布教について 1 (大乗的な布教をせよ)
明主様御垂示 「布教を発展させる秘訣」 (昭和24年5月30日発行)
信者の質問
「教導所の発展しない理由をお伺い申し上げます。」
明主様御垂示
「どっか脱線してるからですよ。要するに軌道が外れてるんです。
一番の原因は、なにが多いですね、あの小乗的信仰の場合が。
こういうのは発展しないですよ。
どうしても大乗でなくちゃいけないですね。
発展ってのは大きくなる活動ですからね、大乗がどうしてもいいんですよ。
小乗のは窮屈でね、あれはいけない、これはいけないといろいろ咎めるのはいけないんです。
それでは観音行じゃないですよ。
観音様ってのは大乗であり、善悪無差別ですからね。
それに対して、人間が善悪を決めるのは間違っているんです。
まあ、ある程度は常識で善悪の判ることもありますが、徹底して判ることはないんですよ。
これは悪い悪いと言いながら、その人自身悪いことがよくありますからね。
ちょっと思ったことを簡単に言うくらいならいいですがね、
どこまでも自分の思った通りを人にさせようとするのは決してよくありません。
なんでも、こう、気持ちのいいようにせねばいけない。
まあ、根本的原因は一口に言うと、教導所に来て気持ちがいい、愉快だ、というふうにさせてないからですね。
それから、あの「くどい」のはいけません。
一事(ひとつこと)を繰り返し繰り返し言う人がありますが、あれはごくいけませんよ。
神様ってのはあっさりしたもんですよ。
いろんな宗教でもしつっこいのがありますがね、そんなのは本当は邪教ですよ。
一言話して先方が言うことを聞かなかったら時期を待つようにするんです。
それから、御浄霊で病気が治るから、御利益があるから人が来るんです。
そして病気の治るってのは急所にふれるから治るんです。
だから教導師は急所をつかまなくちゃ駄目ですよ。
話でもそうで、急所を外れてただべラベラしゃべったって駄目ですよ。
一言でも二言でも先方の魂に触れることをポンと言うと、それで相手は感じるんですよ。・・・
そんなふうに、話でも浄霊でも急所ですよ。
その急所を衝くのは智慧、叡智ですね。
こっちがボンクラだと判らないんですよ。
終いには、全体をやればどこか当たるだろうってわけでね。(笑声)
まるで機関銃式ですよ。(笑声)
百発百中じゃなくて、百発一中ですね。(笑声)
そうかと言って、最初からそういうわけにはゆきませんからね。
一生懸命やって、しかも広くやってれば、だんだん急所が判ってくるようになりますよ。
まあ、いろんなことがありますがね。
気のついたことを言ってみたんですが、一番肝心なことがたった一つあるんです。
それはね、どうしても発展しよう、大きくなろうって強く思うことですね。
それが根本です。俺は駄目だ、なんて思うことが一番悪い。
俺も人間だ、人がやれるなら俺にだってできるっていう気構えでね、
失敗しても、笑われても諦めないで、どうしてもやり遂げるっていう、そういう人が発展しますね。
私自身がそうなんですよ。
それを、一度転んだらもうしようとしないなんていうんじゃ駄目です。
「諦めが肝心」と言いますがね、物によってはそうですが、物によっては「諦めないが肝心」ですよ。
だから、悪いことは「諦めが肝心」、いいことは「諦めないが肝心」ですよ。
私に人を紹介するとき、よく紹介者が「いや、この人は立派な人物ですよ、第一欲がないから」なんて言いますが、これはおかしいんです。
私は欲のないのはいかんてよく言うんですよ。
欲にもいい欲がありますからね。
欲張りって言えば神様が一番欲張りですよ、全世界を救おうっていうんですからね、これほどの欲望はありませんよ。
だから、欲だって決して悪くありませんよ。
よく「観音教(註 当時の教団名)には金がある、金儲けがうまい」なんて言いますがね、
いま、多くの人を救うにはどうしても金が必要ですよ。
いくらすばらしい力があり、教えがよくても、機関がなくては駄目だし、地上天国を築くのにも天国の模型がいりますしね、・・・ま、私はその模型を作っているんですがね。
なにをやるにしたって金が必要ですよ。
そのために金を集めるんなら結構じゃないですか。
大きな救いにはたくさんの金がいるんですよ・・・昔みたいに「祖師は紙衣(かみこ)の五十年」なんて、あれは親鸞でしたかね。
