豚に真珠


明主様御教え 「豚に真珠」 (昭和25年4月8日発行)

「よく昔から、豚に真珠という言葉があるが、その通りの事が平気で行われている、その事をかいてみよう。

ここに一人の人間があるとする、その人は、病気とか災難とか、とにかく不幸に苦しんでいる場合、

たまたま本教の話をするや、飛付いて直ちに入信し救われる人もあり、

何だ彼んだと反対を唱えたり、疑いながらともかく病気を治してもらいたいと浄霊を受け治った事実に驚いて入信する人もある、

これらの人は前者は上魂であり後者は中魂である、

ところが世の中には下根の人も沢山いる、むしろ一番多いかも知れない、

こういう人にはいくら説明しても奇蹟をみせても頑として信じない、いかに骨折っても無駄である、

こういう人に入信を奨める事を豚に真珠というのである、

従ってこういう人には、一応の話をしてその態度で判断をし、下根の人と知れば諦めた方がよいのである、

見込のない事に骨折る事は時間と努力の浪費に過ぎない、はなはだ非能率的であるからである。」




明主様御教え 「信徒諸士に告ぐ!」 (昭和29年10月20日発行)

「本教信徒の中に、浄霊の場合、医師にかかること、薬をのむこと、注射をすること等について、否定するごとき言葉ありやにて、

本教の主旨を履き違え、社会の誤解を受くることは、本教を傷つける結果となることはもちろんで、

この点充分注意され、決して医療を否定するごとき事無きよう、ここに重ねて戒意を促す次第である。


以上に対し私の所見を述べてみたいと思う。

まず我がメシヤ教は宗教法人として認証され、国法によって保護を受け、信教の自由を認められている以上、

法を重んじなければならないのは当然で、医師法に触れるがごときことは厳に慎まねばならない意味は誰しも分ると思う。

ところが本教浄霊法は現代医学と全く相異なる立場にたつ治病原理である以上、

事実を事実として書いたり喋ったりすることが悪意に解されれば医療否定という事になる。

とすれば右の一文に対し一見矛盾を感ずる人もあろうがそうではない。

それは本教浄霊法の、他に追随を許さない大奇蹟である。

まず第一に医師に見放された重症患者を起死回生せしめる力の発揮である。

しかもそれが入信すれば誰でもできること、疑っても治る事、お説教は第二第三で、直接人間の魂に集中透過し改過遷善できる、

人を救えば救う程大きな御神力をいただくことができる、

いかなる遠隔僻遠の地にあっても同様奇蹟をいただくことができること等々、

無限絶対の力徳の根源でありその発揮であることは論をまたないところである。

従って本教浄霊の原理、病理臨床上のことについて人に伝える場合、いささかも先方の意志を無視して強要する必要はないのである。

執拗に繰返すことは、熱心のようであって実は御神意に対する冒涜であると御垂教(ごすいきょう)賜わっている。


次に今一つ重要な事は、最後の時期が迫ってくるとともに救われるものと救われざるものとの審判が厳しくなって来ることである。

従って本教の話をして分らなかったり、事実に目を背けたり、御神書を見せても分らない人は、

時期が来ていないか既に滅びの方に運命づけられているのであるから、

いかに救わんとして努力するといえども徒労に過ぎないばかりか、救われるべき人に対してそれだけ救いが遅れることになるので、

この点も厳に戒しめられているところである。


従って問題が起きる場合を振返ってみると、ことごとく小乗信仰の結果であり、いずれも右の御教えに抵触していることは言うまでもない。

小乗信仰とは自力本位であるから、いかに本教信者とは言え、否本教信者であるが故に御守護がないと言えよう。

我々は、今後いかなる事態が起ろうとも、心を謙虚にし、神の愛を胸に畳んで、正邪善悪の判別力すなわち叡智を賜わり進むならば、

世に恐るもののないことを一層銘記するのである。」




明主様御講話 「少し話して分からない人は手放せ」 (昭和28年6月6日)

「それから、今までもそうでしたが、これからは信仰の話をしても分からない人は、あんまり追いかけない方がよいです。

追い放した方がよいです。というのはメシヤ教はすばらしいものだ、神様はたいしたものだと言うが、それには違いないが、

今度の最後の審判というものは、審判は善悪の裁きだが、ふつうは一人でも多く、ほとんど世界人類が救われるように思いがちですが、救われる人はごく少ないので、あとはみんな駄目になる、滅びるのです。

