祈願について
明主様御教え 「観音様に御願する態度」 (昭和10年代御執筆)
「今迄の何か信仰してる、信者の信仰の仕方は、私から見れば大変間違っているのである。
特に神前に於て御祈願をする場合、そうである。
例えば、何か願事をするのに、まことにくどくどし過ぎるのである。
泣くが如く、訴うるが如く、肩を震わし、哀憐を、強いて乞う如き態度は、むしろ醜(みぐる)しい位のものであって、
それを数分も、数十分も掛るものさえあるのである。
之は大変な間違いである。
たとえて言えば、神様は親様であり、人民は子の如なものであるから、
子が 親に対し、希望を乞うのに、泣かんばかりに、執拗に訴えるのは、親として決して、気持の好いものではないであろう。
この理に由って、観音様へ御祈願する場合、なるべく、非礼に渉らぬよう心掛くると共に、
言葉は簡単が良いのである。
故に、一つ事を繰返すのは、大変善くないのである。
何故なれば、観音様は、人間の心の底まで見透して被在(あらせ)らるるから、
御祈願する前から判って居られるのは勿論である。
故に、御祈願しなくとも、常に乞い願っていた事が、奇蹟的に実現する事が、能くあるのはそういう訳である。
又 人間でさえ、一つ事を繰返されるのは、嫌なものであるから、
まして御神霊へ対し奉っては、其点をくれぐれも、心掛くべきである。
序(ついで)であるから、今一つ注意しておきたいが、
今までの習慣上、観音会の祝詞の外に、観音経を奏げる人がよくあるが、
これも大変間違っているのである。
元々観音経は、釈尊の時代 梵語(ぼんご)で出来たものである。
それはその時代の印度人に読ませる為である。
それを又漢訳したものであるから、本当から言えば、日本人が読むのは間違っているが、
今までは、代るべきものが無かったから致し方なかったのである。
又時間も、観音経は三十分以上を要するのであるから、
二千五百年以前の印度人ならイザ知らず、現代文化生活者の日本人としては余りに時代錯誤である。
これも悉(みな)、応身弥勒であらせらるる観音様の応身、否(いな)応世の御経綸の一端であると、察するのである。」
明主様御講話 「一心不乱の祈りは痛々しい」 (昭和11年1月21日)
「先刻、右手悟浄さんの話に、他宗では一生懸命拝んでも御利益はないという話をしました。
これは右手さんのお話の通り、からっぽうで中がないからであります。
中のないというわけは、実は一生懸命、一心不乱に拝んでも御利益をいただける神仏がない。
神仏には御利益のない証拠で、あれは自力的に一生懸命に拝んで治す力を、自分に滲み出そうというやり方なんであります。
生長の家もそうで、病気はないと思ったら治ると思うので、あれも力がない。
そういう自分の精神力を出し一生懸命になって治るんであります。
人に頼まれて一生懸命に祈って治すのは、これは人間の人体電気が病人に働きかけて治るんで、やはり神仏の力でもなんでもないんであります。
ところが、観音様のほうはいくらも力があるから、祈らなくとも心に思えば希望通りになる。
これはちょうど、親が子に対して思っているようにしてやりたいと思うのと同じことです。
なにも子が一心不乱になって、こうしてもらいたいと願わなければ与えられないという親はないはずです。
親子の関係と同じことですから、むしろ一心不乱になるほうが、痛々しくて不快感を感ずるわけです。
ですから、実は神仏に力のないのを無理に祈って自力でつくるんであります。
しかし、まるっきりからっぽかというと、御利益を与える力はからっぽでないが、他のものがある。
やはり神仏と称してる霊がある。それは、ある目的を抱いてる霊で、自己がその宗教を盛大にして、権勢を張ろうという目的の霊であって、さも御利益を与えるようにみせかけて、実は人間の自力を出させてやらす。
それで、実は神仏が与えたかのごとくみせかける。
そういう欺瞞的な詐術をしてるんで、ほとんどの宗教はみなそれであります。
ですから、邪教インチキというのは、ほとんど全部の宗教が邪教インチキなんであります。」
明主様御講話 「正しい神様に対する祈願は簡潔で事足りる」 (昭和28年6月27日)
「今言う「ぜひ命を助けていただきたい、病気を治していただきたい」というと、
