報恩について


明主様御教え 「信仰の合理性と再浄化」 (昭和28年5月27日発行)

「(一部のみ引用) そうして感謝の誠を捧げる場合、仮に金銭にしても、多い少ないは問わない。

分相応の最大限度であればいいのである。

神様は何もかも御存知だから、無理をせずとも御許しになると共に、

その上一人でも多くの人を救い信者を作ればなおさら結構であって、要は実行である。

そのようにすべてが理屈に叶(かな)えば、まず再浄化は起らないはずで、たとえ起っても軽く済み、命に関わるような事は決してないのである。


話は違うが世間多くの宗教の中には、御蔭を頂かない内から、これだけ献金すれば助かるなどといって、御礼の先取りをする事があるが、

これなどは欺瞞(ぎまん)行為であるから、御利益のあろうはずはない。

全く取次先生の考えが誤っているからである。

そこへゆくと我 メシヤ教は御利益があってから分相応の感謝をすればいいので、

至極合理的であるにかかわらず、それを怠(おこた)るとしたら、全く人間の方が間違っており、お気付けを頂くのは当然である。

それでも気がつかないから命まで召上げられるので、どこまでも不合理は赦(ゆる)されないのである。」




明主様御教え 「宗教的治病に於る誤謬」より (昭和11年4月8日御執筆)

「(一部のみ引用) 世間往々、信仰によって病気治しをする場合、非常に誤られ易い重大事がある。

そうしてそれを誰もが気が付かないで、今日に至っている事である。

それは何であるかというと、信仰で治そうと思いつつ、実は自己の力に頼りつつあるその事である。

勿論、信仰で治そうとする以上、熱心であればある程、効果はあるはずであって、

その目標である神仏に祈願をこむるのであるが、

この場合、実は自分自身の精神療法をしている事が多いのである。

何となれば、真の意味における神仏は、人間が水を浴び、お百度を踏み、数時間経文を誦(よ)み拍子木等を敲(たた)き、

又は貧困に陥いるまで財産を提供させる等によって、

神徳仏果を享けるというごときは、実に謬れるのはなはだしいものである。

たとえていえば、神仏の御心は、親の心と同じようなものであり、信徒は子のようなものである。

子が親に向って、ある欲求をする場合、見るも悲惨な苦行は、親として決して快いものではない。

故に、その願求が正当であるならば、親は欣(よろこ)んで、否、吾子を喜ばせんが為、

難行苦行などさせずに、少しでも多く与えたいのが真情である。

随って、苦行を求める信仰は、その目標である神は、正神であるはずがないから、

こういう信仰は悉(ことごとく)、迷信であるといってよいのである。


しかし、子がいかに親の恩恵を享けようとしても、

その子が常にわがまま勝手な事をし、親を顧みずして、

ただ親から吾が欲しいものだけを与えて貰おうとしても駄目である。

矢張り平常から、親を思い、親に尽し、親の言う事を肯(き)き、

親の喜ぶ行為を重ねなければならないのである。

世には御利益ばかりを欲しがり、絶大な御利益を受けながら、それに対し感謝報恩を忘るる者があるが、

これらは実に親不孝者で、ついに親から見放されてしまうのは致し方ないのである。

しかし、こういう輩に限って、自己の非を悟らないで親を怨むという事になり、

自ら滅びゆくという哀れな結果になるものである。

故に、人は神仏に対っては、よく神仏の御心を悟り、人として無理からぬ正しい願求を、恭々しく淡白になし、

又、出来るだけの報恩感謝をするのが本当である。

そうして、感謝報恩とは、一人でも多くを救う事である。

といって人間には、人間を救う力は到底有る訳がないから、自分が救われた神仏へ導くより外は無いのである。

そうして、人を導くその徳によって、それだけ自分も救われるのである。

又、人を導く暇のない人などは、それに換るに、金銭物品を奉る事も結構である。」




明主様御講話 「神様は理屈に合わないことは絶対に許されない」 (昭和28年5月15日)