それをよく分かっていなければならない。

だから少し話して分からない人は放してしまった方がよいです。

それは閻魔の帳の方ではチャンと消してあるのです。

かえってその方が楽で、そのために救われるべき方の人が遅れたりするからいけないのです。

ですからそうした方が非常に楽で、救われるべき人が早く救われます。そのことを書きました。

(御論文「最後の審判とは何か」)」




明主様御垂示 「御神書を拝読しても信仰心の起らない者はほったらかして良い」 (昭和26年12月8日)

信者の質問
「TS(四十二歳)、昭和六年五月満州にて流行性脳脊髄膜炎で入院し、七年五月ごろより松葉杖で歩行でき、九年春、歩行もふつうになりましたが、

十七年ごろより再発し、電気マッサージ、ペニシリン四十本いたしましたが、立つことができません。

家業は写真屋でございます。御浄霊を頼まれ、七十回ほどさせていただきましたが、たいして変化もございません。

本人も家族も信仰心がございません。一週間ほど前に近所からいただいたリンゴに「優曇華(うどんげ)の花」が咲いておりました。

三、四年前にもそういうことがあり、母が中風ですぐ死んだそうで、たいへん心配しておりまして、天津祝詞と善言讃詞を奏上いたしました。

御浄霊の箇所および「優曇華の花」につき御教示賜りたくお願い申し上げます。」


明主様御垂示
「信仰心がない・・・これはいけませんね。こういう考え方はね。

七十回もやって、信仰心が起らないような人間なら止した方が良いですよ。

これは、いくらやっても駄目ですよ。

最初は誰も信仰心がなくても良いですがね。

これだけ行くうちには、神様の話もしたでしょうが、これだけやってもこういうのは・・・そういうことに無駄骨折るのは、神様に対してもったいないですよ。

だから止めた方が良いですよ。

もう一つは、御神書・・・新聞とか雑誌とか・・・読まして、そうして信仰心の起らないのは、ほったらかして良いですよ。

あれを読んで、少しも信仰心が起らないのは、要するに頭脳が麻痺しているんだから・・・

あれを読めば解るように書いてあるんだから、そいつに心が動かないようだったら駄目ですね。

そうかといって、ぜんぜん駄目ではない場合もある。

時節がある。ああこれだなと言ってくることがありますからね。

読ませるだけは必要ですから、そこで、感じないような人は、まずほったらかしておくという方が能率的ですよ。

こんなに・・・七十回も行ってやるということは、能率的でない。

無駄骨というわけですから、かえってもったいないですよ。」




明主様御垂示 「心の歪んだ人には勧めない」

信者の質問
「私が観音教を人に勧める場合に次のような事を言われました。

貴殿は貴家を挙げて観音教を信奉してもあなたの子の代、または孫の代に放任し、または無関心の場合を保証出来ない。

故に無関心無信奉が祟って観音教の御軸、御額が却って末代において障害とならないかと言います。これはどうした事でしょう。

それで教修を断り勝ちです。

正しい神様に断じてあるべきでないのが本教団だと言っても聞き入れません。」


明主様御垂示
「こういう事を言ったらキリがない。教団で救われた人は祖先になる。これから新時代の祖先になる。

そして祖先が徳を施すから、子孫は皆良い訳である。

悪い子孫が出るのは 祖先の徳が足りない訳であるともいえる。

物を悪くとればどんなにも悪くとれる。

悪くとる人は心にどっか違った所がある。

こういう人は、無理に奨めず、時節を待つ。

まず何より現在を救われたい、世の中を良くしたい、それだけの考えでよい。

取越し苦労や過越し苦労はいけない。

観音様にお任せするとうまくいく。

不安に襲われるのは霊層界の下にいるからで、段々救われると何となく不安はなくなる。」




明主様御垂示 「豚に真珠」 (昭和25年5月27日)

信者の質問
「種々な宗教を渉り歩いた方には批判的態度の方が多く、本教の有難いところが分ったように見えても中々入信迄には至りません。

このようなお方はどんな具合に御導きしたらよろしいでしょうか。」


明主様御垂示
「放っておけばよい。話しても分らないのは霊的の盲である。本をよく読ませる。

それで分らぬ人はまず救われぬ人である。

目の見えぬ人に見せても無駄である。豚に真珠である。」




明主様御垂示 「老人に分りやすい説明法」 (昭和24年2月27日)

信者の質問
「観音様と阿弥陀様との関係について、火、水あるいは東洋及び西洋の例を言って、観音様の方が阿弥陀様より上だと説いても、阿弥陀様の方が上だと思って中々分りません。

仏教信徒、特に老人等に分りやすい説明方法をお教え下さい。」


明主様御垂示
「話で分らぬから、放っておく事。

(以前、麹町で一軒支部を作った時にもそんな話があった。・・・本願寺は法蔵菩薩を崇めている)」




明主様御講話 「救われそうな人はそんなに手数がかからない」 (昭和28年6月5日)

