お光の意義について
明主様御講話 「お光の入霊について」 (昭和28年7月17日)
「今書いている「お守」(註 現在のお光のこと)に対する原稿ですが、この次あたりに読ませますが、
私がお守を書く場合に、ちょうど半紙大の紙に「光」という字を書くのですが、一枚書くのに七秒です。
この間は急ぎだというので五百枚を五十分で書きました。
それでふつう宗教でお守などを書くというと、もう斎戒沐浴(さいかいもくよく)して、
羽織袴でチャンと御神前にぬかづいてお願いして書くものです。
ところが私は、今どきは暑いから上は裸です。
まさか裸(ふんどし)一つではみっともないからしませんが。
それから私は、ただ光を書くだけでは退屈でいけませんから、必ずラジオを聞きながらやるのです。
それで早いですから三人がかりで手伝っているのです。
そして時によると左の手に煙草をくわえて、右の手で書いたりしてます。
だからお守を作っているとは、はなはだ思えません。
それで書き上がって、たたんで、三十枚を一束にして、それに私が霊を入れるのですが、この霊を入れるのは厄介なのです。
割に力はぜんぜん入れないのですが、やはりそうとうに疲れます。
だからこれは一度にたくさん入れるわけにはゆきません。
一回霊を入れるのに、ちょうど三包み、九十体ずつをやるのに、一つに五分ですから十五分くらいかかります。
それでちょうどいっぱいです。それ以上は疲れます。
しかしそれだけでレントゲン以上の力が出るのですから、ちょっと理屈はつかないくらいなものです。
それで今まではそういう場合に神様にお願いしたりお祈りするのは、
つまり神様と人間の方とが離れてますから、どうしてもそうしなければならないのです。
ところが私は自分の腹の中に神様がいるから、私がこうやっているということは、
私の体、腹に御座る神様が道具として使っているのです。
ですからそういう場合の私の腕というものは、やっぱり筆と同じようなものです。
筆と墨のもう一つ繋いだ元の方が腕みたいなものです。
そこで他のよけいなことは、なにも必要がないので、ただ書きさえすれば腕を通し筆を通して紙に光がはいって行くのです。
そういうようなわけですから、今までの宗教の教祖という人たちがやったこととはぜんぜん違うわけです。
ですからキリストにしろ、天の父つまりエホバとかゼウスとか、神様にいろいろ憐れみを乞うというか、
そういう形式をしますが、私はそういう必要はありません。
昔から言う神人合一です。
神と人と別に分離していないで、一致しているのです。
ですからそういった形式はしないのです。
私は神様を拝まないということはそういうわけです。
拝むのでなくて拝ませるわけです。
今までこういうことを言わなかったのは誤解するからです。
あいつは誇大妄想狂で、頭がおかしいのだと言います。
よく知っている信者の人はよいですが、第三者としてはあまりに超越しているから誤解を受けるのです。
またこれは信者になってチャンとなれば分かりますから、それであんまり言わないのです。
けれども説明してみれば、今のようなわけです。
そういうことをおもしろく書いてみようと思ってます。」
「問答有用 徳川夢声 連載対談」より (昭和26年5月6日発行)
お光をしていると災難を受けない
「成金というものは没落しますね。
どういうわけかというと、あんな奴が出世しやがったというんでみんなうらやむ。
それが悪霊になってその人を取り巻くからなんです。
感謝の想念は光になってその人へいく。
恨みの想念は曇りになっていく。
光ってくるとだんだんしあわせになるし、曇ってくると病気だとか災難があるわけです。
わたしの信者は実によく災難を逃がれる。
それは科学的に説明できるんです。
御守りを入れてると、御守りから光りが放たれるから、どうしたって災難を受けないわけです。
不思議でもなんでもないんですよ。」
明主様御垂示 「お光と霊線」 (昭和24年7月27日)
信者の質問
