話し方について
明主様御講話 「話し方について」 (昭和27年1月6日)
「話をする前にちょっと、今車の中で気のついたことがあるので・・・あまり、滅多に話をしないことを・・・ちょっと為になる話と思うので、その話を先にしますが・・・
私はよく映画を見ますが、その時に・・・アメリカ映画ですね。
その言葉が字幕に書いてありますね、あの言葉が、実に洗練されているんですよ。
日本人の言う言葉よりね。
いつも、私は感心するんですが、それを考えてみると、日本人の言葉がまことに洗練されていないんですね。
だから、信仰者として人に話をする場合も、洗練された言葉を使うように心掛けるんです。
これはある程度実現できるんです。
というのは、洗練されると言いますと、急所を言うんですね。
あまり無駄とか、ずれた事は言わないんです。
実際に事実によく合っている事柄の表現を、上手く言い現すという事ですね。
これは法なんです。
法に適うとか、法があるとかいうのは、言い換えれば道なんです。
道にはずれないように、道に合うようにというのは、それなんです。
これは、ひとり言葉だけではない。
挙動から態度、考え方、行う事が、みんなそれにはずれないようにいくんですね。
たとえて言えば、人の家に行って格子を開けて、玄関に上って挨拶をし、それから部屋に座って、そこの家によって・・・
相手によって、座り方も話の仕方も、やはり違わなければいけない。
話でも、招かれた場合の態度と話もあるし、それから先方に、こっちの都合で行って話をするのと、それから話の内容ですね。
先方に対する言い方から、受け入れさせ方・・・そういうこともやはり法があって、でたらめではいけないですね。
一番困る事は、自分の言いたい事を言って、先方に喋らせない人がありますが、これがもっともいけないですね、
話し上手より聞き上手 ・・・で、相手の話を充分聞いてやって、それに応じてこっちが話をする。
そうすると、先方は気持ち良く、話し合える。
それから大勢の話の場合に、人が話をしている時に、口を入れる・・・
ひどいのになると、大きな声で、先方の話を打ち消すようにするんですね。
その代表的なものが、日本の議会ですよ。喋っていると、打ち消すようにする。
それから、地位のある人の会合ですね。
大きな声で、喋っている人の話を打ち消す・・・ああいうのは悪いですね。
そういうのは、歩き方にも態度にも、一切法があり道がある。
そうして道も・・・相手によって色々違わなければならない。
女は女に、年寄りは年寄りに、インテリはインテリらしく、平凡な人は平凡に、と合わしていく。
合っていく・・・これが応身の働きです。
そういう事がちゃんと・・・そう理想的にはいきませんがね・・・中々ね。
幾分でもそういう風に、合っていくと、その人の運命に非常に良くなっていく。
人に好かれないとか、人が賛成しないというのは、相手の罪ばかりではない、こっちにもあるんですよ。
一番ひどい・・・いけないのは、嘘をつくことでしょうね。
嘘をつくのも、悪意でなく一時的に嘘をつくのがあります。
一時的に嘘をつくと、相手が喜んだり感心したりしますからね。
つい大げさに言ったり、大掛かりに言ったりする。
そうすると、あいつがああ言うんだから、実際はこの位だろうと割引される。
私なんか、割引しますよ。
だから、たまたま本当言っても、割引されちゃって、つまらないですよ。
嘘をつかないんですね。
あの人がああ言うんだから本当だ。
と、その信用が大変なものです。
どうも、人が信用しないとブツブツ言う人がありますが、独りよがりだから、
他人でなく、自分にどこかやり方にいけないところがあるので、それを省みて発見しなければならないですね。
こんな事は、大して問題にする事もない・・・つまらないような事であるようで、肝腎な事ですね。
それから、愛嬌ですね。
空お世辞なんか言うが、あれもいけないですね。
信用に関わるんです。
あいつはああ言うが、腹の中はどうだか解らない、となる。一つの臭味がつきますね。
