦しみ見てそれ見た事かと申す様な守護神に使はれてゐると気の毒出来るぞ、世建替へて先の判る世と致すのぢゃぞ、三エスの神宝(かんだから)と、3S(スリーエス)の神宝とあるぞ、毒と薬でうらはらであるぞ。五と五では力出んぞ、四と六、六と四、三と七、七と三でないと力生れんぞ、力生れるから、カス出来るのざから掃除するのが神の大切な仕事ぞ、人民もカスの掃除する事 大切な御役であるぞ、毒と薬と薬と毒で御座るぞ、搗(つ)きまぜて こねまぜて天晴(あっぱれ)此の世の宝と致す仕組ざぞ、判りたか。一方の3Sより判らんから、人民 何時も悪に落ち込むのぢゃ、此の道は中行く道と申して知らしてあろがな、力余ってならず、力足らんでならず、しかと手握りてじっと待ってゐて下されよ、誠の教ばかりでは何もならんぞ、皆に誠の行(オコナイ)出来んと此の道開けんぞ、理屈申すでないぞ、幾ら理屈立派であっても行(オコナイ)出来ねば悪であるぞ、此の世の事は人民の心次第ぞ。』(雨の巻 第九帖 ◎は原文では「○にヽ」の形)
『土地分け盗りばかりか、天まで分け盗って自分のものと、威張ってゐるが、人民の物一つもないのぢゃ。大引上げにならんうちに捧げた臣民 結構ぞ。宮の跡はSとなるぞ。ナルトとなるぞ。天の言答(一八十)は開いてあるぞ。地の言答(一八十)、人民 開かなならんぞ、人民の心次第で何時でも開けるのざぞ。泥の海になると、人民思ふところまで一時は落ち込むのぢゃぞ、覚悟はよいか。神国には神国の宝、神国の臣民の手で、元の所へ納めなならんのざ。タマなくなってゐると申してあらうがな。何事も時節到来致してゐるのざぞ、真理(ふじ)晴れるばかりの御代となってゐるのぢゃぞ。人民 神に仕へて下さらんと神のまことの力出ないぞ、持ちつ持たれつと申してあらうがな、神まつらずに何事も出来んぞ、まつらいでするのが我よしぞ、天狗の鼻ざぞ。まつらいでは真暗ぞ、真暗の道で、道開けんぞ。神は光ぞと申してあらうが、てん詞(し)様よくなれば、皆よくなるのざぞ。てん詞(し)様よくならんうちは、誰によらん、よくなりはせんぞ、この位のことなぜにわからんのぢゃ、よくなったと見えたら、それは悪の守護となったのぢゃ。神がかりよくないぞ、やめて下されよ、迷ふ臣民出来るぞ。程々にせよと申してあらうが。皆々心の鏡掃除すれば、それぞれに神かかるのぢゃ。肉体心で知る事は皆粕(カス)ばかり、迷ひの種ばかりぢゃぞ、この道理判りたであらうがな、くどう申さすでないぞ。』(風の巻 第九帖)
『神が引寄せるからと申して懐手してゐては道は拡まらんぞ、弥栄とは次々に限りなく喜びをふやして養って行くことざぞ、喜びとはお互ひに仲よくすることぞ、喜びは生きものぞ、形あるものぞ、色あるものぞ、声あるものぞ、判りたか。教会つくれと申しても今迄の様な教会ではならんぞ、今迄の教会も元はよいのであるぞ、いづれも取次役員がワヤにいたしたのぢゃ、神の心からはなれて人間心となったからぢゃ。神の動きは、アヤワ○(ヤ)○(ワ)ざと申してあろが、それをヤワ○(ヤ)○(ワ)となしワ○(ヤ)○(ワ)と致し、○(ヤ)○(ワ)となし○(ヤ)○(ワ)にして分らんことにいたしたのぢゃ、タマなくなって その上に上下、下ひっくり返ってゐると申してあらうがな、分りたか。』(青葉の巻 第二十一帖 ○(ヤ)、○(ワ)はそれぞれ○の中に「ヤ」「ワ」の形)
『メリカもギリスは更なり、ドイツもイタリもオロシヤも外国はみな一つになりて神の国に攻め寄せて来るから、その覚悟で用意しておけよ。神界ではその戦の最中ぞ。学と神力との戦と申しておろがな、どこから何んなこと出来るか、臣民には分かるまいがな、一寸先も見えぬほど曇りて居りて、それで神の臣民と思うてゐるのか、畜生にも劣りてゐるぞ。まだまだわるくなって来るから、まだまだ落ち沈まねば本当の改心出来ん臣民 沢山あるぞ。玉とは御魂(おんたま)ぞ、鏡とは内に動く御力ぞ、剣とは外に動く御力ぞ、これを三種(みくさ)の神宝(かむたから)と申すぞ。今は玉がなくなってゐるのぞ、鏡と剣だけぞ、それで世が治まると思うてゐるが、肝腎の真中ないぞ、それでちりちりばらばらぞ。アとヤとワの詞(四)の元要るぞと申してあろがな、この道理分らんか、剣と鏡だけでは戦勝てんぞ、それで早う身魂みがいて呉れと申してあるのぞ。上下ないぞ、上下に引繰り返すぞ、もう神待たれんところまで来てゐるぞ、身魂みがけたら、何んな所で何んなことしてゐても心配ないぞ、神界の都にはあくが攻めて来てゐるのざぞ。』(富士の巻 第三帖)
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まわりうた
みなのうや いたるこのよへ
なにもかも になへよのこる たいやうのなみ
(皆の礼 至るこの世へ 何も彼も 荷なへよ残る 太陽の波)
解説
礼(うや)は「礼儀。いや。」の意味です。
余談
この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk4の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
自分で書いておいてなんだけど、何だかわかるようなわからないような……。
たぶん、皆の身魂が綺麗に磨かれて、お互いに拝み合うような仲になってミロクの世が出来るので、それまで何もかも荷なって、神の御用をしてくれってことかと思われる。「太陽の波」は、それぞれの心の岩戸が開かれた状態のことか。あるいはそれぞれの徳のこと。
日月神示参照
『神示はちっとも違はん。違ふと思ふことあったら己の心顧みよ。その心 曇ってゐるのであるぞ。めぐりあるだけ神がうらめしくなるぞ。めぐりなくなれば神が有難いのぢゃ。人間無くて神ばかりでは、この世のことは出来はせんぞ。神が人間になって働くのぞ。判りたか。新しき神国が生れるまで めぐりばかりがうようよと、昔のしたことばかり恋しがってゐるが、そんなこと何時までもつづかんぞ。三年の苦しみ、五年もがき、七年でやっと気のつく人民多いぞ。皆仲よう相談し合って力合せて進め進め。弥栄えるぞ。二つに分れるぞ。三つに分れるぞ。分れて元に納まる仕組。結構結構。理解大切。理解結構。思考しなければ これからは何も出来んぞ。拝み合ふことは理解し合ふことぞ。手合せて拝むばかりでは何も判りはせんぞ。何故に、心の手 合せんのぢゃ。心の手とは左行く心の手と右行く心の手と和すことぢゃ。サトルことぢゃ。苦しんで苦しんで苦しみぬいて得たことは楽に得たことぢゃ。その楽に得たことのみ自分の身につくのぢゃ。血ぢゃ。肉ぢゃ。』(黄金の巻 第十三帖)
『音秘会(おとひめかい)には別に神祀らいでもよいぞ、光の大神様 斎き祀り結構いたしくれよ、皆に音秘様の分霊(わけみたま)さずけとらすぞ。お守り、さずけとらすぞ、光の大神様の信者には御神名さずけとらせよ、役員には御神石まつりくれよ、光の大神様の日々の御給仕には十(とう)のカワラケにて供へまつれよ。役員七つに分けよ、大道師、権大道師、中道師、権中道師、小道師、権小道師、参道の七段階ぞ、中道師から上は神人共ざぞ。世界の民の会は三千世界に拝み合ふのざぞ、何事も神まつり第一ざと申してあろがな。大き器持ちて御座れよ、小さい心では見当とれんことになるぞ。慢心取違いポキンぞ。ミタマ何時でも変るのざぞ、次々に偉い人出て来るから神示よく読んでグングン行って進めよ、行ふ所 神現はれるぞ、光の道 弥栄ぞ、なせばなるのざぞ、人民どんどん行はなならんのざぞ、この神示から、ひかり教会から世に出せよ、この巻「ア火ハ(アオバ)の巻」、前の巻は「三@(ソラ)の巻」とせよ。』(青葉の巻 第一帖 @は原文では「渦巻き」の形)
『ひふみゆらゆらと一回二回三回となへまつれよ、蘇(よみがえへ)るぞ。次に人は道真中にしてワとなり、皆の者 集まりてお互に拝み、中心にまつりまつり結構ぞ、節分からでよいぞ。このお道の導きの親 尊べよ、どんな事あっても上に立てねばならんぞ、順乱しては神の働きないと申してあろがな。直会(なほらい)には神の座 上につくらなならんのざぞ、神人共にと申してあろがな、末だ判らんのか、順正しく礼儀正しく神にも人にも仕へまつれよ。たばねの神は、束(たばね)の人は後からぢゃ、後から出るぞ。』(空の巻 第二帖)
『皆の者 御苦労ぞ、「世界の民の会」つくれよ、人民 拝み合ふのざぞ。皆にまつろへと申してあろがな。まどひつくれつくれ、皆おろがみ合ふのざぞ、まどひのしるしは◎ぞ、おろがみ合ふだけの集団(まどゐ)でよいぞ。理屈 悪ぢゃ、こんな事云はんでも判っておろが、神示読めよ読めよ。』(梅の巻 第三帖 ◎は原文では「○にヽ」の形)
