礼拝について


明主様御垂示 「朝夕拝は霊の掃除」 (昭和23年)

信者の質問
「(一)御軸の前に御簾を備えつけて朝は上げ、夜は下してもよろしいでしょうか。

(二)その場合夜の礼拝と月例祭の時は御簾を下げたままで宜しいでしょうか。」


明主様御垂示
「(一)それでよろしい。

(二)上げなくてはいけない。

朝夕の礼拝は霊の掃除である。」




明主様御垂示 「礼拝中温かくなる」 (昭和24年11月7日)

信者の質問
「朝夕の御参りの際に祝詞、善言讃詞が済み御讃歌を奉誦させて頂いておりますと、下腹部からボーッと熱く全身がほてって来ますがどういう解でございましょうか、お教え下さい。」


明主様御垂示
「光明如来様から御光を戴くのである。」




明主様御垂示 「礼拝の作法」

信者の質問
「祝詞の場合

日月地の大御神・・・

惟神霊・・・

とおあげいたしますか、それとも

日月地の大御神・・・

大光明如来・・・

惟神霊・・・

とおあげいたしますか、

またお仏壇にお詣りの時、祝詞または善言讃詞の後に、幽世の大神守り給へ幸へ給へと申し上げるのですか、その場合拍手は三拍手でしょうか。」


明主様御垂示
「光明如来から日月地大神になられる。光明如来は仏である。

仏は夜になるから、夜は大光明如来の御名を称える。

神様は朝になるから神名は朝お称えする。

そしてお祈りの時は両方奏上するのである。

仏壇は「幽世大神守り給へ幸へ給へ」だけでよい。

祖霊を拝する場合の拍手は二拍手である。体がないからである。

人間は神幽現の三界に呼吸しているからすべて三つになるが、祖霊の場合は神幽のみになる。

今迄は四拍手であった、これは夜の世界であったので日がなかった。

それを今度は日が出て昼になったから三拍手となる。」




明主様御垂示 「礼拝の作法」 (昭和24年6月3日)