「本当は再浄化というものは起るべきものではありません。

しかし起るべきものではないと言っても、ある程度はやむを得ないが、再浄化で命がなくなるということはありません。

再浄化のあるのは、ほとんど結核ですが、医者から見放されてぜんぜん死ぬに決まったような者が助けられるとしたら、その命の恩はたいへんなものですから、

いかなるものを犠牲にしても、命の代わりとして感謝しなければなりません。

感謝するということは奉仕しなければならないのです。

それをボヤボヤしているから、神様は横を向かれるのはあたりまえです。

だから再浄化が起るということは、再浄化が起るようにしているのです。

それで今の人はやっぱり医学迷信のために、お医者でなおったのは非常にありがたがるのです。

ところが信仰でなおったのは有難味が少ないのです。

というのは、信仰でなおるべきものではないと思っているから、「なおったのは時節が来たのではないか」あるいは「今までたくさんのんだ薬が効いてきたのではないか」というような解釈をする人があるのです。

ところがお医者の方でなおったのはじき忘れるが、神様の方は、そういう理屈に合わないことは絶対に許されないのです。

しかし、今までは和光同塵で、少しは許されてきたのですが、これからは絶対にお許しにならないのです。

大本教のお筆先に「神厳しくなると人民穏かになるぞよ」というのがありますが、うまく言ってあります。それについてはっきり書きました。」




明主様御講話 「人間の間違いのせいで再浄化のほうが重くなる」 (昭和28年5月15日)

「命にかかわらない病気ならそうでもないが、命にかかわるような病気がなおれば、命をいただいたのですから、

なおってよいあんばいだと金儲けだとか相変わらずなことをしていると、せっかくくださった命を自分のことに利用してしまうことになるので、

つまりいつも言うとおり、自分の命だと私有財産みたいに思ってしまうので、そこにたいへんなくい違いがあるのです。


以前に、鉱山をやっている人で、そうとうに年をとった人ですが、心臓病で命のないところを助かったのです。

それで自分は一生懸命に神様のために働くと口では言っているが、

いつの間にか山に行って、しばらく見えないからどうしたかと思っていると、

その人はそうとうの資本家で経営者であるから鉱山に行っていたが、

具合が悪くなってあわてて帰ってきて、治療をしてもらうと良くなって、今度はよいだろうと思うと、また行ってしまうのです。

そういうことがたびたびあったので、とうとう私は「あの人は駄目だから方っておけ」と言っておきましたが、それからしばらくして死んでしまいました。

この人などはあんまり命を粗末にするのでもったいないくらいなものです。


こういう人はめったにありませんが、これに似たようなことはよく聞きます。

お蔭話などにもよく出てきますが、難病がなおって、そうして神様はたいしたものだと言いながら、この次再浄化で悪くなると医者に行くのです。

そうしてさんざんやってもらって、今度は前よりも悪くなって、やっぱりこれは神様にすがろうと来る、それで今度なおると、そこで初めて分かるのです。

実に世話がかかるのですが、よくそういう人があります。

だからそういった大きなお蔭をいただいて命を助かった人は、これから大いに注意してやるのです。

そうすれば再浄化はよほど少なくなります。そこで万一再浄化が起った場合には、なぜ起ったかという意味を、今のようなわけだということを話してやるとよいです。

大体どんな病気でも、なおればそれよりか重い病気が起るわけはありません。

第二の起り方ですから、軽くすむわけです。

ところが再浄化の方がかえって重い場合が多いのです。

ということは人間の方が間違っているからです。」




明主様御講話 「御蔭の二分の一は御奉仕させて頂くべき」 (昭和27年12月1日)