「結局、最後の審判にはいって行きますが、それについて信者を作る場合に、今までは一人でも多く救いたいとしてましたが、これはあたりまえの話です。

しかし、神様は大きな愛だから、どんな気の毒な者でも救ってくださると思ってますが、それは間違ってます。

神様は、救う者と救わない者とをチャンと分けるのです。

ですから救われない運命の者に骨折るだけ無駄になるわけです。

救わるべき者と救われない者との判別、その考え方が大いに必要になるのです。

それで救われそうな人は、そんなに手数はかからないのです。

それだけの因縁がありますから、すぐに分かります。

それから迷ったりいろいろゴタゴタするのは駄目なのです。

そういう者にかかり合わないようにするのです。そのことを書きました。

(御論文「最後の審判とは何か」発表)」




明主様御講話 「あんまり汚い人間は邪魔」 (昭和28年6月7日)

(御論文「最後の審判とは何か」)

「つまり神様の方が激しくなるわけです。

大本教のお筆先に「神激しくなれば、人民穏やかになるぞよ」というのがありますが、なかなかうまく言ってあります。

そういうようなわけで、曖昧であったのがはっきりしてくるというわけです。

だから分かる人は救われる人で、分からない人は滅びる人と、こういう具合にだんだん決まってくるのです。

ところが分からない人の、滅びる方がずっと多いのです。

ですからどんな人でも救われると思う人が、今までは大部分でしたが、そうではないので、救われる人の方が少ないのです。

ですから救ってやりたい救ってやりたいと、こっちで思っていても駄目な人は駄目なので、諦めるということが肝腎です。

それでミロクの世というすばらしい世の中ですから、あんまり汚い、わけの分からない人間は、かえって邪魔になるわけです。

神様の方では人口を増やすのは、なんでもないのです。

今でも増え過ぎて困るのです。

ですから倍くらいにするのは、なんでもないのです。

また、将来その方が有利です。捨てられて滅びる人は実にかわいそうなものですが、これはどうもしかたがありません。

ですから、その点をよく心得ておくべきです。


これはいつも言うとおり、今度の御神業は、人がやるのでなくて、神様がやるのですから、骨を折らなくてできる御神業です。

ですから骨の折れるような難しいことは避けた方がよいです。

楽にスラスラと行くことだけをやればよいのです。

だからかえって楽で非常によいです。そこが天国を造る宗教としての、かなったやり方になるわけです。

今までは地獄の中で天国を造ろうとするのですからして、まだまだ天国を造る時が来てないのです。

地獄の中で天国を造るのだから、苦心惨憺して非常に骨が折れるのです。

人間はそういうのを長い間見てきましたから、どうしても苦しむことがよいように、つい思うのです。

だから今言ったようなことを本当に意識するには、なかなか骨が折れますが、その点はよく気がつくように心掛けていなくてはいけません。


だから美術館や庭やなにかが早くできたので、信者でない人などが、これほどにするには随分苦心しただろうと言いますが、実は少しも苦心もなにもしないのです。

楽過ぎるくらいなにも考えないで、その都度、気の向いた時にちょっと指図するくらいで、それでチャンとできてしまうのです。

やはり苦心して造ったものは、それを見た感じは、やはりその苦心が移りますから、あんまり楽しい良い気持ちはしないものなのです。

こういうことも今まではみんな知らなかったのです。私は展覧会などに行って、いろんな絵を見ますが、非常に嫌な感じがします。

というのは、どうかパスされようとして苦心惨憺するのですが、その苦心がチャンと絵に現われているのです。

ですからそれから受ける感じは、作者の苦心がこっちに来ますから、少しも良い気持ちはしません。

楽しみ楽しみやった良い作品は、それがやはり移りますから、見ていて楽しい良い気持ちがします。

そういうことも世間にある美術館の人などは知らないのです。

要するに霊的智識がないので、形だけに囚われているからです。

根気良く苦心惨憺して作った物が良いというように思うのです。

そこに今までの考え方とよほど違う点があります。」




明主様御垂示 「滅びる人と救われる人とは決まっている」 (昭和28年7月1日)

