神様が汚物を排除


明主様御垂示 「駄目な人間は神様がつまみ出す」 (昭和26年10月8日)

信者の質問
「御婦人の方は、メシヤ教に入っている人を主人にすれば安心でございますね。明主様がいつも堅くおっしゃっておられますので・・・」


明主様御垂示
「そうはいきません。

私の言うことを聞く人なら安心だがね。

下座の行より危ないからね。

神様は試しますからね。

それでもいけないものは、つまみ出しますからね。

自分がよすとか、自分のほうから出るとかいうんでなくて、神様につまみ出されるんです。

自由自在に力がありますから、またなお悪くなければ、キュッと止めちゃいますからね。」




明主様御垂示 「間違っている人は神様がひねりつぶす」 (昭和26年10月5日)

信者の質問
「資格者の中で、所属する中教会長が気に入らないというので、みんなを勧誘して替っていくという人がおりますが、どういうものでございましょうか」

明主様御垂示
「それは嘘ですね。

それはまだ信仰に入っていない人ですね。

神様ということを信じていないからです。

万事神様がやっているんですからね。

もし会長が悪いとしても付かなければならない因縁があるんですからね。

もし会長がいけないとしたら、つまみ出されるか、直されるかする。

人間が、ぜんぜんいけないというのは、神様の領分を犯している。

人間には善悪は分からないと書いてあるでしょう。

会長がいけないと言うのは信仰が分からないのです。」


信者の質問
「受け入れた会長も分かっていないということになりますのでしょうか」

明主様御垂示
「それは分からない・・・神様ではないからね。

あの会長はいけないとか言う・・・その人が分からないのです。

私などは、部下が間違っていても、間違っていると言ったことはないですよ。

神様に任せているから、もし間違っていたら出されるか、ひねりつぶされる。

人間の目には間違ったようでも、神様のほうからは、なにか必要があるんです。

○○という人が、そのようなことがあり、まあまあ神様がやっているからと言っていたが、

とうとう体が悪くなって病院に入って死んじゃいました。

そのくらいのことを、神様に力がなかったら信じないほうが良いです。

いま○○○にいる・・・あれを出さなければならないと言うが、

神様がやっているので、必要があれば神様がひょっとつまんでしまう。

まだ必要があるから、あのままなんです。


死んだというその人はたいへんな手柄をした。良いことをしました。私は今でも感謝してます。

良いことをしたが、これからは悪いことをするから止められた。

一時必要があった。神様は深いんだから、人間の目で良いとか悪いとか分かるようでは・・・そんな神様ではね。

どんな悪い奴でも、どんな馬鹿な奴でもそのときは必要があって使われるんです。

たいてい、時が経つと分かります。

三千世界の大芝居で、悪役もあるし良い役もあるし、いろいろお役がある。

ですから、いろんな悪役もありますが、悪役もなければ芝居にならない。

善人ばかりじゃね。だから、なんだかんだいいながら発展していけば良いんです。どうせ悪の世ですからね。

それからまた、邪神ですね。

邪神だって教団の中に入り込む。信者全部を邪神が狙っています。油断も隙もできないです。

それで、邪神のためにひどいことになる人がありますが、それは浄化作用です。

邪神にやられなければ浄くはならないですね。」


信者の質問
「発展の順調なころと現在の状態とは、たいへん邪神に乗ぜられているという感じがしますが、浄化で浮いてくるという感じでしょうか。浄化の一歩前でしょうか」

明主様御垂示
「浄化されてるんですね・・・邪神のためにね。

以前にパッといったのは、花が咲くんですからね。

ああいう風にはいきませんよ・・・実が成るんですからね。

堅実に着々といきます。なにしろ、神様のやり口は深いんだからね。

それも私がちょいちょい言ってますが、この次の論文かに、医者がメシヤ教を発展させているんだと書いてますが、医学が間違っているから、我々が発展するんですからね。

医学が間違っていなければ、我々のほうに来ません。

医学が間違っているからメシヤ教が発展するんです。」




明主様御垂示 「資格がない人間は神様がつまみ出される」 (昭和27年12月1日)