「本当言うと、お蔭というのを値打ちにするなら、ない命を助かるとすると、

とにかくその人はどんなことを犠牲にしても構わないわけです。

仮にお蔭を百もらって御礼を十上げると、九十は借金になります。

借金になるからあとのお蔭があんまりないのです。

だから本当に厳密に言うと、そこにいくのです。

ところが普通の人はお蔭を百もらって、神様のほうに御礼が五十なら良いほうです。

全部やったら裸になるから・・・。

それを二十とか三十にするから、あとの二十とか三十が借りになる。

するとあとが悪くなるのです。

それで仮にお金ならお金を上げると普通十倍になって返って来ます。

お金を上げて貧乏になるような宗教だったら信仰をやめたほうが良いです。

それは神様に力がないのです。」




明主様御講話 「御礼も程」 (昭和28年6月1日)

「命が危ない、このままではどうしても死ぬよりないというときに、これはいくら金がかかっても、財産を全部捨ててもよいから助かりたいと思うでしょう。

そうしているうちに、なおって、だんだんよくなってきて命の心配がなくなると、今度は欲が力をつけてきて、どうしても金をこうしなければいけない、ああしなければいけないという欲が出てくるのです。

そうしているうちにいつの間にか、助かりさえすればよいというときのことを忘れて、欲を出すということは、誰でもあることで、私なども経験があります。

それは最初の病気のときに考えたことも本当なのです。

それからそういった欲が出るのもやむを得ないのです。

ただそこのところをうまく程のよいということです。

人によると、助かってしまってから今度はばかによくなったと、最初思っている半分も三分の一もお礼をしないということもあるので、そこでこの間再浄化ということを話したり書いたりしたのです。


そこで結局「程」です。一方に片寄るから、そこに問題が起こったり無理があったりするのです。

そこで「程々」ということが伊都能売(いづのめ)になるのです。

私は以前読んだことがあるが、山岡鉄舟の書で、大きく「程」と書いて、小さく「人間万事この一字にあり」と書いてありましたが、私は実によい言葉だと思いました。

実に簡単に言い現してあります。「程」という字は大したものです。

伊都能売ということの働きは、一字で言えば「程」という字でしょう。

それで「程」ということは、やはり春秋の気候と同じで、暑さ寒さの「程」です。

「程」というのはどっちにも片寄らない、ちょうどよい所に収めるというそれをよく現してあります。」




明主様御講話 「御礼と私用金とは釣合うべき」 (昭和28年5月27日)

「それだけの御利益があり、命まで助けてもらいながら、それを忘れたり、

よけいなつまらない金にはウンと使って、御礼の方には少しばかり上げるということも理屈に合いません。

ですからこの前も言ったとおり、理屈に合わなければいけないということです。」




明主様御垂示 「御礼は身分に応じてするのがいい」 (昭和24年9・10月)

信者の質問
「貧困な人達を見ても一様に同情せず、その美しい心の持ち主に対してはきっと将来救われると思い、

その醜い心の持ち主に対しては当然そうなるべき因縁を持つのだ・・・というふうに考えますことは無慈悲な心でしょうか。」


明主様御垂示
「これはね、どっちって決められないんですよ。

例えば浄霊にしても、その人が丸ッきり金がないんなら施療にしてやってあげてもいいが、いくぶんでも出せれば出すべきです。

人間的な考えも大切だが、それはよほど違うこともあるんです。

教導師が人を浄霊してあげた場合、生活に費用がかかるんだから、御礼をもらうのはあたりまえです。

そして余裕があれば神様にお上げするのが本当ですよ。

だから、御礼は身分に応じてするのがいいんです。

だから施療なんかしてる間は嘘ですよ。

ふつうの人は施療なんかできないんですから。
 

以前、ただで治療しろって言う人がいましたが、

勿論、観音様は御礼なんかいらないが、取り次ぎする人は家に住んでいるんだし、

まさかカスミを食って生きるわけには行かないですからね。・・・

金持ちはうんと御礼を出したらいいんです。

生命を救われたら財産の半分くらい出したらいいんですよ。

だから、私は以前よく言ったんです。

御礼はまだもらってない、手数料ならもらったけどってね。(笑声)