正直に言う事は、少しは先方を非難するような事でも、良くとられるものです。
私なんかも、随分ひどい事をいう事がありますよ。
しかしどっちかというと、先方を気持ち良くさせたいという気持ちで言うから、滑稽(こっけい)に言う。
それで、先方がああといって反省する。
そういうことになると、難しくなりますが、結局相手を気持ち良くさせるという事が肝腎ですね。
だから大勢の場合は、中にはいやな事や変な事を言って一座を白けさせる人がありますが、ああいうのは、ごくいけないですね。
人に快感を与える。
つまり、わざとらしくない・・・また正直に言うと良いものなんです。
こういう話は滅多に話をしない事ですからね。
一つのお説教的な事ですがね。
しかし、ある事によって気がついたんです。
こういう話も一ぺん話して良いと思ってお話するんです。」
明主様御垂示 「口の使い方の根本理念」 (昭和24年8月6日)
信者の質問
「無口の者は出世が遅れると言われておりますが、いかなる訳で御座いましょうか。」
明主様御垂示
「遅れる。口は喋舌るために出来ている。
それを使わぬのは本当でない。
ただ人の話も聞かなくてはいけない。
人の話も聞き、自分の口もきく・・・という風でなくてはいけない。
無駄に使うのは勿体ない。何か役をしないといけない。
神様の事など言うのも結構であるが、あまり固くなるから冗談もいい。
人を好い気持にする事が一番で、人を脅かしたり、悲しませ、滅入るような事を言うのはいけない。よくある事である。」
明主様御垂示 「相手の好むようなことを話す」 (昭和24年4月20日発行)
信者の質問
「法身(ほっしん)、報身(ほうしん)、応身(おうしん)について。」
明主様御垂示
「報身―地―釈迦、法身―月―阿弥陀、応身―日―観音となり、観音が一番上である。
法身は水の働きのみで彼世(あのよ)のことが主である。
この世の救いよりは霊界すなわち浄土へ救うのが眼目である。
阿弥陀は西方へ浄土を作って、仏すなわち覚者となったものを我方へ来るようにと釈迦に誓った。
よく寂光の浄土と言うが寂光とは寂しい光すなわち月の光で月の霊界である。
報身は地になるから下であるが、ある場合上になることもある。
それは観音や阿弥陀を生んだからその母ということにもなる、親が子を生むというが、子が親を生むともいえる、つまり子ができて初めて親という名が生まれる。
応身は一番働きが大きいんで、三位の働きを一身でなされるのである。
応身とは種々の面に応ずることで一つものに捉われない、それで六観音三十三相に化身されるのである。
なにごとも融通がきかなくてはいけない。
相手が固苦しければこちらも固く、さばけておればこっちもさばける、相手により自由に応身する。
ちょうど玉が転がるようにいささかも角があってはいけない。いわゆる円転滑脱である。
女には女に向くよう、男なら男に合うようにその相手の好むようなことを話してやる。
ところが世の中には自分の好きなことを相手に押しつけ従わせようとする。
これは応身ではないから嫌われる。
またこっちから話するより相手の話を聞くほうがよい。すなわち話上手より聞き上手になることである。」
明主様御垂示 「相手によって話す内容を変える」 (昭和26年11月5日)
信者の質問
「小乗的な行き方を反省いたしますと、親切すぎるくらいにヒント与えているということになりますが・・・」
明主様御垂示
「結構ですが、その場合に、堅っ苦しい戒律的はいけない。
道徳的ですね。少しは良いが、あれにこだわりすぎてはいけない。
だから、言うに言われないんですね。
それから、相手によって違わなければならない。
だれもかれも同じではいけない。
相手によって、小さく言うこともあるし、中くらいに言うこともあるし、大きく言うこともある。
それが応身の働きですね。
信仰だって、相手に理解し得るようにね。
インテリはインテリらしく、普通の人は普通に、女子供は分かりやすく単純な話ですね。
