支部長の心得について


明主様御垂示 「専従者、信者の位づけはいかに決まるのか」 (昭和24年1月8日)

「時所位というのは自然に決まるのです。」




明主様御教え 「順序を過る勿れ」より (昭和23年9月5日発行)

「(一部のみ引用) 戦時中東条内閣の時、東条首相は社長の陣頭指揮という事をとなえ、又自分も先頭へ立って活躍したが、これ程の間違いはない。

何となれば、昔から事業を行なう事を経綸を行なうというが、経綸とは車を回す事である。

即ち首脳者は車の心棒にあたるので、車がよく回るほど心棒は動かない。

又車は心棒に近いほど小さく回り、外側になるほど大きく回り、心棒が躍るほど、車の回転の悪いのはもちろんである。

右の理によって考えるとき、こういう事になる。

すなわち心棒に近いところほど少数者が担当し、漸次遠心的に多数者となり、最外側のタイヤに至っては、道路に接触するため過激の労働となる事によってみても、順序の何たるかを覚り得らるるであろう。

故に、すべて主脳者たる者は、奥のほうに引っ込み、頭脳だけを働かせ采配を振っておれば事業は発展するのである。」 (全文は「順 序」のページ)




明主様御講話 「心棒は動くな」 (昭和28年10月6日)

「霊体を説明するには掌が一番よいです。

手の平はいろんな役をし手の甲はあんまり役をしません。

手の平は体の方です。

ですから霊というのは目で見てはあんまり動いてないのです。

その代わり主にはなってます。

人間の体で言えば、背中は霊です。

それで背中の方に病原があるということは、背中の方が因だからです。


だから本当に仕事の急所をやる人ほど動きません。

下のほうのことをやる人ほど動くのです。

ところが霊を知らないで体だけで見るから、そこで労働者がいばり、労働者が肝腎だということを言い出し、それが共産主義です。

ですから共産主義というのは、霊を認めなければ共産主義の理屈は本当です。

それはうまくできてます。

ところが霊を認めれば共産主義というのは、屁のカッパみたいなものです。

ですからよく前から共産主義について私に意見を聞く人がありますが、あんなものはなんでもない、今になくなってしまうと言ってました。

それは体だけであって、主なる霊ということを無視しているために永久性がないから、共産主義というのは長く続くものではないといっても、外れません。


そういうわけで働いているのが目に見えない者ほど、かえって大きな働きをしているわけです。

だから主人公や首脳者というものは動いてはいけないということを、私は前から言っているのはそういうわけです。

よく、明主様は地方の方にはお出かけになりませんか、と言われますが、

それには車の心棒のたとえで、心棒は動いてはいけないというのですが、それで分かるはずです。

そういうようで、よく先に立ってやらなければいけない、

つまり首脳者とか長という人が先に立って采配を振れということを言いますが、それは嘘なのです。

昔から、戦争で大将などが先に立って采配を振ったらきっと負けます。

やっぱり大将は幕の内に引っ込んで、姿を見せないというやり方のほうが勝ちます。

それはやっぱり霊主体従の法則に合っているからです。


東条首相が戦争のときに南洋まで飛行機に乗って行きましたが、その時私は、これは駄目だと言ったのです。

首相が官邸にいて碁でも打っているようなら勝つが、ああいうようではきっと駄目だと言ったのです。

それから話は違うが、あの時代の実業界で社会にそうとう有名になった、浅野セメントを作った浅野総一郎という人がいましたが、この人は朝早くから起きて、方々を駆けまわっているのです。

