命の継ぎ足しと報恩について


明主様御教え 「生命の継ぎ足し」 (昭和27年2月6日発行)

「左記報告について解説してみるが、人間の寿命は大体決まっているものと、昔から言われているが、

この人も寿命が来たので、一旦死んで霊界へ往ったが、信仰の御蔭によって天国まで行かれ、天国の状態を見せて貰ったが、

本人の信仰と周囲の人達の誠により、神様から一命を賜わったのである。

こういう例は本教信者にはよくあるが、これによってみても、本教主宰神は、生命を自由自在になされる御力を、もたれ給う事がよく分かるのである。

もっとも他の宗教にもないではないが、本教程顕著な救いの御力は、もちろんあり得ないのである。



体験談 有難うございます  (昭和27年2月6日発行)

秋田県 十光中教会 KS

「明主様、貴い御守護を頂きました御礼の御報告を申し上げさせて頂きます。

私は昭和二十六年六月入信させて頂き、七月には箱根別院に御参拝させて頂きました。

その後軽い御浄化を頂き、その度毎に元気にならせて頂いておりました。

昨年九月四日大館市におきまして、大草管長先生始め、S、M両先生をお迎えしまして講演会が開かれました。その時の事でございます。

講演会が半ば進みました頃、急に動悸が激しくなり、呼吸が苦しくなってきたので、

自分で心臓部を御浄霊し、一心にお念じしておりますと、暫くして動悸も静まり楽にさせて頂きました。

それからお話が終りまして(四時頃)帰ろうとして駅へ急ぎ乗車致しました。

扇田、大滝を過ぎ十二所町との中間頃に差しかかったときに、

座席を立って、デッキのところに出て外を眺めて、又もとの席に戻りましたとおり、

突然、目の前が真暗になり、そのまま倒れてしまいました。

もしデッキヘ出た時倒れていたらどうなったことでしょうか、本当に御守護でございました。

私の倒れた時の皆さんの御心配はどんなだったでしょうか。

でもそんな事は夢にも知らない私は、皆さんの御心配を尻目に、御伽噺の国のようなところに参りました。

現界ではとうてい見る事のできない、それはそれはとってもきれいな美しい世界を歩いておりました。

見渡す限り山もなく川もなく、煌々と輝くばかりの明るさです。

色とりどりの花があたり一面にぎっしりと咲き盛り、どこからともなく美しい小鳥の声が聞こえ、言葉にも筆にも現せない程の美しさでした。

美しい花の色も、妙なる小鳥の声も、現界では見た事も聞いた事もなかったのです。

その美しい花園を歩いておりますと、見知らぬ人が四、五人出てきましたが、無言で行ってしまいました。

なお恍惚として歩いておりますと、遠い遠いところで誰かが呼ぶような気がして、前へ進むことができなくなりました。

だんだん呼ぶ声が近くなってきて、はっと我に帰りました。

いそいであたりを見まわしますと、信者さん達が私の廻りに集りUさんとOさんとが御浄霊しながら、呼び続けていて下さいました。

この間約二十五分位と思います。

下車駅に着く迄一心に御浄霊して下さいましたが、全身氷のように冷えきって全然熱が無くなってしまいました。

駅からはリヤカーで運ばれました。

Uさんが御心配下さいまして、Oさん外二名の信者さんにお願いしまして、家迄来て頂き浄霊をして下さいました。

六時半頃より八時、九時と続けて下さいましたが、どうしても体に熱が出てこないのです。

御浄霊を頂きながらもともすると意識を失いがちでした。

十時頃迄続けて頂きましたところ、いくらか手足にぬくもりを感ずるようになりました。

それから三十分位たちましたら、全身にほんのりと暖かさを感ずる位になってきました。

Oさんが「こんどは大丈夫だよ、しっかりしなさい」と励まして下さいました。

それからどんどん調子がよくなって参りまして、おかげ様で元気になりました。

このおろかな私をも神様はお救い下さいました。大光明如来様の御守護がなかったなら、既にこの世の人ではなかったのです。

ああ私は再び溌剌たる肉体と、永遠の生命を与えられたのです。

入信いまだ日の浅い私ごとき者に迄も大御恵を賜わりただただ感謝で胸が一杯でございます。明主様ありがとうございます。

なお私が意識不明の間の事を上田さんが、お話して下さいましたから、そのままを書かせて頂きます。


