拝読と智恵正覚について
明主様御垂示 「智慧正覚の標準は御神書」 (昭和28年7月1日)
信者の質問
「資格者といたしまして、人を救うこと、信仰の向上を図ること、御奉仕とをどのような順序に考えましたらよろしいものでございましょうか。
また金銭物資の御奉仕の意義、方法につきましてお伺い申し上げます」
明主様御垂示
「恐ろしい質問だね。それは、どっちが肝腎だということを考えるそのことが間違ってます。
そういうことは考えないのが本当です。
というのは、神様はその人の使命、その人に与えられた能力によって人を救う御用をする人もあるし、お金の御用をする人もあるのです。
向上は全般ですが、各々その使命があるのです。
というのはそういう事情になってくるのが使命ですから、そうなったらそうすればよいのです。
金が集まって来て、人を浄霊するよりもというのは、そういう使命があるのです。
また金がない、信者をたくさん作るというのはそういう使命があるのです。
それは周囲の事情がそうなって来ますから、ただ素直にそのままを考えて進んで行けばよいのです。
それから向上ということは、一番のことは智慧証覚です。
いろんなことが分かることです。
分かるといっても間違った分かり方ではいけません。
その標準は御神書です。
御神書に書いてあることがだいたい「なるほど」と思えれば、それは智慧証覚がだいぶ上がっているのです。
「どうも分からない」というのもあるし、そのときはなるほどと思っても、家に帰れば忘れるというのもあります。
いろんなことがフッと解るのは智慧証覚が向上しているのです。
病状をみて、この人はこの病気だということを当てれるのは、よほど智慧証覚が上がってなければならないのです。
だから以前は五つ分かったが、この頃は六つ分かる、七つ分かるというのなら智慧証覚が向上しているのです。」
明主様御講話 「御神書を拝読すれば智慧正覚が発達」 (昭和28年9月7日)
「いつかも言ったとおり、理屈に合わなければいけないということで、つまりその理屈を考えるのです。考えれば分かるのです。
もし分からないとすれば智慧証覚が鈍っているからです。
鈍っているということは霊に曇りがあるのです。
だからできるだけ曇りを取らなければいけないのです。
それにはできるだけ御神書を読むのです。
そうするとそれだけ曇りが取れて智慧証覚が発達しますから、よく気がついたり、理屈が分かりよくなります。
それで理屈どおりにゆけばすべてが順調にゆくのです。
時々いろいろなことの質問がありますが、なにかある時には調べてみると必ずどこかに理屈に外れていることがあります。
だからこの理屈を知ることです。理屈を知ることは、要するに気のつくことです。
だからお釈迦さんは「悟りを開け」「覚者になれ」と言ったのです。
「覚者になれ」ということは、今言った智慧証覚がある程度まで発達することです。
ですから仏教の方ではよく「智慧」ということを言ってます。
お釈迦さんの説いたことの眼目は、ほとんど「智慧」でしょう。
そういうようで、「智慧」ということは、今言った智慧証覚、つまり「覚り」です。
覚りということは、あきらめということばかりでなく、「自覚」「覚者」ということですから、
それは大きい小さいにかかわらず、なんでも理屈に合わせなければならないのです。
そうするとその人のすることが、そう骨折らないですべてがうまくゆくのです。」
明主様御講話 「御神書拝読により曇りが減る」 (昭和28年12月5日)
(御論文「私の文章とその他」発表)
「今読んだような具合で、どっちかというと、私は遊びながら仕事をしているようなものです。
苦しみながらしている気はしないのです。
道楽みたいなものです。
観音様の中に「遊行観音」というのがありますが、ちょうどそういうようなものです。
それで、そういうようにやっているとうまく行くのです。
それでいろいろ苦しんだり、気がいかないことをやっているとうまくゆかないのです。
この点が今までの世の中の人と反対です。
これは信者の人でも同じわけです。
だからいやいややったり、苦しんでやったりした時にはロクなことはないです。
病人の所に頼まれて行く場合にも、楽しみながら行く時は、きっと治りが良いし、治るから行くわけで、またそうだから良いわけです。