それで一時パッとゆきましたが駄目になりました。

そういうことも、私は不思議だなと思っていましたが、霊主体従の法則を知ってから、なるほどと思いました。


そういうように、目に見えて働いたり動くことを良いと思うことは逆なのです。

だから教団の支部などでも、支部長があんまり先に立ってやるよりか、

部下とか、あるいは新しい信者といった人にできるだけやらせるというようにした方がよいです。

戦争が始まったころに陣頭指揮ということを言いましたが、

軍部は軍需会社の社長が陣頭指揮をやらなければ駄目だ、引っ込んでいては駄目だと言ってましたが、陣頭指揮をやるようでは駄目です。

もっとも昔時は戦争のときには、山賊などは親分がやらないと子分が動かないからやったのですが、

そうでなく平和的のことをやるには、今言った法則を守らなければいけないわけです。

だからただ活動する、あせったりいろいろする、ということがよいわけではなく、

やはり自分の地位と境遇に準じて理屈にあったやり方でなければいけないのです。

だから骨折ってうまくゆかないということがよく世間にありますが、そういう点をよく見ると分かるわけです。


昔からよく言いますが、あんなに働くのにどうして年中貧乏をしているのだろう、

またあの人は年中ブラブラしているのに割合に懐が温かいと言うが、そのことを知ればよく分かります。

そうかといって怠けるのと、今言う霊的働きとは、外観はちょっと同じように見えるので間違えるのでしょうが、そこにおもしろいところがあります。

結局頭を働かせるということです。

それから体を働かせるということも、人間生まれながらにして、おのずから決まっているのです。

だから頭を働かせるべく生まれた人と、体を働かせるようにできている人と、しゃべるために生まれてきた人もあります。

あいつは口から先に生まれてきたと言いますが、やっぱりそういう人が政治家なら始終演説をするとか、宗教家なら講義をするとかで、そういう人も肝腎だから、その役目でよいのです。」




明主様御講話 「支部長の愛が強いと人を引きつける」 (昭和28年9月16日)

「これはそういった作物に限らず、人間の生活でもよく気をつけると、そういうことがあるのが分かります。

そこの家に入ると、なにかつめたいような、さびしいような家がありますが、それはそこの主人公に愛がないからです。

つまり自分さえ良ければ人はどうでもよい、というつめたい心、要するに冷血動物です。

だからそこの家がつめたいのです。

人間でもそうです。

あの人に会うと、どこかしらつめたい、また温かい人だ、ということが分かります。

それは霊で、その人の霊が受ける感じです。

ですから受ける感じが温かければ愛が多いのです。

万事それで分かります。

支部でも、発展する支部と発展しない支部ということも、もっとも主要なる原因はそこにあるのです。

愛が多く愛が強いということは、光が多いということです。

そこで人は光に憧れて集まるという性質を持っているから、どうしてもそういう温かい所には足が向くということになります。

オレのしゃべり方が悪い、場所が悪い、家が狭い、ということも多少はありますが、根本的のものではありません。

根本はそこの支部長の愛が強く、そうして人を引きつけるということです。

それでこれは言霊からいってもおもしろいのです。

太陽は火ですから熱で、また熱のことを火と言います。

その反対に月は、私の本に書いてあるとおりに、氷の固まりですからつめたいのです。

それで「ツキ」ということは「ツク」ということです。

ですから人が寄ろうとするのを寄らせないようにするのです。

それから「ヒ」は「ヒク」です。

これは天理教でも・・・そこまで詳しくは言っていませんが・・・そういうことを言ってます。

「ヒ」は「ヒク」「ツキ」は「ツク」と言ってます。

だからつめたい働きは「ツク」働きになり、温かい者は「ヒク」働きということになります。

それはチャンと言霊に出てます。


人間の話になってしまいましたが、作物も同じです。

ですから作物が良くできるのも、愛が強く多いということが大いに影響するのです。

東北地方は気候も寒いのですが、そのほかに、つめたい人が多いからということです。

しかしそういった気候も関係するようです。


大体共産主義というのは、つめたいもので愛がありません。

スターリンがいる時分に、片端から人を殺してしまいましたが、中共もかなりまねをしたようですが、スターリンほどではありません。

スターリンはちょっと疑わしい者は、それこそノミでも潰すように簡単に殺してしまいましたが、それはつめたいからです。

感情があり、愛があったら、とてもそういうことはできません。

そういうのも気候から受ける影響もあるわけです。」




明主様御垂示 「支部長の愛が大きいほど布教は発展する」 (昭和8年4月1日)