『天国の政治は、歓喜の政治である。故に、戒律はない。戒律の存在する処は、地獄的段階の低い陰の世界であることを知らねばならない。天国の政治は、愛の政治である。政治する政治ではない。より内奥の、より浄化されたる愛そのものからなされる。故に、与える政治として現われる。天国は、限りなき団体によって形成されている。そして、その政治は、各々の団体に於ける最中心、最内奥の歓喜によりなされるのである。統治するものは一人であるが、二人であり、三人として現われる。三人が元となり、その中心の一人は、ヽによって現わされ、他の二人は、○によって現わされる。○は、左右上下 二つの動きの@を為すところの立体@からなっている。統治者の心奥のヽは、更に高度にして、更に内奥に位するヽの中のヽによって統一され、統治され、立体@をなしている。天国では、このヽを、スの神と敬称し、歓喜の根元をなしている。スの神は、アの神と現われ給い、オとウとひらき給い、続いて、エとイと動き現われ給うのである。これが総体の統治神である。三神であり、二神である。ア、オ、ウは愛であり、エ、イは真である。これら天国の組織は、人体の組織と対応し、天国の一切の事象と運行とは、人体のそれに対応している。オ、ウなる愛は曲線であり、心臓である。エ、イなる真は、直線であり、肺臓に対応して三五七と脈うち、呼吸しているのである。これらの統治者は権力を奪することなく、また指令することもない。よりよく奉仕するのみである。奉仕するとは、如何にしてよりよく融和し、善と、真との浄化と共に、悪と偽の調和をなし、これらの総てを神の力として生かし、更に高度なる大歓喜に到らんかと努力することである。また統治者自身は、自分達を他の者より大なる者とはせず、他の善と真とを先とし、その歓喜を先ずよろこび、己はその中にとけ入る。故にこそ、統治者は常にその団体の中心となり、団体の歓喜となるのである。指令することは、戒律をつくることであり、戒律することが神の意志に反することを、これらの統治者は、よく知っている。天国に於ける政治の基本は、以上の如くであるが、更に各家庭に於ては、同一の形体をもつ政治が行なわれている。一家には、一家の中心たる主人、即ち統治者がおり、前記の如き原則を体している。またその家族たちは、主人の働きを助け、主人の意を意として働く。その働くことは、彼等にとって最大の歓喜であり、弥栄である。即ち、歓喜の政治であり、経済であり、生活であり、信仰である。天国に於ける天人、霊人たちは、常にその中心歓喜たる統治者を神として礼拝する。歓喜を礼拝することは、歓喜の流入を受け、より高き歓喜に進んで行くことである。けれども、天国における礼拝は、地上人のそれの如き礼拝ではない。礼拝生活である。総てと拝み合い、且つ歓喜し合うことである。与えられたる仕事を礼拝し、仕事に仕えまつる奉仕こそ、天国の礼拝の基本である。故に、各々の天人、天使の立場によって、礼拝の形式、表現は相違している。しかし、歓喜の仕事に仕えまつることが礼拝であると云う点は一致している。地上人的礼拝は、形式の世界たる地上に於ては、一つのいき方であるが、天国に於ける礼拝は、千変万化で、無限と永遠に対するものである。無限と永遠は、常に弥栄えるが故に生ずるものであり、その弥栄が神の用である。森羅万象の多種多様、限りなき変化、弥栄を見て、この無限と永遠を知り、あらゆる形において変化繁殖するを見て、無限と、永遠が神の用なることを知らねばならぬ。天国の政治は、光の政治である。天国にも地上の如く太陽があり、その太陽より、光と、熱とを発しているが、天国の太陽は、一つではなく二つとして現われている。一は月球の如き現われ方である。一は火の現われ、火の政治であり、一は水の現われ、水の政治である。愛を中心とする天人は、常に神を太陽として仰ぎ、智を中心とする天使は、常に神を月として仰ぐ。月と仰ぐも、太陽と仰ぐも、各々その天人、天使の情動の如何によるのであって、神は常に光と熱として接し給うのである。またそれは、大いなる歓喜として現われ給う。光と熱とは、太陽そのものではない。太陽は、火と現われ、月は、水と現われるが、その内奥はいずれも大歓喜である。光と熱とは、そこより出ずる一つの現われに過ぎないことを知らねばならぬ。このことをよく理解するが故に、天国の政治は、常に光の中にあり、また熱の中に育ち栄え、歓喜するのである。天国の太陽よりは、真と愛とが常に流れ出ているが、その真と、愛とは、太陽の中にあるのではなく、現われ出たものが真と見え、愛と感じられるのみである。太陽の内奥は大歓喜が存在する。故に高度の天人の場合は、愛も真もなく、遥かにそれらを超越した歓喜のヽが感じられるのみである。この歓喜のヽが、真、善、美、愛となって、多くの天人、天使たちには感じられるのである。歓喜は、そのうけ入れる天人、天使、霊人、地上人たちのもつ内質の如何によって、千変万化し、また歓喜によって統一されるのであるということを知らねばならぬ。』(地震の巻 第十九帖)
『宇宙のすべてがつながりであるぞ。石でも水でも草でも木でも動物でもすべてがつながりぢゃ。手と頭のようなもんぢゃ。拝み合へよ。親しみ合へよ。和せよ。和すと自分となるのぢゃぞ。自分 大きく、明るくなるのぢゃ。豊かにうれしうれしぢゃ。赤いものの中にゐると赤くなって行く。理(リ)に向ってゐると、いつの間にか神の気いただくぞ。神の光がいただけるのぢゃ。二度三度、話きいたり、おろがんだりくらいで理は判らん。神は解らん。体験せねばならん。一方的では何事も成就せん。もちつもたれつであると申してあろう。』(春の巻 第三十帖)
『汽車あれば汽車に乗れよ。飛行機あれば飛行機に乗れよ。歩いたり、馬で行くのでは間に合はんことになってゐるぞ。昔のままの宗教のやり方ではならん。根本はよくても中々に目的地にはつかん。飛行機時代には飛行機に乗れよ。乗って進む宗教の道によらねばならん。今は今の姿が真実ぞ。そなたの頭で割り切れんと申してブツブツ申すでないぞ。あるものそのものが真実であるぞ。そのあるものを拝み、祝福して、其処から出発せよ。現在を祝福することは過去を、未来を、総てを祝福することぞ。たとへ如何なる現在も、その現在を祝福せねばならん。喜びせねばならん。喜びもとと申してあらうがな。この巻くろかねの巻。』(黒鉄の巻 第一帖)
『この神示読むとミタマ磨けるぞ、ミガケルぞ。神示読むと改心出来るぞ。暮し向きも無理なく結構にヤサカ、弥栄えるぞ。まだ判らんのか。苦しいのは神示読まんからぢゃ。金の世すみて、キンの世来るぞ。三年目、五年目、七年目ぢゃ、心得なされよ。欲しいもの欲しい時食べよ。低うなるから流れて来るのぢゃ。高うなって天狗ではならん道理。頭下げると流れ来るぞ。喜び、愛から来るぞ。神様も神様を拝み、神の道を聞くのであるぞ。それは◎と@(時計)と@(反時計)とによって自分のものとなるのぢゃ。融けるのぢゃ。一つ境があるぞ。世界の人民一人一柱 守りの神つけてあるぞ。人に説くには人がいるぞ。役員 取違ひしてゐるぞ。われよし信仰だからぞ。あまり大き過ぎるから判らんのも道理ながら、判らんでは済まん時来てゐるぞ。いざと云ふ時は日頃の真心もの云ふぞ。付け焼刃は付け焼刃。神拝むとは、頭ばかり下げることでないぞ。内の生活することぞ。内外共でなくてはならん。残る一厘は悪の中に隠してあるぞ。』(黄金の巻 第二十三帖 原文では◎は「○にヽ」、@(時計)は「内から外に向かって時計回りの渦巻き」、@(左)は「内から外に向かって反時計回りの渦巻き」の形)
『此の世の位もいざとなれば宝も富も勲章も役には立たんのざぞ、此の世去って、役に立つのは身魂の徳だけぞ、身についた芸は其の儘役立つぞ。人に知れぬ様に徳つめと申してあろがな、神の国に積む徳のみが光るのざぞ、マアカタの御用結構であったぞ、富士晴れるぞ、湖(うみ)晴れるぞ。此の巻、日の出の巻として纒めて役員に読ませて一二三として皆に知らせて呉れよ、神急ぐぞ。』(日の出の巻 第二十三帖)
『今の人民 少しは神示判って居らんと恥づかしい事出来て来るぞ、なさけない事出来てくるぞ、くやしさ目の前ぞ。次の世がミロクの世、天の御先祖様なり、地の世界は大国常立の大神様 御先祖様なり、天の御先祖様 此の世の始まりなり、お手伝いが弥栄のマコトの元の生神様なり、仕上げ見事成就致さすぞ、御安心致されよ。天も晴れるぞ、地も輝くぞ、天地一つとなってマコトの天となりなりマコトの地となりなり、三千世界一度に開く光の御代ぞ楽しけれ、あな爽(さや)け、あなすがすがし、あな面白や、いよいよ何も彼も引寄せるから その覚悟よいか、覚悟せよ、あな爽け、あなすがすがし、四十七と四十八と四十九ぢゃ。』(梅の巻 第十七帖)
『日に日に厳しくなりて来ると申してありた事 始まってゐるのであるぞ、まだまだ激しくなって何うしたらよいか分らなくなり、あちらへうろうろ、こちらへうろうろ、頼る処も着るものも住む家も食ふ物も無くなる世に迫って来るのざぞ。それぞれにめぐりだけの事はせなならんのであるぞ、早い改心はその日から持ちきれない程の神徳与へて喜悦(うれ)し喜悦(うれ)しにしてやるぞ、寂しくなりたら訪ねて御座れと申してあろがな、洗濯次第で何んな神徳でもやるぞ、神は御蔭やりたくてうづうづしてゐるのざぞ、今の世の様見ても未だ会得らんか。神と獣とに分けると申してあろが、早う此の神示(ふで)読み聞かせて一人でも多く救けて呉れよ。』(日の出の巻 第十二帖)
『この道は神の道であり人の道であるぞ。この道の役員は神が命ずることもあるが、おのれが御用すれば、自然と役員となるのぞ、たれかれの別ないぞ、世界中の臣民みな信者ざから、臣民が人間ごころでは見当とれんのも無理ないなれど、この事よく腹に入れて置いてくれよ。神の土出るぞ、早く取りて用意して皆に分けてやれよ。神に心向ければ、いくらでも神徳与へて何事も楽にしてやるぞ。』(下つ巻 第十八帖)
『マコトの者は千人に一人ざぞ、向ふの国にはまだまだドエライ仕組してゐるから今の内に神の申すこと聞いて、神国は神国のやりかたにして呉れよ。人の殺し合ひ許りではケリつかんのざぞ、今度のまけかちはそんなチョロコイことではないのざぞ、トコトンの処まで行くのざから神も総活動ざぞ、臣民 石にかじりついてもやらねばならんぞ、そのかわり今後は万劫末代のことざから何時迄もかわらんマコトの神徳あたへるぞ。云はれぬこと、神示に出せぬことも知らすことあるぞ。』(磐戸の巻 第十二帖)