「講演会が終りまして列車に乗込みました私共は、今日の盛大さに心の底から嬉しさが込み上げ、喜々として語り合い、まさに天国列車のようでした。

大分走った頃、前に座っていたKSさんが立って行ったので、

はてな、何だろう便所かなと、思っておりますと、

すぐ戻って来まして、坐ったと、思った途端に倒れてしまいました。

びっくり仰天声も出ませんでした。

みんなで「どうした、どうした」「Sさん」と、口々に呼んでみましたが、何の受けこたえもありません。

肩に手を掛けて起そうにも、死人のようで起きません。

顔色は青ざめ、口びるは見る見る土色になって行きます。

周囲におります信者さんと共に、一心に心の中でお祈り致しました。

早速御浄霊も致しました。

脈を見ると、だんだん弱くなり額に手をやれば冷えて行くのがわかります。

どうしてよいやら、何をお念じしてよいやら、さっぱりわかりません。

あまりの事に呆然と御浄霊だけしておりました。

その内にとうとう脈はきれ、呼吸は止り、冷えきって、つめたくなってしまいました。

死、死、死んだ。死んでしまったのだ。

いやまだ大丈夫だ御守護がある。

いやもう駄目だ。

手を引いた方がいい、御浄霊をやめようか、いや最後迄、ここは列車の中だ、未入信の人も見ているだろうし、やめよう。

心の中は支離滅裂でした。

随分長い時が過ぎました。

恐ろしい、苦しい、呼吸の止りそうな時でした。

生れて初めて味わう恐ろしさでした。

四時間も五時間もあったようでした。

が実際は二十五分位でした。


つむった目が開かれ、呼吸を始めました。

そのときの嬉しさ「アッ助かった」「Sさん」「御守護だ、御守護だ」「よかった、よかった」と口々に喜び合いました。

自分が救われたような嬉しさでした。

この時は本当に何もかも忘れました。

総ての苦悩から開放された喜び、天国に救われた歓喜だったと思います。

言葉には言い現わす事は出来ません。

私も十三年間も床に就いたきりで苦しんでおりましたのが、救われたのですが、その喜びにも勝る喜びでした」

おかげ様にて助けて頂きました。明主様あらためて御礼申し上げます。本当に有難うございました。」




明主様御講話 「生命の継ぎ足しについて」 (昭和27年1月25日)

「これはよくある話ですけれども、霊界に行って天国を見せてもらって、それから助かるという、それが非常にはっきりしているので、今読ませます。

(「生命の継ぎ足し」のあとの御教え)

これは、この人の寿命が来ていたんですよ。

つまり、この日に死ぬ事になっていたんですね。

それですから、死ぬ型ですましていただいたんですね。

だから、題を「生命の継ぎ足し」としたんです。

この人の命は神様から継ぎ足していただいたんです。

こういう人は、よく私事をすると、パッと死んじゃう事があるんです。

継ぎ足していただいたのは、神様の事をしなければならないんです。

そのために継ぎ足してくださったんですからね。

私有財産じゃないからね。

この中に・・・なにをお念じして良いか解らないような・・・とありますが、おかしいんですよ。

その時明主様をお念じすれば、もっと早く助かったんですね。

あわてたんですが、あわてても、あわてるほど明主様にお願いするという気持ちが起らなくちゃしようがないです。

この間、静岡県内に、地方の宣伝班ですね。

出掛ける時に、やっぱり私の話の代わりに、なにか書いてくれと言うんで、急いで書いたんですが、それを今読ませます。」




明主様御講話 「神様から命をもらったら神様の御用をすべき」 (昭和27年1月26日)

(「生命の継ぎ足し」のあとの御教え)

「つまり、この人は、この時が寿命だったんですね。

ですから、いったん死んで、新たに神様が命をくださった。

こういう事で助かった人は、後の命は、ぜんぜん神様の御用をさせられるべき人なんです。

そこで、私有財産みたいに自分勝手に使ったら、お取り上げになります。

そういうふうに命をいただいて、相変わらず金儲けだとかして、命をお取り上げになった人がありますよ。

それから、この間地方の宣伝旅行ですね。(中略)

そういう人たちが行った時に、やっぱり私になにか書いてくれと言うので、書いたんです。それを読ませます。」




明主様御講話 「神様を死ぬ型を示され命の継ぎ足しをされることがある」 (昭和27年1月27日)