実際、生命を救われるってことはたいへんですからね。

だからね、心よく出せる御礼は出すのが本当であり、また受け取るのが本当なんですよ。
 

以前、ある熱心な婦人で人を大勢やってたんですが、

その御札が一円のところを二、三円多いからって返しに行ったんだそうです。

これはその婦人の御主人から聞いたんですがね。

しかし、これなんかとんでもない間違いですよ。

神様を侮辱することはなはだしい。

一生懸命やってながらまったく見当が外れてるんです。

で、その婦人は震災で死んでしまいましたがね。」




明主様御垂示 「御利益を頂いたのに御礼をしないと罪をきる」 (昭和24年7月23日)

信者の質問
「経済的に不遇な方が、さらに病気などの御浄化をいただいております場合、その人が一日も早く健康にさせていただけますように・・・との気持ちから、

その人には話さずに(従って御玉串もお上げすることなしに)教導師が神様に御守護をお願いいたすことはよろしいでしょうか。」


明主様御垂示
「これはね、なかなか厄介なんですよ。

できるだけ御礼をやすくしてやるとか、場合によっては貧乏人にはただでしてやるといったふうに社会事業的にするのは一応もっともなことですがね、

しかし、これはたいへんな間違いなんですよ。

いままでのたいした御利益のない宗教ならいいが、

このすばらしい神様には感謝するのがあたりまえですよ。

以前、私がやっていた時分、ある細君でとても熱心でしたが、ある人がやってもらった御礼を置いてったら多すぎるからって返した人がありましたがね、これはたいへんな間違いですよ。

いくら一生懸命でも根本が違ってますからね。

その細君は震災のとき水に溺れて死んでしまいましたがね。・・・

ですからちょっとここの考え方が難しいんですよ。


不思議なことにはね、私がしていたとき御礼を高くするほど人が大勢やって来たもんですよ。・・・

まったく、これで救われた感謝は金には替えられませんからね。

先にもね、どれくらい御礼したらいいかっていう人があるんで、ありがたいと思う気持ちだけでいい、本当に御礼するとしたらたいへんだから、(笑声)

その時分で、まあ、十万円くらいはしなけりゃならない、(笑声)

だからあんたのできるだけでいいって言ったんです。・・・

実際、価値には替えられませんからね。

いままでのは、まあ一銭上げて家内安穏、商売繁昌、無病息災、なんて願ったもんでしたがね。(笑声)

だから、そういった意味でただでやってやるのはいけません。

その人が罪をきてしまうんです。

神様から御利益をいただいてるのに御礼をしないってのは罪ですからね。

だから治ってから御礼するのは嘘で、治る前に御礼・・・お願いをするのが本当ですよ。

なぜなら、治ってから御礼をするんでは神様を雇ってることになる。

ちょうど人を雇って、これだけ働いたからこれだけ御礼するっていうのと同じですからね。

これじゃ人間のほうが上になって神様は下になってしまうんです。

だから、そのやってもらう前に誠を捧げて神様にお願いすべきなんです。


まあ、こんなことはいまの人にはちょっと納得できないかもしれませんがね。

いままでのは御礼を上げても死んでしまったことが多いんですが、

しかしこれは神様が悪いんじゃなくて、取り次ぎをする人が悪いんです。

悪意でやったんじゃなくても結果的に悪くなってしまうんですがね。

まあ、根本はこうなんですから、この根本を知ってあとは臨機応変にやったらいいんです。」




明主様御垂示 「御守護に対して相応の報恩をしなかった者はお詫びすべき」 (昭和28年7月25日発行)

信者の質問
「謹んでお伺い申し上げます。

私は三十四歳ごろより大酒呑みになり、アルコール中毒になりましたので、

妻が心配し、河内の石切神社に願をかけましたところ、約半年ほどの間はよほど少なくなりました。

そのころ玉光教の霊媒により、私の大酒呑みは実弟(二十四歳死亡)が昭和十年ごろ、上海より持ち帰りました支那の七賢人を、神戸で友達に分かち二体を家へ持ち帰りましてから、淋病や肋膜炎、ついには結核性脳膜炎で死亡いたしました。