神様の方では「お前は信仰にはいっているのだろう。
オレの方でうまくやってやる。
そんなにセッツイテ頼まなくてもよい。
そんなにオレを不人情に見られてはおもしろくない。
お前の方で頼っている以上、オレはお前の命はどんなにしても助けてやる」ということになります。
従来の信仰で、水浴び、断食、お百度参りなどをしたら助けてやろうというのは本当の神様ではないのです。
やっぱり邪神です。
それで神様の愛は大きく深いのですから、人間次第なのです。
人間の方で頼ってお任せする以上、神様は任せられる以上は助けないわけにはゆかないというわけですから、
神様としては任せられる以上一番責任が重くなるわけです。
ですから神様にお任せするということになると、神様の方でも大いに助けよいのです。
その考えですが、やっぱり小乗と大乗の考え方です。
それで神様としては、神様の役に立つ者はどうしても助けます。
それから邪魔したり役に立たない人間は、その人間が分かるまでは手を引かれて時を待たれるのです。
神様というのは、今の睾丸ができたというように、たいへんな御力で、助けようと思えばなんでもないのです。
ただ助かる条件が揃わないのです。
ですから人間の方でその条件に持って行けばよいのです。」
明主様御垂示 「御祈願もあっさりと」 (昭和23年8月28日)
信者の質問
「弟子の御浄め(註 当時の浄霊の名称)している重病人の住所姓名病状などを毎朝定時にお観音様に言霊で奏上し、御守護をお願いしてもよろしいでしょうか。」
明主様御垂示
「これは勿論で一種の遠隔的意味になる。
その場合あまりくどくどしく言わずにあっさり言うほうがよい。すべて三度までよいのです。
だいたい神様はくどいことが嫌いで、くどいことが好きなのは邪神です。
だから祝詞も三度でよい。
もし三度以上あげるのなら間をおいてからがよい。」
明主様御垂示 「祝詞のほうがお願い事よりも先」 (昭和24年7月20日発行)
信者の質問
「祝詞とお願い事とはいずれを先にすべきでしょうか。」
明主様御垂示
「祝詞のほうを先に奏げるのが本当で、お願い事は私事であるから後にすべきである。
祝詞を奏げる一番の目的は霊界を浄めるにある。
また祝詞を奏げると霊がたくさん来る。
祝詞をきくと霊が向上するからである。
また祝詞は神に対する感謝の意が中心になっている。」
明主様御垂示 「快癒祈願する場合の御神名」 (昭和23年8月28日)
信者の質問
「御浄化を軽くすませていただくため、御軸に祝詞を奏上する場合「五六七大御神」と「幽世大御神」といずれを申し上げるべきでしょうか。」
明主様御垂示
「御軸には「五六七大御神」が本当です。ただ憑霊の病人の場合だけ「幽世大神」です。
御軸にはいつも「五六七大御神」です。幽世大神はいまは他の神がやっておられますから。」
信者の質問
「幽世大御神と幽世大神とどちらがよろしゅうございましょうか。」
明主様御垂示
「御は尊称ですから大神でも大御神でも同じですが、幽世大神でいいです。
「五六七」のときは御を入れ大御神がよい。
御を入れるのは五六七大御神と天照大御神のお二人だけでよろしい。」
明主様御垂示 「重病人の快癒祈願について」 (昭和23年8月28日)
信者の質問
「弟子の御浄めしている重病人の住所姓名病状などを毎朝定時にお観音様に言霊で奏上し、御守護をお願いしてもよろしいでしょうか。」
明主様御垂示
「これは勿論で一種の遠隔的意味になる。
その場合あまりくどくどしく言わずにあっさり言うほうがよい。すべて三度までよいのです。
だいたい神様はくどいことが嫌いで、くどいことが好きなのは邪神です。
だから祝詞も三度でよい。もし三度以上あげるのなら間をおいてからがよい。」
明主様御垂示 「緊急災害時の御神名」 (昭和24年9月12日)
信者の質問
「暴風雨や火事の時、御神前で祝詞を奏上させて頂きますにはみろくの大御神様に御願い申し上げるので御座いましょうか。
それとも祓戸四柱の大神様に御願い申し上げるので御座いますか。
またはみろくの大御神様と祓戸四柱の大神様ともに御願い申し上げるのがよろしゅう御座いますか。御教えを御願い申し上げます。」
明主様御垂示
「直接の御守護ではなく、下の働きの神様にお願いすべきである。