人によって違わなければならない。
その修行ですよ。
だから、なんでも、一番いけないのは、決めるのがいけない。
こうだと、決めちゃうと、真理からはずれちゃう。
そうかと言って、ぜんぜん決めなくて、でたらめでもいけない。
決めるべきものは決める。
決めていけないものは決めない、事に応じて千変万化にする。
それが自由無碍です。
法律というのは、定めるから悪人が出る。
これは罪になるということを定めちゃうから、それに触れないことは罪にならないということになって、法律をくぐることになる。
お医者でも、これはこういう療法でやる。
あれはこうと定めるからいけない。
つまり真理は一つです。
だから決めることができないし、決めないことはいけない。
決めて、また決めない。
それから、はっきり言ってもいけないし、はっきり言わなくてもいけない。
つまり、わけが分からない。
そこに、一つのコツを見出すので、それが最高の信仰です。
だから、そこにいくと、ほとんど口には言えない。覚りですね。」
明主様御垂示 「人を見て法を説け」 (昭和27年12月1日)
信者の質問
「もう一つは、人間の目で見ましたところでは、ああいう人、こういう人ということがございますが、
一番はっきりしていることは、一万円と二万円は誰にでも分かります。
それから期間で、その連続が一番お蔭をいただくというわけでございます」
明主様御垂示
「そうです。はっきり分かるのです。だから要するに理屈は簡単なものです。
ややこしいことはありません。むしろ簡単なために分からない場合がよくあるのです。
こうして(御浄霊)病気が治るということと同じです。
医者が大騒ぎをして治らない、こうして治るものか、と。反って簡単すぎるために分からないことが多いのです。
それは今までややこしい面倒臭い世界に住んでいたからで、ちょうど薄暗い所に住んでいたから見えないが、明るいとすぐ見えるのです。
それが霊的であって物質的でないから、すぐに分からない。
従っていろいろと分かりにくいわけです。
それが一つの仕事というわけです。
だからその人によって、話で分からせるのの上手下手と言うか、急所ですが、さっきも言った通り急所を見るのです。
この人にはこういうことを言えば分かる、しかしまた人によって違うのです。
この人にうまく言ったことを他の人に言っても分からないのです。
人を見て法を説けということです。
それは別に考えなくても自然になるものです。
その人の心が素直になって、要するに邪念がなくなると、自然にその人の急所に行くようになるのです。
それがそうならないということは、その人に我があったり邪念があって、自分が喋ろうということになるから、それでスーッといかないのです。
この教えは応身というのですから、先方に応ずるようにすると、ちょうど先方に触れるような話になってしまうのです。
これはなかなかやさしくて難しいのです。それが一つの修行です。
そこに行くようにだんだんやることです。
そうすると急所にいくから、先方でなるほどと心が動くというわけです。
だから頭が良いとも言えるし、霊位が非常に高くなるとそうなるのです。
むやみに喋っても割合に効果がないのがありますが、鉄砲打ちの名人みたいなもので、一発であたるのと、散弾などをバラバラ射って、やっと一つあたるというのと同じです。」
信者の発言
「やはり叡智(えいち)と濁智(だくち)でございます」
明主様御垂示
「そうです。そういった味わいはおもしろいものです。
あんまり喋ってはいけないし、喋らなくてもいけないし、時と場合によって千変万化自由無碍というわけです。
だから一つの学問みたいなものです。
ただこのほうの学問は世の中の学問とは違うわけです。
こっちは高級なのです。大学以上です。
だからそういうふうになれば、どんな学者や大学の先生でもちゃんと先方で頭を下げます。
私は高等小学だけみたいなものですが、先方は大学の先生でも頭を下げて来ます。これはその一つの見本です。」
信者の発言