信者の質問
「一般に無神論者と言われている中にも、先祖祀りということはしている所はありますが、どうもお蔭をいただけません。

そういう人達をこのお道にお導きする方法を御教えお願い申し上げます」


明主様御垂示
「別に方法というのはありません。

なぜかというと、導くということは導かれるというそういう人が機会を与えられた場合に、話を聞くとか、こっちの新聞を見ればそれでよいのです。

あとは心配しなくてもよいのです。

なぜといって人によって時期がありますから、その人が救われる時期が来ないと、いくら言っても駄目です。

その時期というのは非常に神秘なもので難しいものです。

例えば木なら木として、幹があって枝がありますが、幹が救われてから次に大枝、小枝、葉というのが順序です。

ですから幹が救われて、次に葉を救おうとしても、それは順序が違うから、そうはゆきません。

そこでメシヤ教の人は、私は根です。幹部の人は、幹の人は今はちょっと言えませんが、大枝のほうでしょう。

大枝が救われて小枝が救われて行くのです。

それを放ったらかしておいて葉を救おうとしても、それは順序が違っているから救われません。

そういう時期が来れば、喜んで話も聞くし御神書も読みます。

だから分からないのはまだ時期が来ないのです。

だからスラスラ行くのは時期が来たなと分かるし、割合に骨を折るのは時期が来ないのです。


それからこの間も書きましたが、滅びる人と救われる人とは決まっているのです。

ですから滅びる人はいくらやっても駄目です。

だからさっきの「食道が悪くて、噴門からどうとかする」というのは、もう救われない側になっているのです。

救われるのなら、そうならないうちにチャンと信仰にはいっています。

ですからそういう人を救おうとしても無駄というものです。

それは別に難しいことはないので、見分ければよいのです。

この人は救われるか、あるいはもう駄目な人かということはすぐ分かりますから、

どっちかというと、楽にスラスラと行く人は時期が来て救われる運命にある人です。

それから楽に行かないのは救われないほうです。

この間の論文に書いてありますが、救われない人がすっと多いので、救われる人は十人に一人はないくらいなものです。

最初は誰でも救われると思ってやりますが、救われない人を一生懸命にやるために、救われる人のほうが疎かになり、それがたいへんな間違いです。

そういうことを見分けるのもその人の智慧証覚が向上していれば見分けもつきます。

ですから智慧証覚を磨けばその判断力がつくのです。

それで智慧証覚の磨けた人は、人から質問を受けても正確に返事ができるから、一般の人も早く信仰にはいるというわけです。」




明主様御垂示 「霊位の低い人は入信できない」 (昭和23年9月8日)

信者の質問
「時所位とはどういう関係でしょうか。」


明主様御垂示
「この三つがその人の値打ちにぴったり合うことが本当だがいままでは間違っていた。

大本のお筆先に「世は逆さまになりたるから・・・」とある。

最近特権階級がおっこちたが、おっこちて初めて所を得たのです。

これからは身魂相応になる。

またいままでは尊敬すべき人が下におり、軽蔑すべき人が上であって、これは霊的に時所位を得ていなかったのです。

霊位の低い人はこの道に入れない。

話しても判らないのはそういう人で、これはあきらめたほうがいい。」




明主様御垂示 「罪が多いと教修を受けられない」 (昭和24年8月)

信者の質問
「生後八カ月の子供、高熱が続き御浄霊一週間にて死亡、その祖父が教修をいただくはずでおりましたところ、

その子の死亡した翌日列車事故にて死亡いたしました。これは霊的でございましょうか。」


明主様御垂示
「これはよほど罪が多いんですね。

罪が多いために教修を受けるには早すぎるんですよ。

教修を受けられるってことはもうそれだけの資格ができてるってことですからね。


それからまた、こんなふうにも考えられますね、教修を受けると困るっていう邪霊がいるんですね。

そしてこっちにも邪霊に命をとられるだけの弱さがあるんですよ。

だからやむを得ないんですね。

よく、邪霊がいろんなことをして苦しめますからね。

苦しめられるってのは苦しめられるべき資格・・・これは悪い意味での資格ですが・・・があるんですよ。

だから、一方的にのみ悪いとは言えないんです。

両方一致するものなんですよ。」




明主様御垂示 「罪穢が多すぎると救いの綱につかまれない」 (昭和24年4月20日発行)

信者の質問
「神は浄化を下し給うてお救いくださる反面、苦痛をも与え給うのは罪業の許しの意味でしょうか、

また浄化と関連して死が与えられるということはいかに考えるべきでありますか。」


明主様御垂示
「罪業の払拭は苦痛によって行なわれるものと神にすがることによって楽にすむ場合とある。

前者は無信仰者の場合であり、後者は信仰者の場合である。

神からの救いの綱が下がってもそれをつかむことのできない人は罪穢が多すぎ霊体が重くてつかむことができないのである。

しかるにその後浄化のため病気災難などの苦痛が起り、それによって罪が減るから霊が軽くなり、救いの綱へ手が届くことになる。

そのようなわけでいくら良い教えを説いても救いの綱につかまり得ない人は、その罪の減るまで時期を待つほかはない。

そのとき無理につかませても落ちてしまう。

しかし右の場合、浄霊を受ければ楽に早く浄化される。

浄霊によっても死ぬのは多くの場合心から神にすがらぬからで、その人の信仰のどこかに不純な点があることが多い。

いっさいを擲(なげう)って神にすがる人は不治とみらるる病もたいていは助かるものである。

信仰の浅い人は危機の場合迷いが生じやすいのでそのとたんに神の救いの綱が切れるのである。」




明主様御垂示 「霊の曇りがある程度除れないと入信できない」 (昭和25年8月15日発行)