光明如来様にお願いすべき事である。」
明主様御垂示 「願事は言葉に表すほうがよい」 (昭和24年1月18日)
信者の質問
「神様にお願い事をする場合、心に思えば口に出さなくても同じと考えさせていただいてよろしいでしょうか。」
明主様御垂示
「これは違いますよ。例えば私があんたにごちそうしようと思ったって、あんたはうまくもなんともないでしょう。(笑声)
やはり形に表わすことが大切です。だから言葉にも表わすべきです。
まあ、思うだけでも思わぬよりはいいでしょうがね・・・」
明主様御垂示 「願事は言葉に表すほうがよい」 (昭和24年7月15日)
信者の質問
「願事をなす場合、想念による時と言葉に表わしてなす時の相違。」
明主様御垂示
「言葉に表わす方がよい。
祈りは想念でもある程度まで通ずるが、言葉に表わした方が強く行く。
想念の働く世界と言霊の働く世界と別々にある。また行為の世界もある。御馳走などでも想っただけではもの足らぬ。
今度の本に両世界をくわしくかいてある。」
明主様御垂示 「願事は言葉に表すほうがよい」 (昭和23年)
信者の質問
「願事は言葉に出すべきか・・・。」
明主様御垂示
「願事は、祈りは想念でもある程度までは通ずるが、やはり言葉に表わした方がよい。
今度の本、「信仰雑話」にくわしく書いてあるが、想念の働く世界と言霊の働く世界と別にあって、言葉に表わした方が強く響くものである。
すべて想っただけではもの足らぬもので、御馳走してくれると思ってもらうよりは、行為の世界に表わしてくれた方が有難い。」
明主様御垂示 「祈念と言葉」 (昭和24年1月28日)
信者の質問
「祈念は言葉に出した方がよいとの御教えにつきまして再び御伺い申し上げます。」
明主様御垂示
「言霊に出した方がよいが、人のいる時は聞えないようにする。
また、それよりは早く浄霊してやった方がよい。」
明主様御垂示 「祈願祭について」 (昭和26年7月8日)
信者の質問
「祈願祭の場合、祝詞奏上して言葉でお祈りお願いいたしてよろしいのでしょうか。」
明主様御垂示
「それでよろしい。」
明主様御垂示 「御祈願を言葉に出す場合の作法」 (昭和24年1月28日)
信者の質問
「神様へのお願い事は口に出すようにとの御教えにつき重ねてお伺い申し上げます。」
明主様御垂示
「祈念するのは言葉に出したほうがいいが、周りに人がいたら出さず、いなかったら出したらいいでしょう。
ただ、思うだけでは効果が少ないのです。
場合によって臨機応変にやったらよろしいのです。
唇をちょっと動かすようにしてもいい。」
明主様御垂示 「人の大勢居る御神前でのお念じの仕方」 (昭和24年1月18日)
信者の質問
「教導所に来てお詣りする場合、周りに人が大勢いたりしますと、声を出さぬことが多いのでございますが・・・」
明主様御垂示
「それは状況によって適当にすればいい。
よく、クシャクシャ小声で言っている人があるでしょう。
あれでいいのですよ。
また、御浄霊するときは念じないほうがいい。
それから危急のときは口に出して念じたほうがよろしい。
が、絶体絶命の時は私に頼みなさい。
そういう場合は字や絵よりも生きている私のほうが力がある。
つまり、私がその仕事の実行者だから。」
明主様御垂示 「大勢で礼拝する時の祈りの仕方」 (昭和24年6月3日)
信者の質問
「いままでは平伏のときにお願い事をさせていただいておりましたが、ただいまはその時間がございませんが、これは・・・」
明主様御垂示
「大勢のときはお願いなんかしないほうがいいですよ、時間がかかってしようがないから。
ふだん必要なときにお願いすりゃあそれでいいですよ。
こっちは神道じゃないんですからね、神主的意味でごていねいにやらなくていいんです。
この道は神道でもあり、仏教でもあるんですからね。
拍手にしたって坊さんは拍手を打たないでしょ。
だからそこんとこは臨機応変にすればいいですよ。
ただ敬う形は崩さないようにね。」
明主様御垂示 「個人的な祈りと信徒と共に行うお祈り」 (昭和26年11月5日)
信者の質問
「出張所をやらせていただく場合に、着きましたと同時に、お参りさせていただくべきでしょうか。