その原因は「七賢人を分霊させたたたりと、そのうえまだまだ災難の続くところ、妻が助産婦の業をいたしておりますゆえ、私が大酒呑みの程度ですんでいる。

いまでは中毒になっているから今年中に命のないところ、神様へ対する誠によって命をいただいたのですよ」と言われ、

今後絶対に災難のないようにと、七賢人より彫刻した人の霊を抜いていただきました。

その後(昭和二十四年三月)救世教へ入信の光栄に浴し、ただいま大光明如来様御奉斎、大光明の御守り様も妻とともに拝受、御守護により入信後、

十カ月ほどはまったく止まっておりました酒を、二年ほど前からまた呑むようになりました。

これは、七賢人の霊の上へ遠縁の酒呑みの車夫の霊もかかっているとのことでコップ酒を好みます。

七賢人はなんとも言えぬ凄い顔をいたしておりますので、家へ置きたくないのですが売ることもできず、そのまま違い棚の上に置いてあります。

先日長男(二十二歳)が意識不明の御浄化をいただき、

先祖が出てまいりまして「七賢人は美術館に献納させてもらいなさい。すると、七体がおのずから集まってくる」と、申しましたが、いかがさせていただきましたらよろしゅうございますか。

また、七賢人の霊および作者の霊は、はたして抜けておりますでしょうか。

私の酒呑みと、七賢人および酒呑みの幸夫の霊とはいかなる関係がございましょうか。

尊き御神業の一端をまっとうさせていただきたく、右謹んでお伺い申し上げます。

なにとぞ御垂示のほどお願い申し上げ奉ります。

ちなみに七賢人は黒檀で刻まれてありますが、作者、年号とも不明でございます。」


明主様御垂示
「最初十カ月間止まった御守護に対し、相応な報恩をしないからであるから、そのことを第一にお詫びをすべきである。

そうして物質なり、信者を作るなりして、力の限りお役に立つことである。

そうすれば、酒も止み、万事都合よくなる。

次に七賢人はそのままにしておいてよろしい。」




明主様御垂示 「御守護の御礼を怠ってお気附を頂いた事例」 (昭和26年9月8日)

信者の質問
「熱心な信者の妹の家で、二十年くらい前から井戸の水が出ず、光明如来様にお願いすると良いと言われ、お願いしましたら、

第一回でバケツ一杯出て、二回、三回となるうちに、非常に良い水が出たそうです。

それで、日に十円づつを御奉仕して感謝しなさいと申したそうですが、

二十五日ほどして感謝が薄らいできて、御奉仕の気持ちもなくなり、姉妹喧嘩となり、恩だけは受けて感謝がないから止まるというと、二、三日して止まりました。

妹も不便を感じ、またお願いしましたら、真っ黒いものが出たそうです。

それで、お前がまだ黒いからだ、と申したそうです。最近は赤い水に変りました」


明主様御垂示
「とにかく、最初恩義を忘れたこと、その罪です。

そこで、そういう魂の人はそうとう曇りが多いので、水によって曇りを取ってくださるんです。

ある程度そうされなければならないんです。

そういうわけで、それでいいんです。

病気でも、お蔭いただいて良くなって、一生懸命感激して信仰しようと言いながら、しないが、今度はハッとして一生懸命やるが、そのために死ぬような人があります。

本当に、あまりにはっきりしてますね。」




明主様御垂示 「報恩が足りないため深刻な再浄化になった事例」 (昭和27年1月17日)