信者の質問
「美術品などを拝見させていただき、非常に結構だという気持ちが霊で入りますが、

あれは欲しくてしょうがないという場合に入る霊とは違いがございましょうか」


明主様御垂示
「やっぱり同じものです。

芸術の最高になるから、やはりそれだけの、人を引きつけて楽しませるだけの一つの要素と言いますが・・・。

だからそういった良い物を作るというのは霊が高いのです。

私は二、三日前に、私が画いた十年前の古い観音様の表装ができてきたので見ると、公平に見て、まずこのくらいうまい絵はありません。

観音様もずいぶんありますが断然違います。

これは誰が見てもそう言いますが、それはつまりレベルがそこに行っておれば、何をかいても何をやっても、それだけの値打のある物ができるわけです。

結局人間により人間の霊の高さです。

だから磨いて霊を高くするということが一番です。


これは支部なら支部長という人の霊の高さによって人が集ってくるということです。

その人の徳というが、結局そういうわけです。

これも信仰の根本は愛です。

その人を助けたい、幸福にしたいという想念が強くて、そういうような、要するに良いものがたくさんある人ほど発展する、そういう人ほど光が強いから、その人の側に行くと気持ちが良いのです。

それもやっぱり大乗的に考えなければいけないのです。」




明主様御教え 「霊線に就て」より (昭和23年9月5日発行)

教会長、支部長の心が薄汚いと信者の心も汚くなる

「(一部のみ引用) 霊線は人間の階級に従って数の多少がある。

数の多い人、例えば一家の主人なれば家族、使用人、親戚、知人。会社の社長ならば社員全部。

公人ならば村長、町長、区長、市長、知事、総理大臣、大統領・・・国王等、

いずれもその主管区域や、支配下に属する人民との霊線の繋がりがあり、高位になる種多数となる訳である。

この意味において、各首脳者たるべき者の人格が高潔でなければならない。

首脳者の魂が濁っていれば、それが多数に反映し、多数者の思想は悪化するという訳であるから、

一国の総理大臣などは智慧証覚に富むと共に、至誠事にあたるべき大人格者でなくてはならないのである。

しかるに国民の思想は悪化し、道義はすたれ、犯罪者続出するがごときは、為政者の責任となる訳である。

特に教育者のごときは、自己の人格が霊線を通じて学徒に反映する事を知ったなら、

常に自己の霊魂を磨き、師表として恥ずかしからぬ人とならなければならないのである。

特に宗教家であるが、一宗の教祖、管長、教師等に至っては、多数の信徒から生神様のごとく讃仰される以上、その霊魂の反映力は著しいものであるから、大いに心すべきである。

しかるにその高き地位を利用しておもしろからぬ行動のあった場合、信徒全般に反映し、

ついにはその宗教は崩壊のやむなきに立ち到るのであって、このような例は人の知るところである。」 (全文は「霊 線」のページ)




明主様御垂示 「上位者の悪は下位者に大きく影響」 (昭和28年5月1日)

信者の質問
「チフスは高熱にかかわらず脈が低いという原因は何でございましょうか」


明主様御垂示
「それは考えてなかったです。

だいたい医学のほうで医者でも言うし、本でも見ましたが、脈というものは心臓のほうです。

熱はどこからでも出ますが、心臓に近いほど熱が脈に影響するのです。


それからもう一つはこういう理屈があるのです。

下半身のことは上半身への影響は薄いのです。

そのかわり上半身の病気は下半身に強く影響するのです。

これは国でも分かりますが、首脳者、大臣、政治家という指導階級の人の悪いことは、下のほうに非常に大きく影響しますが、

下のほうの者が何か悪いことをしたり、悪い考えを持っても、部分的に済むものです。

ちょうどピラミッドのようなもので、上に行くほど小さくて力が大きくなるのです。

そこでチフスは下のほうの病気だから心臓に行くのが少なくなるわけです。」




明主様御教え 「死後の種々相」より (昭和24年8月25日発行)

支部長の不倫は重罪

「(一部のみ引用) その他人の師表に立つべき僧侶、神官、教育者等の男女の不純関係のごときは、普通人より刑罰の重い事はもちろんである。」




明主様御垂示 「差別と平等について」 (昭和24年2月28日)