信者の質問
「礼拝および祝詞奏上について

「(一)霊的の病人に天津祝詞を上げてよいとうけたまわりましたが、祭事の際、御神体にも天津祝詞を奏上してよろしいでしょうか。」

明主様御垂示
「よござんすよ、祝詞を上げて。

それから拍手を打ってもいいけど、もっと静かに打ちなさい、あるかないかくらいにね。

あの強く叩くのは騒々しくていけない。

信仰の深い人は静かに拍手を打つし、信仰の薄い人は強くやるっていう・・・妙なもんですが、こういう傾向がありますね。

大勢で拍手を打つと大きな音になりますからね。

やはり、近所が桐密な所なんかでは近所の人の耳障りになりますからね、軽くそっと打つようにしなくちゃいけない。そうするんなら打っていいですよ。」


信者の質問
「(二)霊的症状のときは天津祝詞だけでよろしいでしょうか。」

明主様御垂示
「そうですね、・・・天津祝詞だけでいいですよ。」


信者の質問
「(三)礼拝の際、

一揖二拝三拍手一拝、その形より祝詞奏上、終わりは平伏より戻り三拍手二拝一揖、続いて、一揖二拝三拍手一拝、

その形より善言讃詞奏上、終わりは平伏より戻り三拍手二拝一揖、続いて一揖二拝一揖、御讃歌奉唱、一揖二拝一揖、

現在右のようにいたしておりますが、これでよろしいでしょうか。」

明主様御垂示
「ずいぶんややこしいですね。(笑声)ま、いい加減でいいですよ。

そこは常識を働かせて、敬意を失しない程度にすればいいですよ。」


信者の質問
「いままでは平伏のときにお願い事をさせていただいておりましたが、ただいまはその時間がございませんが、これは・・・」

明主様御垂示
「大勢のときはお願いなんかしないほうがいいですよ、時間がかかってしようがないから。

ふだん必要なときにお願いすりゃあそれでいいですよ。

こっちは神道じゃないんですからね、神主的意味でごていねいにやらなくていいんです。

この道は神道でもあり、仏教でもあるんですからね。

拍手にしたって坊さんは拍手を打たないでしょ。

だからそこんとこは臨機応変にすればいいですよ。ただ敬う形は崩さないようにね。」


信者の質問
「以前は一揖一拝でしたが、やはり二拝がよろしいでしょうか。」

明主様御垂示
「一揖二拝がいいですね。一拝はいけません。・・・

中国人なんか三拝九拝って言って、まったくていねいですね。」


信者の質問
「(四)天津祝詞奏上の場合、最後に、「日月地大御神守り給へ幸倍賜へ」と奏上いたしておりますのに、

善言讃詞の場合「大光明如来守り給へ幸倍賜へ」とは奏上いたしておりませんが、なにか意味がございましょうか。」

明主様御垂示
「善言讃詞のときも言葉で言わねばいけませんよ。これは間違ってます。」


信者の質問
「奏上いたしたほうがよろしいのでしょうか。」

明主様御垂示
「ええ、そうですとも。」


信者の質問
「(五)仏壇への拍手はいたしてもよろしいのでしょうか。」

明主様御垂示
「よろしいですよ。静かにやればかまいません。」




明主様御垂示 「礼拝の作法」 (昭和24年6月13日)

信者の質問
「礼拝の仕方について

御神体の直前に御開眼をいただきました木彫の観音様をお祀り申しておりますが、これはよろしゅうございましょうか。」

明主様御垂示
「これはこの観音様を、光明如来様の前に置くんなら差し支えないですよ。」


信者の質問
「礼拝の際、御神体を拝することによりこの観音様にも一緒に敬意を表わしている・・・との考えから、特に観音様のお像に礼拝いたしておりませんがよろしいでしょうか。」

明主様御垂示
「これはいいですよ、一緒に礼拝することになりますから。」


信者の質問
「ただこの場合、大黒様に礼拝して観音様のお像には礼拝しないことがちょっと変に感じますがいかがでしょうか。」

明主様御垂示
「それはかまわないですよ。なんとなれば、光明如来様と観音様とは一緒なんだから。別々と考えるほうが間違っているんです。」


信者の質問
「礼拝の際、せっかく浄めた手を汚さぬようにと掌を上にする人もございますが上向きと下向きといずれがよろしいでしょうか。」

明主様御垂示
「これはどっちでもいいんです。

食物をお上げするときには、手が歩く所については汚いから上向きにしたほうが気持ちがいいですね。

しかし、下にしたからって御無礼にはなりませんよ。

神主なんかは、神様に物を上げる場合、掌を上向きにするようですね。」




明主様御垂示 「祝詞奏上方式の変更」 (昭和23年6月28日)

信者の質問
「以前天津祝詞は御先達一人で奏上し、御神名から一同で奏上いたしましたが、いまはこれをいたしませんがいかがでしょうか。」


明主様御垂示
「いまの祝詞は私がやらないからそれでいいわけです。」




明主様御垂示 「礼拝の際の合掌の意味」 (昭和24年3月13日)

信者の質問
「礼拝のときの合掌はどんな意味がありましょうか。」


明主様御垂示
「これは自然ですね。

いろいろ理屈をつけますがね、これはまあ自然にそうなるんですよ。

挨拶のとき頭を下げるのと同じですね。」




明主様御垂示 「礼拝の二拝」

信者の質問
「御礼拝の際の二拝はどういう意味で御座いましょうか。」


明主様御垂示
「本当は三拝が本当であるが略して二拝にする。

拍手さえ三つ打てばそれでいい。

二拝して軽く一拝する。

一揖二拝、これが正しい。九になる。ミロクの礼拝。」




明主様御垂示 「礼拝の作法」 (昭和23年6月28日)

信者の質問
「御軸に対しまして合掌してから頭を下げる人と合掌せずに頭を下げる人とありますが、いずれがよろしいでしょうか。」


明主様御垂示
「手を合わせてから頭を下げるほうがよい。」




明主様御垂示 「礼拝時の掌の向」 (昭和23年12月2日)

