御守護の消滅について
明主様御垂示 「信仰に迷いが生じると御守護が切れる」 (昭和26年9月8日)
信者の質問
「昭和二十三年十一月二十五日左の下顎骨が顎裏を破って膿とともに排泄いたし、
現在なお破れた口(二寸くらい)の両側が髭のあるまま内側に巻き込み、ちょうどザクロの割れたようになって皮が張ってしまい、
ここから絶えず唾液が流れたり、息も洩れたりいたします。
唇、下顎あたり全体は絶えず痺れて、締めつけられるような感じと激痛が続いておりますので、長時間体を動かしますと目まいがいたします。
下歯は肉についたまま残っておりますが使用できず、奥歯が口を動かすごとに上顎をつき上げ、その痛みのため苦しんでおります。
お蔭様で食欲がありますので体力はございます。
あまりに長い御浄化に家族の者は罪の深さを知って、浄化中の父と母と兄嫁を残して、兄弟三人御神業に専念させていただいております。
信仰上到らぬ点ならびに御浄霊の急所と皮の張った傷口と残った奥歯は、今後どのようになるものでございましょうか。」
明主様御垂示
「この人は以前になにか薬を入れたことがあるのですか。」
信者の発言
「性病のようなことも多少あり、薬も随分入れております」
明主様御垂示
「それです。薬毒ですよ。薬毒がそこによって出ようとしている。薬毒がたくさんあるから日がかかる。浄霊を始めてからどのくらいになりますか。」
信者の発言
「三年くらいです」
明主様御垂示
「そのくらいじゃしょうがない。私は歯を毎日浄霊してますが、これで三十六年です。」
信者の質問
「傷口ですが、巻き込んだまま毛が生えてまいりますが」
明主様御垂示
「それは切ったら良い。」
信者の質問
「その間に歯が顔出しております」
明主様御垂示
「いろんな変化があります。結局、薬毒ですよ。
ですから、薬毒を簡単に思うが、薬毒はたいへんなものです。
私は浄霊始めてから二十年になるが、まだ解決しない。
今でも毎日やってます。
慣れっこになってしまったが、年々治ってきます。
薬を入れたのが昭和三年ですからね。
まだ取れない。薬毒の少しひどいのは十年、二十年はなんでもない。
だから三年くらいではね。
迷ったり、じれたりしては神様に申し訳ない。
命がないんですからね。それに感謝することで、それにちょっとでも・・・どうかすると、御守護が切れます。」
明主様御垂示 「神様を信用しないと御守護が止まる」 (昭和24年9月25日発行)
信者の質問
「光明如来様を祭った某氏が四十二歳の厄払いのお祝いの夜、倉庫の中の衣類箪笥二棹全部盗られました。いかなるわけでしょう。」
明主様御垂示
「信仰しながら厄払いするのは間違っている。
それでは無信仰同様で神様が警告したのである。
神様を信用してないから御守護が止まる。
信仰して御守護いただけば盗賊など入られるものではない。
よくお詫びすることだ。
厄とか方角とか、信仰していればほとんど無関係で、正しいことならなにしてもよろしい。自由である。」
明主様御垂示 「一旦御守護が切れると取り返すのは困難」 (昭和26年10月5日)
信者の質問
「妻M(四十三歳)は二十年前に長男出生後一年で婦人病に罹り、数年間医師の治療を受け、良くなりましたが、
昭和二十一年春より肺尖カタルに罹り、衰弱していきますので困っておりましたところ、
本教を知り私が入信し、一年間御浄霊を続けほとんど健康状態になりました。
その後指導者を失い、御守り様も神棚にあげて数年を過ごしました。
その間昭和二十三年に、長らく子供がなかったのが、妊娠し臨月になるにつれ腎臓炎を起し医療を受けましたが、死産し、その時腹部を氷冷しました。
その後は丈夫になり、死児はお祀りしてあります。
昭和二十四年暮れより頸部淋巴腺が腫れ上がり、医師よ薬よと迷っておりましたところ、
翌年二月、T先生の御指導を得、妻も入信いたし、御浄霊を続けて半年ほどで丈夫になりました。
本年八月十五日、箱根に御参拝させていただき、帰ってから腰部の痛みを感じ、諸先生方に御浄霊をお願いしておりましたが、