『世の元からの生神が揃うて現はれたら、皆腰ぬかして、目パチクリさして、もの云へん様になるのざぞ。神徳貰うた臣民でないと中々越せん峠ざぞ、神徳はいくらでも背負ひきれん迄にやるぞ、大き器もちて御座れよ、掃除した大きいれものいくらでも持ちて御座れよ、神界にはビクともしぬ仕組出来てゐるのざから安心して御用つとめてくれよ。今度はマコトの神の力でないと何も出来はせんぞと申してあろが、日本の国は小さいが天と地との神力強い、神のマコトの元の国であるぞ。洗濯と申すのは何事によらん、人間心すてて仕舞て、智恵や学に頼らずに、神の申すこと一つもうたがはず生れ赤子の心のうぶ心になりて、神の教 守ることぞ。ミタマ磨きと申すのは、神からさづかってゐるミタマの命令に従ふて、肉体心すてて了ふて、神の申す通りそむかん様にすることぞ。学や智を力と頼むうちはミタマは磨けんのざ。学越えた学、智越えた智は、神の学、神の智ざと云ふこと判らんか、今度の岩戸開きはミタマから、根本からかへてゆくのざから、中々であるぞ、天災や戦ばかりでは中々らちあかんぞ、根本の改めざぞ。小さいこと思ふてゐると判らんことになると申してあろがな、この道理よく肚に入れて下されよ、今度は上中下三段にわけてあるミタマの因縁によって、それぞれに目鼻つけて、悪も改心さして、善も改心さしての岩戸開きざから、根本からつくりかへるよりは何れだけ六ヶ敷いか、大層な骨折りざぞよ。叱るばかりでは改心出来んから喜ばして改心さすことも守護神にありてはあるのざぞ、聞き分けよい守護神殿 少ないぞ、聞き分けよい悪の神、早く改心するぞ、聞き分け悪き善の守護神あるぞ。この道の役員は昔からの因縁によってミタマ調べて引寄せて御用さしてあるのざ、めったに見当くるわんぞ、神が綱かけたら中々はなさんぞ、逃げられるならば逃げてみよれ、くるくる廻って又始めからお出直しで御用せなならん様になって来るぞ。ミタマ磨け出したら病神などドンドン逃げ出すぞ。出雲(いずも)の神様 大切申せと知らしてあること忘れるなよ。子(ネ)の歳真中にして前後十年が正念場、世の立替へは水と火とざぞ。ひつじの三月三日、五月五日は結構な日ぞ。』(磐戸の巻 第十六帖)
『世に落ちておいでなさる御方(おんかた)御一方(おんひとかた)竜宮の音姫殿 御守護遊ばすぞ、この方、天晴れ表に表れるぞ、これからは神徳貰はんと一寸先へも行けんことになったぞ、御用さして呉れと申してもメグリある金(かね)は御用にならんぞ、メグリになるのざ。自分の物と思ふのが天の賊ぞ、これまで世に出ておいでになる守護じん九分九厘迄 天の賊ぞ。偉い人 愈々とんでもないことになるぞ、捕はれるぞ、痛い目にあわされるぞ、今に目覚めるなれど其の時では遅い遅い。おかみも一時は無くなるのざ、一人々々何でも出来る様になりて居りて呉れと申してあること近うなりたぞ、ひ(火)の大神 気付けて呉れよ、どえらいことになるぞ。一厘のことは云はねばならず云ふてはならず、心と心で知らしたいなれど、心でとりて下されよ、よく神示読んでさとりて呉れよ、神たのむのざぞ。』(キの巻 第十三帖)
『神第一とすれば神となり、悪魔第一とすれば悪魔となるぞ。何事も神第一結構。カイの言霊(かへし)キざぞ。キが元ぞと知らしてあろが、カイの御用にかかりてくれよ。何と云ふ結構なことであったかと、始めは苦しいなれど、皆が喜ぶ様になって来るのざぞ。先楽しみに苦しめよ。ぎゅうぎゅうと、しめつけて目の玉がとび出る事あるのざぞ、そこまでに曇りて居るのざぞ、はげしく洗濯するぞ。可愛い子、谷底に突き落さなならんかも知れんぞ、いよいよ神が表に現はれて神の国に手柄立てさすぞ、神国光り輝くぞ。日本にはまだまだ何事あるか判らんぞ。早く一人でも多く知らしてやれよ。タマ磨けば磨いただけ先が見えすくぞ。先見える神徳与へるぞ。いくらえらい役人頑張りても今迄の事は何も役に立たんぞ。新しき光の世となるのぞ。古きもの脱ぎすてよ、と申してあろがな。まこと心になりたならば自分でも判らん程の結構出て来るぞ。手柄立てさすぞ。いくら我張りても我では通らんぞ。我折りて素直になりて下されよ、これでよいと云ふことないぞ。いくらつとめても、これでよいと云ふことはないのざぞ。神の一厘のしぐみわかりたら世界一列一平になるぞ。ますかけひいて、世界の臣民、人民 勇みに勇むぞ。勇む事 此の方 嬉しきぞ。富士は何時爆発するのざ、何処へ逃げたら助かるのぞと云ふ心 我れよしぞ。何処に居ても救ふ者は救ふと申してあろが。悪き待つキは悪魔のキざぞ。結構が結構生むのざぞ。』(水の巻 第十一帖)
『折角 神が与えたおかげも今の人民では荷が重いから途中で倒れん様に神示を杖として下されよ、イキ切れん様になされよ。一つでも半分でも神の御用つとめたらつとめ徳ざぞ、何と申しても神程たよりになるものはないと判らんのか、おかげ取り徳。破れるは内からぞ、外からはビクとも致さんぞ。天では月の大神様、ミ、ヤ、カ、ラ、ス、出て来るぞ、始末よくして下されよ、始末よく出来れば何事も楽になって来るぞ、火のタキ方から水の汲み方まで変るのであるぞ、大切なことであるぞ。うそはちっとも申されん、この神示通りに出て来るのぢゃ、先の先の先まで見通しつかん様な事では、こんなタンカは切れんのざぞ、おかげは其の心通りに与へてあるでないか。下の神が上の神の名をかたりて来ることあるぞ、それが見分けられん様では取違ひとなるぞ、十人位は神示がそらで云へる人をつくっておかねばならんぞ。』(海の巻 第八帖)
『真理を知って、よくならなかったら、よく省みよ。よくなるのがマコトであるぞ。悪くなったら心せねばならん。善人が苦しむことあるぞ。よく考へて見い。長い目で見てよくしようとするのが神の心ぞ。目の前のおかげでなく、永遠の立場から、よくなるおかげがマコトのおかげ。神徳は重いから腰ふらつかんやうにして下されよ。その代り貫きて下されたら、永遠(トワ)にしぼまん九の花となるぞ。二二(フジ)に、九(ク)の花どっと咲くぞ。拍手は清めであるが、神様との約束固めでもあるぞ。約束たがへるでないぞ。』(黄金の巻 第七十六帖)
『理屈は一方的のものぞ。どんな理屈も成り立つが、理屈程 頼りないもの、力にならんものないぞ。理(リ)が◎(カミ)の御能(オンハタラキ)ぞ、よく見極めねば間違うぞ。囚はれるなよ。他の為に苦労することは喜びであるぞ。全体のために働くことは喜びぞ。【光の生命】ぞ。誰でも重荷負はせてあるのぢゃ。重荷あるからこそ、風にも倒れんのざ。この道理、涙で笑って汗で喜べよ。それとも重荷外してほしいのか。重い重荷もあるぞ。軽い重荷もあるぞ。今まいた種、今日や明日には実らんのざ。早く花が見たく、実がほしいからあせるのぢゃ、人間の近慾と申すもの。神の大道に生きて実りの秋(トキ)まてよ。まいた種ぢゃ。必ず実る。誰も横取りはせんぞ。万倍になってそなたにかへると申してあらう。未来にもえつつ現在にもえよ。神相手に悠々と天地に歩め。』(黒鉄の巻 第三帖 ◎は原文では「○にヽ」の形)
『使命がいのち。上から、神から命ぜられたことがいのちぞ。使命はつくられた時に与えられる。使命なくてものは生れんぞ。自分の使命は内にききつつ外にきけよ。使命果たすがよろこびぞ。使命果たすには生命がけでなくてはならん。生命ぢゃからのう。努力した上にもせなならんぞ。努力には苦もあるぞ。苦のない努力ないぞ。右を動かせば左もうごくぞ。果たせば苦は楽。果たさねば楽も苦。重荷あるからこそ、苦あるからこそ、風にも倒れんのぢゃ。神が主であるぞ。』(春の巻 第十八帖)
なにもかも になへよのこる たいやうのなみ
(皆の礼 至るこの世へ 何も彼も 荷なへよ残る 太陽の波)
解説
礼(うや)は「礼儀。いや。」の意味です。
余談
この歌は「大神 オリジナル・サウンドトラック」のDisk4の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
自分で書いておいてなんだけど、何だかわかるようなわからないような……。
たぶん、皆の身魂が綺麗に磨かれて、お互いに拝み合うような仲になってミロクの世が出来るので、それまで何もかも荷なって、神の御用をしてくれってことかと思われる。「太陽の波」は、それぞれの心の岩戸が開かれた状態のことか。あるいはそれぞれの徳のこと。
日月神示参照
『神示はちっとも違はん。違ふと思ふことあったら己の心顧みよ。その心 曇ってゐるのであるぞ。めぐりあるだけ神がうらめしくなるぞ。めぐりなくなれば神が有難いのぢゃ。人間無くて神ばかりでは、この世のことは出来はせんぞ。神が人間になって働くのぞ。判りたか。新しき神国が生れるまで めぐりばかりがうようよと、昔のしたことばかり恋しがってゐるが、そんなこと何時までもつづかんぞ。三年の苦しみ、五年もがき、七年でやっと気のつく人民多いぞ。皆仲よう相談し合って力合せて進め進め。弥栄えるぞ。二つに分れるぞ。三つに分れるぞ。分れて元に納まる仕組。結構結構。理解大切。理解結構。思考しなければ これからは何も出来んぞ。拝み合ふことは理解し合ふことぞ。手合せて拝むばかりでは何も判りはせんぞ。何故に、心の手 合せんのぢゃ。心の手とは左行く心の手と右行く心の手と和すことぢゃ。サトルことぢゃ。苦しんで苦しんで苦しみぬいて得たことは楽に得たことぢゃ。その楽に得たことのみ自分の身につくのぢゃ。血ぢゃ。肉ぢゃ。』(黄金の巻 第十三帖)
『音秘会(おとひめかい)には別に神祀らいでもよいぞ、光の大神様 斎き祀り結構いたしくれよ、皆に音秘様の分霊(わけみたま)さずけとらすぞ。お守り、さずけとらすぞ、光の大神様の信者には御神名さずけとらせよ、役員には御神石まつりくれよ、光の大神様の日々の御給仕には十(とう)のカワラケにて供へまつれよ。役員七つに分けよ、大道師、権大道師、中道師、権中道師、小道師、権小道師、参道の七段階ぞ、中道師から上は神人共ざぞ。世界の民の会は三千世界に拝み合ふのざぞ、何事も神まつり第一ざと申してあろがな。大き器持ちて御座れよ、小さい心では見当とれんことになるぞ。慢心取違いポキンぞ。ミタマ何時でも変るのざぞ、次々に偉い人出て来るから神示よく読んでグングン行って進めよ、行ふ所 神現はれるぞ、光の道 弥栄ぞ、なせばなるのざぞ、人民どんどん行はなならんのざぞ、この神示から、ひかり教会から世に出せよ、この巻「ア火ハ(アオバ)の巻」、前の巻は「三@(ソラ)の巻」とせよ。』(青葉の巻 第一帖 @は原文では「渦巻き」の形)