「これは、お蔭話ですけれども、いったん霊界に行って、天国を見せてもらったんですが、良いあんばいに神様から命をもらったんですね。

つまり命の継ぎ足しと言うんです。

人間の寿命というのは、生まれながらに決まっているんです。

いくつの時死ぬという事がね。

そういう時には、いったん死ぬ型をするんです。

そうして、継ぎ足しをいただくんですね。

これは、良く解るんです。

入信すると、そういう事がよくあるんですね。

命の継ぎ足しに、ごく軽いのと重いのがある。

ごく軽いのは夢で見るのですがね。

あれは、命の継ぎ足しを夢ですませるんです。

ごく重いのは、これですね。息が止まったり、冷たくなったりしてーこの人は汽車の中であった。非常に面白く、正確に言ってますからね。

(「生命の継ぎ足し」のあとの御教え)


「こういうふうに助かった人は、それからの命は神様からいただいたんですね。

それを私有財産的に使ってはいけないんですね。

やっぱり、そういう因縁のある人で、神様が生かされて使われるんですから、

素直にそうやれば、まだ随分長生きができるんです。

よくそういうのがありますよ。

女にはありませんが、男にはよく命をもらってから欲張って、銭儲けをして、結局死んじゃいますがね。」




明主様御垂示 「浄霊で寿命が延びた場合にはその人の命は神有物となる」 (昭和24年4月23日発行)

信者の質問
「人相学上短命と言われた病人が、御浄霊により救われた場合、その人の寿命はやはり短いのでしょうか。」


明主様御垂示
「だから、私は本に書いたでしょう。

「この信仰は寿命を延ばすことができるからたいしたもんだ」って。

これは他にはありませんよ。

まったく、これはたいへんなことなんです。

ただね、こういうことは知っておかなければならない。

一度、もうぜんぜん駄目だと言われた人がこちらによって生き延びた場合、その人の命は前のものと違うんです。

私有財産ではなくなるんです。

神様が必要があって寿命を延ばされたんだから、神様のお役に立つ仕事をしないといけない。

このようにして救われた人が、また金儲けだとかなんだとかいい加減なことをやり始めると、その人はきっと駄目になります。

以前に鉱山をやっていた人で、心臓が駄目になって死にかけたとき御浄霊ですっかりよくなった。

すると、また鉱山のほうに夢中になり始めたので、治してやった人がいろいろ言いきかせたけれどもどうしても聞き入れない。

そのうちにすぐまた死んでしまったということがありましたがね。これは大切なことです。」




明主様御垂示 「神様から助けられた命は神有物」 (昭和27年1月17日)

