
昨年の7月以来おみえにならなかった清水房雄先生が、今回出席され、会員一同立ち上がり、拍手でお迎え致しました。着席されるや、「今日はみなさんにお別れを言いに来ました。」と言われましたが、最後まで一首一首今までと少しも変らずご批評をされ、そのご健康ぶりに思わず、また是非お出かけ下さいと声に出してお伝え致しました。出席者17名。司会、長田光枝さん。(以下敬称略)
帰り来る息子待ちつつ働くか母と言ふ名に国籍は無く 井深雅美
結句は違った表現があるか無いか。(古島重明)
気持ちは分かるが少しごたついているのではないか。下句は少し分かりにくい。作者の気持ちは何処にあるのか。(戸田)
「帰り来る息子」と下句の関連が良く分からない。(鈴木登代)
一首だけでは分からない。選者の考えとしてこの人はいつもと違うという気持ちが分かればそれを採る。(選者それぞれの考え方だが。)生活の内容はある。歌の勢い、気持ちを見る。分からせるように詠うと説明になる。(堀江)
。。
ここで清水先生が到着される。。司会者、先生に随時自由にご発言をとお願いする。餌台に雀はパンくずつつきをり米を啄み終へたりし後 伊藤章子
状況がピンと来ない。詠もうとしている動機が分からない。(鈴木)
雀の好みに注目か。(小久保)
雀の生命力を見ていたと思うがこれだけの表現では受け取れない。(高橋瑠璃)
内容、詠い方が軽いのではないか。(堀江)
上下の関係が散文的。論理的に生成されて変化が無い。
堀江さんの今度の歌集(続銀糸集)の歌は上句から下句へ行くときの転調の仕方は恐るべきもの。
意味は繋がらないが感情、或はリズム、何かで繋げている。
分かると分からないの境目が難しいところ。散文と違う。意味のつながりが順直すぎると散文になってしまう。茂吉は繋がらない。文明は繋がるところがくせもの。(清水)
曇り硝子を透すおぼろな黄の影の日々に色増す落葉積りて 伊東芳子
全体の印象として黄色い影が段々色を増してゆく、あまり見かけない所を捉えていて面白い歌。(籏野桂)
「落葉積りて」の結句はもっと早く出た方が良いのではないか。(嶋)
結句はひっかかった。無い方が良いのではないか。(古島)
美しい一枚の風景画のよう。(井深)
「おぼろな黄の影の日々に色増す」あたりはかなり作者の見方で面白い。
結句はマイナスに働いているのではないか。(堀江)
結句は削る。「日々に色増す」で切れると若干の疑問があるが、その程度の分からなさはあって良い。(清水)
菜園に霜きらきらと光りゐて下仁田葱の白き根太し 小久保基子
結句は良く捉えている。(池田幸男)
「きらきらと」は無い方が良い。(伊東)
根ではなく茎ではないか。(籏野)・・暫時茎か根かの話し合い。
気持ちとしては分かる。(堀江)
「きらきらと光りゐて」は削る。上句が遊んでいる。作り方は順直でなくて良い。(清水)
誕生祝と石竹の種を賜りぬ十一月生れに五月咲く花 塚本佳世子
下句は事実であるのだろうが必要か。(伊藤章子)
下句に理屈が入って魅力を削いだ。(戸田)
下句をどう解釈するか。作者の気持ちが分かりにくい。上句を中心に。(堀江)
下句の幼稚な謎解きが煩わしい。下句を処理する。どこを生かすべきかを考える。(清水)
母住まず六月過ぎたる丘の家落ち葉踏みしめ帰り来にけり 藤井博子
気持ちがある歌。余計なことを言っていない。下句は良いと思った。(嶋)
「丘の上」は甘いかも。気持ちの良い歌。(高橋瑠璃)
「六月過ぎたる」は必要か。(伊東)
上句は説明。下句には感情があるが、一首としては難しい。内容が分からないと一首を受け取りきれない。(堀江)
「母住まず」と「帰り来にけり」の関係が分からなすぎる。作者が謎のごとく登場する。(この連作では)一首目があれば二首目はいらない。(清水)
目を閉ぢて幼き我に逢ひにゆくもみ殻煙る夕やけの道 重信則子
結句の描写が感じが良い。(池田)
作者の姿が見えてくる。「目を閉ぢて」は思い入れが強すぎる。もっと自然に詠んでも良いのではないか。(小久保)
気持ちが分かる良い歌。(籏野)
青南の中では分れる歌。作らないより作った方が良い。発想は幼いところがあるが、もみ殻で救われている。(堀江))
気持ちは分かるが、「幼き我に逢ひにゆく」は抽象的。「目を閉ぢて」に問題があるのか。もう一息というところ。下句をもう少し圧縮するという方法もある。(清水)
藤棚の写真撮りしに赤花の花房短く写りてをらず 池田幸男
一首説明的でぎくしゃくしている。赤花の短き花房などとしたらどうか。(戸田)
思いは良く分かる。これはこれで良いような気がする。(古島)
良く分かる良い歌。(塚本)
真面目に順直に言っているだけで分かったがどこか一ひねり無いと心を動かされる事は無い。(堀江)