「先日秦さんという作家の人が、明主様にお目にかかりました後で私のところに来まして一時間半くらい話しましたが、
今日は来て良かったと非常に喜んでおりました。
その場合にもどんな人と会いましても、相手が感心するようなことを話させていただけ、一歩上のことを言わしていただけますことは、実にありがたいことでございます」
明主様御垂示
「それはそうです。世界が違いますから。」
明主様御教え 「再びベルグソンに就て」より (昭和26年7月18日発行)
相手に合わせて話しをする
「(一部のみ引用) 万物流転と少しもズレル事なく、千変万化する事が観世音のお働きでもある。
観世音の別の御名である応身弥勒とはその意味で、
応身とは身をもって応ずる、すなわち外界の事物に対し、自由無碍に応ずる事である。
無碍光如来の御名もその意味に外ならない。
判り易く言えば老人に対しては、老人に合うような話をし、婦女子には物柔らかく、智識人には科学的に、一般人には常識的平凡にするというように、
いかなる人にも話す場合、先方が理解し、興味が湧き、快く聞くというようにすればいいのである。
この方針で信仰を勧めるとしたら、案外巧く行くものである。」 (全文は「プラグマティズム・直観の哲学」のページ)
明主様御講話 「話し方について」 (昭和26年11月15日)
「よく・・・女に多いですが、のべつまくなくべらべら喋るのがありますが、これは狐が喋るんです。
何を喋ったか解らないような・・・それが良くありますがね。
まくし立てて、人に喋らせないですね。
話でも、人に話させないようにするのは狐霊と思って良い。
話は聞かなければならないですね。
だから昔から「話上手に聞き上手」というのがありますからね。
しかし、聞くだけで・・・感心したり、解ったなと思うと、案外解らない。
そこで、一番良いのは、人の話は良く聞いて、隙が出来たら、こっちの話をする。
それからもう一つ受け答えですね。
受け答えが満足にできる人は、外国人には案外多いですが、日本人には割合ないですね。
受け答え・・・返事が急所を外れる人が多いです。
聞こうと思う所にぶつからないで・・・それは聞き手のまずい場合もありますが・・・私なんか、何か聞いたり話したりしても、
それに対する受け答えが満足な事はめったにないですね。
それでその人が頭が良いか悪いか一番分りますね。
男には割合多いが・・・女の方にはまことに申し訳ないが・・・非常に少ない。
それから、話術・・・術ではないが、話したり聞いたりする処置ですね。
これは大いに勉強しなければならない。
と言うのは、間ですね。間が非常に肝腎な事です。
先方で・・・話なら話を聞く事がありますが、中には間髪を入れずに聞くことがあるし、それから順々という事があるし、その一つの調子ですね。
まあ、芸術みたいなものですね。これは大いに勉強するんですね。
どこまでも簡単明瞭に言う。それから急所をつかむんですね。
ですから、相手の様子ですね。興が乗って、耳をそばだててくるか、あるいはたいして・・・先が聞きたくない・・・興が乗らない時は止してしまう。
それで、趣味とか聞きたいことを洞察してしまう。
こういう煩悶があるというのだから、こういう解答をする。
この人には、こういう喋り方なら解るだろうとか、インテリならインテリ・・・普通人なら普通にと、立て別けなければならない。
これは大変な芸術なんです。そこで、環境、空気、一人対一人、二、三人と話す時に、多勢に言う場合、土地の習慣あるいは、一つの色がありますね。
九州の地方の人と北海道の人は違いますね。
九州は、昔から古い人がいて・・・なかなか、九州魂というのがありますからね。
それから、北海道というのは、移民ですからね。
移民というのはおかしいが、地付きの人というのが少ない。
地付きと言うのはアイヌですが、皆こっちから渡った人ですからね。
そういう人は色がありますからね。
東北の人、上方の人、江戸っ子・・・皆違いますからね。