だんだん痛みは激しくなり八月末から九月にかけて、毎夜八時ごろより十二時頃まで、腰部全体に激痛が波状的に起り、苦しみます。
御浄霊をいただくと楽にはなりますが、毎日かかる状態を繰り返しております。
昨今は食事もほとんど摂りませんので日々衰弱していきます。
熱は三十七、八度を上下しております。
昭和二十五年八月、御屏風観音様を、十二月に光明如来様を奉斎させていただきました。いかがいたしましたらお救いいただけましょうか。」
明主様御垂示
「指導者を失い・・・というのがたいへんな間違いですね。
指導者を信仰しているんじゃないんだからね。
これがそもそもの間違いで、こういうことをすると、どうもいけない。あとがなかなか取れない。
肺尖カタルがとにかく健康状態になったということは非常なお蔭ですから、なおいっそう信仰に強くならなければならないのに、指導者を失いというのは、あべこべです。
しかも二十三年に、長らく子供がなかったのに妊娠・・・というのですからありがたいんですね。
それでも気がつかないので・・・医療を受け死産した。
わざわざ自分で悪いように悪いようにしている。
その後、氷冷・・・これも悪いですね。
頸部淋巴腺・・・先にこれ(浄霊)で肺尖カタルが治っていながら、医師よ薬よ・・・というのはおかしい。頭がどうかしている。
これは、つまりやりそこなったんだから、取り返すんですが、やりそこなって、あとで取り返すのはなかなか簡単にいかないんです。
一時御守護が切れますからね。
やはり、救いの綱につかまっていて、離したんだが、今度つかまってもなかなか簡単にいかない。
衰弱・・・これが悪いんですね。
病気の方は治るが、治るまでに衰弱で体が持たないとしようがない。
腎臓と後頭部の毒が下に下がるので、腰でも・・・腎臓ばかりじゃないですよ。
腎臓の方は知れたものです。
こういう痛みは、後頭部を良く浄霊すると良い。
食事が摂れないのは熱のためです。
腰から上の方・・・背中もそうとうに毒がありますから、背中もせいぜい浄霊すると、治るわけですがね。
腰というが、腰だけじゃ駄目です。
上の方を肝腎にやらなければならない。
後頭部から背中にかけてね。」
明主様御垂示 「霊主体従を否定すると御守護が切れる」 (昭和26年10月15日)
信者の質問
「HR(五十二才・男性)、昭和二十五年三月入信いたしました者でございます。
長男K(十二歳)が九月十五日ごろ左足踵(かかと)の魚の目をメスにて疵(きず)をつけました。
そのため二十日より急に発熱し、左足の大腿部がだいぶ腫れ、非常な激痛を感じ、脊柱はそりぎみになり、身体は硬直し痛みが強く、御浄霊後は小量の排尿がございました。
脊柱のそりは一週間くらいにして治りましたが、熱は四十度くらい約二週間続き、食欲も皆無の状態にて非常に衰弱いたしましたが、お蔭様にて、最近十日ほど食欲はだいぶ旺盛となりましたが、その割に体力がつきません。
最近は時々高熱を発し、特に両足(大腿部)に卵大の「しこり」があり、ちょっと触れても非常に痛がり、右足は曲げており、徐々に伸ばせば、伸びる程度でございます。
一週間ほど前より咳の御浄化をいただき、激しい折は血痰も出ます。
御浄霊をいただくたびに楽にさせていただいております。
なお、八月中旬お墓におりました縞蛇を殺して食べたこともございます。
また次女は八年前、脳脊髄膜炎にて死亡しておりますが、なにか霊的にも関係しているのでございましょうか。
また御浄霊の箇所につき御教えのほどお願い申し上げます。
御屏風観音様は今回奉斎させていただきました。」
明主様御垂示
「魚の目をメスにて疵をつけたというのは、切ろうとした。
それで膿でも出そうとした。このためです。
私は、針一本でも疵つけてはいけないと書いてあるでしょう。
だから神様のお咎めです。
お詫びが一番良い。他にはなにもないんです。
それを覚るように正守護神がひどく叱ったんです。
お詫びすれば治ります。
つまり、神様のいうことを守らなかったからです。