五十年はしなかったかもしれませんが、まあ、それくらい質素にしたってわけですね。
日蓮だって乞食坊主みたいになって法を説いたんですが、今日は時代が違うんです。
いまはそんなことをしても、世の人が相手にしませんよ。
草鞋ばきで行脚したり籠(かご)を使ったりした時代と、自動車や飛行機がある時代とは違うんです。
昔のように草鞋ばきで歩きまわるんでは全世界を救うことはできませんよ。
ところが、いままでの観念があって、質素倹約して乞食坊主みたいにしてなければありがたがらない人がありますがね、あれも困ったもんですよ。
つまり、信仰の根本が違うんですよ。昔の信仰、いままでの信仰っていうのはね、
禁欲的な、まずい物を食って、ボロボロの着物を着て、粗末な家に住んで、それがいいこととしていたんです。
ところがあれは間違っているんですよ。
いったい、きれいな花が咲き、いい景色があるっていうのは、神様がこれを無駄に作ったのではない、人間を楽しませるために作られたんです。
おいしい物だってそうです。
人間を楽しませるために作られたんです。
それを、わざわざまずいものを食い、粗末な着物を着るってのは、神様のお気持ちに対する一つの叛逆ですよ。
天国を作る、その天国ってのは、真、善、美の世界です。
その美っていうのはいったいなんですか。
きれいな家に住み、美しい着物を纏いおいしい物を食べるっていうのは美じゃないですか。
なによりの証拠はね、邪神はとても花を嫌うんです。
そこの床の間にも花が生けてあるでしょう。
だから、必ず部屋には花を飾らねばいけないって、これは私が前から言ってることですがね。
仏様に花を上げるっていうのもそれなんです。
花は霊界に非常にいい影響を与えるんですよ。
私の所ではどの場所でもたいてい花をおいてあり、花のない部屋はないくらいです。
花についての論文も近いうち発表しますよ。
教導所の発展しない原因も、いま言ったようなことを考えてみれば判るでしょう。」
明主様御講話 「大乗的な人は発展」 (昭和28年4月25日)
「昨夜、木原さんを中心にした座談会の報告を読みましたが、最近割合に教修者が少ないということについて、
教修者が増えて発展するようないろいろな方法を考えなければならない、ということをいろいろ言ってましたが、
それはみんな間違ってはいませんが、一番肝腎なところを忘れているというか、気がつかないのです。
それはなにかというと、いつも言うとおり大乗と小乗なのです。
この小乗的考え方がいけないのです。
前から言っているとおり、メシヤ教は大乗でなければいけないというのです。
だから発展するしないは、大乗と小乗の関係なのです。
小乗的な人は発展しないのです。
大乗的な人は発展するのです。
これはひとり宗教ばかりではなく、なんでもそうです。
今一番発展している国はアメリカですが、アメリカは大乗的だからです。
日本は小乗的だから、始終貧乏で苦しんでいるのです。
私はよく裁判があって行って思ったことは、アメリカの裁判は、仮に罪があるとすると、
この人は罪人にした方が国家のためになるか、
あるいは罪人にしない方が国家のためになるか、ということを標準にするのだそうです。
それでいろいろな事業をする人などは、どこかに法に触れることが少しはあります。
それがなかったら、それまで気を配っていては、アメリカのような大きな仕事はできませんから、
少しは法規に触れる場合があるので引っ張られる、
そうすると、この人間は法規上の罪にした方が国のためになるか、
アメリカ発展のためになるかということを考えるのです。
それは、大きな罪はそうはゆかないが、小さなことは罪にしようがしまいがたいしたことはないので、
裁判官の口先一つでよいくらいなものです。
それで無罪にした方がアメリカのためになるということを標準にして決めるのです。
だから私の裁判で鵜沢博士ともう一人の弁護士はその方針でやったのです。
「岡田という人間は世の中のためになることをしている、非常に実行力のある人だから、
こういう人は助けて、仕事をさせるようにした方が日本のためになる」ということをしきりに言ったが、
裁判官にはそんなことはぜんぜん耳にはいらないので、
ただ法律第何条に触れるというので罪人にするのです。