『ひふみゆらゆらと一回二回三回となへまつれよ、蘇(よみがえへ)るぞ。次に人は道真中にしてワとなり、皆の者 集まりてお互に拝み、中心にまつりまつり結構ぞ、節分からでよいぞ。このお道の導きの親 尊べよ、どんな事あっても上に立てねばならんぞ、順乱しては神の働きないと申してあろがな。直会(なほらい)には神の座 上につくらなならんのざぞ、神人共にと申してあろがな、末だ判らんのか、順正しく礼儀正しく神にも人にも仕へまつれよ。たばねの神は、束(たばね)の人は後からぢゃ、後から出るぞ。』(空の巻 第二帖)
『皆の者 御苦労ぞ、「世界の民の会」つくれよ、人民 拝み合ふのざぞ。皆にまつろへと申してあろがな。まどひつくれつくれ、皆おろがみ合ふのざぞ、まどひのしるしは◎ぞ、おろがみ合ふだけの集団(まどゐ)でよいぞ。理屈 悪ぢゃ、こんな事云はんでも判っておろが、神示読めよ読めよ。』(梅の巻 第三帖 ◎は原文では「○にヽ」の形)
『天国の政治は、歓喜の政治である。故に、戒律はない。戒律の存在する処は、地獄的段階の低い陰の世界であることを知らねばならない。天国の政治は、愛の政治である。政治する政治ではない。より内奥の、より浄化されたる愛そのものからなされる。故に、与える政治として現われる。天国は、限りなき団体によって形成されている。そして、その政治は、各々の団体に於ける最中心、最内奥の歓喜によりなされるのである。統治するものは一人であるが、二人であり、三人として現われる。三人が元となり、その中心の一人は、ヽによって現わされ、他の二人は、○によって現わされる。○は、左右上下 二つの動きの@を為すところの立体@からなっている。統治者の心奥のヽは、更に高度にして、更に内奥に位するヽの中のヽによって統一され、統治され、立体@をなしている。天国では、このヽを、スの神と敬称し、歓喜の根元をなしている。スの神は、アの神と現われ給い、オとウとひらき給い、続いて、エとイと動き現われ給うのである。これが総体の統治神である。三神であり、二神である。ア、オ、ウは愛であり、エ、イは真である。これら天国の組織は、人体の組織と対応し、天国の一切の事象と運行とは、人体のそれに対応している。オ、ウなる愛は曲線であり、心臓である。エ、イなる真は、直線であり、肺臓に対応して三五七と脈うち、呼吸しているのである。これらの統治者は権力を奪することなく、また指令することもない。よりよく奉仕するのみである。奉仕するとは、如何にしてよりよく融和し、善と、真との浄化と共に、悪と偽の調和をなし、これらの総てを神の力として生かし、更に高度なる大歓喜に到らんかと努力することである。また統治者自身は、自分達を他の者より大なる者とはせず、他の善と真とを先とし、その歓喜を先ずよろこび、己はその中にとけ入る。故にこそ、統治者は常にその団体の中心となり、団体の歓喜となるのである。指令することは、戒律をつくることであり、戒律することが神の意志に反することを、これらの統治者は、よく知っている。天国に於ける政治の基本は、以上の如くであるが、更に各家庭に於ては、同一の形体をもつ政治が行なわれている。一家には、一家の中心たる主人、即ち統治者がおり、前記の如き原則を体している。またその家族たちは、主人の働きを助け、主人の意を意として働く。その働くことは、彼等にとって最大の歓喜であり、弥栄である。即ち、歓喜の政治であり、経済であり、生活であり、信仰である。天国に於ける天人、霊人たちは、常にその中心歓喜たる統治者を神として礼拝する。歓喜を礼拝することは、歓喜の流入を受け、より高き歓喜に進んで行くことである。けれども、天国における礼拝は、地上人のそれの如き礼拝ではない。礼拝生活である。総てと拝み合い、且つ歓喜し合うことである。与えられたる仕事を礼拝し、仕事に仕えまつる奉仕こそ、天国の礼拝の基本である。故に、各々の天人、天使の立場によって、礼拝の形式、表現は相違している。しかし、歓喜の仕事に仕えまつることが礼拝であると云う点は一致している。地上人的礼拝は、形式の世界たる地上に於ては、一つのいき方であるが、天国に於ける礼拝は、千変万化で、無限と永遠に対するものである。無限と永遠は、常に弥栄えるが故に生ずるものであり、その弥栄が神の用である。森羅万象の多種多様、限りなき変化、弥栄を見て、この無限と永遠を知り、あらゆる形において変化繁殖するを見て、無限と、永遠が神の用なることを知らねばならぬ。天国の政治は、光の政治である。天国にも地上の如く太陽があり、その太陽より、光と、熱とを発しているが、天国の太陽は、一つではなく二つとして現われている。一は月球の如き現われ方である。一は火の現われ、火の政治であり、一は水の現われ、水の政治である。愛を中心とする天人は、常に神を太陽として仰ぎ、智を中心とする天使は、常に神を月として仰ぐ。月と仰ぐも、太陽と仰ぐも、各々その天人、天使の情動の如何によるのであって、神は常に光と熱として接し給うのである。またそれは、大いなる歓喜として現われ給う。光と熱とは、太陽そのものではない。太陽は、火と現われ、月は、水と現われるが、その内奥はいずれも大歓喜である。光と熱とは、そこより出ずる一つの現われに過ぎないことを知らねばならぬ。このことをよく理解するが故に、天国の政治は、常に光の中にあり、また熱の中に育ち栄え、歓喜するのである。天国の太陽よりは、真と愛とが常に流れ出ているが、その真と、愛とは、太陽の中にあるのではなく、現われ出たものが真と見え、愛と感じられるのみである。太陽の内奥は大歓喜が存在する。故に高度の天人の場合は、愛も真もなく、遥かにそれらを超越した歓喜のヽが感じられるのみである。この歓喜のヽが、真、善、美、愛となって、多くの天人、天使たちには感じられるのである。歓喜は、そのうけ入れる天人、天使、霊人、地上人たちのもつ内質の如何によって、千変万化し、また歓喜によって統一されるのであるということを知らねばならぬ。』(地震の巻 第十九帖)
『宇宙のすべてがつながりであるぞ。石でも水でも草でも木でも動物でもすべてがつながりぢゃ。手と頭のようなもんぢゃ。拝み合へよ。親しみ合へよ。和せよ。和すと自分となるのぢゃぞ。自分 大きく、明るくなるのぢゃ。豊かにうれしうれしぢゃ。赤いものの中にゐると赤くなって行く。理(リ)に向ってゐると、いつの間にか神の気いただくぞ。神の光がいただけるのぢゃ。二度三度、話きいたり、おろがんだりくらいで理は判らん。神は解らん。体験せねばならん。一方的では何事も成就せん。もちつもたれつであると申してあろう。』(春の巻 第三十帖)
『汽車あれば汽車に乗れよ。飛行機あれば飛行機に乗れよ。歩いたり、馬で行くのでは間に合はんことになってゐるぞ。昔のままの宗教のやり方ではならん。根本はよくても中々に目的地にはつかん。飛行機時代には飛行機に乗れよ。乗って進む宗教の道によらねばならん。今は今の姿が真実ぞ。そなたの頭で割り切れんと申してブツブツ申すでないぞ。あるものそのものが真実であるぞ。そのあるものを拝み、祝福して、其処から出発せよ。現在を祝福することは過去を、未来を、総てを祝福することぞ。たとへ如何なる現在も、その現在を祝福せねばならん。喜びせねばならん。喜びもとと申してあらうがな。この巻くろかねの巻。』(黒鉄の巻 第一帖)
『この神示読むとミタマ磨けるぞ、ミガケルぞ。神示読むと改心出来るぞ。暮し向きも無理なく結構にヤサカ、弥栄えるぞ。まだ判らんのか。苦しいのは神示読まんからぢゃ。金の世すみて、キンの世来るぞ。三年目、五年目、七年目ぢゃ、心得なされよ。欲しいもの欲しい時食べよ。低うなるから流れて来るのぢゃ。高うなって天狗ではならん道理。頭下げると流れ来るぞ。喜び、愛から来るぞ。神様も神様を拝み、神の道を聞くのであるぞ。それは◎と@(時計)と@(反時計)とによって自分のものとなるのぢゃ。融けるのぢゃ。一つ境があるぞ。世界の人民一人一柱 守りの神つけてあるぞ。人に説くには人がいるぞ。役員 取違ひしてゐるぞ。われよし信仰だからぞ。あまり大き過ぎるから判らんのも道理ながら、判らんでは済まん時来てゐるぞ。いざと云ふ時は日頃の真心もの云ふぞ。付け焼刃は付け焼刃。神拝むとは、頭ばかり下げることでないぞ。内の生活することぞ。内外共でなくてはならん。残る一厘は悪の中に隠してあるぞ。』(黄金の巻 第二十三帖 原文では◎は「○にヽ」、@(時計)は「内から外に向かって時計回りの渦巻き」、@(左)は「内から外に向かって反時計回りの渦巻き」の形)
『此の世の位もいざとなれば宝も富も勲章も役には立たんのざぞ、此の世去って、役に立つのは身魂の徳だけぞ、身についた芸は其の儘役立つぞ。人に知れぬ様に徳つめと申してあろがな、神の国に積む徳のみが光るのざぞ、マアカタの御用結構であったぞ、富士晴れるぞ、湖(うみ)晴れるぞ。此の巻、日の出の巻として纒めて役員に読ませて一二三として皆に知らせて呉れよ、神急ぐぞ。』(日の出の巻 第二十三帖)