「御力を「戴く」と「戴かない」とで霊線はいかようにつながりの相違がありますか。
また、霊線のつながりはいかように出来るものでしょうか。」
明主様御垂示
「御光が入っていないと大先生の御霊線の繋がりがないから力がズッと少ない。
信者はある程度ある。
懐へ御光を入れないとよく災難にあう。
信仰が強いと線は太くなる。」
明主様御垂示 「お光をしていないと御守護頂けない」 (昭和26年11月8日)
お光は入浴時を除き絶対に外してはならない
信者の質問
「妻MT(五十三歳)昭和十八年以来御浄霊をいただいておりますが、
十三年来の中風がだんだんと重くなり、最近は歩行も不自由になり痩せてまいりましたが、なにぶんにも下の方の不始末で困りおります。
以前お伺い申し上げましてから、前後頭部と延髄に重点を置いて御浄霊させていただいておりますが、
これは一家中の悪因縁を背負ってくれているものと存じ、大切にしておりますが、
下の不始末のために粗相があっては申し訳ないと思い、
当人の御守り様は大光明如来様の御神前に置き、掛けさせておりませんが、これでお許しがいただけますでしょうか。
また、妻にこのようなことがありますのは、まだ私の信仰の度合いが薄いゆえでございましょうか。
御浄化のうちと心得てよろしゅうございましょうか。」
明主様御垂示
「いけないですね。とんでもない間違いです。
そんなに汚すことはないじゃないですか。
大小便でしょう。
御守りをそんなに下までやることはない。
御守りは掛けなければいけない。
掛けるためにいただくんですからね。
紐がついているというのは、掛けるためなんです。
それでなければ御守護いただけないですよ。
よく、もったいないといって掛けない人があるが、これほど間違っていることはない。
御守りは湯に入る時だけはずして、あとは絶対にはずしてはいけない。
御守りですから、一時も離してはいけない。
よく、怪我したりする時は、きっと御守りが原因ですね。
この人もそれですね。根本問題は、御守りをはずしていることですね。
固まりが溶けてきたんですが、こんなことはないわけですがね。
悪因縁を背負っても、やはり神様に、それを取っていただくんだからね。
もっと治らなければならないはずですがね、今言ったように、御守りを掛けさせることと、
それから御守りを汚すようなら、神様が汚さないようにしてくれます。
それから、浄霊に力が入りすぎるんだね。
こういう人は、そういった肝腎なことを考え違いしている。
浄霊の力を入れてますね。
力をできるだけ抜くことと、御守りと、頭を始終やってやれば、もっと良くなります。
それから、首の横の両方を見てご覧なさい。固まりがありますから、それを良く溶かす。
それから、尾てい骨を良く溶かす。
それを主にしてやってご覧なさい。もっと良くなってきます。」
明主様御垂示 「お光をかけないと御守護頂けない」 (昭和26年12月6日)
(不動明王弘法大師等を祀り、病気治しもし、紛失物を良く当て、時々霊憑り状態となって暴れたりする人の家族へ・当人はお守りを外し、屏風観音様を焼いた)
明主様御垂示
「御守り様を外しております・・・これはしようがない。
それじゃ、入信したんじゃない。形だけの入信です。
第一番に御守りを掛けることですね。
それでなければ御守護いただけない。
こういうことがあるということは、家中の人にも罪がある。
こういうことがあると、苦しみますからね。
苦しむというのは、罪穢れがあるからですね。
それを減らさなければならない。
減らすためには、御守りを掛けなければならない。
それが第一番です。」
明主様御垂示 「お光と祖霊の戒告」 (昭和24年11月7日)
信者の質問
「BY(五十七歳)女、本年一月入信、家の都合にて御守様を先生宅に預かって頂きました。
その後本人は気管支炎にて大変苦しくなりましたが、この浄化は御守様を先生にお預けしました事に関係があるのでしょうか。御教え下さい。」
明主様御垂示
「大いに関係がある。
