馬鹿な信者は放っておけ


明主様御垂示 「馬鹿は放っておけ」 (昭和23年4月18日)

(京都の一住人からの手紙を井上先生朗読、内容は・・・)

(一)「なにゆえに八つの分会が分立しているか、

(二)天国会では昭和二十五年に大浄化があり、そのとき天国会の会員だけ残り、他の会員は死んでしまうとの予言を宣伝しているが真意如何、

(三)入会金、御守り代の高価なこと、真の宗教ならば金をたくさん出したもののみ救われるなどというものではないと思うが如何、

(四)農村人には天国会の言うことに驚き真意も判らずに入会しているものがそうとうあり、これでは意味がないと思うが如何。」


明主様御垂示
「神様がやってるんだから間違ったことをすればその人が間違うだけである。

神様から制裁を加えられる。ほかの人は気をもむ必要はない。

まアこんなことはいい加減にしていればよい。

それから大勢の中には頭の変なのもいる。

そんなのを一々取り上げていてはやりきれない。

それこそしまいには観音会警察部を作らねばならなくなる。


大本教のお筆先に「世界の人民三分になる」とある。

これは十の三のことか百の三のことかわからない。

中島のほうで大浄化のときは二割しか残らぬと言っているのは、中島が大本で凝っているからそう言うんだ。

三割が二割までおまけしてある。わたしらは九十七%と解しているが、それはわからない。

神様はわかっていたって人間には知らさない。

やはり大本のお筆先「こわさ故の改心ははんまのものではないぞよ」とあるが、こわくて改心したのは本当の改心ではない。

天理教でもよく人をおどかすが、脅迫するので本当でない。

つまり愛で改心するんでなければ駄目です。

不良やヤクザと一緒では神様の仕事ではない。」


信者の質問
「福井のほうでも昭和二十五年に八割死ぬとか言っているようです。

その他天国会でなければ駄目だとか、来年になれば大先生は極楽へ行かれてしまって御目にかかれないからいまのうちに行けとか言っていると聞きました。」

明主様御垂示
「冗談じゃない、私はまだ極楽へは行きませんよ。」


信者の質問
「まったくそんな具合に大先生に対しましてちょうどヒイキの引き倒しのようなことをよく耳にします。

また分会分立のことでも会員はだいぶ悩んでおります。」

明主様御垂示
「いやみんなケツの穴がせまい。

そんなことでは世界は救われない。

争いをなくするのがこの道であるのに争いを自分らでやっていては駄目だ。

分立も去年文部省で八つにしろというんで、私は嫌だったがやったまでです。

まず観音会を救うことが先ですね。」




明主様御垂示 「献金を横領する泥棒教師も放っておけ」 (昭和24年9・10月)

信者の質問
「お道の資格者の中には、自分の周囲を充実することだけを考えて、

会費や献金などの上納を故意に怠っているかに思われる人があります。

そのうえさらに、自分の行動を糊塗しようとして他の人をも誘い同様の空気を作ろうと企てているような人もございます。

このままでは団体の徳義が破れ秩序が乱れてくると存じますが、

このような行動に対しましてはどのような処置をとるべきでしょうか。」


明主様御垂示
「これはだれが処置をとるんですか・・・この処置は神様がとられるんです。

こんなの、私はなにも処置はとりません。

うっちゃらかしておけばいいようになるんです。

もし、間違ったことをしてれば、その人が神様の裁きを受けるんだから、ほかの人はなにも心配する必要はない。

こんなことを心配するのはまだ信仰が薄いからです。

だから、神様のほうでは「俺を信じてないからだ」と思われて、御機嫌が悪くなりますよ。」




明主様御垂示 「神様が教団幹部を監督している」 (昭和28年10月1日)

信者の発言
「神様が人類を救済するに御入り用な金は、人類のほうで作って神様に奉納して御使用いただくのが真理であり、それを実現するのが真理の具現であると、私は考えます」

明主様御垂示
「それはそうです。」


信者の発言
「明主様は、入用の金については“金儲けに余念がない”とおっしゃいました」

明主様御垂示
「私はそういうことは知りません。」


信者の発言
「咲見町での御参拝のときにおっしゃられました」

明主様御垂示
「私は知りません。

私は実業家ではないので、人類を救うのですから、金儲けというのはおかしいです。

まるで営利会社のようです。

そうするとメシヤ教株式会社ということになってしまいます。」


信者の発言
「明主様は水上鉱山をやっておられますが、これは金儲けのためと思います」

明主様御垂示
「そうです。」


信者の発言
「ですから明主様御自身で金儲けをしておられると思います」

明主様御垂示
「水上鉱山は金儲けのためです。

しかし全般的に金儲けをしているのではありません。

全般的に考えると間違います。

あなたが漠然と言うからおかしなことになるのです。

最初に水上鉱山と言っていればなんでもないのです。」


信者の発言
「申しわけありません。その金儲けを自らなされるということは・・・」

明主様御垂示
「自らではありません。人に任せてあります。」


信者の発言
「言葉を改めます。人間をお使いになり金儲けをなされているということはもったいないと考えます」

明主様御垂示
「そう考えてもよいです。」


信者の発言
「そこで御神業の金が不足するということは・・・」

明主様御垂示
「不足はしません。必要だけはチャンと神様のほうで用意せられます。」


信者の発言
「現在救世会館につきまして、咲見町の頃には、もっと早くできる御予定であると拝聴しましたが、それが現実において遅れてきておりますが、この原因は金の不足と考えます」