それに対する色んな言い方・・・やり方がある訳だからね。
そうなると難しくなるが、そんなに難しく考えなくても・・・そんなのがある訳ですね。
それから物事を難しく考えてはいけないし、単純に考えてもいけないですね。
どうしてかと言うと、考えすぎて結果が悪い事があるんですね。
だから出来るだけ単純にですね。
私なんかも難しくなる事があるが、ごく単純に考える。
そうして、あとは神様に任せるんですね。
だから始終気が楽です。
人間は気が楽だと良い考えが浮かぶんです。
気が楽でないと、良い考えが浮かぶ余地がないんです。
ですから、始終頭の中を空っぽにしておくと、良い考えが浮かびやすいです。
それから良い考えと言うのは、正守護神がヒントを与えるんです。
神様は、人間に直接と言う事はない。正守護神に知らせて、それから来る。
ところが頭に一杯あると知らせても・・・アンテナが、働きが悪いんです。
だから、良い考えが浮かばない。
というのは、そういう訳ですね。
これは、一種のインスピレーションみたいなものですが・・・始終、ゆったりした気持ちでね。
ところが、色々な心配事や、気にかかる事があると、そうはいかない。
ところがやりようによって、そうではない。
私は、昔はよく気になる事が、色々あると、他の事は頭に入らない。
ところが段々信仰に入って、そういう事は、神様にお任せしてしまうというと忘れちゃう。
これはそういう癖をつけちゃうんです。
一種の修行ですね、よく他の人が、色々な心配事を言うが、私は笑っているので、びっくりしてしまう。普通の人では、それが出来ませんよ。」
明主様御垂示 「教導の必要から言う、嘘、怒りの言葉、泣言の相槌、お世辞等」 (昭和24年6月13日)
信者の質問
(一)「こちらの発する言葉が相手を益すると思われる場合には、嘘、怒り、泣き言の相槌(あいづち)などの言葉を発してもよろしいでしょうか。」
明主様御垂示
「嘘はしかたないですね。
「私の病気はどうでしょうか」と訊かれて、
「あんたのは絶対治りっこありません」って言ったんではガッカリしますからね。(笑声)
「治るから安心しなさい」って言うのは、嘘であってもいい嘘ですよ。
怒りは、天下国家のための怒りならいいが、個人的のはいけませんね。
また、怒りを行動に表わすのは勿論いけない。
第一、そんなことは益がありませんよ。
よく子供をぶつ人がありますが、そうするとその子供はまた他の子をぶったりすることになるんです。
けれども、どうしても怒らずにはいられないときもありますよ。
それを我慢してると精神病になる。(笑声)
女の人なんかにもおやじに叱られたり、誤解されたりしてボーとなることもありますね。
だから、そこは臨機応変にしたらいいんですよ。
嘘や怒りも原則としていい働きのものならいいんですが・・・
しかし、この道を宣伝して人を信仰に入れようとする場合に、
目的のためには手段を選ばぬ人がありますが、こんなのはいけませんよ。
やはり神様のことはどこまでも正しくやらなくちゃあ。
本当のことであり、ありがたいことだから信仰する、っていうのが正しいんです。
まあ、嘘が言えないようになるのが本当ですね。
泣き言の相槌、これは打つべきですよ、その人の慰めになりますからね。
しかし、これも程々ですね。あんまり相槌ばかり打ってたんではこっちもつらいですからね。
そういうときにはね、こっちが先に急所をポンと言ってやるんですよ、そうすると相手も泣き言をやめますよ。
つまりね、誠をもって神様にお任せしてやれば、そのときにちょうどいい適切な言葉が出ますよ。
だから、心配する必要はありませんね。」
信者の質問
(二)「神様からご覧になった場合の良否は判らなくても、自己の所信を表現する場合の言霊はどうなりましょうか。」
明主様御垂示
「神様からご覧になって・・・と言っても、これも程度問題でね、良否は判らないと言っても、
まあたいていは常識で誠をもって見れば判りますよ。
ただ、大乗の善と小乗の善とが間違いやすいんです。