信者の質問
「礼拝の節、掌を上向にする事。または両掌を下向に揃へもしくは同じく下向にして両手の拇指と人指指で輪を作りて御辞儀を致す様式が御座居ますが、私共としてはいずれを用ゆべきでしょうか。」


明主様御垂示
「足で踏む場所へ両手を下向につくのは汚してよくない。上向の方がよい。」




明主様御垂示 「礼拝時の掌」 (昭和24年6月25日)

信者の質問
「礼拝の際、両手を付けて礼をする人と、笏を持ったような恰好で礼拝する人とがありますがどちらが本当でしょうか。」


明主様御垂示
「どっちでもよい。」




明主様御垂示 「合掌小指離れるのは」 (昭和23年12月1日)

信者の質問
「合掌する時等小指が自然に離れる人が御座いますが、これには何か意味が御座いましょうか。御伺い申し上げます。」


明主様御垂示
「観音様なども離れているが、別に意味はない。」




明主様御垂示 「拍手は静かな方がよい」 (昭和24年6月19日)

信者の質問
「礼拝の折、拍手は強いのと静かといずれが宜敷いでしょうか。」


明主様御垂示
「静かな方がよい。

強く大きく打つ人は信仰が薄い人が多い。

体的の考えになるんだと思う。

形式を尊ぶから、大きく打つのである。体主霊従になっている。」




明主様御垂示 「拍手の回数」 (昭和23年2月8日)

明主様御垂示
「天津祝詞は結婚式にはいりません。お祀りのときは上げなさい。」


信者の質問
「善言讃詞と祝詞と両方を上げます場合、日月地大神守り給へ幸倍賜へが重複いたしますが・・・」

明主様御垂示
「重なってもかまわない・・・仏壇には拍手を三つ打つ。

神道では五十日祭までは拍手の音を立てないが、こっちでは音を立ててかまわない。

仏は現界でないから二拍手が本当かもしれませんが正式は三拍手、日月地だから三がよい。

いままでは地がなかったんですから・・・(後半省略)」

(註 この御垂示では仏壇の拍手が三回になっているが、昭和26年8月8日の御垂示では二回になっている。明主様信仰団体では一般に、時系列で後に位置する昭和26年8月8日の御垂示を採用し、仏壇への拍手は二回としている。)




明主様御垂示 「拍手の回数」 (昭和26年8月8日)

信者の質問
「仏壇の拍手はいくつでございましょうか」


明主様御垂示
「二つです。霊界は、「神幽現」の「現」はないから二つです。

御神前の場合は、神道では四つですね。二つずつ二回やる。

坊さんでもあるが、あれは今まで六と七だけだったからです。

ところが今度は五が増えるから、メシヤ教は三つにする。」




明主様御垂示 「拍手の回数」

信者の質問
「御神前の御挨拶は三拍手で、祖霊様の御挨拶は二拍手ですのはいかなる訳でしょうか。御伺い申し上げます。」


明主様御垂示
「神様は三拍手、祖霊は体がないら二拍手。

大黒様は土の働きをするから三拍手である。」




明主様御垂示 「御神体礼拝時の御神名は五六七大御神」 (昭和25年5月18日)

信者の質問
「御浄霊の際、天津祝詞の後に五六七大御神守給へ幸倍へ給へ、惟神霊幸倍座せと申し上げて宜敷う御座いましょうか。

なお霊的のように思われますような場合には、幽世大神守給へ幸倍給へ、惟神霊幸倍座せと申し上げて宜敷う御座いましょうか。御伺い申し上げます。」


明主様御垂示
「御神体に向っては幽世大神は絶対にいけない。

五六七大御神の一部が幽世大神である。

幽世大神と唱えるのは五六七大御神を侮辱している事になる。

霊的の病人に向ってなら構わない。」




明主様御垂示 「御神名の唱え方」 (昭和24年12月23日)