信者の質問
「お弟子を指導させていただく場合、差別と平等はどのようにいたすべきでしょうか。

例えばずっと以前からお弟子になってもたいした働きのない人と、

お弟子になったのは新しくても大いに働きのある人との場合はいかがいたすべきでしょうか。


明主様御垂示
「これはね、どっちとも決めてはいけないのです。

働きと古さとどっちに片寄ってもいけない。

古い人には古い人としての功績があり、骨董ではないが古さの味がある。(笑声)

そしてどちらを主にするかと言えば、勿論働きを主にすべきです。

そして臨機応変にちょうどよくやったらいいのです。

こういうことは世の中の人間は下手でね。

また学問では駄目ですよ。・・・

差別は縦であり平等は横ですからどっちに片寄りすぎてもいけないのです。」




明主様御講話 「部下の間違いを指摘をすべきか」 (昭和26年10月5日)

「私などは、部下が間違っていても、間違っていると言ったことはないですよ。

神様に任せているから、もし間違っていたら出されるか、ひねりつぶされる。

人間の目には間違ったようでも、神様のほうからは、なにか必要があるんです。

○○という人が、そのようなことがあり、まあまあ神様がやっているからと言っていたが、とうとう体が悪くなって病院に入って死んじゃいました。

そのくらいのことを、神様に力がなかったら信じないほうが良いです。

いま○○○にいる・・・あれを出さなければならないと言うが、神様がやっているので、必要があれば神様がひょっとつまんでしまう。

まだ必要があるから、あのままなんです。


死んだというその人はたいへんな手柄をした。

良いことをしました。私は今でも感謝してます。

良いことをしたが、これからは悪いことをするから止められた。

一時必要があった。

神様は深いんだから、人間の目で良いとか悪いとか分かるようでは・・・そんな神様ではね。

どんな悪い奴でも、どんな馬鹿な奴でもそのときは必要があって使われるんです。

たいてい、時が経つと分かります。

三千世界の大芝居で、悪役もあるし良い役もあるし、いろいろお役がある。

ですから、いろんな悪役もありますが、悪役もなければ芝居にならない。

善人ばかりじゃね。

だから、なんだかんだいいながら発展していけば良いんです。

どうせ悪の世ですからね。

それからまた、邪神ですね。

邪神だって教団の中に入り込む。信者全部を邪神が狙っています。

油断も隙もできないです。

それで、邪神のためにひどいことになる人がありますが、それは浄化作用です。

邪神にやられなければ浄くはならないですね。」




明主様御教え 「信仰の合理性に就いて」 (昭和28年6月17日発行)