信者の質問
「II(五十九歳。男性)。昭和十五年夏ごろ、たいへんに疲労を覚え、医診の結果糖尿病とのことで、

毎日インシュリン、ブドウ糖の注射をし、内服薬も用い、食事は糖分は控え目に、魚肉類を多く摂るようにしておりました。

昭和十六年バセドー氏病を併発し、疲労感がいっそう加わり、十九年九月ごろ一時小康を得ましたが、

月に面疔および鼻梁軟骨炎を併発し、約三カ月床につき、インシュリンの代用薬ミニグリン、インペリンなどの注射をうち、手術はいたしませんでしたが、

鼻、眼の縁から排膿し、漸次快復に向かいました。

二十三年秋ごろから眼が充血し、視力減退し、医診の結果、腎臓病併発のため眼底出血し、失明の直前で、同時に糖尿病も悪化し、

放置すれば生命が危険とのことで入院し、毎食前にインシュリン、ビタミンC、ニッサリジンなど注射および服薬し、一週二回眼球の注射などを三カ月続けました。

他に漢方薬、ニワトコ、木ササギ、トウモロコシなども一カ月ほど服薬いたしましたが、思わしくありませんでした。

二十五年五月、本教の福音をうけたまわり、御浄霊をいただき、七月に退院し、一切の医薬を廃し、御浄霊におすがりするようになりましてより、

身動きもできなかったお腹の膨れも、だんだんと引き、楽になり、ほとんど盲目に近かった視力もやや恢復し、少しずつ読み書きもできるまでになりましたので、

二十五年秋から二十六年秋まで公務のために身心を使い、

それまでいただいておりました会長先生および支部長先生の御浄霊も怠りがちとなり、またまた悪化し、御浄化が激しくなってまいりました。

その間指導者の方々より、先生方の御浄霊はでき得る限り多くいただき、また御高恩にお報い奉るべく人々をお救いするようにとお話いただきながら、

忙しさや我事に追われ、御報恩も意に任せず、御浄霊もたまにいただく程度にて、まことに申し訳なく心よりお詫び申し上げております。

今日では頭から足の指先まで腫れ上がり、腹部は太鼓のようで、副睾丸は握り拳三つほどの大きさに腫れ、横臥することもできません。

昨年末より咳をしきりにいたし、濃い痰が出るようになり、体を動かしますと咳が出て、腹部に力が入り、膨満と咳の圧迫のためにか、

副睾丸が痛み、呼吸が困難になります。

一月七日、代人にて御参拝させていただきましたが、代人出立の日御守護いただき下痢をいたし、

同時に副睾丸はだんだん小さくなり、咳激しく、痰も多量に出させていただき、だいぶ楽にさせていただきました。

なお、下痢は未だ激しく続いておりますが、三日前より異常な眠気を催しております。

現在もっとも苦しいのは、腹部膨満のため胸部圧迫され、胸元が息苦しい状態でございます。

尿量は非常に少なくなっております。御浄霊は一日四、五回いただいております。

なお、今回も代人にて御参拝させていただいております。

光明如来様、御屏風観音様は御奉斎させていただき、ひたすらおすがりさせていただいておりますが、御浄霊の急所御教示のほどお願い申し上げます。」


明主様御垂示
「これは、急所は・・・命を救われたことを忘れたことが急所です。

大体この人は命がなかったんです。これは非常な薬毒ですよ。

医学の犠牲者ですね。気の毒なものですね。

そうして、せっかく務めができるまでに治ったら、すぐに神様のために働かなければならない。

命は神様にいただいたんですからね。

だから、私有物じゃない。助かってからの命は神有物なんです。

ところが自分勝手にしたから御守護が離れたんです。

だから、こういうことになるのはあたりまえです。

だから、そこを自覚しなければならない。

神様からいただくということは、神様の御用をしろと言っていただくんですから、そういうのは神様以外のことはできないんです。

こういうのはたくさんあるんです。

ところが、それを私有物にして、せっかくいただいた命を勝手に使って・・・いったん神様からいただいた命を、会社かなにかに使っては、人が助かりません。

そうでなく・・・神様は、命をやるから御神業に使えと言ってくださったんです。

それを忘れた。この点は指導者も責任があります。