信者の質問
「朝夕の御礼の時、大先生が御先達下さいました頃は御神名奏上の時、

例えば『大光明如来守り給へ幸へ給へ』と一度切って一息ついてからまた『大光明如来守り給へ幸へ給へ―』と最後の語尾を引いて非常に荘重な感じで御座いましたが、

ただ今はこれを、「大光明如来守り給へ幸へ給へ、大光明如来守り給へ幸へ給へ」と一息に奏上するため息苦しく、自然御神名奏上になってから早口になり、最後の語尾もポッキリ切って終い非常に忙しい感じで荘重さを欠くように感じますから

以前のように奏上させて頂きたいと存じますがいかがで御座いましょうか、御伺い申し上げます。」


明主様御垂示
「何度でも切ってよい。楽にすればよい。敬しく、敬虔の気持でやればよい。」




明主様御垂示 「惟神霊幸倍坐せの発音」 (昭和25年3月18日)

信者の質問
「「惟神霊幸倍坐せ」をお称えする場合、「カムナガラ」と「カンナガラ」とどちらの発音が正しいでしょうか。」


明主様御垂示
「これはどっちでもいいですよ。

強いて言えば、「カム」のほうが正確ですけどね、

しかし「カン」のほうが言いやすいからそれでもいいんです。

だからどっちでもかまいませんよ。」




明主様御垂示 「朝は天津祝詞、夕方は善言讃詞」 (昭和23年2月18日)

「これからは朝の礼拝は天津祝詞、夕方は善言讃詞を上げる。

神は昼、仏は夜だから。昔から天子様のおられる所を朝廷という。

これは政治のための会議を朝やったからです。

いまの政治は朝廷ではなく晩廷ですね。
 
仏壇には祝詞はいらない。

「幽世大御神(かくりよのおほみかみ)守り給へ幸倍賜へ」と「惟神霊幸倍坐せ」の二カ所だけでよい。

特別のお祀りには両方上げたらよい。」




明主様御垂示 「朝は天津祝詞、夕方は善言讃詞」 (昭和24年6月9日)

信者の質問
「月例祭及朝夕の礼拝と御仏前の礼拝につきまして口頭にて御伺い申し上げます。」


明主様御垂示
「朝拝は天津祝詞、夕拝は善言讃詞でよい。

仏前へは幽世大神守給へ幸倍給へ、惟神霊幸倍座世だけでよい。」




明主様御垂示 「祝詞と善言讃詞の時間的区別」 (昭和23年8月8日)

信者の質問
「祝詞と善言讃詞とを奏上する時間的区別はございましょうか。」

明主様御垂示
「別に時間的区別はない。

神は朝、仏は夜で日本は朝の国です。

朝廷とは、政治の相談を朝したことから出た言葉です。

画でも日本画は朝日を画くが、西洋画では夕日が主です。」


信者の質問
「昼間遠方から到着した場合にはどちらをお上げいたしましょうか。」

明主様御垂示
「その場合はそれほどていねいにしなくてもよろしい。」




明主様御垂示 「千手観音様のお参り」 (昭和27年5月1日)

信者の質問
「千手観音様のお参りは、朝は天津祝詞、夜は善言讃詞でよろしいのでございましょうか」


明主様御垂示
「良いですよ。」

(註 アパート等の集合住宅や床の間のない洋館に奉斎する準御神体的な意義づけの十一面千手観音様(複製)のお掛け軸のことであると思料される。)




明主様御垂示 「外泊地での遙拝」 (昭和24年10月28日)

信者の質問
「外泊してその家に御光明様の無い時は、東に向い念彼観音を三唱二回いたしておりますがそれでも宜敷う御座居ましょうか。」


明主様御垂示
「これでよろしい。」




明主様御垂示 「開拓布教のため御祭出来ぬ」 (昭和25年2月17日)

信者の質問
「現在京都市に居住し光明如来様を御祭させて戴いておりますが、家族三名にて母と私は他府県に開発のため出張、妹は教導所の方に泊り込みで御奉仕させて戴いております。

そのため家族皆留守の事とて光明如来様の日々の御祭もさせて戴けません(月一回程帰ります)が、このような場合どうさせて頂いたら宜しゅう御座居ますか。御教示下さいませ。」


