布教について 2 (天国的な布教をせよ)


明主様御講話 「苦しんで発展させようということはいけない」 (昭和27年2月25日)

「それから、これはどなたも経験があることですけれども、信仰を人に奨めたり、いろいろしても、なかなか解ってくれない。

それから、支部の人やなにかでも、もっと発展しそうなものだが、発展しそうでしないという人なんか、よくあるんです。

そこであせって、いろいろ・・・落ちついていないで、積極的にやりすぎるんですね。

これは、肝腎なことを忘れるわけなんです。

それは、昔からいろんな宗教やなにかは、ほとんど宗教の歴史と言えば、苦しみの歴史ですからね。

特にキリスト教なんか、ひどいですがね。殉教者という言葉があるくらいでね。

苦しみ抜いて、そこに植えつける、とね。キリスト教なんか、よくありますがね。

アフリカの蕃地なんかに、命懸けで行って、そこに信仰を植えつける。

まあ結構なことには違いないですがね。

けれども、そのために非常な苦しみをして、結局犠牲になっちゃうんですね。

そういうことが宗教を発展させるという上において、必要であるというような頭が誰にもあるんですよ。

そこで、メシヤ教信者になっても、やはり苦心惨憺して、そうとうな苦しみをしなければならん。

というために無理をするんですね。無理をするから、ますます苦しくなる。それで、あんがい発展していかないんです。

その点なんだと言うと、今までは夜の世界だったですから、夜の世界というのは、地獄の世界ですからね。

そこで、信仰でも・・・つまり地獄的信仰ですね。この間の新聞にも出てましたが、立正佼成会なんてね。

子供が死んだ、そうすると今度また、名前が悪いから、何年何月に死ぬということで、嚇(おど)されて、それが恐ろしいんで、親子心中したということになってますが、実際はどうだか、あれほどじゃないと思いますがね。