それは言ったでしょう。しかし、言い方が足りなかった。

断乎として言えば・・・他のことをしては命はない。

神様以外のことはいけないと、断乎として言うんです。

それで言うことを聞かなければ、突っ離す。

だから、浄霊も良いですが、腹の中から・・・間違っていた。

今度治ったら人助けをさせていただく。

だから、もう一ぺん、命をいただきたいとお願いするんですね。

それで、神様が聞き届けられたら、助かりますが、神様がもう駄目だ・・・なかなか神様は、そういうところは厳しいですからね。

もう駄目だ。お前は霊界に行って働けと言われたら、もうしかたがないですがね。」




明主様御垂示 「御礼が少ないと参拝を止められる事もある」 (昭和28年5月25日発行)

信者の質問
「私は昭和二十四年十月入信、御神体、御屏風観音様も御奉斎させていただき、妻と長女と三人家族にて三人とも入信させていただいております。

現在紙箱製造業にて、入信以来数々の御守護をいただき、仕事の方も発展いたし感謝の日々を送らせていただいております。

このたび三月二十七日の春季大祭に妻と長女が御参拝させていただく都合で、二十六日午後四時ごろ自家用の三輪トラックに乗り、他の信者一名と三人乗ってバスの乗り場に向かいました。

少し家を離れたところで、道端に子供が七、八人遊んでおり二間ほど近くに行ったとき、四歳になる男の子が道の真ん中に飛んででました。

びっくりして車は急停車いたしましたが、惰力のために車の前のホロで子供を押して行き、子供は小さい溝に落ち石で耳の上を怪我いたしました。

さっそく飛んで降りて子供を抱き上げ御浄霊をさせていただきました。

御守護により二十分ほどで痛みも止まり、血も止まりました。

家に帰って子供の両親にもお詫び申し上げ、御浄霊のお話しもいたしましたが、両親が未入信のため、とうとう医者にかかりました。

そのときの運転手は私の使用人で未入信でございます。

二十七年五月車を買ってより三回目の事故でございます。

右のような事故のため春季大祭に信者三人とも御参拝が許されませんでした。

これまでは入信以来、春秋の大祭には無事お参りもお許しいただいております。

なにかのお気づけのように思われますが、このような場合どのように覚らせていただくのが正しいのでございましょうか。

謹みて御垂示賜わりたくお願い申し上げます。」


明主様御垂示
「勿論お気づけに違いないから、よく考えれば必ずなるほどと思うことがある。

そこで一番考えられるのは、御守護に対し御恩報じがあまりに少ない場合、そういうことがある。

例えば十と思う御利益に対し五の報謝とすれば、五だけ神様からの借金になるから、お返ししないと祖霊がお気づけをするのである。」




明主様御垂示 「恩義を忘れて死ぬ人もいる」 (昭和26年9月8日)

信者の質問
「熱心な信者の妹の家で、二十年くらい前から井戸の水が出ず、光明如来様にお願いすると良いと言われ、お願いしましたら、

第一回でバケツ一杯出て、二回、三回となるうちに、非常に良い水が出たそうです。

それで、日に十円づつを御奉仕して感謝しなさいと申したそうですが、

二十五日ほどして感謝が薄らいできて、御奉仕の気持ちもなくなり、

姉妹喧嘩となり、恩だけは受けて感謝がないから止まるというと、二、三日して止まりました。

妹も不便を感じ、またお願いしましたら、真っ黒いものが出たそうです。

それで、お前がまだ黒いからだ、と申したそうです。最近は赤い水に変りました」


明主様御垂示
「とにかく、最初恩義を忘れたこと、その罪です。

そこで、そういう魂の人はそうとう曇りが多いので、水によって曇りを取ってくださるんです。

ある程度そうされなければならないんです。

そういうわけで、それでいいんです。

病気でも、お蔭いただいて良くなって、一生懸命感激して信仰しようと言いながら、しないが、

今度はハッとして一生懸命やるが、そのために死ぬような人があります。

本当に、あまりにはっきりしてますね。」




明主様御垂示 「御礼についても神様にお任せすべき」 (昭和24年9・10月)