祖霊が気づかすためにやったのである。
御守は決して放してはいけない。」
明主様御垂示 「お光のチョンの意味」 (昭和25年2月28日発行)
信者の質問
「御守りの「ヽ」の意味についてお伺い申し上げます。」
明主様御垂示
「これは、天から最高の霊、神様の御霊が御降りになって人間をお救いになられることなんです。・・・
大本教では一厘の御霊って言いますがね、いままでは九分九厘の世の中で、そこに一厘の御霊が天から降って十になる。
そうなった世の中が神の世だってありますが、これは非常におもしろいですね、またそれが本当なんです。
だから、この「ヽ」を御光りのなにに書いたんです。
「ヽ」のいわれは簡単なもんじゃありませんからね、いずれまた、詳しく話しましょう。」
明主様御垂示 「浄の御守りのヽの意味」 (昭和25年8月15日発行)
信者の質問
「浄の御守り様の「ヽ」の意味について。」
明主様御垂示
「天から最高の神霊が下った姿が「ヽ」である。大本教では一厘の霊と言っている。」
明主様御垂示 「大光明のお光の働き」 (昭和23年7月8日)
信者の質問
「大光明」の御守りとふつうの御守りとはお働きがどのように違うのでしょうか。」
明主様御垂示
「これは字の通りで大とは大きくなることです。
字というものは不思議なもので、私がこうやって書くと筆を通して神様の霊が入るのです。
だから字から光が出るわけです。」
明主様御垂示 「大光明のお光の働き」 (昭和25年1月20日発行)
信者の質問
「大光明の御守りとふつうの御守りとのお働きの相違。」
明主様御垂示
「大がつくとそれだけ働きが大きくなる。
これは文字が働くからである。
文字は不思議なもので、私はその力を神様から与えられているのであるが、人によってはいくらかは文字が働くのである。
私の腕から筆を通して、字から紙に光が浸透するのである。
従って私は言霊、文字、想念の力で人類を救済しつつあるのである。」
明主様御垂示 「浄のお光について」 (昭和25年2月18日)
光では仏力にすぎない
信者の質問
「一、大浄光、大浄力、浄光、浄力、浄の御守り様を御下付戴きます由、霊的・体的に、御働きにつきまして個々に御垂教を御願い申し上げます。
一、善言讃詞に差し加えられますのは「救世主と成らせ」で御座居ますか「救世主と成らせ給ひ」で御座いますか。
またその御文字は右の通りで御座いましょうか。」
明主様御垂示
「光では力が弱い。仏の力になる。
二十年位前、世界紅卍会の幹部十八名来た時、至聖先天老祖神君(国常立尊様)・・・(キリストや釈迦など御指図遊ばす神様)が、その時「浄」と書いて下さった。」
明主様御垂示 「お光の度々の変更について」 (昭和26年9月8日)
信者の質問
「最近お守がよく変りますが、信者から、変ることを聞かれましたら、なんと言えば良いでしょうか」
明主様御垂示
「神様が必要あってそうさせるんです。
それで、神様の思し召しは、大浄光の額を掛けさせるというのが、神様の思し召しですよ。
そうして霊界を浄めるんです。だいたいそれだけですね。
まだ説明すればいくらもあるが、そうすると、神様のやり方は、どうもおかしい、納得ができないということになると、人間のほうが、上になるから、あんまり説明したくない。
とにかく神様のほうで、そういう意味があってなさるんで、それで良いんだ。
そのほうが、なんか良い・・・というように思うのが本当ですね。」
明主様御垂示 「お光の揮毫は命のある限り続ける」 (昭和25年1月20日発行)
信者の質問
「誠に失礼なお伺いでございますが、「御光り」の御揮毫は地上天国完成の日までいつまでもいただけると信じてよろしいでしょうか。
種々デマが飛んでおりますので謹しんでお伺い申し上げます。」
明主様御垂示
「無論ですよ。私のいのちのある限り書きますよ。・・・
いろいろデマがあるかもしれないけど、そういうときには私に訊きなさい、訊けばすぐ判るんですから。」