分かっておしまい。印象が残らない。意味の続き具合が散文に近い。どうやってぶっ壊すか。調べで勝負するか。いじりまわすことをお勧めする。(清水)
低ぞらに漂ふ雲の切片を黄に染めし日の忽ち没りぬ 清水房雄
言葉の使い方が違う。「忽ち没りぬ」に作者の感情が籠っている。(小久保)
「切片」に心ひかれた。考えて使われたのだと思う。(嶋)
とても良い。「切片」は考える事も出来なかった良い言葉。(鈴木)
夕やけの歌は普通平凡になるが、瞬間を捉えて勢いがあり、勉強になった。(籏野)
今月の後の五首は清水房雄の歌。(材料そのものが)
一首目はずっと昔からあらゆる人が持つ体験。それをどう歌うかは非常に難しい。それをこう表現した。その人が出ている。普通の事をこの人が歌うとこうなる。歌を勉強する上で非常に参考になる。(堀江)
ババちゃんを燃やさないでと柩の前大泣きしたる童にてありき 鈴木登代
状況が強烈で目の前に見えるよう。純真な子供の気持ちが感じられ、内容が重く、とても良い歌。(藤井)
言い過ぎ。自分の事でなかったら歌としてあまり面白くない。(堀江)
「~にてありき」は誰もがよく使う納め方。他にうまい方法は無いかと思うが・・無いらしい。(清水)
桜紅葉散る図書館への遠まはり寺山修司の本返却にゆく 戸田紀子
作者にしては普通の歌。返却が固い。(伊東)
下句はどの程度効いているか。池田)
上句で色々言っているので、下句の寺山修司の意味が無いようになっている。肝心の所が整理されていない。(堀江)
頭が重い。「寺山修司の本」が問題。寺山修司歌集など、はっきりさせた方が良い。(清水)
排水溝の地下より伸びしノボロギク鉄の格子に触れて咲く見ゆ 籏野桂
人の見ない所に着眼。ノボロギクをもっと表現した方が良かったのではないか。(高橋)
材料は良い。歌い方が順序だっている。「見ゆ」が邪魔。(堀江)
「見ゆ」までは言い過ぎ。単純化を要する。(清水)
明るきにかざし刃に触れ確かむる鏡のごとく研ぎたる刀を 嶋冨佐子
作者の満足感は出ている。(高橋)
特異な感じの歌。上句だけで歌にする事は出来なかったか。重複感がある。(戸田)
これだけでは彫刻刀であることは分からない。連作として読めば分かるが、一首だけではまるで違う情景を想像する。(籏野)
気持ちは分かるが、「鏡のごとく」という作者の気持ちの強調が一寸邪魔。(鈴木)
これだけの事を歌っているからこれはこれで良いとは思うがくどい所がある。モチーフがモチーフだからなるべく単純にしたい。勿体ない。(堀江)
「明るきに」は分かったようで分からない。「鏡のごとく」は問題。(清水)
風を切る羽音鋭く飛び行きしカラスの止まる梢見て居り 長田光枝
上句は良いが結句で何となく拍子ぬけ。格好がつかない。(古島)
「梢にカラス止る見て居り」ならよいがこれでは梢を見ている事になる。(堀江)
「見て居り」は無駄。植物の名前を出して止まっただけで良い。(カラスが〇〇の梢に止った)(清水)
夕山の上に黒々ある雲の二つの竜はくちづけをする 高橋瑠璃
感じは分かるが下句で「二つの竜は」と限定して表現してしまった所が弱い
のではないか。感興を邪魔している。(鈴木)(籏野)
特殊な捉え方。「二つの竜は」が結句のイメージと繋がらない。(小久保)
くちづけするまでは言い過ぎ。(堀江)
結句は言い過ぎ。面白い所を掴んだが、結句を生かす為には上句で相当苦労しなくては。上が普通だ。(清水)
手術後の夢に老いたる母の来てなにか問ひたり聞きとれざりき 古島重明
気持ちが良く出ている良い歌。(籏野)
肉親に対する思いが素直に表れている良い歌。(小久保)
病気をした時の心情が良く表れている。(井深)
病気と旅行の歌は一首としてはなかなか生きない。並べても報告の中の一つになってしまう。(堀江)
整っているが常套的。次の歌は気持ちに動きがある。(清水)
普通にあれ普通であれといふ声す黄葉がちる日が寒くなる 堀江厚一
清水先生が言われた上句と下句のつながり(意味が繋がらないが何かで繋がっている)をこの一首でも見る事が出来ると思った。(伊東)
上句は自分に言い聞かせている。上句下句の転換。(嶋)
「日が寒くなる」で上句とのつながり具合が働いている。(清水)
合間に・・・最近の言葉遣いについて。
写真を撮るの「撮る」は元来「つまむ」という意味。
「可能性」の可はcan 能もcan どちらもプラスであるが、現在は両方に使っている。
戦艦武蔵発見の事から・・・
海軍時代が抜けない。人生には階段があって、どこかでつかまってしまう。今年の八月には100歳になられる清水房雄先生をお迎えしての東京歌評会でした。
心から感謝申し上げると同時にどうぞいつまでもお元気にと心からお祈り致します。(伊東芳子)