信者の質問
「IY(五十九才・男性)昭和十五年夏ごろ、たいへんに疲労を覚え、医診の結果糖尿病とのことで、

毎日インシュリン、ブドウ糖の注射をし、内服薬も用い、食事は糖分は控え目に、魚肉類を多く摂るようにしておりました。

昭和十六年バセドー氏病を併発し、疲労感がいっそう加わり、十九年九月ごろ一時小康を得ましたが、

月に面疔および鼻梁軟骨炎を併発し、約三カ月床につき、インシュリンの代用薬ミニグリン、インペリンなどの注射をうち、

手術はいたしませんでしたが、鼻、眼の縁から排膿し、漸次快復に向かいました。

二十三年秋ごろから眼が充血し、視力減退し、医診の結果、腎臓病併発のため眼底出血し、失明の直前で、同時に糖尿病も悪化し、放置すれば生命が危険とのことで入院し、

毎食前にインシュリン、ビタミンC、ニッサリジンなど注射および服薬し、一週二回眼球の注射などを三カ月続けました。

他に漢方薬、ニワトコ、木ササギ、トウモロコシなども一カ月ほど服薬いたしましたが、思わしくありませんでした。

二十五年五月、本教の福音をうけたまわり、御浄霊をいただき、七月に退院し、一切の医薬を廃し、御浄霊におすがりするようになりましてより、

身動きもできなかったお腹の膨れも、だんだんと引き、楽になり、ほとんど盲目に近かった視力もやや恢復し、少しずつ読み書きもできるまでになりましたので、

二十五年秋から二十六年秋まで公務のために身心を使い、それまでいただいておりました会長先生および支部長先生の御浄霊も怠りがちとなり、

またまた悪化し、御浄化が激しくなってまいりました。

その間指導者の方々より、先生方の御浄霊はでき得る限り多くいただき、また御高恩にお報い奉るべく人々をお救いするようにとお話いただきながら、

忙しさや我事に追われ、御報恩も意に任せず、御浄霊もたまにいただく程度にて、まことに申し訳なく心よりお詫び申し上げております。

今日では頭から足の指先まで腫れ上がり、腹部は太鼓のようで、副睾丸は握り拳三つほどの大きさに腫れ、横臥することもできません。

昨年末より咳をしきりにいたし、濃い痰が出るようになり、体を動かしますと咳が出て、腹部に力が入り、膨満と咳の圧迫のためにか、副睾丸が痛み、呼吸が困難になります。

一月七日、代人にて御参拝させていただきましたが、代人出立の日御守護いただき下痢をいたし、同時に副睾丸はだんだん小さくなり、咳激しく、痰も多量に出させていただき、だいぶ楽にさせていただきました。

なお、下痢は未だ激しく続いておりますが、三日前より異常な眠気を催しております。

現在もっとも苦しいのは、腹部膨満のため胸部圧迫され、胸元が息苦しい状態でございます。

尿量は非常に少なくなっております。

御浄霊は一日四、五回いただいております。

なお、今回も代人にて御参拝させていただいております。

光明如来様、御屏風観音様は御奉斎させていただき、ひたすらおすがりさせていただいておりますが、御浄霊の急所御教示のほどお願い申し上げます。」


明主様御垂示
「これは、急所は・・・命を救われたことを忘れたことが急所です。

大体この人は命がなかったんです。これは非常な薬毒ですよ。

医学の犠牲者ですね。気の毒なものですね。

そうして、せっかく務めができるまでに治ったら、すぐに神様のために働かなければならない。

命は神様にいただいたんですからね。

だから、私有物じゃない。

助かってからの命は神有物なんです。

ところが自分勝手にしたから御守護が離れたんです。

だから、こういうことになるのはあたりまえです。

だから、そこを自覚しなければならない。

神様からいただくということは、神様の御用をしろと言っていただくんですから、そういうのは神様以外のことはできないんです。

こういうのはたくさんあるんです。

ところが、それを私有物にして、せっかくいただいた命を勝手に使って・・・

いったん神様からいただいた命を、会社かなにかに使っては、人が助かりません。

そうでなく・・・神様は、命をやるから御神業に使えと言ってくださったんです。

それを忘れた。この点は指導者も責任があります。

それは言ったでしょう。しかし、言い方が足りなかった。

断乎として言えば・・・他のことをしては命はない。神様以外のことはいけないと、断乎として言うんです。

それで言うことを聞かなければ、突っ離す。

だから、浄霊も良いですが、腹の中から・・・間違っていた。

今度治ったら人助けをさせていただく。

だから、もう一ぺん、命をいただきたいとお願いするんですね。

それで、神様が聞き届けられたら、助かりますが、神様がもう駄目だ・・・なかなか神様は、そういうところは厳しいですからね。

もう駄目だ。お前は霊界に行って働けと言われたら、もうしかたがないですがね。」




明主様御垂示 「戴いた生命は神有物」 (昭和24年3月12日)

信者の質問
「人相学上短命と言われた患者、御浄霊により快方に向いつつありますが、長命を得られる事が出来るで御座居ましょうか。」


明主様御垂示
「短命を長命にする事は訳ない。

浄霊によれば訳ない。全然駄目なのが生きかえる。

その場合は前の寿命とは違う。そこを考えなくてはならぬ。

戴いた生命を神様の御用に使わず金儲けなどに走ると神の守護を離れる事になる。

戴いた生命は私有財産ではない。」




明主様御垂示 「戴いた生命は神有物」 (昭和23年8月8日)

寿命延長も可能なり

信者の質問
「病人を一生懸命御浄めしても、死んでしまった場合、それは寿命で死んだのか、あるいはそうでないのかを判断する基準はありましょうか。」


明主様御垂示
「人間の寿命は決まっているが、変える事も出来る。

ある日拝殿に寝ていると、「申し上げます」と聞える。

奥の方から人の気配がして、「言っても宜しい」と言う。

「今日○○時、村の××○○、男の子が生れました」すると「寿命二十五歳、死因は虻さし」と聞えた。

それから二十五年後その男は果して虻に刺されて死んだ。

それで生れながらにして寿命は決ってる事を知った。

それでこの道を知らなかったら死ぬ人が非常に多く入っている。

その場合は、そのような型をするもので、それから継ぎ足しされる。

その継ぎ足しされた寿命は 観音様のため使わなくてはいけない。

神様は運命をかえる事も出来るので、その人のやりようで随分長生きするのである。」




明主様御垂示 「戴いた生命は神有物」 (昭和23年7月8日)