信者の質問
「私は今年五月二十六日入信させていただきました。

末の弟が入隊して間もない昭和十九年十一月、突然喀血し医者の療養五年、病は一進一退のところを

このお道によりお救いいただき、御守護のありがたさに感謝のほかございません。

そのような御利益をいただきながら、父が心臓弁膜症と腎臓萎縮で昭和二十一年七月死去いたしましたためか、兄が感謝がないのみか、かえって反対であります。

浄霊は勿論一度もいただきませんし、お話を伺おうともいたしません。

永い間家を離れて暮らしたためか、親弟妹とも溶け合って親しく話すことができず、なんとなく心の底に溝があるように感じられます。

いかにいたしたらこのお道のことを解っていただけましょうか。

無理にも御守りをいただくようにしたなればよろしいでしょうか、

それとも黙って時期を待つほうがよろしゅうございましょうか。」


明主様御垂示
「無論時期を待つのがよい。

決して無理に判らそうとしたり、本人の自由意志を押えつけたりしてはいけない。

信仰はある程度霊の曇りが除れぬと入れぬものである。

浄霊は、特に先方から頼まぬ以上決してすべきではない。」




明主様御講話 「曇った人は入信できない」 (昭和10年8月11日)

「霊界の中で曇りのひどい所と、そうひどくない所とあって、ひどい所はよけいに水が出る。

人間でも霊体の非常に曇ってる者は、曇った霊界へ行くようになる。

曇った人は曇った所へどうしても行くことになる。

霊体のきれいな人はきれいな霊界へ行く。

そしてきれいな霊界の所へは水が行かない。

それで、観音会は霊界がきれいで光っているので、どうしてもきれいな人が来る。

曇った人は来られない。

どうしても曇った所へ行く。」




明主様御垂示 「霊的に低い人は救われない」 (昭和26年10月5日)

信者の質問
「三年ほど前に入信、お蔭をいただいておりましたが、その後やっておらず、

最近病気をして、御獄(みたけ)教や日蓮の行者が来て、こんなものを掛けているからいけないと、お守(光明如来様)をはずしてしまい、

それを燃やしつけると、燃え終わると同時に、息が絶えてしまったのだそうです」


明主様御垂示
「やっぱり、その人はそれだけの・・・霊的に極く低いんですね。

第一、御獄の行者に言われて、それを信じるようじゃ問題にならないですからね。」




明主様御垂示 「一家救いの時期来ぬため離脱せぬ狐霊 (罪と邪魔)」 (昭和23年11月16日)

信者の質問
「狐霊憑依の女子、肉体から出たいが、最近霊界が明るくなったため出る所がないと言っています。いかに祀ったらよろしいでしょうか。」


明主様御垂示
「稲荷を潰したために憑いたのなら祀ればよいが、そうでないとちょっと難しい。

もっと放っておいた方がよい。未だ一家が救われるのは早すぎるからで、大きな罪が残っている。

反対に邪魔されている時、神は防ぐのと、また反対にわざと邪魔させてその邪霊の執着をとり、悟るまで反対させる場合もある。

とにかくその家は救われるのに未だ早いので、焦るが、無理である。

よく迷って信仰を断念する人があるが、こういう人はきっとまた戻ってくる。

私の弟子で十年遠ざかっていて最近戻って来たのがある。

本当に正しいものなら神様の方が頭を下げる要はない。安っぽくなる。」




明主様御垂示 「知識人の救い」 (昭和24年5月23日)

信者の質問
「心貧しきものは天国に入る事を得んと聖書に御座居ますが、心慢(おご)れるもの即ち知識人と称するもの達に御浄霊による天国到来を知らしめようと致しましても中々理解してくれません。

これらは最後の審判まで救えない宿命的な御霊なのでしょうか。御伺い申し上げます。」


明主様御垂示
「学者などは救われ難い。

救われるのと救われぬのと出来る。

天理教のお筆先に、学者金持後まわしとあるが、後になる。」