御神体の献饌について
明主様御垂示 「神様が供物に霊気を入れて下さる」 (昭和23年)
「供物は、高級の神はそれに霊気を入れて下さる。それを戴くと病気が治る。
天理教は水、金光教は米、大本教、黒住教など皆そうで、相当力がある。
そういう神をお迎えする事は、よほど良い宗教でなくてはいけない。
観音様はお上りになるが、極く僅かである。
後は霊気を入れて下さる。
仏前は水を上げなくてはならぬ。必ず必要である。
ただ上げ方で、上げる人の気持である。」
明主様御垂示 「神様が供物に霊気を入れて下さる」 (昭和25年12月25日発行)
神様が供物をお食べになるのではない
信者の質問
「毎朝、御神前に御神饌の膳部をお供えするとき、ちょうど神様が召し上がるように、神様のほうに向けてお供えするものでしょうか。
それとも人間のほうに向けてお供えするものでしょうか。」
明主様御垂示
「これは本当から言えば、貴男の言う通りだが、実は人間の考えとは違う。
それは饌供(せんぐ)の食物は神様が召し上がるのではない。
神様が霊気を入れてくださるのである。
だから人間が差し上げる想念は、神様に御霊気を入れていただきたいという意味である。
しかし神様によっては召し上がる場合もあるが、それは神様の階級によるので、その場合でもごく少々召し上がるだけで、大部分は霊気を入れてくださるのである。
故にお下がりの品物は、一人でも多く頂戴すれば、霊が浄まるのである。」
明主様御垂示 「御神体にお供した物と病気」 (昭和24年8月6日)
信者の質問
「光明如来様と仏様に毎朝お供えする御飯やお茶のお下がりはどう処置致したなら宜敷いでしょうか。
また屏風観音様を御祭りして御座います仏様に、朝晩のお参りや法事の時に善言讃詞をお上げするとよいように伺っておりますが、
終りの念被観音力、念被観音行、念被観音心、大光明如来守り給へ幸倍へ給へ、惟神霊幸倍座世のところはお上げしてよろしいでしょうか。御伺い申し上げます。」
明主様御垂示
「光明如来様にお上げした物は、戴くようにする。軽い病気などは治る。
光明如来様は霊を入れて下さるから美味しいが、仏様へ上げたのは、食物の霊気を吸うからまずい。
お奏げしてよろしい。これだけお奏げすると恰度よい。光明如来様と同じではいけない。」
明主様御垂示 「お供えの作法」 (昭和23年6月28日)
「お供物に箸をつけるのは先祖・・・仏だけである。
観音様は人間と同じでよい。裏面の目立たぬ場合は、観音様の方へ向けるべきである。神様には違う。
お供は長く上げておくのは不可である。
祝詞が終えて、すぐ下げてよい。
お屏風をお祭りしてある仏壇のお供えも、御先祖に上げる意味で、お観音様に上げる意味はない。
幽世大神は観音様の家来である。
仏壇、屏風へも拝む。」
明主様御垂示 「お供えの作法」 (昭和23年6月28日)
信者の質問
「御軸に対しまして合掌してから頭を下げる人と合掌せずに頭を下げる人とありますが、いずれがよろしいでしょうか。」
明主様御垂示
「手を合わせてから頭を下げるほうがよい。
お供えものは人間のほうへ向け人間が見やすいようにするのが本当です。
神と人間と両方満足するように。
ドイツの哲学者のオイケンはこれについて「人間が満足するために神を祀るのである」と主張していました。
気持ちをやはり神様に上げることです。
神様のお供えには箸はいらない。
御先祖には向こう側(仏様の側)に箸をつける。
観音様の御軸に対するお供えは箸を観音様のほうにおいたらよろしい。
お供えものを神様は召し上がるというより霊を入れてくださる。
祖霊は食べます。
お供えしておく時間はあまり長すぎてもいけずすぐ下げてしまうのもいけない。
お供えして祝詞を上げてそれが終わったら下げたらよろしい。」
信者の質問
「会員の方々がお供えをした場合は・・・」
明主様御垂示
「三十分か一時聞くらいお供えしておいたらいいでしょう。
あまり長くおいてもホコリがたかったり品物が痛んだりしますから。」
明主様御垂示 「御酒、御餅の意義」
信者の質問
「神様に御酒と御餅がつきもののように思われますが何かわけが御座いますのでしょうか。」
明主様御垂示
「御酒は極く古代から祝の時は酒を振舞う事になっている。深い意味はない。
お餅もそのような意味で、何時の時代かにそういう事を考えたり、言ったりした。それから続いたものである。
もし、神様に付物なら、キリスト教でもやらなくてはならぬ。
であるから、その土地だけのものである。
天地の型を意味したものであろう。
天地合せ鏡という。
八咫の鏡は大地を表象しており、艮、坤、戊亥、辰巳、東西南北を(八咫)・・・」
明主様御垂示 「お供物の向 (御神饌の機嫌)」
信者の質問
「神様、仏様にお供物をお供えいたします時、また花なども参拝者の方へ向けてありますのはどういう訳でしょうか。」