アブサシ病

信者の質問
「運命と宿命について御解説をお願い申し上げます。

また病人を一生懸命御浄めしても死んでしまった場合、それは寿命で死んだのかあるいはそうでないかを判断する基準を・・・」


明主様の御垂示
「宿命というのは定ってるのです。ちょうどワクのようなものでこれの外へは行けない。

運命とはワクの中ではあるがある程度自由なのです。

だからそのワクの中でも上のほうへ行けばより自由であり幸福なんです。

しかし生まれながらの宿命の一番上までは行けるがそれ以上は駄目なんです。

それ以上の宿命の人はまたそれだけ大きいわけです。

寿命は定っていてしかも変えることができるのです。


以前こんな話を聞いたことがあります。

ある人が田舎道を夜おそく家に帰ることになったが途中の産土の社で泊めてもらった。

すると社前に一人の人間が来て「申し上げます」と言うと社の奥で「言ってよろしい」と言う返事がする。

「今日何時ごろどこそこで某が生まれました」「それは寿命は二十五歳で死因はアブサシだ」。

ところがその某という人は社に泊った人の隣の人であった。

それから二十五年経ったところその人は正しく死んでしまった。

そのときの死因はアブに刺されて死んだのだそうです。

そんなこともあるんですよ。


私のほうへ入る人も危険を救われて入る人が多いのですが、その場合それ以後の生命は寿命をつぎたしたことになるのです。

つぎたされた生命を勝手に使ったり、金を儲けることばかりしていては駄目なのです。

神様は運命を変えることができる。その人の生き方しだいでは永生きもするのです。」

(註 アブをナタで払いのけようとして、ナタが腹にささり、出血多量で死亡したという話らしい)




明主様御垂示 「役に立つ人間は神様が助ける」 (昭和24年10月25日発行)

信者の質問
「私は昨年九月まで長年医薬の厄介になっておりました。

喘息も御浄霊により楽にさせていただき、主人は昨年十一月、私は同年十二月入信いたしました。

まだ御神体はお祭りしてありません。

今年三月ごろからふたたび御浄化をいただき、四月ごろは一時たいへん痩せましたが、

五月ごろよりは午後になると熱が出て、四時五時ごろまでは激しく頭痛発汗があります。

翌日朝は気分がよいのですが、膝のあたりが震えて悪道路を馬車に揺られるように震え、

約四十分ほど四回にわたって震えがくるという状態が一日おきにくるのでありますが、なにか霊的な関係がありましょうか。

また今後いかにしたらお救いがいただけましょうかお教えください。」


明主様御垂示
「震えがくるのは寒気で、つまり浄化熱で結構である。

病気はすべて一日おきに善い悪いがある。

光明如来様をお祭りするとよい。

早く治るには信仰に入れば神様がよくしてくださる。

よくしてくださるのは、「ない命をやるから世の人を救え」という意味であるから、ただ治っただけではいけない。

多くの人を救えばますます早く治してくださる。

神様は人間が役に立てばできるだけよくなるようにしてくださるし、また悪くならないようにしてくださる。」




参考 明主様御垂示 「人間は生命を自由にできない」 (昭和23年10月19日)

信者の質問
「左の御歌について意味を御伺い申します。

『魂機張る生命は神のものにあり神に叛きて栄え得べきや』」


明主様御垂示
「「魂機張る」は枕詞で・・・生命の・・・。

歌には意味の分らぬような事をかく場合がよくある。

信濃など「みすずかる」・・・というし、「いすくわし」は五十鈴、「久方の」は天である。「村肝」は命。

生命は神様のもので、その持主たる神様に叛いて栄える事は出来ぬ。

生命は自分のものと思っているが、自分で生命を自由に出来ない。

もし自分のものなら自由になる訳である。

であるから、生命の持主に気に入られるようにしなくてはならぬ。

雇人みたいなもので、解雇されぬようにしなくてはならぬ。」