『今の人民 少しは神示判って居らんと恥づかしい事出来て来るぞ、なさけない事出来てくるぞ、くやしさ目の前ぞ。次の世がミロクの世、天の御先祖様なり、地の世界は大国常立の大神様 御先祖様なり、天の御先祖様 此の世の始まりなり、お手伝いが弥栄のマコトの元の生神様なり、仕上げ見事成就致さすぞ、御安心致されよ。天も晴れるぞ、地も輝くぞ、天地一つとなってマコトの天となりなりマコトの地となりなり、三千世界一度に開く光の御代ぞ楽しけれ、あな爽(さや)け、あなすがすがし、あな面白や、いよいよ何も彼も引寄せるから その覚悟よいか、覚悟せよ、あな爽け、あなすがすがし、四十七と四十八と四十九ぢゃ。』(梅の巻 第十七帖)
『日に日に厳しくなりて来ると申してありた事 始まってゐるのであるぞ、まだまだ激しくなって何うしたらよいか分らなくなり、あちらへうろうろ、こちらへうろうろ、頼る処も着るものも住む家も食ふ物も無くなる世に迫って来るのざぞ。それぞれにめぐりだけの事はせなならんのであるぞ、早い改心はその日から持ちきれない程の神徳与へて喜悦(うれ)し喜悦(うれ)しにしてやるぞ、寂しくなりたら訪ねて御座れと申してあろがな、洗濯次第で何んな神徳でもやるぞ、神は御蔭やりたくてうづうづしてゐるのざぞ、今の世の様見ても未だ会得らんか。神と獣とに分けると申してあろが、早う此の神示(ふで)読み聞かせて一人でも多く救けて呉れよ。』(日の出の巻 第十二帖)
『この道は神の道であり人の道であるぞ。この道の役員は神が命ずることもあるが、おのれが御用すれば、自然と役員となるのぞ、たれかれの別ないぞ、世界中の臣民みな信者ざから、臣民が人間ごころでは見当とれんのも無理ないなれど、この事よく腹に入れて置いてくれよ。神の土出るぞ、早く取りて用意して皆に分けてやれよ。神に心向ければ、いくらでも神徳与へて何事も楽にしてやるぞ。』(下つ巻 第十八帖)
『マコトの者は千人に一人ざぞ、向ふの国にはまだまだドエライ仕組してゐるから今の内に神の申すこと聞いて、神国は神国のやりかたにして呉れよ。人の殺し合ひ許りではケリつかんのざぞ、今度のまけかちはそんなチョロコイことではないのざぞ、トコトンの処まで行くのざから神も総活動ざぞ、臣民 石にかじりついてもやらねばならんぞ、そのかわり今後は万劫末代のことざから何時迄もかわらんマコトの神徳あたへるぞ。云はれぬこと、神示に出せぬことも知らすことあるぞ。』(磐戸の巻 第十二帖)
『世の元からの生神が揃うて現はれたら、皆腰ぬかして、目パチクリさして、もの云へん様になるのざぞ。神徳貰うた臣民でないと中々越せん峠ざぞ、神徳はいくらでも背負ひきれん迄にやるぞ、大き器もちて御座れよ、掃除した大きいれものいくらでも持ちて御座れよ、神界にはビクともしぬ仕組出来てゐるのざから安心して御用つとめてくれよ。今度はマコトの神の力でないと何も出来はせんぞと申してあろが、日本の国は小さいが天と地との神力強い、神のマコトの元の国であるぞ。洗濯と申すのは何事によらん、人間心すてて仕舞て、智恵や学に頼らずに、神の申すこと一つもうたがはず生れ赤子の心のうぶ心になりて、神の教 守ることぞ。ミタマ磨きと申すのは、神からさづかってゐるミタマの命令に従ふて、肉体心すてて了ふて、神の申す通りそむかん様にすることぞ。学や智を力と頼むうちはミタマは磨けんのざ。学越えた学、智越えた智は、神の学、神の智ざと云ふこと判らんか、今度の岩戸開きはミタマから、根本からかへてゆくのざから、中々であるぞ、天災や戦ばかりでは中々らちあかんぞ、根本の改めざぞ。小さいこと思ふてゐると判らんことになると申してあろがな、この道理よく肚に入れて下されよ、今度は上中下三段にわけてあるミタマの因縁によって、それぞれに目鼻つけて、悪も改心さして、善も改心さしての岩戸開きざから、根本からつくりかへるよりは何れだけ六ヶ敷いか、大層な骨折りざぞよ。叱るばかりでは改心出来んから喜ばして改心さすことも守護神にありてはあるのざぞ、聞き分けよい守護神殿 少ないぞ、聞き分けよい悪の神、早く改心するぞ、聞き分け悪き善の守護神あるぞ。この道の役員は昔からの因縁によってミタマ調べて引寄せて御用さしてあるのざ、めったに見当くるわんぞ、神が綱かけたら中々はなさんぞ、逃げられるならば逃げてみよれ、くるくる廻って又始めからお出直しで御用せなならん様になって来るぞ。ミタマ磨け出したら病神などドンドン逃げ出すぞ。出雲(いずも)の神様 大切申せと知らしてあること忘れるなよ。子(ネ)の歳真中にして前後十年が正念場、世の立替へは水と火とざぞ。ひつじの三月三日、五月五日は結構な日ぞ。』(磐戸の巻 第十六帖)
『世に落ちておいでなさる御方(おんかた)御一方(おんひとかた)竜宮の音姫殿 御守護遊ばすぞ、この方、天晴れ表に表れるぞ、これからは神徳貰はんと一寸先へも行けんことになったぞ、御用さして呉れと申してもメグリある金(かね)は御用にならんぞ、メグリになるのざ。自分の物と思ふのが天の賊ぞ、これまで世に出ておいでになる守護じん九分九厘迄 天の賊ぞ。偉い人 愈々とんでもないことになるぞ、捕はれるぞ、痛い目にあわされるぞ、今に目覚めるなれど其の時では遅い遅い。おかみも一時は無くなるのざ、一人々々何でも出来る様になりて居りて呉れと申してあること近うなりたぞ、ひ(火)の大神 気付けて呉れよ、どえらいことになるぞ。一厘のことは云はねばならず云ふてはならず、心と心で知らしたいなれど、心でとりて下されよ、よく神示読んでさとりて呉れよ、神たのむのざぞ。』(キの巻 第十三帖)
『神第一とすれば神となり、悪魔第一とすれば悪魔となるぞ。何事も神第一結構。カイの言霊(かへし)キざぞ。キが元ぞと知らしてあろが、カイの御用にかかりてくれよ。何と云ふ結構なことであったかと、始めは苦しいなれど、皆が喜ぶ様になって来るのざぞ。先楽しみに苦しめよ。ぎゅうぎゅうと、しめつけて目の玉がとび出る事あるのざぞ、そこまでに曇りて居るのざぞ、はげしく洗濯するぞ。可愛い子、谷底に突き落さなならんかも知れんぞ、いよいよ神が表に現はれて神の国に手柄立てさすぞ、神国光り輝くぞ。日本にはまだまだ何事あるか判らんぞ。早く一人でも多く知らしてやれよ。タマ磨けば磨いただけ先が見えすくぞ。先見える神徳与へるぞ。いくらえらい役人頑張りても今迄の事は何も役に立たんぞ。新しき光の世となるのぞ。古きもの脱ぎすてよ、と申してあろがな。まこと心になりたならば自分でも判らん程の結構出て来るぞ。手柄立てさすぞ。いくら我張りても我では通らんぞ。我折りて素直になりて下されよ、これでよいと云ふことないぞ。いくらつとめても、これでよいと云ふことはないのざぞ。神の一厘のしぐみわかりたら世界一列一平になるぞ。ますかけひいて、世界の臣民、人民 勇みに勇むぞ。勇む事 此の方 嬉しきぞ。富士は何時爆発するのざ、何処へ逃げたら助かるのぞと云ふ心 我れよしぞ。何処に居ても救ふ者は救ふと申してあろが。悪き待つキは悪魔のキざぞ。結構が結構生むのざぞ。』(水の巻 第十一帖)
『折角 神が与えたおかげも今の人民では荷が重いから途中で倒れん様に神示を杖として下されよ、イキ切れん様になされよ。一つでも半分でも神の御用つとめたらつとめ徳ざぞ、何と申しても神程たよりになるものはないと判らんのか、おかげ取り徳。破れるは内からぞ、外からはビクとも致さんぞ。天では月の大神様、ミ、ヤ、カ、ラ、ス、出て来るぞ、始末よくして下されよ、始末よく出来れば何事も楽になって来るぞ、火のタキ方から水の汲み方まで変るのであるぞ、大切なことであるぞ。うそはちっとも申されん、この神示通りに出て来るのぢゃ、先の先の先まで見通しつかん様な事では、こんなタンカは切れんのざぞ、おかげは其の心通りに与へてあるでないか。下の神が上の神の名をかたりて来ることあるぞ、それが見分けられん様では取違ひとなるぞ、十人位は神示がそらで云へる人をつくっておかねばならんぞ。』(海の巻 第八帖)
『真理を知って、よくならなかったら、よく省みよ。よくなるのがマコトであるぞ。悪くなったら心せねばならん。善人が苦しむことあるぞ。よく考へて見い。長い目で見てよくしようとするのが神の心ぞ。目の前のおかげでなく、永遠の立場から、よくなるおかげがマコトのおかげ。神徳は重いから腰ふらつかんやうにして下されよ。その代り貫きて下されたら、永遠(トワ)にしぼまん九の花となるぞ。二二(フジ)に、九(ク)の花どっと咲くぞ。拍手は清めであるが、神様との約束固めでもあるぞ。約束たがへるでないぞ。』(黄金の巻 第七十六帖)
『理屈は一方的のものぞ。どんな理屈も成り立つが、理屈程 頼りないもの、力にならんものないぞ。理(リ)が◎(カミ)の御能(オンハタラキ)ぞ、よく見極めねば間違うぞ。囚はれるなよ。他の為に苦労することは喜びであるぞ。全体のために働くことは喜びぞ。【光の生命】ぞ。誰でも重荷負はせてあるのぢゃ。重荷あるからこそ、風にも倒れんのざ。この道理、涙で笑って汗で喜べよ。それとも重荷外してほしいのか。重い重荷もあるぞ。軽い重荷もあるぞ。今まいた種、今日や明日には実らんのざ。早く花が見たく、実がほしいからあせるのぢゃ、人間の近慾と申すもの。神の大道に生きて実りの秋(トキ)まてよ。まいた種ぢゃ。必ず実る。誰も横取りはせんぞ。万倍になってそなたにかへると申してあらう。未来にもえつつ現在にもえよ。神相手に悠々と天地に歩め。』(黒鉄の巻 第三帖 ◎は原文では「○にヽ」の形)
『使命がいのち。上から、神から命ぜられたことがいのちぞ。使命はつくられた時に与えられる。使命なくてものは生れんぞ。自分の使命は内にききつつ外にきけよ。使命果たすがよろこびぞ。使命果たすには生命がけでなくてはならん。生命ぢゃからのう。努力した上にもせなならんぞ。努力には苦もあるぞ。苦のない努力ないぞ。右を動かせば左もうごくぞ。果たせば苦は楽。果たさねば楽も苦。重荷あるからこそ、苦あるからこそ、風にも倒れんのぢゃ。神が主であるぞ。』(春の巻 第十八帖)