信者の質問
「今の神様のことを主にしないというお言葉で、非常にお蔭をいただいたのに御礼をしないというのがありますが、

実はお許しがないからできないのだと考えますと、そういう場合にも、ははあ、お許しがないのだな、と思いますと苦しみません」


明主様御垂示
「そうです。自分はお蔭をいただいていても信仰に入らないのがありますが、本人は信仰に入りたいのですが、邪魔があったりするのです。

それは何かと言うと、神様が許されないのです。

それからこういうことがよくあります。

熱心な人があって、フッと来なくなり、他のことをやってみたり、いろいろしますが、そうするとずいぶん馬鹿な奴だと思いますが、そうではないのです。

神様が、お前は入れてやったが汚いものがあるからもっと苦労しろというので、要するに資格がないというので神様がつまみ出されるのです。

そういう点は解釈のしかたが違うのです。

だから入るということは、その人が入りたいから入っているのでなく、神様がお許しになるから入れるのです。

そこは神様中心に考えると分かるのです。

それから「あいつは邪魔する、酷い奴だ、ああいうのを神様はどうして生かしてある、許してあるのだろう」と言うが、それは神様に何かわけがあるのです。

そのときはそうでも、いずれは何かに使うのです。

ですから要するに人間の判断というものは分からないものです。

神様くらい深いものはありません。

それはあべこべのようなことがあります。」




明主様御講話 「神様が役に立たない信者をつまみ出す方法」 (昭和27年4月1日)

「それで信者も多いし、今にだんだん増えて来ますがね。

中には間違った人もあるし、とんでもない人も来ますよ。

多い中にはね。けれでも神様はそれを大勢寄せて・・・それは因縁のある人ですがね。

因縁についても話しますがね。

それから選り分けるんですよ。

選り分けた結果、どうしても役に立たない・・・こういう人間はいないほうが良い。

住む資格がない者だというのが幾人かありますね。

そうすると、その人間を教団からつまみ出さなければならない。

教団のほうで出すと、先方が怨む・・・怨むと、その想念が邪魔するから、怨まないように神様は一つの間違ったことを造るんです。

これが因縁なんです。

そうすると、そのつまみ出されようとする人が皆信ずるんです。

だから、神様がちょうど良いようにする。

あの人は教団から離れる、惜しい。

と気を揉むが、神様はそういう必要があって・・・教団からつまみ出す指導者を作るんです。」




明主様御垂示 「下落の行」 (昭和26年10月8日)

信者の質問
「午前中のお伺い事項中の人は、宿屋の番頭をして下座の行を覚えるというので、

伊豆山の旅館に入り、だいぶ修業しているうちに女の人とできてしまい・・・」


明主様御垂示
「なんの行だか分からないね。下落の行だね。落第したんだね。」




明主様御講話 「観音様のお試し」 (昭和10年8月11日)