大乗ばかりでも困りますが、戒律なんかは小乗で、戒律があるから悪いことをしないって言うのは本当じゃない。
警察があるから悪いことをしないっていうのは、檻があるから噛みつかないのと同じことです。
檻がなくても噛みつかなくなって初めて本当ですが、まだそこまで人間がいってないんで檻をなくすわけにはゆきませんがね。」
信者の質問
(三)「お世辞の言葉、虚勢を張るための言葉、自己を卑下するための言葉などはいかがなものでしょうか。」
明主様御垂示
「お世辞はいいですよ、相手をいい気持ちにするんだから結構です。
しかし、お追従になると、これはいけませんね。
つまり、うわべだけじゃ本当のもんじゃないんです。・・・
よく、しゃべるのが下手だから信者ができないって言う教導師がいますが、
しゃべるのがうまけりゃ信者ができると言うんなら講釈師を雇ったらいい。(笑声)
しゃべることじゃなくて、こっちの誠が相手に通じるんです。
だから、しゃべるのが下手でも信者のよくできる人がありますよ。
むしろそっちのほうが多いでしょう。
いつも感心するのは強請(ゆすり)は実に口がうまい。
そして実際口が効果を奏するもんだからまたそっちをやるんでしょうね。
その反対に話の下手な人は行動や効果で見せようとするんでしょう。
虚勢を張るのはいけませんね。人間はアク抜けしなけりゃいけませんよ。
「味噌の味噌臭きは上味噌にあらず」って言われる通りです。
自己を卑下するのはいいですね、「下座の行」って言ってね。
ある程度下座の行をするのはいいもんですよ。
いばってるのはかえって醜いもんです。
卑下しすぎるのも変だが、まあそれはあんまりないですね。
私でも先方が下手に出るといい感じがしますからね。」
信者の質問
(四)「言葉は簡潔なほうがよろしいと存じますが、時と場合により空気を和らげるために雑談や冗談を言う場合の言霊はいかがでしょうか。」
明主様御垂示
「冗談もうまい冗談はいいですね、人を笑わせるようにならなければ本当じゃないですよ。
うまい冗談は実際空気を和らげますからね。
まあ、事務的なことは簡潔なほうがいいですが、ふだんは冗談は大いに結構ですよ。」
明主様御垂示 「話し方について」 (昭和24年10月25日発行)
信者の質問
「言葉と言霊について。
(一)こちらの発する言葉が相手を益する場合には嘘、怒り、泣き言の相づちなどの言葉を発してもよろしいのでしょうか。
(二)神様からご覧になった場合の良否は判らなくても、自己の所信を表現する場合の言霊はどうなりましょうか。
(三)お世辞の言葉、虚勢を張るための言葉、あるいは自己を卑下する言葉などはいかがなものでしょうか。
(四)言葉は簡潔なほうがよろしいと存じますが、時と場合により空気をやわらげるために、雑談冗談を言う場合の言霊はどのようなものでしょうか。」
明主様御垂示
「(一)嘘はいけないがやむを得ない嘘もある。
また昔から天下国家のために怒るのは善いが、個人的の怒りはいけないとしている。
怒りを行動に移すことは勿論いけない。
そうかと言って怒りを抑えて精神病になる人もある。
怒り、嘘もすべて臨機応変である。
嘘にも善悪があっていい嘘はよい。
よく「入信しないと救われぬ」というような嘘はいけない。
神様のことはどこまでも真実でなくてはいけない。
目的のために手段を選ばぬということは非常に悪い。
泣き言に対する相づちはうたなければならない。
慰めるわけだからで、しかしそれには限度がある。
早く泣き言を打ちきるよう智慧を働かせるべきだ。
(二)神様のご覧になった場合と言っても程度問題である。
誠のあるほどいい智慧が出る。たいていは誠の心をもって、常識的に考えれば善悪はたいてい判る。
ただ大乗と小乗は逆の場合があるから注意すべきだ。
戒律宗教は小乗で、戒律によって悪いことを防ぐのは本当ではない。
戒律がなくても悪いことをしないのが本当である。
要するにこれも臨機応変である。
(三)これも程度問題で表面だけじゃかえって不快を与える。