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13
まわりうた
なかきよの かをりてかひな
ふうかいか うふなひかてり をかのよきかな
(永き代の 香りて佳美な 風概が 産な陽が照り 丘の良きかな)
解説
佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、風概(ふうがい)は「自然の美しいながめ。景色。風光。」、産(うぶ)は「自然のままであること。また,できたときのままであること。」の意味です。
余談
この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk2にある「鳥は鳴き、僕は歌う」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
一つ前の歌と似たような表現になってもうたけど、まあこれはこれでええか。
ふうかいか うふなひかてり をかのよきかな
(永き代の 香りて佳美な 風概が 産な陽が照り 丘の良きかな)
解説
佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、風概(ふうがい)は「自然の美しいながめ。景色。風光。」、産(うぶ)は「自然のままであること。また,できたときのままであること。」の意味です。
余談
この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk2にある「鳥は鳴き、僕は歌う」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
一つ前の歌と似たような表現になってもうたけど、まあこれはこれでええか。
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12
まわりうた
なかきよの ゐあいかうふの
ひかりより かひのふうかい あゐのよきかな
(長き夜の 畏愛が産の 光より 佳美の風概 藍の良きかな)
解説
畏愛(いあい)は「おそれうやまいながら親しむこと。」、産(うぶ)は「自然のままであること。また,できたときのままであること。」、佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、風概(ふうがい)は「自然の美しいながめ。景色。風光。」、藍は「藍色に同じ。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「RAKA」の中にある「黎明 ~Aurora~」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
藍色の空にオーロラが一面広がっている風景をイメージしています。
ひかりより かひのふうかい あゐのよきかな
(長き夜の 畏愛が産の 光より 佳美の風概 藍の良きかな)
解説
畏愛(いあい)は「おそれうやまいながら親しむこと。」、産(うぶ)は「自然のままであること。また,できたときのままであること。」、佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、風概(ふうがい)は「自然の美しいながめ。景色。風光。」、藍は「藍色に同じ。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「RAKA」の中にある「黎明 ~Aurora~」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
藍色の空にオーロラが一面広がっている風景をイメージしています。
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12
まわりうた
なかきよの めいしきのいけ
つけるはる けつけいのきし いめのよきかな
(長き夜の 明識の意解 告げる春 月桂の岸 夢の良きかな)
解説
明識(めいしき)は「はっきりとした認識。」、意解(いげ)は「心の解脱(げだつ)。」、月桂(げっけい)は「月。月光。」、夢(いめ)は「ゆめ。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「RAKA」の中にある「春告げ ~Raggi di primavera~」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
この曲自体は夜というより昼のイメージだったのだけれど、CDジャケットの絵も見ながら想像力膨らませて書いたら、意外と悪くなかったです。
つけるはる けつけいのきし いめのよきかな
(長き夜の 明識の意解 告げる春 月桂の岸 夢の良きかな)
解説
明識(めいしき)は「はっきりとした認識。」、意解(いげ)は「心の解脱(げだつ)。」、月桂(げっけい)は「月。月光。」、夢(いめ)は「ゆめ。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「RAKA」の中にある「春告げ ~Raggi di primavera~」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
この曲自体は夜というより昼のイメージだったのだけれど、CDジャケットの絵も見ながら想像力膨らませて書いたら、意外と悪くなかったです。
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12
まわりうた
なかきよの うたのるはんり
ちにかせか にちりんはるの たうのよきかな
(永き代の 歌乗る万里 地に風が 日輪春の 道の良きかな)
解説
日輪は「太陽。日。」、道(どう)は「みち。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「RAKA」の中にある「春告げ ~Raggi di primavera~」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
ちにかせか にちりんはるの たうのよきかな
(永き代の 歌乗る万里 地に風が 日輪春の 道の良きかな)
解説
日輪は「太陽。日。」、道(どう)は「みち。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「RAKA」の中にある「春告げ ~Raggi di primavera~」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
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11
まわりうた
しんしるち ひとりかひみる
つみなきな みつるみひかり とひちるしんし
(信じる地 一人佳美見る 罪無き名 満つる御光 飛び散る仁慈)
解説
佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、仁慈(じんじ)は「いつくしみめぐむ・こと(さま)。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「RAKA」の中にある「AVE MARIA」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
この曲聴いていたら、圧倒的な安らぎと慈しみに満ちた光を目の前(というか額)に感じて、全身と全霊が全て神性を帯びたものに変えられていく感覚を覚えてしまった。いや、あくまでいつもの空想の中での話だけど。
っていうかこの曲、ある意味エロすぎる。聴いてるだけで、身体中に快感が駆け巡ってスースーしよる。
つみなきな みつるみひかり とひちるしんし
(信じる地 一人佳美見る 罪無き名 満つる御光 飛び散る仁慈)
解説
佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、仁慈(じんじ)は「いつくしみめぐむ・こと(さま)。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「RAKA」の中にある「AVE MARIA」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
この曲聴いていたら、圧倒的な安らぎと慈しみに満ちた光を目の前(というか額)に感じて、全身と全霊が全て神性を帯びたものに変えられていく感覚を覚えてしまった。いや、あくまでいつもの空想の中での話だけど。
っていうかこの曲、ある意味エロすぎる。聴いてるだけで、身体中に快感が駆け巡ってスースーしよる。
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11
まわりうた
なかきよの みなもにみうる
またきつき たまるうみにも なみのよきかな
(長き夜の 水面に見得る 全き月 黙る海にも 波の良きかな)
解説
全い(またい)は「完全である。欠けていない。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「RAKA」の中にある「Luna piena」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
またきつき たまるうみにも なみのよきかな