信者の質問
「信者の方に御礼することを判らせることはいかがでしょうか。」


明主様御垂示
「神様にお任せしておけば、神様がちゃんと先方から御礼を出させるようにしてくださいますよ。

ケチで頑固な人の場合は、神様はその人からでなく、ほかの人の手を借りて御礼をさせますよ。

「あんなにしてやったのにふざけてやんな。馬鹿にしてる」と思うこともよくありますが、

しかし、御礼するようにって謎なんかかけるのはいけませんね。(笑声)

ちゃんと神様がうまくやってくださいますよ。」




明主様御垂示 「主人に内緒で御守護御礼をするのは差し支えない」 (昭和26年10月8日)

信者の質問
「奥さんが信仰に熱心で、御守護御礼を、主人に内緒で持ってきておりますが、いかがでございましょうか」


明主様御垂示
「かまいません。立派なものです。

主人のほうが間違っているんだからね。

ちょうど当局が私をいじめるようなものです。

当局のほうが間違っている。

こちらは立派なものです。」




明主様御垂示 「御礼を高くするほど人が大勢やって来た」 (昭和24年7月23日)

信者の質問
「経済的に不遇な方が、さらに病気などの御浄化をいただいております場合、その人が一日も早く健康にさせていただけますように・・・との気持ちから、

その人には話さずに(従って御玉串もお上げすることなしに)教導師が神様に御守護をお願いいたすことはよろしいでしょうか。」


明主様御垂示
「これはね、なかなか厄介なんですよ。

できるだけ御礼をやすくしてやるとか、場合によっては貧乏人にはただでしてやるといったふうに社会事業的にするのは一応もっともなことですがね、

しかし、これはたいへんな間違いなんですよ。

いままでのたいした御利益のない宗教ならいいが、

このすばらしい神様には感謝するのがあたりまえですよ。

以前、私がやっていた時分、ある細君でとても熱心でしたが、ある人がやってもらった御礼を置いてったら多すぎるからって返した人がありましたがね、これはたいへんな間違いですよ。

いくら一生懸命でも根本が違ってますからね。

その細君は震災のとき水に溺れて死んでしまいましたがね。・・・

ですからちょっとここの考え方が難しいんですよ。


不思議なことにはね、私がしていたとき御礼を高くするほど人が大勢やって来たもんですよ。・・・

まったく、これで救われた感謝は金には替えられませんからね。

先にもね、どれくらい御礼したらいいかっていう人があるんで、ありがたいと思う気持ちだけでいい、本当に御礼するとしたらたいへんだから、(笑声)

その時分で、まあ、十万円くらいはしなけりゃならない、(笑声)

だからあんたのできるだけでいいって言ったんです。・・・

実際、価値には替えられませんからね。

いままでのは、まあ一銭上げて家内安穏、商売繁昌、無病息災、なんて願ったもんでしたがね。(笑声)

だから、そういった意味でただでやってやるのはいけません。

その人が罪をきてしまうんです。

神様から御利益をいただいてるのに御礼をしないってのは罪ですからね。

だから治ってから御礼するのは嘘で、治る前に御礼・・・お願いをするのが本当ですよ。

なぜなら、治ってから御礼をするんでは神様を雇ってることになる。

ちょうど人を雇って、これだけ働いたからこれだけ御礼するっていうのと同じですからね。

これじゃ人間のほうが上になって神様は下になってしまうんです。

だから、そのやってもらう前に誠を捧げて神様にお願いすべきなんです。


まあ、こんなことはいまの人にはちょっと納得できないかもしれませんがね。

いままでのは御礼を上げても死んでしまったことが多いんですが、

しかしこれは神様が悪いんじゃなくて、取り次ぎをする人が悪いんです。

悪意でやったんじゃなくても結果的に悪くなってしまうんですがね。

まあ、根本はこうなんですから、この根本を知ってあとは臨機応変にやったらいいんです。」