「信仰の合理性について、この間この欄に出したので分ったであろうが、

なお最近それに関連した新しい質問が、某中教会長からあったので、それをかいてみよう。

これは二年程前入信した信者の事で、入信の動機は主人の肺浸潤が治ったためであるが、

本年二月、二つになる自分の子供が肺炎になったので、某支部長に相談したところ、

自分が治さして貰うといって、それから熱心に浄霊をしてくれたが、

どうもはかばかしくゆかず、ついに危険に瀕したので、数日前私のところへ御守護の電話がかかったのである。

ところがその時から大分よくなったが、まだ心配なので、今後どうしたらいいかを教えて貰いたいと、某中教会長に縋り、共々子供を連れた母親が来たのである。


そこで私が答えたのはこうだ。

肺炎くらいの病気がそんなに長くかかるものではない。

必ず間違った点があるからだ。その原因は二つある。

一つの方も大いに間違っているが、これは個人的であるから秘しておくとして、今一つの方はより重大であり、中教会長にも聞かしたいと思って、私は詳しく話をしてやった。

それはその子供の父も母も一、二年前入信しているのだから、

我子の肺炎くらいは父か母が浄霊すればいいので、それで結構治るはずである。

それを取違え自分は碌々(ろくろく)浄霊もせずして、支部長を煩(わずら)わすのであるから理屈に外れている。

また支部長も支部長で、度々浄霊に赴いたというのであるから、どちらも全然間違っている。

本来支部長たるものの役目は、未信者の開拓にあるので、

すでに信者となっている人は、神様から治病の御許しを得ている以上、家族の病気などは自分で浄霊すべきである。

それを支部長の厄介になるとしたら、支部長の活動を御邪魔をする訳である。

また支部長はこの意味を教えるべきはずなのに、それに気がつかないとは余程 呆けているとしか思えない。

しかし特別の場合 神様にお許しを願って、少しくらいなら浄霊してもいいが、それ以上はいけない。


つまり何事も理屈に合っていないから、御蔭を頂けないのであるから、

中教会長、支部長、教師、役員などそれぞれ自己の階級、職責等をよく弁え、不合理にわたらぬよう注意すべきである。

これについても平常努めて御神書を拝読し、智慧証覚を磨いておれば、いかなる場合でも気がつくものである。

これについても大乗と小乗との区別を忘れてはならない。

一切は御神業発展を第一とし、私事は第二第三にすべきで、そうすれば何事も順調にゆくのである。

つまり全体的利害を考え、合理的にすれば何程でも御蔭は頂けるもので、

少しでも御神業に御邪魔になるとしたら、思うようにゆかないのは当然である。

何しろ全人類を救うというドエライ仕事で、しかも神様は非常にお急ぎになっておられるから、そこをよく考えるべきである。」




明主様御講話 「支部長の御用の内容」 (昭和28年5月27日)

「支部長に浄霊をやってもらうということも、ぜんぜんいけないことではないのですが、

それはごく苦しい時とか、病気が分からない時は支部長に聞いて浄霊してもらえばよいですが、

そうでなくて、自分でやればよいのを支部長の手数をかけるというのは間違っています。

それも病気によっていろいろありますが、肺炎というのは、ほったらかしておいてもなおるくらいですから、父親か母親がやればそれで結構なおるのです。

それを早いうちから支部長に頼むとなおりが悪いのです。かえって父親や母親がやる方が、より早くなおります。

というのは、支部長というものは多くの人を助け、御神業を発展させるということの考えでいるべきであって、そこが外れているから、骨折りながらうまく行かないというわけです。」




明主様御垂示 「支部長は自己の職責を全うせよ」 (昭和28年10月1日)

信者の発言
「神様が人類を救済するに御入り用な金は、人類のほうで作って神様に奉納して御使用いただくのが真理であり、それを実現するのが真理の具現であると、私は考えます」

明主様御垂示
「それはそうです。」


信者の発言
「明主様は、入用の金については“金儲けに余念がない”とおっしゃいました」

明主様御垂示
「私はそういうことは知りません。」


信者の発言
「咲見町での御参拝のときにおっしゃられました」

明主様御垂示
「私は知りません。

私は実業家ではないので、人類を救うのですから、金儲けというのはおかしいです。

まるで営利会社のようです。

そうするとメシヤ教株式会社ということになってしまいます。」


信者の発言
「明主様は水上鉱山をやっておられますが、これは金儲けのためと思います」

明主様御垂示
「そうです。」


信者の発言
「ですから明主様御自身で金儲けをしておられると思います」

明主様御垂示
「水上鉱山は金儲けのためです。

しかし全般的に金儲けをしているのではありません。

全般的に考えると間違います。

あなたが漠然と言うからおかしなことになるのです。

最初に水上鉱山と言っていればなんでもないのです。」


信者の発言
「申しわけありません。その金儲けを自らなされるということは・・・」

明主様御垂示
「自らではありません。人に任せてあります。」


信者の発言
「言葉を改めます。人間をお使いになり金儲けをなされているということはもったいないと考えます」

明主様御垂示
「そう考えてもよいです。」


信者の発言
「そこで御神業の金が不足するということは・・・」

明主様御垂示
「不足はしません。必要だけはチャンと神様のほうで用意せられます。」


信者の発言
「現在救世会館につきまして、咲見町の頃には、もっと早くできる御予定であると拝聴しましたが、それが現実において遅れてきておりますが、この原因は金の不足と考えます」