だから日本は発展しないのが本当なのです。
それは大きな、国家の害になるようなことでなく、
小さな条文にでも触れると、それをたいへんなものにするのです。
だから一つの欠点があると、九つの良いことがあっても、
九つの良いことを見ないで一つの欠点で消してしまうのです。
それが日本の欠点です。
これは法律のことですが、信仰もそうで、屁のようなことで大きなことを忘れてしまうのです。
だから発展しないとすると、そういうことが必ずあります。
私は今まで見てますが、小乗的の人は必ず発展しないのです。
窮屈な感じがします。
あなたはこういうことをしてはいけない、神様の思し召しにかなわない、
というようなことを言うと窮屈になります。
そうでなく、自由でゆったりとした気持ちにならなければならないのです。
またそうするのが神様の思し召しにかなうのです。
神様は小さな欠点はとらないのです。
ただこの人間は一人でも多くの人を救うか救わないかという手柄を主にするのです。
だから仮にその人の欠点が三つあり、働きが七つあると、差し引き四つはプラスになるから、
そういう人は神様の御守護が強いのです。
それで一つの欠点とすると、六つのプラスになるから非常に御神徳があることになります。
もう一つは、それと同じことですが、
小乗信仰と大乗信仰の違いさは、小乗信仰は自分が救われようとするのです。
自分はどうでもよい、世の中の苦しんでいるこの人たちを救わなければならないというのが大乗信仰です。
だから自分が救われようということは捨てて、多くの人を救わなければ、
とてもかわいそうで見ていられないということを、本人が始終思って念願するのです。
そういうのが本当の信仰です。
ところが自分が救われよう救われようとしているのですが、
それは自己愛ですから、そういうのは神様はあまり御守護されないのです。
それからそういう人は、人からちょっとでも悪口を言われたりすると気にかけるのですが、それは自己愛だからです。
人からなにを言われても、そんなことは気にしないで、神様にお気に入られればよいのです。
だから人を相手にせず、神様を相手にしろと言うのです。
だからその点ちょっとしたことですが、たいへんな違いです。
だからどこまでも大乗信仰です。
それで大乗信仰の人は、人が良いとか悪いとか、そういうことは言わないのです。
小乗信仰の人に限って、あそこがいけない、ここがいけないということを始終思ったり口に出したりするのですが、
それがいけないのです。第一人が良いとか悪いということは分かるわけはないのです。」
明主様御垂示 「大乗信仰の人は発展する」 (昭和26年11月5日)
信者の質問
「地方では、メシヤ教に治してもらったら・・・神様にはお金を使わず治してもらえるというようなことを言っておりますので・・・」
明主様御垂示
「最初はそうですよ。
しかし本当にお蔭をいただけば、そうしてはおられないですよ。
そいういうのは、信仰が違っている。
なぜなら、人によって、非常に発展する人と、発展しない人がある。
非常に発展するのは、良く合っているんですね。
発展しないのは、こう思って改善していかなければならない。
そういう場合には、時々その人が小乗信仰ですね。
そういう場合が多いです。発展しないのはね。
だから、やっぱり大乗信仰でなければならない。
気の小さい人は発展しない。気の大きい人は発展する。
そうでしょう。気の大きいということは霊が大きいので、魂が大きいと、教会もそれだけ、発展する。
気が小さいと、いじけているので、教会も小さくなる。
だから、メシヤ教はどんなに大きい考えを持っても良い。
世界中を救うと言うが、空念仏ではないんです。
実際に効果をあげているんです。」
信者の質問
「その場合に、神様を信用申し上げるということは、お任かせするようになりますが、
本人自身はそこまで到達しておらず、信用できないので、無理に自分から信じてしまうようにするというのは・・・」
明主様御垂示
「いけないですね。
信じても信じなくても、勝手にしろというのが本当です。
信じてもらわなくても良いんですからね。」
信者の質問
「わき起ったもので・・・」
明主様御垂示
「そうです。どうしても、信じたくてしょうがなければ、信ずる。それで良いんです。信じて下さいなんてね。