信徒が一番集まるのは、一時か二時ですが、そのとき一緒にすべきでしょうか」
明主様御垂示
「それは、そこまでに着くと、そこの家に行くんでしょう。
そうしたら、すぐやったら良い。
できるだけ早いほうが良いですよ。祀詞を奏げてね。」
信者の質問
「信徒と一緒にするのは差し支えありませんでしょうか」
明主様御垂示
「差し支えないじゃない。結構です。
それは意味が違う。着いたときは、これからの御守護とお礼で、信徒と一緒のときは、信徒の御守護とお礼です。
神様のことは几帳面でなければならない。」
信者の質問
「帰りにはー」
明主様御垂示
「帰りには、無論お礼とーそこに滞在中のお礼と、信徒の今後の御守護と、それで構いません。
来たときも、信徒が集まっているなら一緒で良いが、そうでなく、行ったとき自分だけだったら、切り離すのが本当です。」
明主様御垂示 「御願事の数」 (昭和24年4月23日)
信者の質問
「神様にお願いいたしたいことがたくさんございますが、毎日いくつものお願い事をしても失礼には当たらないでしょうか。」
明主様御垂示
「いくらでもかまいませんよ。
いくらお願いしたって失礼にはなりません。
第一、失礼だと思うことが失礼ですよ。
神様は百でも千でもちゃんとお聞き分けになるんです。
数は問題じゃありませんよ。
もし数が多くて差し支えるんだったら浅草の観音様なんて骨が折れてかないませんよ。
毎日何千て信者がお詣りするんですからね。」
明主様御垂示 「災難を失くす方法」 (昭和23年)
「光明如来様にお願いすれば避けられる。霊だけで済む。
大難は小難に祀りかえてもらう。
大難は小難、小難は無難にされる。
最も軽いのは夢ですまされる。」
明主様御垂示 「災難を小さく変えて頂くようお願いするのが本当」 (昭和24年7月30日発行)
信者の質問
「私は家業として建具製造業を営んでおります。
昨年十一月夢でサイレンの音が聞こえ驚いて起きてみますと、工場の残り火から出火して危く大火事になるところでしたが大急ぎで消して事なきを得ました。御守護を厚く御礼申し上げます。
近来頻繁にかかる災難がありますがいかなるわけでしょうか。」
明主様御垂示
「災難ってのはね、だいたい人間には決まってるんです。
ちゃんとその人はそのときに災難に会うように決まってるんです。
そこで大難を小難に、小難を無難に変えていただくようにお願いするのが本当ですね。
この人はしかし、まだ無難にするだけの御利益をいただいてないんです。
だんだん徳を積むと無難に変えていただけるようになりますよ。
一番無難に変えていただくのは夢ですませていただくんです。
本当は死ぬべきところを、夢で死ぬ形をするだけですむことがあるんです。」
明主様御垂示 「御神体祈願により火災も小さい型だけで済む」 (昭和24年2月27日)
信者の質問
「今月七日の御面会の時、火柱は火災の前兆の場合もあるとお教え下さいました。
そういう火柱の現象が表れてしまえば、どのようにしても火災は避ける事が出来ないものでしょうか。」
明主様御垂示
「避けられる。
光明如来様にお願いすると、霊だけですむ。
お蔭戴くと小さい型ですむ。」
明主様御垂示 「御神体祈願により火災も小難だけで済む」 (昭和24年3月19日)
「火災は先に霊界で焼ける。そして霊が体に映る法則により、現界で火事になる。
しかし、入信した人は大丈夫である。龍神がやる事もある。
祝詞を奏げ、光明如来様にお願いすれば大事に至らぬ。」
明主様御垂示 「優曇華の咲いた時」 (昭和24年6月28日)
信者の質問
「本年一月頃より、私の居間の天井に、二ケ所「ウドンゲ」の花がさきました。また今月初に店の入口の上に一ケ所咲きました。何か変った事があるのでしょうか。御伺い申し上げます。」
明主様御垂示
「日本ではうどん華を虫としており、動物という訳であるがこれは印度から渡って来た言葉で、インドでは本当は立派な花だという。
三千年に一度咲くとしてあり、これが咲くと大変吉い事があると言われる。
日本では不吉という。
そこの一家の霊界が曇ると、そういう微生物が湧くので、それが形に表われたのがうどん華である。
即ちその曇の浄化作用があるのであるから、災難や病気等が起る訳である。