明主様御垂示
「理屈はこの通りである。人間は自己満足のためである。
古代の人間は何かを拝まなくてはいられなかった。不安であった。
その時代はいろんな事が分らず、あらゆるものを不思議に思い怖れていた。
太陽、月、山、水などに対して恐れ、何かに頼り、木石などで偶像を作って拝んだ。
それに上げる物を向うを向ける時は気持がよくない。
故に向はどうでもよい。人間が満足するような形式をとったに過ぎない。故にどっちでもいい。
仏なら花を飾り、立派にすると霊界が極楽の形式になる。
故にそういう形式を生み出すのである。」
明主様御垂示 「米、水、塩は龍神の食物」
信者の質問
「神に物を供える事はいかなるわけでしょうか。」
明主様御垂示
「神様には上中下ある。最高の神様にお供えしても意義はない。
二流以下の神は霊界でも物を喰べるから供える。
神道などは米や塩、水をお供えするが、あれは龍神に対して上げるものである。
生水や生米は龍神は非常に喜ぶ。
古い時代は龍神の形の神が多い。
その後段々人間姿の神が殖えた。
人間姿の神様には人間と同じ物を召上るからお供えする。
観音様にお上げすると召上って、その時霊気を入れて下される。
それ故お下りは非常に美味しい。祖霊さんは召上るとまずくなる。
物の味は霊気であるから、味のうまい物など霊気が強い。
造る人の気持で、気持よく作ったものはうまく、でないものはまずい。
食物により作った人の気持がよく判る。作る人の気持で味がちがう。」
明主様御垂示 「御神体には料理したものをお供えする」
信者の質問
「祭典日と平日とのお供えについて。」
明主様御垂示
「観音様には料理したものをお上げした方がいい。
これからはすべて生ものを上げる要はない。
神道では生ものを上げるのは、龍神が多いからである。
その龍神も殆ど人間になりつつあるから、人間の嗜好物を差上げればよく、八大龍王などその一人で、信者の中にもある。」
明主様御垂示 「洗米、水、塩は不要」 (昭和24年4月)
信者の質問
「御神体のお祀りについて
(ロ)生魚、洗米、塩などの正式のお供えの仕方。」
明主様御垂示
「これは神道では、御神饌が塩や水や洗米ということになってるんですが、光明如来様はそういうものはいりませんよ。
光明如来様は人間のお姿なんですから、人間の食べるものをお供えするのがいいんです。
生米に水なんていうのは龍神の食べるものです。
いままでの「仏」の間は神様は龍神が多かった、神様はたいてい龍神になっておられましたからね。
それでお供えもそういうものだったんです。
これからはこういうものを上げるのはいけないですよ。
魚なんかもあっさり焼いたのが一番いいですね。牛豚だけはよしたほうがいい。野菜は煮たのがいいですよ。
いまに新しくお祀りの形式を作るつもりですが、まあそれまでは適当にやってればいいでしょう。」
明主様御垂示 「お米やお水のお供えは不可」 (昭和24年9月5日)
お供物の三宝倒る
信者の質問
「私の所属の教導所及び同所の熱心に布教している教導師五人に、最近度々不思議な事が起ります。
八月初旬、私がその教導所に泊りました翌朝、大光明如来様御前に、御神酒と御神水と御洗米の御三宝が倒れておました。
その後、右のごときことが度々起り、ここに泊る人は、最初の夜何者かに首をしめられる恐ろしさに眼が醒めます。
教導師も同じような事があり、未だに続いて起ります。
一同大変気にしておりますが、今後どのように致しましたら宜敷う御座居ましょうか。御伺い申し上げます。」
明主様御垂示
「御米やお水は間違っている。
観音様は人間の御姿で、人間は生米などは食わぬ。
人間と同じものを上げなくてはいけないと先に言ったはずである。
何か祟っている死霊である。
いろんな原因の場合があるからはっきり断定は出来ぬ。間違った点はないか査べてみよ。」
明主様御垂示 「御神体のお供えも臨機応変」 (昭和28年8月1日)
信者の質問
「出張所の場合でお膳をお供えすることができかねます場合にはお茶とお菓子でよろしゅうございましょうか」
明主様御垂示
「それはよいです。それはその家とその状態によって臨機応変でよいです。
それから御神体も、小さな家に大きな御神体はいけません。
と言っても今は「大光明如来」と「光明如来」だけですが、
それも大光明如来様がよいと思って小さな家にするのはいけません。
それは光明如来様のほうがよいです。
ちょうど合ったのが本当なのです。」
明主様御垂示 「お供え物を信者にお分けする時の心得」 (昭和24年1月8日)
信者の質問
「神様にお供えしてあるものをその場から信者にお分けするのはいかがでしょうか。」
明主様御垂示
「信者に与えることは結構です。
しかしお供えしたままではなく一応お下げしてから与えて、これはお供えしたものだと言って上げたらいいでしょう。・・・
