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【JRPGの行方】第9回 JRPGを超えしもの

【JRPGの行方】第9回 JRPGを超えしもの

April 05, 2015(Sun) 09:00 / by Kako



■日本のRPGの行方

この連載の冒頭で、タイトルにもなっている「JRPGの行方」については分からない、としてきました。これまで書いてきたように、ここでいう“JRPG”は日本のRPG全体のことではなく、“異質さ”という偏りを持って語られる日本のRPGのことです。

日本のRPG全体について言えばいくつかの可能性があると思います。ひとつは、海外のRPGを意識したグローバルスタンダードな作品を目指す。もうひとつは、既存のRPGとは異なるゲーム性を持った作品を「RPG」として展開する。これらは“JRPGのくびき”から自由になるためのアプローチでもあります。そして最後は、JRPG的な特性を活かす、です。「JRPGの行方」とは、この方法でつくられる日本のRPGの未来のことです。

JRPG的な特性を活かす、というアプローチは、ANIMEやOTAKUといったカルチャーと流れをひとつにした日本らしさを活かす、というものと、“伝統的な”RPGのゲーム性を踏襲するものがあります。そして後者はときに「王道」や「本格」といった言葉で表現されることもあります。

ここで、JRPGはどうあるべきか、などとおこがましいことは言えませんが、ひとつのキーワードを用いて、個人的な期待を挙げてみたいと思います。それが「リアル」です。繰り返しになりますが、ここでいうJRPGは「西洋によって後進性、不変性、奇矯性、官能性といった性質を付与され類型化された“異質な”日本のRPG」と定義しています。

■JRPGが立ち向かう「3つのリアル」

1)リアル(=現代) - ファンタジー

    『ペルソナ』とは、現代日本の街や高校を舞台に、「ペルソナ能力」に目覚めた少年少女たちが出会い、さまざまな事件や困難に立ち向かって成長していくジュブナイルRPGシリーズ。学校生活や友情、恋愛などの“身近な出来事”をベースに描かれると同時に、噂や都市伝説、不可思議な事件や社会の闇 など、オカルトなテイストが盛り込まれ、ミステリアスな魅力で多くのファンを魅了してきた。 (ペルソナ5 公式サイトより引用)

少年少女たちを主人公にしたRPGは日本にたくさんあります。同じく友情、恋愛などの身近な出来事を盛り込んだ作品も。では、こうした核となる部分を、「ファンタジー」という世界観に放り込むとどうなるか。それはしばしばライト・ファンタジーとも呼ばれ、典型的な“JRPG”となる可能性が高そうです(実際の作品がどうか、という話ではなく、そう見られるということ)。

前掲の『ペルソナ』シリーズは、「現代」の「日本」の街や「高校」を舞台にしており、一見するとひどく局所的な世界観なのにも関わらず、海外からの評価も得ているという作品です(少年少女を主人公にした現代劇は、海外RPGにはほとんど見られません)。ハイ・ファンタジーやSFと比べても、奇矯性や異質さを前面に押し出した形となっているペルソナシリーズ。剣と魔法からの脱却、ファンタジーからの解放は、類型化からのもっとも簡単な脱出法といえます。

一方でこうした「特別な能力を持った現代の少年少女たちによる成長物語」といった設定が大勢を占めてしまうと、再びオリエンタリズム的視線が待ち構えている、という危険も孕んでいます。現代の日本という「異文明の文化に対しての憧れや好奇心」が、日本のRPGの全体におよんでしまうと、結局は新たな類型化が待っています。ジャパン・カルチャーのひとつとして、新時代の「ゲイシャ」や「ニンジャ」のような視線にとりこまれてしまうと、東洋のRPGという意味の“JRPG”になってしまうのです。

そうならないためには、ペルソナが“JRPG”の中でも異彩を放ち続けるような立ち位置であることが大事ではないでしょうか。逆にいえば、現代劇でも日本でもない「RPGらしい」世界観の作品はやはり必要だということでもあります。

2)リアル(=現実) - フィクション

RPGにおけるお約束やテンプレ、予定調和、伝統といったものはしばしばネタにされ、揶揄される対象ともなってきました。第7回でも紹介したような設定や展開のパターン化は、そこで描かれるドラマを阻害することもあります。どうしてもそこでは既視感や嘘くささが出てしまうからです(嗤いにはなります)。そしてこれは、物語の失効の一因ともなってきました。画面上は感動のストーリーが展開されているはずなのに、どこか冷静に見てしまう。なぜならそれがゲームだと分かっているから、だとしたら……。

こうした“JRPG”的なお約束を残したまま、物語を描くためにはどうしたらいいか。まずRPG世界の外側に現実を措定し、ゲームの世界を「リアル(現実)」なものだとする認識をとりやめる。そしてRPG世界をあらかじめ「リアル(現実)」とは異なるヴァーチャルなものとして設定し、その虚構性やゲーム的な規則を相対化する。つまり、プレイヤーが「いまプレイしているのはRPGなのだ」という認識を持ちながらRPGをプレイする、ということです。