故に普通の家で優曇華が咲けば、家の曇りと知って光明如来様によくお願いし、そういう行をする。
すると大難は小難になる。」
明主様御垂示 「井戸水が出ない場合の御祈願」 (昭和24年4月23日発行)
信者の質問
「私の村は井戸の少ない所で、現在では水の出なくなった井戸がたくさんございます。
この井戸の所有者は稲荷の信者ですが、このたびその娘が入信いたしました。
御浄霊により井戸水は出るようになりましょうか。
また水が出ますように、光明如来様にお願いしてもよろしいでしょうか。」
明主様御垂示
「ええ、なんにしろ、みんなが仕合せになることならなんでもお願いしていいですよ。
このお願いの仕方といっても、思うことを言ってお願いすればいいんで、なにも特別にやり方があるわけではありませんよ。・・・
これは水が出るようになります。
信者が多くなれば水が出るようになるわけです。
水を使うのは人間だから、いい人間が多くなればお恵みをくださるんです。
どうしても悪い人間の多いときは思うようには行きません。」
明主様御垂示 「就職と御祈願」 (昭和23年7月25日)
「光明如来様をお祭りしてよくお願いすると新しい職業を与えられる。観音様が見付けて下さる。職業紹介所より確かである。」
明主様御垂示 「転業と御祈願」 (昭和27年10月25日発行)
信者の質問
「私は昭和二十六年六月入信、大光明如来様、御屏風観音様、大黒様を奉斎させていただき、
昭和二十三年十二月より現住所にて砕石採取業を開設、本県各土木事務所を需要先として納入いたし、
作業人員一日平均二十人くらい使役して生産搬出に努めておりますが、
昨二十六年三月ごろ砕石工場の山の地滑りの天災をこうむり、砕石工場機械設備いっさい大破損を生じ、
幸い人畜には被害なく、その後ようやく復旧いたし、今日まで生産を継続しておりまして、
尊き御神業の御奉仕の万分の一端なりと努めさしていただき、
当甘木支部、金子先生のもとにて御浄霊御指導いただいておりますが、
私の経営の事業面が意のごとく進捗せず、
貨物自動車事故および設備の電動機クラッシャー、エアーコンプレッサーなど交わる交わる故障など多く、
なおまた税務署関係などは、こんな田舎に工場などの設備ない関係か、利潤の見込みを多額に要求され、
まったく工場閉鎖の一歩前の現状でございますが、
これもやはり私に課せられた罪穢の御浄化とでも申すものでございましょうか。
もしや不相応で他に事業転換の時期のお知らせではございませんでしょうか。
特別の御慈悲をもちまして明主様の御垂示御救い方賜りたく、謹んでお願いいたすしだいでございます。
次に私は昭和三年より昭和十五年まで、満十二年間県土木部勤務退職後福岡市に工務所を開設なし、一般土木工事測量設計業をなし、
その後二カ年間春日原占領軍司令官CRダグラス中佐のもと、ニックネーム「スピード」設計顧問として採用され、同中佐在日間仕えさしてもらい、引退の上現在の事業に着手今日に及んでおります。
以上参考まで申し述べさしていただきます。」
明主様御垂示
「現在の砕石業は、あなたには適していないから、転業したほうがいい。
そうして大光明如来様によくお願いするとあなたの心に次の業が浮かぶから、その通りやればうまくゆく。」
明主様御垂示 「職業の選択と御祈願」 (昭和24年4月23日発行)
信者の質問
「私は木工業と農業とを兼ねてやっておりますが、木工業に成功する見込みがありますでしょうか。(爆笑)」
明主様御垂示
「これはね、信仰に入ってよくお願いすればね、どちらかいいほうに決めてくださいますよ。
いったい迷っているときには、焦らずにお任せしていると、
ある時期が来れば、どうしてもそうしなくてはならないようなことになってきますからね、そういうふうにすればいいんです。」
明主様御垂示 「納税苦と御祈願」 (昭和24年6月28日)
信者の質問
「去る五月光明如来様を御祭りさせて戴き、色々御守護を戴きました。有難く御礼申し上げます。
税金の事で御伺い致します。私は昨年の申告二十五万円に対し五十万円の決定が参りました。
他家より借りて十万円を分納致しましたが、これ以上はトテモ払う事が出来ません。