それを心から悔い改めて、お詫びして、それで治っていきます。
そうして、あとは悪い所ですね。熱の高い所とか、悪い所から、出るんだから、
固まりを・・・つまりこれだけの毒があるんだから、魚の目を浄霊していれば・・・気長にやっていれば、苦痛なく治るんです。
こういうことをしたために苦痛が出るので、悪いことではないが、腫れた所とか、熱の出た所は分かりますから、そこを浄霊する。
体力がつかないのは、今まで食事をしなかったので、急にはいきません。
それと、熱があるからで、あと気長にやれば良い。
霊的のことはありません。蛇を食べたこともなんでもありません。
脳脊髄膜炎も別になんでもありません。
神様は身体に疵をつけるということは非常に厳しい。
ちょっと悪い時に切るとか、突くとかいうのは、霊を信じないことになる。
体的を信ずることになる。
食い違ってくる。
御守護していたのが、パッと切れちゃう。
そこにもっていって正守護神が怒りますからね。
これは良い教えです。」
明主様御垂示 「お光をかけないと御守護頂けない」 (昭和26年12月6日)
(不動明王弘法大師等を祀り、病気治しもし、紛失物を良く当て、時々霊憑り状態となって暴れたりする人の家族へ・当人はお守りを外し、屏風観音様を焼いた)
明主様御垂示
「御守り様を外しております・・・これはしようがない。
それじゃ、入信したんじゃない。形だけの入信です。
第一番に御守りを掛けることですね。
それでなければ御守護いただけない。
こういうことがあるということは、家中の人にも罪がある。
こういうことがあると、苦しみますからね。
苦しむというのは、罪穢れがあるからですね。
それを減らさなければならない。
減らすためには、御守りを掛けなければならない。
それが第一番です。」
明主様御垂示 「やるだけのことをやらないと御守護が薄い」 (昭和27年2月7日)
信者の質問
「YH(二十二年入信・女性)二十一年九月、三尺の高さの所より落ちて、後頭部を強打失神いたしました。
一週間後より発熱し、その時薬名不明の注射をし、それより激しい引きつけを絶えず繰り返し、死の一歩前までまいりました時に、
御浄霊をいただき救われましてより、めきめきと良くなりましたが、
五カ月目ごろより再浄化いただき、その状態は死の断末魔の様相で、全身冷たく、紫色に硬直し、顔面は引き吊り、正視できないような状態でございましたが、
御守護いただき最近は体も暖かくなり、血色良く、特に顔色はきれいになり、
体格もふつうの子供より良いくらいでございますが、智能は二、三歳くらいの幼児と同じで、ございます。
家中入信させていただいており、御屏風観音様はお祀りさせていただいておりますが、御神体はまだでございます。
薬毒のためでございましょうか。または、なにか霊的関係がございましょうか。御教示のほどお願い申し上げます。」
明主様御垂示
「これは薬毒ではありませんね。
薬毒でこういうふうにはならないですね。
やっばり、後頭部を強く打って、その内出血がまだ固まっているんですから、智能的な機能が発育不能になっているんですね。
ですから、後頭部を良く浄霊すれば良いんです・・・気長にね。
そうすればだんだん良くなるわけですがね。
ちょうど、やっぱり霊が憑ったと同じような症状になるんでしょう。
で、御神体をお祀りしなければいけませんね。
これが根本だからね。
御屏風観音さんだけじゃいけないですね。
さっそく御神体をお祀りして、後頭部を浄霊すると治りますよ。
二十二年に入信していて、今もって御神体をお祀りしないようなことじゃいけませんね。
その心掛けが、やっぱり御守護いただけないのですね。
やっぱりどこまでも、やるだけのことはやって・・・そうしてやらなければ、御守護が薄いですよ。」
明主様御垂示 「神様のほうで綱を切った者は絶対に救われない」 (昭和28年10月1日)
信者の発言
「この度の愛和中教会A支部長の問題につきまして深くお詫び申し上げます。