例えば『ログ・ホライズン』や『ソードアート・オンライン』のように、フィクションの内部にもうひとつゲーム世界というフィクションを置く。それによって、ゲーム世界のRPG的ルールに干渉していくメタフィクショナルな展開や、ゲーム世界と現実世界の実存の違いによるドラマを描くといったことが可能です。ただ、これらはもともとゲームではないので、「ゲームの中のゲームをプレイする」ことが実際にどのような状況になるかは分かりません(こうした設定のゲーム作品には『.hack』シリーズがありますが、全体として多いとはいえません)。

あらかじめ虚構だと分かっている世界と、一見リアルに見せつつ虚構性が透けて見えるような世界、言い換えれば、「これはウソなんだよ」と分かる世界と、「これはホントなんだよ、ホント」と主張する世界、そのどちらがマシか。前者では、RPG的なお約束やパターン化を逆に利用しつつ、定型化した「物語」の外で実のある物語を描くことができる……かもしれません。

「RPG」に慣れすぎたわたしたちにおいて、その世界でどんなにドラマやリアリティをアピールしても、結局は「RPGなんでしょ」という感覚からは逃れられない。それならば、RPG世界をはじめからフィクショナルなものとして扱うことで、メタレベルの現実世界のリアリティが増し、物語の意味が復活するのでは、というのが私のほのかな期待です。

3)リアル (=精細さ)= ディテール → ハイパーリアル
しばしば、わたしたちが「これすっげーリアル!」という言い方で表しているものは、グラフィックの精細さです。ゲーム世界が現実に近接しているものならば、リアルになればなるほど、現実に近づきます。そこでは「リアル=現実(写実的)」と言い換えることもできます。グラフィックの写実性は、ゲームの進化を端的に示すものともなっています。

一方で「リアル」と表現しうるはずなのに、リアル(=現実)とは言い切れない方向に向かっていく作品があります。それが『ファイナルファンタジーXV』です。

FFを象徴するキャラクターデザインは、現実の人間とは似て非なるものです。アニメキャラとも現実の人間とも異なる「独特な人型」は、いくらリアル(=ディテール)を追求しても、人間に近づくことはありません。ただ実際のところ、その辺りの感覚は麻痺している部分もあるかもしれず、リアルになればなるほど、それが現実に近づいているような気がしてしまうことも……。

一方で、ファンタジー世界ではおなじみのドラゴンやキメラ、ペガサスやユニコーン、ケンタウロスにケルベロス、キメラやグリフォンといった存在は、わたしたちが「本物」を知っているトカゲや馬などの動物から類推することで、精細になればなるほど「写実的」になっている、と判断できます。現実にある馬の毛並みやトカゲの皮膚といったことを再現することで、ペガサスやドラゴンがリアルになった、と感じることができます。それは人間を描く際にもいえ、海外のRPGが「リアル」を目指すとき、それは「写実的=現実的」な世界であることが多いはずです。

    ハイパーリアル【hyperreal】
    1)虚構でありながら,本物にきわめて近い実在性をもっていること。フランスの社会学者ボードリヤールは,現代社会の特性としている。
    2)写真のようにリアルに描く絵画の手法。(三省堂 大辞林)

FFのキャラクターたちは、「本物」自体が虚構でありながら、「(現実を写しているはずの)写真」のようなリアルを追求している、という希有な例ではないでしょうか。これは海外RPGや他の日本のRPGでは見られないものです。フォトリアルなのに、その元となるフォトが存在しない。それは「キャラ」と「人間」や、「二次元」と「三次元」といった区別を超えた異質な存在ともいえます。

海外作品がファンタジーやSF、ポストアポカリプスという世界観において目指す「リアル」は、写実的で現実的(ここでいう現実的とは、本物のような実在性を備えているという意味)。FF15になってさらに現代的な世界観になったFFは、写実的なのに虚構な、文字通りのハイパーリアルです。

FF15を揶揄する言葉として「大草原でホスト4人が高級車で疾走うんぬん」というものがあります。もちろん彼らはホストではありませんが、ホストと呼ばれてしまう。これはFF15が持つ混濁した「リアル」が要因となっているのではないでしょうか。現代っぽいのに現代じゃない、リアルなはずなのにリアルじゃない。ハイパーリアルっぽさを持ちながら、その実は「シュール(非現実的)」とでも呼べるような意味不明さ。得体の知れなさがここにはあります。

実はこの「得体の知れなさ」こそが、JRPGがJRPGを超えるために必要なのではないか、と考えます。

FF15の「リアル」は、グラフィックの精細さによって後進性を排除しながら、虚構なのに写実的、現代なのにファンタジー、人間なのに人間じゃない、という得体のしれなさによって、安易な類型化を阻む力を備えている、と言えるのではないでしょうか。「なんだかよく分からんがすごいかもしれない」存在であること。JRPGらしい異質さを抱えながら高みを目指す。わたしはこれをJRPGの「限界突破」と表現したいと思います。そしてそれこそが、JRPGが自らを超えるために必要だと思っています。