と言うのは、当局の新宗教に対する疑いや、新聞のデマですね。

ああいうことは、私などは経験してますから、あれを丸呑みにはできないんです。

あれほどではないと思います。しかし、ぜんぜん形はないことはないと思いますね。

それの起こりというのは、ラジオの「社会の窓」ですかね。

あれから始まったんですからね。

けれども、あれは大体、日蓮宗から出ている霊友会から、また別れたんだそうですからね。

ところが、ああいう信仰のやり方をみますと、やっぱり苦しみ信仰ですね。

地獄的信仰のやり方ですね。それだから結局問題は起こりやすいんです。


メシヤ教で問題・・・まあ、私の問題ですがね。新聞やなにかの問題は二度ありましたがね。

最初のは脱税問題ですね。その次のは贈賄問題ですね。

脱税の時に、税金を軽くしようとして、そうして賄賂を使った。そういう疑いの問題です。

ですから、宗教上の問題ではないんです。


と言うのは、そういった地獄的のことはやらないですからね。

そこで今話したような、苦しんで発展させようということはいけないんです。

メシヤ教では・・・それをいけないと言うのは、夜の世界の信仰ですからね。

メシヤ教の方は、昼の世界の信仰です。

天国を造る宗教です。今までの宗教で、天国を造ると言った宗教はないんです。

来るということは言ったが、造るということは言わなかった。時期が早かった。

ところが今度はいよいよ昼間になるんですから、今度は造るんですね。

そうすると、天国を造るには、まず一番の元は御自分ですよ。

自分が天国にならなければならない。

けれども、自分の境遇や家庭を、急に天国にすることはできない。

だから、その因である自分の心ですね。

心を天国にする。

そうすれば、一家が天国になり、一国が天国になり、世界が天国になるんですから、

まずなんといっても心を天国にする。

そうすると、いろいろなことで苦しむということは天国ではない。

一番解りやすいことは、病人なら病人を浄霊に行く。

そうすると非常に愉快な楽しい家と、なんだか気の向かないが、嫌々ながら行く家と両方ありますね。

そうすると、なんだか気の向かないというのは地獄ですから、本当は避けられれば避けた方が良いんです。

楽しいというのは、良いし、そういう病人は治りが良いんです。

発展するんです。

けれども、全部が全部そうばかりはいかないですがね。

それではまるで、わがまま坊ちゃんみたいでね。

そうばかりもいかないが、原則として、そこに重点を置く。

神様もそれが思し召しですがね。

それが、天国的信仰と地獄的信仰です。

そういうことは、神様にお任せすると良い。

どこまでも人間の力でやろうということがいけない。

ところが今までいろんな・・・習慣やそういうような一つの思想を植えつけられてあるので、ともすればそういう心が起こりやすい。

で、自分で目的を立てて、それを実現しようとして骨を折るんですが・・・

それは人間は目的なしでやることはできないから、良いですが・・・どこまでも進むから、そこで無理になる。

無理になるから、そこで、逆結果になる。

その点を良く心得ておけば、かえって楽にうまくいくんですね。


私なんかは、最初はそうでなかったが、そのことが解ってから、そうやってますが、

少しやってみて、思うようにいかないと、神様に任せておく。

忘れるようにする。

そうすると、忘れた時分にヒョッとうまくいく。

ということがよくあるですね。

信仰でも、地獄的信仰、天国的信仰と、こうあるんです。

今までの信仰は全部地獄的信仰です。

で、メシヤ教で初めて天国的信仰という信仰が生まれたんですね。

その点の区別ですね。それをよく知らなければならないですね。

だから、こんな楽なことはないんです。楽にやるほど成績は良いんですからね。」




明主様御講話 「議論や理屈で宣伝するのは絶対にいけない」 (昭和10年5月11日)

「次に、観音様の宣伝の場合には、議論や理屈、これは非常にいけない。

絶対にいけない。

議論めいたり、理屈めいたりするのは観音行ではないのでありますから、そのつもりで、お蔭話は非常にいいのであります。

それで、講演も議論や理屈をよしたんであります。

みんなお蔭話にしました。まして講演などで議論や理屈言うのに間違いがある。

近ごろはそういう謬(あやま)りがあるのでよしたんであります。


それで、そうした話は、議論や理屈でしたりしては、観音様の御趣意と違うから、

顕著な御神徳のあったときは、ご遠慮なく話していただきたいと思います。

せっかくの御神徳のあったのを蔵い込んでおってはつまりませぬ。

いただいた御神徳はどしどし発表していただきたい。

それがやがて観音様へ感謝の意味になり、お話するのを慣れない、きまりの悪い方は、支部長とか幹部の方に代わって話してもらえばいいのであります。

お蔭は取り放しにしないで、たくさんの人に別ける。

みんなに分配してあげる。

そうすると後どしどしと御神徳をいただけるわけであります。」




明主様御教え 「話上手より聞上手」より (昭和10年3月4日発行)

「(一部のみ引用) 教理の宣伝をする場合話上手より聞上手が肝要である。

相手の話を能(よ)く聞く、能く聞けば先方は満足して快よく対する。

そこを狙って宣伝をするのである。

少しでも議論めいた話を避けどこまでも和気靄々(わきあいあい)裡に話を交換しなければならない。

その間でもコチラの話が一寸でも先方に不快を与えずやと絶えず注意し、

もし先方の顔に暗い影が射せば直に話を転換するという風にしなければならない。

次に相対する場合どこまでも先方を上座にコチラは下座にゆかなければ駄目だ。

ところが往々先生と言われるようになるとブリタがるものでこの点大いに注意すべきである。」




明主様御垂示 「病気の人間は布教してはならない」 (昭和26年11月8日)

信者の質問
「御神業のためだからと、最後まで布教するのですが、末期の頃になりますと、そのために反って悪くなるというようなことが・・・」


明主様御垂示
「それはいけない。そういうところを人に見せるというのはいけない。

ピシピシした健康を見せてやらなければ駄目です。

身体が悪いのを見せるのは、わざわざ悪い宣伝するようなものです。

邪神的なやり方で、たいへんな間違った信仰ですね。」




明主様御教え 「地上天国」より (昭和23年9月5日)

不幸な人間が布教するのは本当ではない

「(前半省略) 次に、世間よく人を救おうとする場合、自分が病貧争から抜け切らない境遇にありながら宣伝をする人があるが、これらもその心情は嘉(よみ)すべきも、実は本当のやり方ではない、

何となれば、自分が救われて幸福者となっているから、他人の地獄的生活に喘いでいる者を、自分と同じような幸福者たらしめんとして信仰を勧めるのである。

それで相手が自分の幸福である状態を見て心が動く、宣伝効果百パーセントという訳である。

私といえども、自分が幸福者の条件を具備しなければ宣伝する勇気は出なかったが、幸い神仏の御加護によって幸福者たり得るようになってから教えを説く気になったのである。

地上天国とは、幸福者の世界でありとすれば、幸福者が作られ、幸福者が集まるところ、地上天国の実相でなくて何であろう。」