【萬物相】義人・浅川巧

【萬物相】義人・浅川巧

 ソウル市中浪区の忘憂里公園墓地の一角、同楽泉と呼ばれる湧き水の近くにある「203363号」の墓は、この墓地では珍しい日本人の墓だが、ここを参拝する韓国人の人波は絶えない。そしてこの墓にはいつも、誰かが手向けた花がある。1931年4月2日、この墓に眠る人物が40歳の若さで亡くなったときも、多くの人々がその死を悼んだ。弔問に来た朝鮮人たちは、大雨が降りしきる中でひつぎをかつぎ、清凉里(現・ソウル市東大門区)から里門里(同)の丘に向かう道沿いでは住民たちが葬列を引き止め、路祭(ひつぎを送り出す儀式)を行った。

 この墓に眠る浅川巧は、朝鮮を愛し、遺言通り朝鮮の伝統にならって埋葬され、朝鮮の土となった。兄の浅川伯教と共に、日本人として初めて朝鮮の白磁や工芸品の美しさに着眼した。朝鮮の美術品を収集した浅川兄弟の姿勢は、普通の日本人のどん欲さとは大きく異なっていた。朝鮮の美術を賛美した柳宗悦と手を組み、景福宮に「朝鮮民族美術館」を設立し、苦労して集めた美術品約3000点を惜しげもなく寄贈した。

 浅川巧は朝鮮総督府の林業試験所職員として朝鮮にやって来た。それにもかかわらず、朝鮮の山林を収奪するのではなく、ミンドゥン山の緑化のため先頭に立った。現在、韓国の多くの人々から愛されている人工林の多くは、浅川巧が手掛けたものだった。浅川巧は普段、韓服(韓国の伝統衣装)とコムシン(ゴム製の韓国の伝統靴)を身に付け、朝鮮伝統の食器を使い、朝鮮の伝統的な食べ物を口にしていた。決して多いとはいえない月給の半分を朝鮮の人々に分け与え、学生には奨学金を支給して卒業させた。柳宗悦は「浅川巧と同じくらい朝鮮の芸術を知り、朝鮮の歴史に精通した人はほかにもいただろうが、彼のように朝鮮人の心情を理解し、共に暮らしていた人はほかにいないだろう」と語った。

 浅川巧の84回目の命日を迎えた今月2日、忘憂里公園墓地では例年と異なる形の追悼式が行われた。韓国の市民団体「李秀賢(イ・スヒョン)義人文化財団設立委員会」が主催し、浅川巧の故郷・山梨県の住民たちも参列して、韓日合同の追悼式を行ったのだ。今回の追悼式は、李秀賢義人文化財団設立委員会が「義人」の生きた証を見つけ、たたえる事業の初のケースとなった。

 李秀賢は2001年、東京の新大久保駅で線路に転落した日本人を救助しようとし、電車にはねられ亡くなった人物だ。日本のある評論家は当時「26歳の李秀賢さんは、今や死語となった利他的な犠牲を身を持って実践した。隣に誰が住んでいるのかさえ関心を持たない日本社会の悲しい一面について反省させられる」と語った。浅川巧と李秀賢の義理固い行動は、国境を超えた人間愛に忠実だったからこそ可能だった。両国の国民の心の中にある人間愛の種をまき、育てるシステムは、どこかでカ見つけられるものなのだろうか。

金泰翼(キム・テイク)論説委員
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