(長き夜の 水面に見得る 全き月 黙る海にも 波の良きかな)
解説
全い(またい)は「完全である。欠けていない。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「RAKA」の中にある「Luna piena」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
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10
まわりうた
なかきよの さかるはなみか
ぬくみのみ くぬかみなはる かさのよきかな
(永き代の 盛る花見が 温みのみ 陸皆春 香の良きかな)
解説
盛るは「にぎわう。栄える。」、花見は「花,特に桜の花を見て楽しむこと。」、温みは「あたたかみ」、陸(くぬが)は「陸(りく)。くにが。くが。」、香(かざ)は「におい。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「RAKA」の中にある「春告げ ~Raggi di primavera~」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
ぬくみのみ くぬかみなはる かさのよきかな
(永き代の 盛る花見が 温みのみ 陸皆春 香の良きかな)
解説
盛るは「にぎわう。栄える。」、花見は「花,特に桜の花を見て楽しむこと。」、温みは「あたたかみ」、陸(くぬが)は「陸(りく)。くにが。くが。」、香(かざ)は「におい。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「RAKA」の中にある「春告げ ~Raggi di primavera~」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
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10
まわりうた
きしといそ みきはたたすむ
けこのちの こけむすたたは きみそいとしき
(岸と磯 水際佇む 笥籠の地の 苔生す立たば 君ぞ愛しき)
解説
佇むは「しばらくの間ある場所に立ったまま動かないでいる。」「行きつもどりつする。徘徊(はいかい)する。」、笥籠(けこ)は「食物を盛る器。」、苔生す(こけむす)は「長い年月を経て,苔がはえる。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「Istoria~Musa~」の中にある「OURANIA-ウラニア-」を聴きながら、それをモチーフにした歌です。
雑感
最近、恋しい人が好き過ぎる。こんなこと言うと絶対引かれるだろうけど、もはや崇拝するレベルにまで達していてやばい。
ちなみに歌の内容は、おそらく地母神について書かれたものかと思われる。
けこのちの こけむすたたは きみそいとしき
(岸と磯 水際佇む 笥籠の地の 苔生す立たば 君ぞ愛しき)
解説
佇むは「しばらくの間ある場所に立ったまま動かないでいる。」「行きつもどりつする。徘徊(はいかい)する。」、笥籠(けこ)は「食物を盛る器。」、苔生す(こけむす)は「長い年月を経て,苔がはえる。」の意味です。
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「Istoria~Musa~」の中にある「OURANIA-ウラニア-」を聴きながら、それをモチーフにした歌です。
雑感
最近、恋しい人が好き過ぎる。こんなこと言うと絶対引かれるだろうけど、もはや崇拝するレベルにまで達していてやばい。
ちなみに歌の内容は、おそらく地母神について書かれたものかと思われる。
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10
まわりうた
なかきよの ときもくらむと
せかいあい かせとむらくも きとのよきかな
(永き代の 時潜らむと 世界愛 風と群雲 帰途の良きかな)
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「RAKA」の中にある「祈り~モンラム~」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
せかいあい かせとむらくも きとのよきかな
(永き代の 時潜らむと 世界愛 風と群雲 帰途の良きかな)
余談
この歌は、志方あきこさんのアルバム「RAKA」の中にある「祈り~モンラム~」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
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10
まわりうた
きするほと たたひたるすき
きみのかの みききするたひ たたとほるすき
(帰する程 ただ浸る好き 君の香の 見聞きする度 ただ点る好き)
解説
香(か)は「かおり。におい。」、点る(とぼる)は「ともしびなどに火がつく。あかりがつく。ともる。」の意味です。
余談
この歌は、luv waveの「THRILL ME OR NOT」を聴きながら、それをモチーフにした歌です。
きみのかの みききするたひ たたとほるすき
(帰する程 ただ浸る好き 君の香の 見聞きする度 ただ点る好き)
解説
香(か)は「かおり。におい。」、点る(とぼる)は「ともしびなどに火がつく。あかりがつく。ともる。」の意味です。
余談
この歌は、luv waveの「THRILL ME OR NOT」を聴きながら、それをモチーフにした歌です。
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08
まわりうた
なかきふし みないけうふの
ひかりちり かひのふうけい なみしふきかな
(永き富士 皆行け産の 光散り 佳美の風景 波しぶきかな)
解説
産(うぶ)は「生まれたときのままであること。」「自然のままであること。また,できたときのままであること。」、佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」の意味です。
余談
この歌は、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」を見ながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk2にある「鳥は鳴き、僕は歌う」を聴きながら、再び天界の風景を降ろそうとしたのだけれど、中々うまく行かず、なぜかこれが出てきたという……。
ひかりちり かひのふうけい なみしふきかな
(永き富士 皆行け産の 光散り 佳美の風景 波しぶきかな)
解説
産(うぶ)は「生まれたときのままであること。」「自然のままであること。また,できたときのままであること。」、佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」の意味です。
余談
この歌は、葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」を見ながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk2にある「鳥は鳴き、僕は歌う」を聴きながら、再び天界の風景を降ろそうとしたのだけれど、中々うまく行かず、なぜかこれが出てきたという……。
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08
まわりうた
ひのかをり かひのみかるし
とふとりと ふとしるかみの ひかりをかのひ
(陽の香り 佳美の身軽し 飛ぶ鳥と 太知る神の 光丘伸び)
解説
佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、太知る(ふとしる)は「(宮殿の柱などを)しっかりと立てる。ふとしく。」の意味です。
余談
この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk2にある「鳥は鳴き、僕は歌う」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
久しぶりに聴いたけど、この曲やっぱすごすぎ!!
全身の細胞達が一斉に喜びの歌を大合唱してくるような、そんな興奮が湧き上って来るわ!!
歌は天界の風景のイメージです。
太陽の香りと身軽な肉体をただただ感じながら、遠くを見遣ると空を飛ぶ鳥と、雲の切れ間から射す光が一直線に丘へと伸びている。その光が柱のように見え、まるで世界が大きな神殿のように映り、神々しいほどの彩りを放っているというもの。
とふとりと ふとしるかみの ひかりをかのひ
(陽の香り 佳美の身軽し 飛ぶ鳥と 太知る神の 光丘伸び)
解説
佳美(かび)は「りっぱで美しい・こと(さま)。」、太知る(ふとしる)は「(宮殿の柱などを)しっかりと立てる。ふとしく。」の意味です。
余談
この歌は、「テイルズ オブ レジェンディア オリジナル サウンドトラック」のdisk2にある「鳥は鳴き、僕は歌う」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
久しぶりに聴いたけど、この曲やっぱすごすぎ!!
全身の細胞達が一斉に喜びの歌を大合唱してくるような、そんな興奮が湧き上って来るわ!!
