布教について 3 (惟神に布教せよ)
明主様御講話 「ぶっつけられた仕事をすれば良い」 (昭和28年6月7日)
「ミロクの世というものは、地獄の世界を天国にするのですから、まあ人類肇(はじま)まって以来の大革命です。
これほど大きな革命はないとともに、これほど楽にできる革命はありません。
無血革命ということを言うが、無血革命というのは争闘をしない意味ですが、そんなものではないのです。
無血革命でなくて、もっとも楽にできる革命だからして天国的革命とでも言いますか、そういうようなわけです。
それが十五日を契機として、だんだんそうなってくるのです。
それが霊主体従の法則によって霊界の方がそういうようになってきます。
ですから物質界、現界の方にそのとおりに映って行くというわけです。
だからその点においては、傍観していてもよいくらいです。
ただ神様から与えられた仕事をすればよいわけです。
ぶっつけられた仕事をすればよいわけです。
だからその点において、あんまり人間の智慧や考えは出さない方がよいです。
たとえば病人が来ますが、この病人を救えばこういうふうになるだろうとか、そういうことは考えない方がよいです。
ぶつかってきた人は救えということなんだから、それはやればよいです。
それから嫌ったりする人は、これは神様はお助けにならない人だと考えて、追いかけたりしない方がよいです。
その方が楽に行きます。
それを人間的考え方で、「この人を救えばたいへん発展する、信者がたくさんできる」ということをよく考えますが、それがいけないのです。
人間には分かるわけがないのです。
ですから「こんなつまらない人が」というのがあんがい役に立ったり、
「この人は」と思う人が駄目だったりします。
それは人間と神様の考えの違うところです。」
明主様御講話 「ブツかって来た人は治せという思し召し」 (昭和28年6月1日)
「いつも言うとおりあせりと無理がいけないのです。
この病人を早くなおすと、宣伝にもなるし早く開けるという考えはいけないのです。
それはその人がやるのならそう行きますが、そうではないので神様がやられるのですから、そういう考えでうまく行くことはありません。
よく「この人をなおすと、この人は交際の広い人だから早く開ける」ということは人間の考えです。
ところがそういうことで開けるということはまずありません。
かえってこの人がなおっても何になるかというような人がなおって案外開けるものです。
そういうようで人間の考えを抜くというのはそこの所です。
神様の考えは人間の考えとはまるっきり違うのですから、たいてい人間の考えとは逆に行くものです。
ですからつまりぶつかって来たということは、神様は「助けよ」という思し召しだと考えるのです。
こんなつまらない人をなおしてもしようがないではないかというようなことがありますが、それが将来案外な働きをするものです。
「この人はこの地方の有力者だから、ぜひなおそう」とするが案外駄目です。
そういうことが多いです。
これを霊的に見ると、神様から見ると名誉のある人というのはつまらない人で、つまらないと思う人が案外よい霊です。
むしろそういう人のほうが多いです。
だからぶつかって来た人は、なおせという思し召しで、フラフラになるのは放ったからしておけという思し召しです。
だから病気がスラスラとなおる、また言うとおりのことをする、というのは時節が来て引き寄せられたのです。
それから側の人が医者にかかれかかれと言うのは、医者にかかったほうがよいのです。
そういうのは神様が未信者を使って医者にかからせるのです。
神様は信者ばかりを使うのではなくて、未信者も使うのです。
今の場合に、皆が医者にかかれかかれというのは、神様がかからせるのだと解釈するのが本当です。
「あれは神様を知らないから医者にかかれと言うのだ、なにくそ」と頑張るのはとんでもないことです。
そしてこういうわからず屋で、頑張っているから、目に物見せてくれようとやるのですが、そこが神様と人間の考えの違う所です。
そこが大乗と小乗との違いです。
だから人間、信仰の極致というのは、右向けと言えば右、左向けと言われれば左を向けるような人こそ信仰の極致です。
それを「あいつはああいうことを言う」と頑張っているのは、これはまだ本当に信仰の醍醐味まで行っていないのです。
ですから私は女中などが「こうしたほうがよい」とかいろんなことを言うが、私はそのとおりに言うことをきくのです。
決して人によって区別したりしません。
神様はつまらない者の口をかりて、その人に知らせたりすることがよくあるのです。
それからまた邪神が偉い人にかかって迷わせるということもありますからそこに言うに言われないところがあります。」
明主様御垂示 「ブツかって来る人は救えという神様の御命令」 (昭和24年6月27日)
「信仰に入れるにも順序があって、この人を入れてからこの人を入れる・・・その順序を無視してはいけない。
人間は順序をよく間違える。
人間の眼で考えては、その第三の人を入れた方がよいように思うのである。
すべて時期と順序がある。ブツかって来るものは神様が命ぜられたのだからやればよい。
その人に大勢の人を救うだけの資格がないと、いくら焦っても神様は仕事を与えられぬ。
その人相当の力が出て来ると、祖霊が神様の御許しを得、または御命を受けて働く。そこで効果があるのである。
結局は自分である。自分の力をつける事である。
開けぬ時は御本をよく読み、霊を向上さす事である。
決して相手が悪いのでない。
(金光教はそれが極端で、最初二年間位ブラブラ遊んでいて漸く一人出来たなどという。大本教はそうでもないが、天理教は引張るのが好きである)」
明主様御垂示 「行当りばったりの布教が良い」 (昭和24年6月26日)
信者の質問
「開拓に出掛けても中々浄霊を受けません。たまには浄霊を求められます故、お話をして上げますが、思うように入信致しません。
いかようにお勧めしたらよいでしょうか。布教の要諦を御教示下さい。」
明主様御垂示
「布教する人が神様から本当に認められていない。
これも自分が資格がない。相手が悪いのでなく、自分にある。
大いに神書を読み、知識を得れば、光明如来様がお使いになる。
布教の要点はない。
私などよく講演や話を計画したが、何にもならぬ。
行当りばったりがよい。
信仰的知識を涵養する。
すると光明如来様が利用される事になる。
御自身にそれだけの資格がないから神様が止めている。
布教の要点などはなく、自然にぶつかると、自ら要点が出来る。
焦ったり、精神的に苦しむのは神意に反す。」