ここまで挙げた3つの「リアル」が、日本のRPGが「JRPG」でありながらそれをアップグレードしていくためのキーワードだ、というのが期待も込めた個人的な考えです。

■あとがき

ここまで「JRPG」という言葉を軸に、日本のRPGがどういった特徴を持ち、どういった変化をしてきたかを自分なりに書いてきました。アクションやパズルなど、他のジャンルに比べると器が大きいはずのRPG。なんでもRPGになりうるはずが、爛熟していく中で膠着化、定型化していった結果生まれたのが「JRPG」だと思います。

わたしは広島県の出身なのですが、この連載を進めるにあたり、「JRPG」という言葉に対して「広島風お好み焼き」と同じ違和感を持つようになってきました。わたしにとって「お好み焼き」といえば広島風お好み焼きのことでしたが、それをわざわざ「広島風お好み焼き」とは言わない。“広島風”とついただけで、なんだかこれは「お好み焼きじゃないよ」と言われているような気がしてしまうのです(これは関西でも同じかもしれません)。

JRPGの“J”も同じで、Jがつくことで、これは「RPGじゃなく“異質な”日本のRPG」のことなんだよ、と言われている気がするのです。だからこそ、JRPGであることを良しとしているのを見かけると、県内で「広島風!」と喧伝しているお好み焼きやと同じような、一抹の寂しさを感じてしまうのです。

第一回目で紹介した『僕たちのゲーム史』のあとがきで、さやわか氏はゲームの語り方として「懐古(好きだったゲームについて思い出を語る)」「印象(自身の関心と経験に沿った理論からゲームを説明する)」「産業(売り上げや業界動向に注目する)」「原理(基礎理論を軸にして話の裾野を広げる)」の4つを挙げています。

わたしはこの中でも「産業」を「技術」と「商業」に分けてみたいと思います。「技術」は、○○のスペックがどうとか、フレームレートがどうとか、解像度がどうとか、いう語り方です。「商業」は、○○は何万本を突破、○○は○○だから売れない、○○は値下げが必要だ、といった語り方です。この二つは車の両輪のようにどちらかを欠くことのできないもので、「技術」を根拠に「商業」の語りをしたり、「技術」の語りをして「商業」を展望する、といったことがあります。個人的にゲームというジャンルにおける「産業」的な語り方は、他のジャンルに比べると非常に多い、と感じています。こうした語り方はユーザーレベルでも多く見られます。

今回の連載は、この「産業」の語り方を徹底的に排除した中で、何か書けないかという試みのもとで始まりました。意味不明だったり説明不足だったりすることもあったと思いますが、なにとぞご容赦ください。最終的には、ゲームにおける語り全体で、産業とそれ以外のバランスがとれていくことが個人的な理想だったりします。そして、今後も日本・海外問わず、ワクワクするようなRPGが出てくることを楽しみにしながら、この稿を終えたいと思います!

【参考文献・サイト】
『僕たちのゲーム史』(さやわか、星海社新書)
『オリエンタリズム』(エドワード・W・サイード、平凡社)
『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』(伊藤剛、NTT出版)
『テレビゲーム文化論』(桝山寛、講談社現代新書)
「TOP 10 WAYS TO FIX JRPGS」(IGN)
「BioWare co-founder: JRPGs suffer from 'lack of evolution’」(Destructoid)
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評価の高いコメント

  • 2015年4月5日 10:02:39 ID: UmW3eCQ/5j8J
    5 スパくんのお友達さん
    通報する

    確かに見た目やストーリー、キャラクターだのという事柄は重要だとも思うが、
    JRPGの現状を語るには着目点としては微妙に的外れとも見える。
    「ゲームだからこそ出来る遊び、表現」という陳腐な言葉が重要だったと思うのよ。
    例えば今のJRPGはアニメ化でええやんってな内容だが
    クロノトリガーや、TES、Falloutなんてゲーム以外でどう表現するのよって事

  • 2015年4月5日 14:11:16 ID: 6Cbj/ZmTS6kW
    22 スパくんのお友達さん
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    この連載を全て読んだところで、所詮エンドユーザーでしかない我々がRPGを変えられるようなことは一切ないし、難解な言葉を多用して尻込みしそうな内容だけど、gamespark読んでるようなゲーマーなら是非一読して欲しい連載でした。
    まったく的外れなコメントが大半で中には読んでさえいないコメントがあるのが非常に残念

  • 2015年4月5日 12:16:38 ID: 89hvehTzX9cE
    13 スパくんのお友達さん
    通報する

    FFのキャラクター造形が独特で、もはや「アニメ調」でもなくなってきている、というのはなんかわかる。FFのグラフィックスタイルを進化させていっても「こんな人間は存在しない」というものにしかならない。洋ゲーはいつか「まるで本物の人間がそのままゲームに出演しているみたいだ」という所に到達するだろうけど、JRPGは「写実アニメ」とでもいうような、何だかわからないものになっていくんだろう。

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