歌は天界の風景のイメージです。
太陽の香りと身軽な肉体をただただ感じながら、遠くを見遣ると空を飛ぶ鳥と、雲の切れ間から射す光が一直線に丘へと伸びている。その光が柱のように見え、まるで世界が大きな神殿のように映り、神々しいほどの彩りを放っているというもの。
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07
まわりうた
なかきよて みよみそのむけ
うめとこと めうけむのそみ よみてよきかな
(永き代で 見よ御園向け 梅と琴 目受けむ望み 詠みて良きかな)
解説
御園は「園(その)を敬っていう語。」「神社所有の荘園で,供饌(ぐせん)のための野菜・果実などを献納する領地。」、望みは「ながめ。眺望。」の意味です。
余談
この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
三千世界一度に開く梅の花
ということで、ミロクの世の到来を寿ぐ歌です。
意訳
これから永遠に続く半霊半物質の世で、あなたもぜひ実際に見て下さい。この大宇宙という神の御園に向けて咲く芳しい梅の花と、全身がとろけるような見事な琴の演奏を。あなたが目に受けるだろうその眺望を、今ここに歌という形で詠んで知らしておきます。あぁ、本当に素晴らしいこの眺めだなぁ。
日月神示参照
『地上界に山や川もあるから霊界に山や川があるのでない、霊界の山川がマコトぞ、地上はそのマコトの写しであり、コトであるぞ、マが霊界ぢゃ、地上人は、半分は霊界で思想し、霊人は地上界を足場としてゐる、互に入りかわって交はってゐるのぞ、このこと判れば来るべき世界が、半霊半物、四次元の高度の、影ないうれしうれしの世であるから、人民も浄化行せねばならん、大元の道にかへり、歩まねばならん、今迄のような物質でない物質の世となるのであるぞ。』(星座の巻 第十二帖)
『マコトでもって洗濯すれば霊化される、半霊半物質の世界に移行するのであるから、半霊半物の肉体とならねばならん、今のやり方ではどうにもならなくなるぞ、今の世は灰にするより他に方法のない所が沢山あるぞ、灰になる肉体であってはならん、原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ、今の物質でつくった何物にも影響されない新しき生命が生れつつあるのぞ。岩戸ひらきとはこのことであるぞ、少し位は人民つらいであろうなれど勇んでやりて下されよ、大弥栄の仕組。』(五葉の巻 第十六帖)
『八方的地上から十方的地上となるのであるから、総ての位置が転ずるのであるから、物質も念も総てが変るのであるぞ。これが元の元の元の大神の御神策ぞ、今迄は時が来なかったから知らすことが出来んことでありたなれど、いよいよが来たので皆に知らすのであるぞ。百年も前からそら洗濯ぢゃ、掃除ぢゃと申してありたが、今日の為であるぞ、岩戸ひらきの為であるぞ。今迄の岩戸ひらきと同様でない、末代に一度の大岩戸(言答)ひらきぢゃ。』(至恩の巻 第十四帖)
『太陽は十の星を従へるぞ、原子も同様であるぞ。物質が変るのであるぞ、人民の学問や智では判らん事であるから早う改心第一ぞ、二二と申すのは天照大神殿の十種(とくさ)の神宝にヽ(テン)を入れることであるぞ、これが一厘の仕組。二二となるであろう、これが富士の仕組、七から八から鳴り鳴りて十となる仕組、なりなりあまるナルトの仕組。富士(不二)と鳴門(ナルト)(成答)の仕組いよいよぞ、これが判りたならば、どんな人民も腰をぬかすぞ。一方的に一神でものを生むこと出来るのであるが、それでは終りは完う出来ん、九分九厘で【リンドマリ】ぞ、神道も仏教もキリスト教もそうであろうがな、卍(ぶつ)も十(キリスト)もすっかり助けると申してあろうがな、助かるには助かるだけの用意が必要ぞ。用意はよいか。このこと大切ごと、気つけおくぞ。なりなりなりて十とひらき、二十二となるぞ、富士(普字)晴れるぞ、大真理世に出るぞ、新しき太陽が生れるのであるぞ。』(至恩の巻 第十六帖)
うめとこと めうけむのそみ よみてよきかな
(永き代で 見よ御園向け 梅と琴 目受けむ望み 詠みて良きかな)
解説
御園は「園(その)を敬っていう語。」「神社所有の荘園で,供饌(ぐせん)のための野菜・果実などを献納する領地。」、望みは「ながめ。眺望。」の意味です。
余談
この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
三千世界一度に開く梅の花
ということで、ミロクの世の到来を寿ぐ歌です。
意訳
これから永遠に続く半霊半物質の世で、あなたもぜひ実際に見て下さい。この大宇宙という神の御園に向けて咲く芳しい梅の花と、全身がとろけるような見事な琴の演奏を。あなたが目に受けるだろうその眺望を、今ここに歌という形で詠んで知らしておきます。あぁ、本当に素晴らしいこの眺めだなぁ。
日月神示参照
『地上界に山や川もあるから霊界に山や川があるのでない、霊界の山川がマコトぞ、地上はそのマコトの写しであり、コトであるぞ、マが霊界ぢゃ、地上人は、半分は霊界で思想し、霊人は地上界を足場としてゐる、互に入りかわって交はってゐるのぞ、このこと判れば来るべき世界が、半霊半物、四次元の高度の、影ないうれしうれしの世であるから、人民も浄化行せねばならん、大元の道にかへり、歩まねばならん、今迄のような物質でない物質の世となるのであるぞ。』(星座の巻 第十二帖)
『マコトでもって洗濯すれば霊化される、半霊半物質の世界に移行するのであるから、半霊半物の肉体とならねばならん、今のやり方ではどうにもならなくなるぞ、今の世は灰にするより他に方法のない所が沢山あるぞ、灰になる肉体であってはならん、原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ、今の物質でつくった何物にも影響されない新しき生命が生れつつあるのぞ。岩戸ひらきとはこのことであるぞ、少し位は人民つらいであろうなれど勇んでやりて下されよ、大弥栄の仕組。』(五葉の巻 第十六帖)
『八方的地上から十方的地上となるのであるから、総ての位置が転ずるのであるから、物質も念も総てが変るのであるぞ。これが元の元の元の大神の御神策ぞ、今迄は時が来なかったから知らすことが出来んことでありたなれど、いよいよが来たので皆に知らすのであるぞ。百年も前からそら洗濯ぢゃ、掃除ぢゃと申してありたが、今日の為であるぞ、岩戸ひらきの為であるぞ。今迄の岩戸ひらきと同様でない、末代に一度の大岩戸(言答)ひらきぢゃ。』(至恩の巻 第十四帖)
『太陽は十の星を従へるぞ、原子も同様であるぞ。物質が変るのであるぞ、人民の学問や智では判らん事であるから早う改心第一ぞ、二二と申すのは天照大神殿の十種(とくさ)の神宝にヽ(テン)を入れることであるぞ、これが一厘の仕組。二二となるであろう、これが富士の仕組、七から八から鳴り鳴りて十となる仕組、なりなりあまるナルトの仕組。富士(不二)と鳴門(ナルト)(成答)の仕組いよいよぞ、これが判りたならば、どんな人民も腰をぬかすぞ。一方的に一神でものを生むこと出来るのであるが、それでは終りは完う出来ん、九分九厘で【リンドマリ】ぞ、神道も仏教もキリスト教もそうであろうがな、卍(ぶつ)も十(キリスト)もすっかり助けると申してあろうがな、助かるには助かるだけの用意が必要ぞ。用意はよいか。このこと大切ごと、気つけおくぞ。なりなりなりて十とひらき、二十二となるぞ、富士(普字)晴れるぞ、大真理世に出るぞ、新しき太陽が生れるのであるぞ。』(至恩の巻 第十六帖)
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07
まわりうた
なかきよの めむかむさきに
もやるはる やもにきさむか むめのよきかな
(永き代の 目向かむ先に 靄る春 八面に刻む香 梅の良きかな)
解説
靄る(もやる)は「靄がかかる。」、八面(やも)は「八つの方面。あらゆる方面。四方八方。」、香(か)は「におい。かおり。」、梅(むめ)は「うめ。」の意味です。
余談
この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
三千世界一度に開く梅の花
ということで、ミロクの世の到来を寿ぐ歌です。
ちなみに「靄る春」は春霞(はるがすみ)をイメージしています。
もやるはる やもにきさむか むめのよきかな
(永き代の 目向かむ先に 靄る春 八面に刻む香 梅の良きかな)
解説
靄る(もやる)は「靄がかかる。」、八面(やも)は「八つの方面。あらゆる方面。四方八方。」、香(か)は「におい。かおり。」、梅(むめ)は「うめ。」の意味です。
余談
この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
三千世界一度に開く梅の花
ということで、ミロクの世の到来を寿ぐ歌です。
ちなみに「靄る春」は春霞(はるがすみ)をイメージしています。
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まわりうた
なかきよの めうきなすきと
とほきとき ほとときすなき うめのよきかな
(永き代の 妙技為す儀と 遠き時 杜鵑鳴き 梅の良きかな)
解説
妙技は「非常にすぐれたわざ。」、儀は「儀式。礼式。作法。」「物事のなりゆき。こと。」、杜鵑(ほととぎす)は「カッコウ目カッコウ科の鳥。全長約30センチメートル。尾羽が長い。背面は灰褐色。腹面は白色で黒い横斑がある。ウグイスなどの巣にチョコレート色の卵を産み,抱卵と子育てを仮親に託す。鳴き声は鋭く,‘テッペンカケタカ’などと聞こえる。夏鳥として渡来し,山林で繁殖して東南アジアに渡る。古来,文学や伝説に多く登場し,卯月(うづき)鳥・早苗(さなえ)鳥・あやめ鳥・橘鳥・時つ鳥・いもせ鳥・たま迎え鳥・しでの田長(たおさ)などの異名がある。」の意味です。
余談
この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
三千世界一度に開く梅の花
ということで、ミロクの世の到来を寿ぐ歌です。
とほきとき ほとときすなき うめのよきかな
(永き代の 妙技為す儀と 遠き時 杜鵑鳴き 梅の良きかな)
解説
妙技は「非常にすぐれたわざ。」、儀は「儀式。礼式。作法。」「物事のなりゆき。こと。」、杜鵑(ほととぎす)は「カッコウ目カッコウ科の鳥。全長約30センチメートル。尾羽が長い。背面は灰褐色。腹面は白色で黒い横斑がある。ウグイスなどの巣にチョコレート色の卵を産み,抱卵と子育てを仮親に託す。鳴き声は鋭く,‘テッペンカケタカ’などと聞こえる。夏鳥として渡来し,山林で繁殖して東南アジアに渡る。古来,文学や伝説に多く登場し,卯月(うづき)鳥・早苗(さなえ)鳥・あやめ鳥・橘鳥・時つ鳥・いもせ鳥・たま迎え鳥・しでの田長(たおさ)などの異名がある。」の意味です。
余談
この歌は「大神 五重之音調」の中にある「太陽は昇る」を聴きながら、それをモチーフに書いた歌です。
雑感
三千世界一度に開く梅の花
ということで、ミロクの世の到来を寿ぐ歌です。
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