お供え物もそう長く上げておく必要はありません。
十分か十五分でもいいし、お供えして拝んでしまったらじきに下げてしまってもいいです。
仏壇にお供えする場合も同じです。」
明主様御垂示 「御神体へのお供えは家人が食すべき」 (昭和23年7月18日)
信者の質問
「観音様に毎日食物をお供えする場合、大黒様にも御供えすべきでしょうか。」
明主様御垂示
「大黒様にもお供えする方がよい。但し観音様より少くする事である。
同じでは大黒様は食べられぬ。外の仏にしても、あまり丁重にすると食べられぬ。容れ物を小さくするのは極くよい。
お観音様を中心に上げると、お観音様に上げるつもりで、そのおこぼれを祖霊が戴く事になる。観音様はお召上りにならぬ。
観音様に上げたものはその家の人が食べるのが本当である。」
明主様御垂示 「お供えは大いに分かち与えるべき」 (昭和24年1月8日)
信者の質問
「神様に御供えして有る品物をその場所から信者等に分ち与える事は差支えございませんでしょうか。御教示御願い申し上げます。」
明主様御垂示
「大いに分ち与えた方がよい。(一旦お下げして渡す。長く上げるのはよくない)」
明主様御垂示 「御神体のお下がりと仏壇」 (昭和23年7月18日)
信者の質問
「観音様(註 御神体のこと)のお余りを仏壇へお供えするのは・・・」
明主様御垂示
「観音様のお余りは人間がいただくべきです。」
信者の質問
「よそから果物なんかいただいて両方にお上げできぬときは・・・」
明主様御垂示
「そんな場合は切って大きいのは観音様へ、小さいのは仏壇へ上げればよい。」
明主様御垂示 「御神前のお下がりと仏壇」 (昭和26年8月8日)
信者の質問
「信者さんが、なにか御神前にあげたものを、あとで別けて仏壇にあげるのはいかがでしょうか」
明主様御垂示
「それはわけが解らないな。やはり、それはみんなで別けて食べて、御先祖は他のをね・・・つまりそのものは一度使ったんだからね。別けていただくと良い。」
明主様御垂示 「お供えする花」 (昭和24年4月28日)
信者の質問
「御観音様に御供えする御花はどんな花。または木でも差支えございませんでしょうか。」
明主様御垂示
「差支えない。花は皆自然の美を神様が造られたものである。」
明主様御垂示 「御神前にお供えする花」 (昭和26年8月8日)
信者の質問
「御神前にお供えする花はどういうのがよろしいでしょうか」
明主様御垂示
「そうですね。かえって人間が嫌う彼岸花なんかも良いです。」
明主様御垂示 「蓮華と神前への花」 (昭和24年7月2日)
信者の質問
「蓮の花は仏前には活けますが、御神前には活けないようで御座居ますが、蓮の花について御教えを御願い申し上げます。」
明主様御垂示
「仏教は印度から来たもので、印度では蓮の花を非常に尊いものとして尊重する。
御神前は、榊とか松とかいうものがよい。
観音様など乗っておられるのを蓮華台といい蓮の花の咲いた上に乗っておられる。
南無妙法蓮華経といって、蓮になってるがインドの蓮は日本より大きいという。
一名ハチスといい、日本でも蓮はあるが、ハチスというのが本当である。」
明主様御垂示 「御玉串の向き」 (昭和25年2月18日)
信者の質問
「神様に御玉串、または色々なお供物をお上げする場合、(イ)(ロ)どちらにすべきでしょうか(図省略)。御神体と御仏壇のお供え方を御教示御願い申し上げます。」
明主様御垂示
「御玉串は神様の方へ向けるのが本当である。」
明主様御垂示 「月次祭廻りとお供え」 (昭和24年4月21日)
信者の質問
「御神体を新しく載かれた家庭に一々教師または教導師がお祭りに行かなければならないものでございましょうか。
従来は一々致しておりましたが、会員が多くなり廻り切れない実情にございますが、どう致したらよろしゅうございましょうか。
なお月並祭の折、御神前のお供物はどの程度に致したらよろしゅうございましょうか。
また御神前に毎朝お膳をお供えしております家庭と、配給その他の関係で近年は毎日のお膳を略させて頂いて、
月一回だけ特別のお膳をお供えしております家庭とございますが、今後はどう致したらよろしゅうございましょうか。
御教えを御願い申し上げます。」
明主様御垂示
「どちらでもよろしい。ただ形式だけ、教導師に聞いてする。月一回だけというのは間違っている。」
参考 明主様御垂示 「鏡餅、三六九」
「天地は合せ鏡といって、天にあるものは必ず地にもある。
鏡餅はそれを意味する。
天をそのまま地に写している形を示す。
太陽、月、星等に相応する人間は、大地には必ずあるものである。
偉い人の事を星というのもそのためである。
三六九はあらゆるものの階級を表わすものである。
三々九度もこれから出ている。」