新聞では“殺してやる”というように書いてありますが、
本人は生きていてもさみしいから死ぬのだという気持でいたのだそうでございます」
明主様御垂示
「その人が信者になったのはいつですか。」
信者の発言
「五年ほど前でございます」
明主様御垂示
「とすると、おかしいです。何かわけがあるのでしょう。あり得べきことではありません。」
信者の発言
「子供六人のうち四人を亡くし、その後子供二人と夫婦四人暮しになりましたところに私が布教に行き、
大きなほうの娘が結核でしたがそれが良くなり、それが動機で信仰に入り、今日支部長として御用をさせていただいておりました。
ところが結核の娘が亡くなり、次の子供が去年の七月に亡くなり、奥さんが本年三月頃に喘息で亡くなりまして、
自分達は深い信仰のつもりでいたが・・・ということからおかしくなってまいりましたようなわけでございます。
本人は元、道路工事夫をしておりまして、そこの家はバクチ打ち場所という様子でありました。
御用をさせていただくようになりましてからは、私の会としましては指折りのほうで、私も大事にしていたようなわけでございます
性質はむしろ無口のほうですが、元の病気が出たのではないかとも思われます」
明主様御垂示
「と言うと何ですか。」
信者の発言
「喧嘩をしたり、短気な方でした」
明主様御垂示
「信仰に入ってから死んだのは何人ですか。」
信者の発言
「三人でございます」
明主様御垂示
「信仰に入る前には何人ですか。」
信者の発言
「四人でございます」
明主様御垂示
「信仰に入ってから信者を作りましたか。」
信者の発言
「支部長になってからはそうとうに作っております」
明主様御垂示
「支部長になる前はどうですか。」
信者の発言
「五十人以上導いたと思います」
明主様御垂示
「しかしちょっとおかしいです。
信仰に入る前ならともかく、信仰に入ってからそういう不幸が重なるということは解せません。
あなたが信仰に入ったのはいつですか。」
信者の発言
「昭和十八年でございます」
明主様御垂示
「誰の所でですか。」
信者の発言
「渋井先生からでございます」
明主様御垂示
「今の土地には古くからいるのですか。」
信者の発言
「十八年に疎開しまして、東京のほうと掛け持ちで、二年ばかりおりました」
明主様御垂示
「今度その人に会ってみます。今日は来てますか。」
信者の発言
「来ておりません」
明主様御垂示
「毎月一度は来ているのでしょう。」
信者の発言
「来ておりません」
明主様御垂示
「どういうわけですか。」
信者の発言
「やはりいろいろ都合があることと思いますので」
明主様御垂示
「都合と言っても、支部長というからには月に一度くらい来ないということはないでしょう。いつ頃から来ないのですか。」
信者の発言
「四、五ヵ月ぐらい来ておりません」
明主様御垂示
「それではしようがありません。
信仰がぼやけてしまっているのです。
それでは会ってもしようがありません。」
信者の発言
「本人の資格取消と支部閉鎖をさせていただきました」
明主様御垂示
「そういうのはみんな神様の試練に遭って落第してしまうのです。
いかなることがあってもガンとして堪え忍ぶほどの人間でなければしようがありません。
そういう苦しいときに奇矯な行いをしようというのは、ぜんぜん意志薄弱な証拠です。
そうしてみると普段から本当ではなかったのです。
その人はもう救えません。放ったらかしておいて、他の人を見たほうがよいです。
あなたがそれを復活させようと思って気をもむ必要はありません。
神様のほうで綱を切った者は、いくら人間がやってもしようがありません。
神様のほうは以前よりか厳しくなるから、神様のほうで綱を切った者は、こっちで救ってやろうと思っても無駄です。
それよりか、新しい見込のある人に力を入れたほうがよいです。」
信者の質問
「申し後れましたが、一里ほど離れた所の熱心な人に、支部のお許しをと思っております」
明主様御垂示
「それは結構です。」