相手に快感を与える程度にするのが原則である。
よく、しゃべるのが下手で、信者ができないと言う人があるが、話がうまくて信者ができるものなら講釈師でも頼んだほうがよい。
むしろしゃべるのが下手な人に多く信者ができる。
私は常に思うがユスリなどは実に話がうまい。
それで効を奏するからますます弁舌が発達する。
嘘が進歩する。誠の人はどうしても実行的で話は下手である。虚勢は嫌味である。
人間はアク抜けなくてはならない。
自己を卑下するのは下座の行で、ある程度はよいが、卑下しすぎることはあまり感心できない。
(四)冗談もうまいのは大いによい。場面をやわらげる。
人間は人を笑わすくらいに話術がうまくならなくてはならない。
事務的なことは無論簡潔がよい。」
明主様御垂示 「正直な嘘」 (昭和24年12月13日)
信者の質問
「少しの偽り事、隠し事等あってはいけないという事を御身を以て御諭し下さるため、今度新聞に出たような事があったのだと教えられましたが、他にも意味がございましょうか。」
明主様御垂示
「そんな事はない。
もし偽り言がないならば一日も人間生活は出来ぬ。
それ故、正直な嘘をつくようにせよ。
偽り言や隠し言でも善の結果になればよい。
先にイプセンの小説に隠し事をないようにする事にしようとして、夫婦で秘密をいい合った。
最後に夫人が自白したのは、夫を愛していない、今でも昔の人を愛していると言った。
それでやはり一家は秘密があった方がよいと言った。
要するに、結果において善ならよい。」
明主様御垂示 「善事のための嘘の是非」 (昭和23年)
「臨機応変である。
信仰なら正直にしなくてはならぬ。
今迄は嘘の世界であるから嘘を吐いていいが、人に被害を与える嘘はいけない。
そして善い事をする嘘も重なると罪になるので、いい事によってカバーするようにせよ。」
明主様御垂示 「患者を元気づけるための嘘はよい」 (昭和24年1月18日)
信者の質問
「病人を初めて診た場合、その人を元気づけるため実際より軽く話すことはいかがでしょう。」
明主様御垂示
「無論ですよ、「あんたはとても駄目ですよ、そんなに痩せて青い顔をしてて、それでも助かると思ってるんですか」なんて言ったんでは駄目です。(爆笑)
そんな場合嘘もいいんです。
嘘を話した結果がよければいいのですよ。」
明主様御垂示 「病人に死を知らすことの是非」 (昭和24年8月25日)
信者の質問
「はっきりと死ぬと知れる程衰弱している病人には死ぬ事をはっきり知らせるべきでしょうか、最後まで死ぬと言わない方がよろしいでしょうか。
勿論家内の信仰の程度にもあると思いますが、はっきり死期を知らせた方が霊は救われますでしょうか。
最後迄、観音力に御縋りなさいと云う程度でよろしゅう御座いましょうか。御教え下さいませ。」
明主様御垂示
「どっちへも決められぬ。死ぬと言っていい場合、そう言った方がいいか無闇に言えぬ。
ことによると難しいから覚悟した方がよい、死の間際でも観音様にお縋りすれば助かる事もある位に言うといいであろう。
しかしこういう事もある。
死の覚悟を決めると病人が助かるし、生きるつもりの病人は死ぬ点もある。」
明主様御垂示 「べらべらしゃべるだけで人が動くものではない」 (昭和26年9月8日)
「美術品もそうです。
いろいろ手間をかけたり、したりするが、ちっとも見たくない。
昔の、一筆か二筆のものがかえって魅力がある。
二、三日前に妻の友達ですが、その人は画きすぎるんです。
この前、竹薮を画いて、それから苔寺の苔を画いたが、画面いっぱいに画くのはだめです。
職人が美術をやるようなんです。
一筆か二筆画いて、画面いっぱいに画いてあるような感じを出す。
というそこに芸術がある。
写生でもー画面いっぱいに画くが、そうしないで簡略に画いて、自然よりもいっそう感じを出す。
その点が芸術です。
だからしゃべるのもそうです。
べらべらしゃべるだけで人が動くものではないんです。