先にありましたが、私のやり方は軽々しいとか、もう少し威厳をつけたほうが、ありがたがるだろうというのがあったが、
私のやり方でお気に入らなければ、勝手にしたら良いでしょう。
私はこれで良いと思ってやっているんだから、これが良いと思ったら信じなさいと言ったが、やっぱりそれが良いと思ってか、信ずる人がある。
お信じなさいと言うと、霊的にその人が低くなる。
と言って、むやみにうぬぼれてはいけないがね。
実際に、五つは五つに、六つのものは六つにしていく。
あんまり謙遜してもいけないし、あんまりいばってもいけない。
その人相応にしていく。」
明主様御垂示 「非常識な小乗信仰は最もいけない」 (昭和24年8月27日)
常識的な布教をせよ
一生懸命に布教してはならない
信者の質問
「私は教導所の責任者として御用をしておりますが、私の村は八百余戸、入信者現在百余名、光明如来拝受者十五名、大光明如来四体を奉斎させて戴いており、五、六人の方が熱心に協力しております。
しかし私も時々困難に突当り、一生懸命御用したくも思うに委せぬ苦しみをしております。
主人も現在教導師の御資格を戴き、大工仕事の裡にも懸命の努力をしております。
夫は養子ではありませんが、私と母と同居しており、母も余りに熱心のため、非常識な位にまでなり、時々御浄化を頂きます。
この母の行為についてとかく周囲の人より妨害され、日夜頭を悩まし、自分の未熟な行為のため寝つかれぬ事も御座います。
いかにしたら周囲の人々を分らせ、出来るだけの御用が出来ましょうか。御伺い申し上げます。」
明主様御垂示
「分らせるという事が間違っている。
分らせるというのは人間の力を過信する事になる。
神様が分らして下さるのである。
この人の信仰が狂うのは小乗的であるからで、(熱心のために非常識というのは嘘である)飽く迄、常識的でなくてはいけない。
人間は何の力もない。人間の心で決めてはいけない。
どこまでも神の道具で、神様がやらして下さる気持にならなくてはいけない。
(浄霊でも心静かにしてやらないと神様の霊気が通らない。力を入れ一生懸命にどうかして救おうとすると人間的だからいけない)
大乗的になるべきである。
(無理に分らすのはいけない。神様にお任せし、自分はやらしてもらってるという気持である)
発展するか否かは神様の思召しである。
人間の力が強くなると反って成績が挙がらぬ。
(浄霊も静かな気持でやらなくてはいけない。一生懸命やると治らぬ。力を入れずにした方がよい)
宣伝も一生懸命扱うという気持はいけない。
(時期が来ぬうちはいくらやってもいけない)といって、お任せしっきりでもいけない。その区別を調子よくやる。
神様は霊、人間は体であるから、霊と体と調和すべきである。
小乗的信仰は最もいけない。
咎めや憎しみは極くいけない。」
明主様御垂示 「理解できない人ほど救う必要がある」 (昭和25年4月13日)
信者の質問
「火素の増量により治り方がたいへん顕著になりましたが、また一面毒素を多く保有している人が溶解を始めた場合死亡することも多いと存じますがいかがでしょうか。
この場合相手がお道を理解してるときはよろしいですが、理解していないときは手をつけないほうがよろしいかと存じますがいかがでしょうか。
明主様御垂示
「これはいけませんね、こういう考え方は。
第一、理解してる人は救う必要がありませんよ。
理解できない人ほど救う必要があるんですよ。
それが救いなんです。そうでしょ。
だから、理解してない人ほどしてあげなけりゃいけませんよ。」
明主様と御対談 (一)より (昭和29年7月21日発行)
真山氏の発言
「話は変わりますが、例えば強盗殺人をしたような、どんな悪い奴でも、信者になってそれを克服することはできますでしょうか。」
明主様御発言
「そこですが、悪だから救う必要があるので善人なら救う必要はないわけです。
ですから悪が強ければ強いほど救う必要があるわけです。
親鸞の言った「善人すら救わる。いわんや悪人に於てをや」というのは、その消息を言ったものです。
これを文字通り解釈したらおかしなものになりますが、これは悪人でも救われるというので、悪人ほど救う必要があるのです。
そこで浄霊は善悪無差別に病気を治すことができるのです。」