明主様御講話 「理屈に合わないと神様を御守護を与えられない」 (昭和28年5月26日)
「理屈に合えば、神様は愛ですが、理屈に合わなければ神様はどうしようもないのです。
神様は御利益をいくらでも与えたいのです。
ところが資格がないのです。
たとえてみれば金銭にしても、神様はいくらでもザルなり財布なりに入れてあげたいのですが、
この財布の中に汚いものがあるから入れられないのです。
それを掃除すればよいのです。
ですから人間の方で命を助かりたい時には、人間の方で助かる状態にすればよいのです。
それをしてないから、神様の方にも規則がありますから、神様自身がその規則を外すことはできないから、助けたくても助けられないということになります。
大本教のお筆先に「お蔭は御自分でとりて下されよ」というのがあります。
それで慢心と取り違いを非常に戒めてあります。
至る所で「慢心取違いをして下されるなよ」というのがあります。
これはよくあるが、信者になりかけの時には、オッカナびっくりでやると、よくなおるのです。
ところが「もうオレはだいぶ偉くなった」という考えでやると、あんまりよくなおらないのです。
それはもう慢心だからです。ですからオッカナびっくりでやる時は、神様のお気持ちにかなうのです。
それを「もうオレは大丈夫だ」というようになったら駄目なので、そこに注意することです。
これはすべてにそうですが、「もうよい」と思うと、もういけないのです。
それでオッカナびっくりしているうちはうまく行くのです。
これは誰でもそういう経験はあるでしょう。
私などでもそういうことがあります。
今の話は慢心ではないので、取り違いですが、「慢心と取違いに気をつけて下されよ」というのがお筆先にありますが、この二つが非常に肝腎なのです。
この話はそのくらいにしておきます。」
明主様御講話 「信仰心の不純さゆえに死亡した支部長」 (昭和28年5月25日)
「以前ある人で、支部長ではあるが、将来 中教会長になりそうな支部長で、その人は肺病かなにかがなおって入信したのです。
再浄化が起って、それもたいした難しいものではありませんが、あんまり酷いから私も助けてやろうと思ってしてやりましたが、
その時 叔父さんかなにかが持っている中国陶器を、お気に入るか入らない物か見ていただきたいと言うのです。
しかし腹の中ではどうも買ってもらいたいかで、スーッとした話ではないのです。
それで、見たところが良い物ではないので、値打ちにして二、三万くらいな物です。
金を出して買うのはいやだが、もらうのならもらってもよいというくらいの物です。
それを言ったところが、ではと言って叔父さんの所に持って帰ったのです。
本当の誠があれば、それでもぜひ差し上げたいと言うのが本当ですが、
それを神様を陶器の鑑定家扱いにしてしまったのです。
私はそれで、これはいけないと思ったのです。
この一点でぜんぜん駄目です。
明主様がお気に入った物なら、ぜひ差し上げるというのが本当ですが、そういう態度ではないのです。
それから少しやってやりましたが、だんだん悪くなって、そのことがありますから、
これはいけないと話してやりましたが、死んでしまいました。
そういうようで、ちょっとしたことで、その人の想念と信仰の程度というものが分かります。
この想念というものは徹底しなければなりません。
そこにちょっとでも曇りのようなものがあっては、お蔭はいただけません。
それも半年や一年ではそこまで行きませんが、もう何年もやっていて、そこまで徹底しないというのはいけません。
今の話も、支部長なり中教会長なりがそういった理屈が分かっていないというところに、具合の悪い、おもしろくないところがあります。
とにかく病気をなおすとか、その人を救うということは、ただその人を健康にするだけではないのです。
健康にするとともに、立派な人間にするということが最後の目的ですから、ただ体が丈夫になって働くというだけでは人類は救えません。
つまり霊肉ともに健康な人間にしなければならないということが根本です。」