「私としては、霊写真は「光明世界」へも出してお話しましたから、

いまさらお話するところはないと思うも、一言改めてお話しますが、

実際のところ、観音力だけで、その他にはなにものもないので、観音様が東さんを使ったんであります。

ですから観音様の御都合により、そのときの仕事の上においてだれを使うか判らぬ。

今後といえども観音様は必要があればだれでも使う。


もし使われた人が、俺がこうであるから使われたとか、俺がどうだからと思うと間違いがある。

観音様からこういうお見出しに与かるということは、一生涯の光栄で、それに対してはただ感謝よりほかなにもない。

感謝してありがたいと思えば後また使われる。

少しでも自分がやったと思ったら観音様はもうお使いにならぬ。

この点はたいへん重大なことで、観音会がだんだん発展する上においても、

観音様は非常にやわらかくて厳粛で、たくさんな人を呼び寄せては、一人も残らずお試しになり、

すぐりにすぐりこの人はという人だけ残し、そういう人達で固めて建設されるので、実にその点は大磐石で、ただパッと拡げない。

世間ではよく形だけ見せるようにするが、こういうやり方は非常に観音様は嫌われる。

場当たりのいい、ある一時的の仕事などはなさらない。

要するに真実で飾り気のないこと、人間のように衒(てら)いもなにもない。

本当のお試しとは、自己というものをぜんぜん見ない。

本当に世界人類を救わなければならぬというやむにやまれぬ情、

またこの世の中の状態を見て、実に哀れだ、かわいそうだ、見てはおれぬ、しかし人間の力ではどうすることもできぬ、

しかし観音様が観音力を揮われるにつき、その一部にも加えてもらって、

そして力限りやらしてもらうというそれだけで、そこに名誉心などがあると、反対の結果になる。




明主様御講話 「御用をしないと神様は代わりの人間をお使いになられる (昭和10年11月11日)

「今日はお天気もたいへんよくて、いつも決まったようなものですが、たいへん結構なことと思います。

観音様はお天気など自由自在になさいますから、それを多くの方に知らしたいという思し召しがあるんであります。

いろんな報告はいまお聞きになったでしょうが、別にたいしたお話するようなことはありませんが、二、三簡単にお話いたします。

今日は、この間三十三カ所の札所を参拝しましたが、お開帳の最終の日になり、こちらは十月十日にお祭りしまして、初日から最終の日までちょうど三十三日間で、これについてはいつかお話したがたいへんな意味がある。

先刻も会長さんが話されたように、もう観音様のほうでは決まっている。

芝居のプログラムのようなもので、どうしようとこうしようと、決められただけのことは出てくるんで、やるだけのことはやるんで、口では言えぬくらいたいしたものなんであります。

それを早く知るには信仰に徹底することで、そこへ来れば疑いがなくなる。

第一に私が観音運動については、疑いに疑いぬいた。

しかしいろんな奇蹟があって判った。

私はご多分に漏れず疑い深い性質で、事柄があまりに大きいので、どのくらい疑ったかしらぬ。

どうしても、そういう大きいことをやるような気にもなれず、そうかといって、また大丈夫やれるということを、いろんなことによって知らされて、これなら安心というとこまで行ってやり始めたわけであります。

天地が崩れてもできる。

邪魔しようとなにしようと大光明世界はできる。

そして全世界は統一される。

人類始まって以来ない結構なことになる。

それが何百年、何千年先のことではない。

昭和三年から三十年間という。

これでだいたい大光明世界の基礎ができる。

私が七十七の時で、早く言えば制規ができる。それから本当の世界になる。

ただいまから世界は一歩一歩そうなって行く。

そのときはすべてが非常に結構なことになる。

みんなが一生懸命になろうとなるまいとできる。

ただ一生懸命にならぬと置き去りにされる。

代わりはいくらでもある。

この人がグズグズすると、この人がするという具合になり、せっかく自分が役になり、結構な使命を言いつけられても、お代わりができる。

そうすると永久に取り残されるわけであります。

もしか疑われるならば、やってみられるといいのであります。

とにかく結構な空前の大事業に携わらしていただく。

このくらい幸福なことはないのですから、取り残されぬようにすればいいと思います。


観音様は難しい無理なことはおっしゃらぬ。

喜んで愉快にできることしかやらされぬ。

いままで世界のあらゆる大仕事など、みんな非常な苦心惨澹した。

今度の仕事はそうではない。苦心惨澹したらできない。

ボンヤリしてブラブラしていてもできぬ。

例えば、飯を食うにも茶椀と箸をとるくらいのことはしなければならぬ。

それだけの手順は尽くさなければならぬ。

病気治しにしても、御祈祷加持で汗水垂らしてやるんですが、観音力では楽にできる。

そういうわけですから、その点はたいへんにありがたい。」