一言か二言で先方にしみ込む・・・刺激を与える。だからその点ですね。」
明主様御教え 「話上手より聞上手」 (昭和10年3月4日発行)
「教理の宣伝をする場合話上手より聞上手が肝要である。
相手の話を能(よ)く聞く、能く聞けば先方は満足して快よく対する。
そこを狙って宣伝をするのである。
少しでも議論めいた話を避けどこまでも和気靄々(わきあいあい)裡に話を交換しなければならない。
その間でもコチラの話が一寸でも先方に不快を与えずやと絶えず注意し、
もし先方の顔に暗い影が射せば直に話を転換するという風にしなければならない。
次に相対する場合どこまでも先方を上座にコチラは下座にゆかなければ駄目だ。
ところが往々先生と言われるようになるとブリタがるものでこの点大いに注意すべきである。」
明主様御垂示 「対談する際の目の位置」 (昭和23年11月18日)
信者の質問
「人と対談する場合、目の位置はどこにおくぺきでしょうか。」
明主様御垂示
「これはどこへおいてもいいですよ。
その場合によっても違いますしね。
美人と対談するときはあまりよそは見ないでしょうし、変な顔つきの人と話をするときは、そうその人の顔ばかり見てもいられませんから・・・
要するにこれは「自然」がいいのです。
相手の人を気持ちよくして上げるようにすることです。
それから社交的には三、四人の人と話をする場合その中の一人だけと話をしてはいけない。
みんなが気持ち悪くしないように話をもって行くことです。・・・
話をしているのに目をあまりそらすのも失礼ですが、といって円太郎馬車の馬みたいに真正面ばかり見てるのもどうも・・・なにごとも程度ですよ。
お辞儀をするのもあまりていねいでも、またあまりぞんざいでも困る。
相手と場合により異なるべきです、だから交際の上手なのもその人の信仰が向上した証拠です。
物事を程よくやることですから・・・また話をしていてもこっちの顔を見ない人がありますが、そんなとき私はこの人は心になにかあるな・・・と見ます。
それは顔を「見ない」のではなく心になにかあるから「見られない」のです。」
信者の質問
「よく睨むような目の人もありますが・・・」
明主様御垂示
「それは目つきが悪いんでしょう。
本当に悪いことをする人は目つきが柔らかいですよ、帝銀事件の平沢なんかそうです。
これは御婦人に言うのですが、いい男でやさしいのは気をつけることですね。
またしゃべることがうまい人も気をつけたほうがいい、話のうまい人はつい人を騙すことが多い。
話が下手なのは言葉でゆかず実行に表わすからたしかです。」
明主様御垂示 「“でも”という言葉は軽蔑的表現」 (昭和28年10月1日)
信者の質問
「母親一人が熱心な信者で、家族が分からないというところでこういうことがございました。
腹痛と熱の御浄化で、チフスとのことにて、御霊紙でもいただき・・・」
明主様御垂示
「御霊紙でも、という言葉はいけません。
“でも”ということは軽蔑する言葉です。
昔からこういうことを言います。
“でもお茶は飲むな”と言います。
“お茶でも”と言いますが、そんなお茶は飲まないほうがよいというのです。
よく“御神体でも”“御霊紙でも”と言いますが、それはたいへんな無礼をすることになります。」
明主様御講話 「話を聞くときの注意事項」 (昭和27年12月17日)
「それからこれはたいしたことではないが、話を聞く時に咳をする人がありますが、咳は出るのですから我慢しなくてもいいが、その時はハンカチをあてるとよい。
話をしている時に咳をすると、咳のために話が邪魔されますから、そこでその音を少なくするために、ハンカチをあてると音がずっと少なくなります。
それから、アクビが出たいのは、これもしようがないから、やはりハンカチでふさぐとよいです。開け放しでやるとみっともありません。
メシヤ教信者もよいが、まことに礼儀がないというのではいけません。やはり行いも大事です。
これは小さなことのようでも、そういうことはやはり注意するというのが本当です。」