明主様御垂示
「そうばかりではありません。

また金の不足ということは、神様のほうで不足させるので、それは延ばすためですからしようがありません。

私はもっと早いつもりだったが、神様が延ばされたのだから、それでよいのです。

大本教のお筆先に“延びるのも早くなるのも、神様の都合のことじゃ”とあります。

神様のほうではすべて時期は決まっているのです。

ですから会館ができる時期も決まっているのです。

しかしなにしろ神様も邪神と戦いながらやるのですから、その間には早くなったり遅くなったりはします。

しかし結局はちょうど間に合うようになっているのです。

神様の経綸というのはそういうものです。

あなたは人間的の考えでいるから質問したくなるのです。

ですから私でも神様に聞きたくなることがあります。

なぜ神様はグズグズしているのか、と。

人間のほうは早くなったり遅くなったりは始終あるのです。

ですから神様のほうと、その時がピタッと合わないのです。

というのは、なにしろ邪神との戦いだから虚々実々で、早くなったり遅くなったりするのです。」


信者の質問
「神様の必要な金は差し上げ、お使いいただくというのが人間のなすべきことと思います」

明主様御垂示
「そうです。」


信者の質問
「私共教団に奉職する者は、大いに金儲けを考えて、それを実行するのが真善美であると考えます」

明主様御垂示
「それは結構です。」


信者の質問
「そうして教団を見ますと、金儲けになる材料がゴロゴロしていると考えます」

明主様御垂示
「それは教団ばかりではなく、世の中にたくさん転がっています。」


信者の質問
「それで教団に職を奉ずる私は」

明主様御垂示
「その職を奉ずるという言葉が間違っています。奉仕というのが本当です。

奉職というと、官吏や会社員でもそういう言葉を使います。」


信者の質問
「奉仕させていただく私として、教団の幹部に金儲けを材料によって勧告するということは小乗でありますか。

またこの場合に、私の伊都能売(いづのめ)の働きといたしますと、どうするのが伊都能売の働きでございましょうか」

明主様御垂示
「あなたは知らん顔をしておればよいのです。

教団の幹部が何をやろうと、神様がチャンとやられるからいらない世話です。

そうでなければ神様は意気地がないようなことになります。

あなたが黙っていても神様がうまくやられます。

それよりか、あなたは一人でも多く信者を作るということです。

教団の幹部の人に忠告すると言うことは、あなたはたいへんに偉くなっています。

そういうことはぜんぜん考えてみる必要はありません。

あなたの役目は支部長だから、一人でも多く信者を作って発展させるということで、それでよいのです。

第一注意するということは、欠点があるとか、あるいは自分の考えと違っているように思うから注意するのでしょう。」


信者の質問
「注意ではなく、私の考えとしては、例えば会社に職を持っていると、社長や重役が・・・」

明主様御垂示
「ここは会社ではないので、教団なのです。そこを会社的に考えては駄目です。」


信者の質問
「そういうふうに考えましたので申し上げた次第です」

明主様御垂示
「ところが神様がやっているのです。だから幹部は神様が監督しているのです。

幹部が間違っているように思うのですが、私もどうしてああやるかと思うことがありますが、しようがありません。

神様がやっているのだから、神様がなんとかしてくれと思っているから放っておくのです。」


信者の質問
「私も奉仕ですから、神様がやっていると考えましてよいのでしょうか」

明主様御垂示
「そうです。

すべて神様にお任せしておけばよいということで、私の本にたくさん書いてあります。

あなたは御神書を読まないのではないのですか。」


信者の質問
「そこで神様に任せることと、自分の奉仕する時所位において努力するという区別が分かりませんが」

明主様御垂示
「だから神様にお任せして努力するのです。

あなたは切り離すからいけないのです。

「人事を尽くして天命を待つ」で、神様にお任せして努力するのですから、それでよいのです。

今の質問はたいへんよい質問です。

そういうように思っている人があるかもしれないから、そういうことは大いに質問して、本当に心から分かるようにして働いたほうがよいです。」




明主様御垂示 「坊主の逆宣伝に迷う信徒」 (昭和24年10月16日)

信者の質問
「私は昨年入信し御光を戴き、また十一月には光明如来様を御迎えして御祭りしておりますが、

当地へは一度に五体御祭りしたためか、ただ今では寺の住職が村人を集め、また、人家を廻り、観音様の事を悪口ばかり言いますから、村で入信した方も迷う方も出来、浄霊をして上げたいと思いながら皆断ります。