だから楽に行けばゆくほど発展するのです。
ここが今までの世の中と違うわけです。
ところがどうも人間という奴はいろんな癖がついて、どうも苦しむのを平気で、それをあたりまえのように思っているのです。
私も始終そういうことがありますが、どうも思うようにゆかない、うまくゆかないというときには、「オレは苦しんでやっていた」ということに気がつくのです。
それでそれをほうり出して、他のことをやるということがあります。
それからまた時節というものがたいへんなもので、たとえうまくゆくことでも、良い計画でも、時節が早いとやっぱり思うようにゆかないのです。
それはやることが悪いのでなくて、時節が来ないのです。
そこを見通すだけの智慧証覚がなくてはならないのです。
それからまた順序ですが、これがまた実にたいへんなものです。
うまくゆかなければならない、こうならなければならないのがどこかつかえている、うまくゆかないのですが、
そういう時によく考えてみると順序が違っている場合があります。
それで順序を良くするとスラスラとゆくのです。
ですからそういうようなことを早く発見するということが智慧証覚です。
この智慧証覚というものがまたたいへんな意味ーというよりか、物事に影響するのです。
それで智慧証覚があると気がつくのです。
一番分かりやすい話が、浄霊してどうもうまく治らない、おかしいなと思うと、見当が違うとか順序が違うとかいろいろあります。
それで順序というものは、やはり理屈に合うことです。
合理的なものです。
だからその病人なら病人が、まだいろいろ反対者があったり、その人の想念がおそろしく食い違ったりするときにはうまくゆかないのです。
そのうまくゆかないというところにまた一つの理由があるのです。
それは、その病人がなにも分からないうちは疑いもし、反対もし、物は試しだぐらいにやるのですが、それはそれで神様から許されます。それはあたりまえです。
ところがそうとうに話を聞いたり、御神書を読んだり、中には信仰に入ったりする人がありますが、
入っていながら、それに合ってゆかない想念でやってもらうと、その時は治りが悪いのです。
うまくゆかないのです。
そういうことに対してチャンと合理的の理屈があるのです。
だからかえって疑ぐっていた人が馬鹿に治り、それからそうとうに信じている人で治りが悪いということがありますが、それはそういうわけです。
ぜんぜん知らない人はいくら疑ぐっても、それはあたりまえのことで許されるのです。
理屈に合っているのです。
ところがそうとう事実を見せられながら、なお疑ぐっている人は思うようにゆかないのです。
そういうことをよく考えてみると、チャンと理屈に合っているわけです。
その合っている理屈を早く発見し、早く知るということが智慧証覚です。
心の鏡に写るわけです。
ですから鏡が曇ると写りが悪いから、始終鏡を磨いているとよく写るから、早く発見するということになるのです。
ここに信仰の、案外軽く見ていることで、実は非常に重要な点があります。
このことについては、仏教で、お釈迦さんが言ってますが、「智慧」ということをよく言います。これはそのことです。
それでその智慧がある程度まで働いたのが覚者と言うのです。
それで大覚者というと一番偉いのです。
それで、お釈迦さんが言ったのに「証覚を得れば菩薩にするー「証覚者」が「菩薩」であり、「大覚者」が「如来」である」ということを言っているのは、やはり覚りということは智慧です。
ですからいろいろとなにか気がつき発見の早い人があるが、それは覚者なのだから、覚者というものは心の曇りが少ないわけです。
そこでその曇りを少なく、心の鏡がきれいに澄んでいるというためには、御神書をたくさん読むということが一番よいわけです。
ですから御神書を読んでも、前にはよく分からなかったのが、
その次に読んだら、あるいはしばらくたってから読むと、「これだ」「こんな良いことがある」「こんなはっきりしているのにどうして自分は分からなかったか」ということがあるが、前に読んだときには曇っていたからです。
だからだんだん曇りが除れてゆくにつれて、だんだん分かりが良くなるということは、そういうわけです。」