明主様御垂示
「そうばかりではありません。

また金の不足ということは、神様のほうで不足させるので、それは延ばすためですからしようがありません。

私はもっと早いつもりだったが、神様が延ばされたのだから、それでよいのです。

大本教のお筆先に“延びるのも早くなるのも、神様の都合のことじゃ”とあります。

神様のほうではすべて時期は決まっているのです。

ですから会館ができる時期も決まっているのです。

しかしなにしろ神様も邪神と戦いながらやるのですから、その間には早くなったり遅くなったりはします。

しかし結局はちょうど間に合うようになっているのです。

神様の経綸というのはそういうものです。

あなたは人間的の考えでいるから質問したくなるのです。

ですから私でも神様に聞きたくなることがあります。

なぜ神様はグズグズしているのか、と。

人間のほうは早くなったり遅くなったりは始終あるのです。

ですから神様のほうと、その時がピタッと合わないのです。

というのは、なにしろ邪神との戦いだから虚々実々で、早くなったり遅くなったりするのです。」


信者の質問
「神様の必要な金は差し上げ、お使いいただくというのが人間のなすべきことと思います」

明主様御垂示
「そうです。」


信者の質問
「私共教団に奉職する者は、大いに金儲けを考えて、それを実行するのが真善美であると考えます」

明主様御垂示
「それは結構です。」


信者の質問
「そうして教団を見ますと、金儲けになる材料がゴロゴロしていると考えます」

明主様御垂示
「それは教団ばかりではなく、世の中にたくさん転がっています。」


信者の質問
「それで教団に職を奉ずる私は」

明主様御垂示
「その職を奉ずるという言葉が間違っています。奉仕というのが本当です。

奉職というと、官吏や会社員でもそういう言葉を使います。」


信者の質問
「奉仕させていただく私として、教団の幹部に金儲けを材料によって勧告するということは小乗でありますか。

またこの場合に、私の伊都能売(いづのめ)の働きといたしますと、どうするのが伊都能売の働きでございましょうか」

明主様御垂示
「あなたは知らん顔をしておればよいのです。

教団の幹部が何をやろうと、神様がチャンとやられるからいらない世話です。

そうでなければ神様は意気地がないようなことになります。

あなたが黙っていても神様がうまくやられます。

それよりか、あなたは一人でも多く信者を作るということです。

教団の幹部の人に忠告すると言うことは、あなたはたいへんに偉くなっています。

そういうことはぜんぜん考えてみる必要はありません。

あなたの役目は支部長だから、一人でも多く信者を作って発展させるということで、それでよいのです。

第一注意するということは、欠点があるとか、あるいは自分の考えと違っているように思うから注意するのでしょう。」


信者の質問
「注意ではなく、私の考えとしては、例えば会社に職を持っていると、社長や重役が・・・」

明主様御垂示
「ここは会社ではないので、教団なのです。そこを会社的に考えては駄目です。」


信者の質問
「そういうふうに考えましたので申し上げた次第です」

明主様御垂示
「ところが神様がやっているのです。だから幹部は神様が監督しているのです。

幹部が間違っているように思うのですが、私もどうしてああやるかと思うことがありますが、しようがありません。

神様がやっているのだから、神様がなんとかしてくれと思っているから放っておくのです。」


信者の質問
「私も奉仕ですから、神様がやっていると考えましてよいのでしょうか」

明主様御垂示
「そうです。

すべて神様にお任せしておけばよいということで、私の本にたくさん書いてあります。

あなたは御神書を読まないのではないのですか。」


信者の質問
「そこで神様に任せることと、自分の奉仕する時所位において努力するという区別が分かりませんが」

明主様御垂示
「だから神様にお任せして努力するのです。

あなたは切り離すからいけないのです。

「人事を尽くして天命を待つ」で、神様にお任せして努力するのですから、それでよいのです。

今の質問はたいへんよい質問です。

そういうように思っている人があるかもしれないから、そういうことは大いに質問して、本当に心から分かるようにして働いたほうがよいです。」