税務代理弁護人を立て、行政裁判をしてはどうか、と勧められるのですがこの裁判は勝てるでしょうか。
私共は八百屋で御座いますが、今年の申告は昨年より四割多い予想と税務署より通知があり、一方商売は昨年より悪く、その申告をいかにしたらよいか悩んでおります。何卒御教示お願い致します。」
明主様御垂示
「渋井さんに聞いた方がいいであろう。
余り考えないで成行に任せた方がよい。
競売をして新規蒔直しにしてはどうか。
よく光明如来様に軽くして貰うようお願いすれば何とかして下さる。
私は借金差押の経験あり。」
明主様御垂示 「同居からの解放と御祈願」 (昭和24年5月26日)
信者の質問
「長男が亡くなりましたため、家族五人が弟の家に厄介になっておりますが、商売上別れたく思いますが、いずれにすべきや御教示下さい。」
明主様御垂示
「信仰してお願いすると、別れる方がいいよう、都合よくなる。」
明主様御垂示 「父親の大反対 相手が判るまで気長に待つべき」
支部の御神体に対する祈願の必要性
信者の質問
「二十八歳の女子三ケ月前より、及び二十六歳の女子七ケ月以前より心臓弁膜症にて臥床、この姉妹は共に夫戦死せしため子供を連れ親許に同居す。
なお二十四歳になる妹も同様になる一歩手前と思います。
この二人は医師の紹介にて約半ケ月の浄霊により現在戸外に少しく散歩出来得る程度になりました。
二十六歳の妹が入信したいのですが、父が大反対します。どうしたら良いでしょうか。」
明主様御垂示
「少し父の判るまで気長に待ってるとよい。観音様が機会をつくって下さる。教導所へ行って観音様にお願いする。」
明主様御垂示 「家族の信仰反対 支部の御神体に祈願すべき」 (昭和26年2月25日発行)
信者の質問
「五年前親のいうまま結婚(養子縁組)いたしましたが、結婚生活旬日にして夫が発病、結核療養のため実家に帰り、続いて私が湿性肋膜になりました。
そんなことより両家の感情が縺(もつ)れ、離婚話も出たまま今日に及んでおります。
幸い私はお導きにより御救いをいただきましたが、無神論者の夫は未だに療養生活を続けております。
父は無信仰者でこのお道に大反対でございます。
夫の家も私のほうも分家で同じ花菱の家紋で番地まで四三〇番と同じです。
それに見合いの日の朝病弱であった私の本家の祖母が死亡し、私は顔半面に腫れものができ、見合いがすむと急に治りました。
また私の最初の喀血は本家の法要の日であったことなども、なにか、かかわりがあるようで、霊術者の話では前世の仇同士の間柄であるとのことです。
私は夫を愛情のないままに、あくまで待つべきなのでしょうか。
父は離婚を勧めますが、夫が承知しないのです。
明主様が申される時の来るまで、お道のためにもならぬままに、じっとしていて良いものでしょうか。
私のとるべき道および、実の家にまつわる因縁などを御教示くださいませ。」
明主様御垂示
「いろいろ複雑な霊的因縁があるが、そういうことは、忘れるようにして考えないほうがよい。
ただ神様にお任せするとともに、よくあなたの希望を神様に心でお願いするとともに、できるだけ支部か分所へお参りして、光明如来様にお願いするのがよいのである。
そうして反対者がある場合、御神書または新聞、雑誌などを読んでもらうようにするのが一番よいのである。
しかしこれも無理ではいけない。
よいチャンスを狙ってそうすればよい。
右のようにすれば、必ず神様があなたの希望の通りに取り計らってくれるから心配の要はない。」
参考 明主様御垂示 「神様事には言霊が重要」 (昭和23年5月18日)
「以前ある家に行ったら、神棚があり、どうも気にかかるので家人に訊ねたら、
金光教の神様だがいまはあまりお祀りしてはいないというので神様にきいてみると、早く帰りたいのだが手続きしてくれないので帰れないと言ったことがあります。
やっぱり言霊で称えてもらわねば帰れないんです。そういうものですよ。
言霊を称えずに社を焼いたりすると神様の居所がなくなるので宙ぶらりんになってしまう。
ですから言霊は大切なんです。
また階級が厳然たるものだから低い地位に観音様をお祀りしても観音様は来られない。
なにか神様をお祀りしたくなくなったら、それはやはり知らせなんだからよくお祀りしてお帰りになってもらったほうがよい。」