今後いかが致したら宜敷いでしょうか。」


明主様御垂示
「迷う人は迷わしておけばよい。

丁度犬の集団等へ異ったものが入ると、目の仇のように苛められる例えに同じである。

終いには坊主もこの信仰に入る。

大いに悔改むる時が来る。」




明主様御垂示 「命を救われたのに御礼をしない者は放っておけ」 (昭和26年5月25日発行)

信者の質問
「私はある婦人を御浄霊しておりますが、死一歩手前を御守護によって御救いいただきましたが、

主人は無能力で働くことが大嫌いで、本人主人とも御教修はいただきましたが、

感謝の念が薄いようで約一年余の間、御礼はぜんぜんいたしません。

右のような場合御礼をいただかないで御浄霊をしても、神様からお許しいただけるのでございましょうか。

それとも一時本人が目醒めるまで放任していたほうがよろしいでしょうか。」


明主様御垂示
「放任したほうがよろしい。

そんな恩知らずの面倒をみるのは、神様にもったいないのである。

時期が来て、本人が心から目醒め、おすがりしてくれば、神様にお詫びして、御救いを願えばよいのである。」




明主様御垂示 「御奉斎した御神体を勝手に巻く信者は放ったらかして良い」 (昭和27年11月1日)

信者の質問
「五年前一家九人入信、御神体も御奉斎いたし、お道に一生懸命でありましたが、

御法難当時から近所の噂とか親戚の反対が多く、そのため夫婦以外の子供全部が反対し、留守の間に御神体を戸棚にしまい込んだことがございます。

早速当時の会長がまいり御奉斎いたしましたが、またいつの間にかお巻きいたしました。お道には一生懸命でございます」

明主様御垂示
「お道のことをやっていて御神体を巻くというのは、それはお道のことをやっているのではありません。

御神体を巻いて、そんなことをやることはない。よしたほうが良い。無礼です。」


信者の説明
「子供に言い聞かせてはおりますが」

明主様御垂示
「言い聞かせなくても良い。放ったらかして良い。気を揉ませて、そんなことはいらないことです。」


信者の質問
「断固としてお道に励むか、よすか、どっちかということでございますか」

明主様御垂示
「そうです。どっちかに決めなければならない。」




明主様御垂示 「不徹底な信仰はやめよ (僧の言に従う信徒)」 (昭和24年9月7日)

信者の質問
「三月頃までは数多くの御利益を受けて喜んでいた人で御座います。

親戚の反対によりて止めておりましたところ、村の浄土真宗の僧侶が月に四回位読経に参りまして、御書体をはずしてしまえと申しました故、

やむなくはずし、三宝の上に置いてありました。

この頃僧侶は川に流してしまえと申すそうで御座います。

本人は今まで多くの御利益をうけていてそんな勿体ない事は出来ないとは申しますが、

僧侶の言う事は案外よく聞くもので、私も自分が御導きした人でもありますので、いかにすればよいでしょうか。お教え下さい。」


明主様御垂示
「罰あたりだから勝手にさせよ。

中途で止めると反って覚りが遅れる。

僧侶の言う事を聞くなど曖昧な信仰はやめた方がよい。

この信仰をするか滅びるかどっちかという時期が今に来る。」




明主様御垂示 「他人のことより自分自身の反省をしろ」 (昭和23年10月8日)

信者の質問
「既成宗教の信者がお道に入った場合、なにかといままでの信仰が障りになりますがいかにいたしたらよろしいでしょうか。」


明主様御垂示
「これはうっちゃっておけばいいのです。

ちょうど染め物みたいなものでよく染まると色抜きに手間がかかるようなものです。

やはり宗教は想念、魂の問題だから改めるのにはそうとうの時間が必要なんですよ。

まあ他人の色抜きの心配よりご自分の色抜き・・・反省の必要があるんですよ。」




明主様御教え 「或質問者への応答」 (昭和25年1月21日発行)

「ある日、信者の中の幹部級の者が「伺いたい事がある」と言って来た、早速私は遇ったところ、

彼の質問事項は「某に対し、某の噂が間違っている、それを某が語ったので、その誤解を解きたい」と言うのである、それに対し私はこう答えた。

私「私は今、世界人類救済の大業のため、極度に時間を有意義に利用している、

従って君の問題が人類救済にどれだけの関係があるか、それを話しなさい」と言ったら、

彼は吃驚仰天(びっくりぎょうてん)三拝九拝してそうそう辞去した。


右のような笑えない喜劇がよくあるのである、

いよいよ最後の世は迫りつつあり、神様は一人でも多く救わせられようとして

私を通じて大慈悲的活動を垂れつつあるにかかわらず、

個人的の利害や感情問題などを訴えて来るという事は、

この信仰を何と心得ているのか解し難いのである、

しかし右のような考え方の信者も相当あるであろうから、

頂門の一針としておいたのである、

それで帰りかけの彼に言ってやった。

「そんな暇があったら、神様の本を出来るだけ読みなさい」。

(註 頂門の一針とは人の急所をおさえて戒めを加えること)