明主様御垂示
「開拓のために留守になるなら反ってお喜びになる。お断わりしておくとよい。」




明主様御垂示 「治療のときの祝詞は天津祝詞」 (昭和23年2月18日)

信者の質問
「地鎮祭はどういたしましょうか。」


明主様御垂示
「地鎮祭の祝詞はできてます。

これはやったほうがよい。

これをやれば霊界で神の許しをうけることになり、浄められて障りが消える。

祭服を着てやる。習う必要があります。


治療のときの祝詞は天津祝詞でよい(幽世大神・・・三回)。

相手が合掌できるならさせたほうがよい。


仏壇の線香や鐘はいままでのようで結構です。

神道では神さえ祀れば仏はどうでもよいとしているがこれはいけない。

特にキリスト教は先祖を祀らないから不幸です。

病人や死人がよけい出ます。

山室軍平なんかはいい人でしたが不幸だったですね。

実に哀れです。祖先を祀らないから祖先が怒るんです。

西洋は霊界も東洋と違っており、また生きているときからそういうふうに教育されているからかまわないが、東洋の霊界は縦で層をなしています。西洋は横です。」




明主様御垂示 「重病のときの祝詞」 (昭和23年3月28日)

「重病のときの祝詞は幽世大神と称えたほうがよい。」




明主様御垂示 「布教所到着の礼拝について」 (昭和26年11月5日)

信者の質問
「出張所をやらせていただく場合に、着きましたと同時に、お参りさせていただくべきでしょうか。

信徒が一番集まるのは、一時か二時ですが、そのとき一緒にすべきでしょうか」

明主様御垂示
「それは、そこまでに着くと、そこの家に行くんでしょう。

そうしたら、すぐやったら良い。

できるだけ早いほうが良いですよ。祝詞を奏げてね。」


信者の質問
「信徒と一緒にするのは差し支えありませんでしょうか」

明主様御垂示
「差し支えないじゃない。結構です。

それは意味が違う。着いたときは、これからの御守護とお礼で、信徒と一緒のときは、信徒の御守護とお礼です。

神様のことは几帳面でなければならない。」


信者の質問
「帰りにはー」

明主様御垂示
「帰りには、無論お礼とーそこに滞在中のお礼と、信徒の今後の御守護と、それで構いません。

来たときも、信徒が集まっているなら一緒で良いが、そうでなく、行ったとき自分だけだったら、切り離すのが本当です。」




明主様御垂示 「明主様御尊影に先に礼拝すべき場合」 (昭和26年8月8日)

信者の質問
「天井が低い場合御写真を奉斎させていただきますのに、床の中はいけないでしょうか」

明主様御垂示
「いけないですね。小さい御写真にすれば良い。」


信者の質問
「御写真と御神体はどっちを先に礼拝すべきでしょうか」

明主様御垂示
「御神体です。

それから病気とか、いろんなお蔭をいただくときは御写真を先にする。

やっぱり時期によってそうするんです。

今の時期は光明如来様が御神体として最高としてする。」

(註 御神体と明主様御尊影の奉斎方式が二位一体になる以前の御垂示であると思われる。)




明主様御垂示 「礼拝時の雑念」 (昭和24年11月18日)

信者の質問
「光明如来様にお参りして無念無想の気持で善言讃詞及御讃歌を奉唱しようとしても、雑念が浮んだりアクビが出たりして一心になる事が出来ません。

これは邪神の邪魔があるのでしょうか。または家庭の曇りの為でしょうか。本人の曇りが多いためでしょうか。

いずれにしてもどうしたらいいでしょうか。御教示下さい。」


明主様御垂示
「こういう考え方は大変な間違いである。人間はあるがままでいい。大乗でなくてはいけない。無念無想は無理である。

特に祝詞を奏げる時は雑念が浮ぶ。浮んではいけないと思うのが雑念で、そんな事思わぬのが無念無想である。雑念はそれでいい。やむを得ぬ。」