入信による幸福について


明主様御教え 「霊層界と人間」 (昭和18年10月23日発行)

「霊界は、天国八衢(やちまた)地獄の三段階になっている事は、既に詳説した通りであるが、

これが人間の運命と密接な関係が有る事を、ここに説こうとするのである。

霊界における三段階は大別しての事であって、細別すれば一段は六十に別れているので合計百八十段になっている。

勿論、層になっているので、私は、霊層と名付けるのである。

そうしてこの霊層に対し、人間はいかなる関係があるかを順次説いてみよう。


私はさきに、人間は肉体と霊体と密着している事を説いたのであるが、

その霊体なるものは、実は個体ではなく、今一つのある物との繋がりがあるので、そのある物を名付けて幽体という。

幽体とは、霊の霊であるともいえるので、霊体が肉体を支配するごとく、幽体は霊体を支配しているのである。

この意味において、人間の生命の真の根源は、幽体そのものであるといってもいいのである。

そうして幽体とは、霊界の生活者であるから、人間死するや、霊体は直ちに幽体に引かれて幽体と密着する事になる。

それは生前、霊体と肉体と密着していたのと同様の意味である。

又 幽体は、霊界における百八十段層のいずれかの層に属している事は勿論である。

しかしながら、幽体の居点は常に一定する事なく、その層の段階を常に上下しているが、普通時はある範囲内に限られているのである。

稀には、その範囲外へ出ずる事がある。

それが肉体的に表われる場合、運命の急転となるのである。


人間の運命即ち幸不幸は、幽体の居点である霊層の階級によるので、それは実に決定的である。

そうして霊界においても主宰神があり、八百万の神が分担管掌している事は、さきに述べた通りであるが、

幽体に対し、断えずそれぞれの命令が下るのである。

従って、その受命者の任務遂行が霊体に反映し、肉体に反映し、肉体がそのごとく動くのである。

いかなる人間といえども、自己が計画し企図する事が、常に実際において意のごとくならない事の多いのは誰もが経験する所であろう。

従って予想外な運命や、意外な結果に逢着(ほうちゃく)するという事は、

実は現世の人間の予想や思念は、幽体の運命に左右されなければならない法則であるからである。

又自分自身に対し、眼に見えないある大きな力が常に支配しつつあるような感想が大抵の人はあるものである。

この支配者とは即ち幽界における支配者即ち神であって、健康、富裕、平和の世界であり、

これに反し、下方にゆく程、病気、貧困、争闘等の絶間ない醜悪世界である。

その中間帯である八衢(やちまた)がちょうど現界に相応しているから、

現世は健富和の幸福、病貧争の不幸と入り混っている事は、誰もが知る所である。


右の理によって、現世における幸不幸は、幽体の住する界層の階級によって定まるものである。

従って、人間が人為的にいかに幸福を求め、実現しようと努力しても意のごとくならないのは、右の理によるからである。

しかし、現世においてこういう例もある。

それは富裕者でありながら足るを知らず、吝嗇(けち)なる事貧困者と異ならない人があるが、

これらは人為的に苦心努力の結果、一時的富裕者となったまでで実は幽体は下層にあるから、

かような人が死後霊界に往くや、幽体相応の貧困者となるので大いに後悔するものである。

故に、幸福者たらんとするには、幽体を上層に住する事より外に道はないのである。

しからば、それはいかなる方法によるかというにこれは何人といえども知らねばならない事であろう。


ここで、幽体が何故上中下に分離するかという事であるが、それは左のごとき理由によるのである。

即ち、幽体の重量によるのである。

軽い程上層に、重い程下層に往くのである。

そうして軽いとは幽体が清浄であるからであり、重いとは溷濁(こんだく)しているからである。

溷濁とは勿論 罪穢に因るのであるから、清浄な幽体たらんとするには、その罪穢を滅消しなければならない。

しからば罪穢とは何ぞや、言うまでもなく自己愛による不正、虚偽の手段を以て人を苦しめ世を毒するという悪の行為によって発生し堆積するのである以上、

それを滅消するには、その反対である利他愛による正義真実等の善的手段によって人に幸福を与え、国家社会の為になる行為を多くすることより外にないのである。

勿論それは厳然たる天則で、人力のいかん共為(な)しがたいものである。


右の意味によって、私の説く現幽相互の関係を知ると共に、

衷心から信じ得らるる人こそ幸福の門に一歩入ったというべきである。

右の霊層界について、今少し言う事がある。

天国に相応する所の上層界は、健富和の活力が生々として流通しつつ、上層程それが高度である事は勿論である。

かかる説は、私の観念による仮説と思われ易いのであるが、決してそうではなく、事実である事を立証してみよう。


私が永い間、本医術によって患者が治癒した場合、健康恢復のみではなく、性格も一変する事である。

それは争を厭(いと)い、親和的となり、楽天的となるのである。

特に講習を受け病気とそれに関する霊的事象を知るに及んで人生観が一変すると共に、不思議な現象が起り初めるのである。

それは健康のみではなく必要な物資も恵まれ豊かになる事であって、

しかも、人為的では更になく、惟神(いしん)的に思わざる所から、奇蹟的に人手するのである。

この事は受講後の誰もがいうのであるから、誤りはないのである。

又、今まで不和であった人と親和し、今までよりも人から尊敬を受け引立てられたり、希望が実現したり、仕事の能率が上り、試験にパスする等幸福的の事象が非常に多くなるという話をよく聞くのである。

右は、いかなる訳かというと、病患の治癒者、特に受講せし者は、人間の健康や生命の真実を知るに及んで、

盲目であった霊魂が、飜然(ほんぜん)と覚醒するのである。

彼の釈尊がいった等覚を得て仏となり、正覚を得て菩薩となり大覚を得て如来となるという意味と同一であろう。

従って、受講者は等覚を得るのであるから即身即仏となり、霊的地位が向上する訳で一躍霊層界の上級に転位する事になるので、右のごとき事象に恵まるる事となるのである。」 (「明日の医術 第3編」より)




明主様御教え 「霊層界」 (昭和22年2月5日発行)

「霊界は、天国、八衢(やちまた)、地獄の三段階になっている事は既説の通りであるが、これが人間の運命と密接な関係をもっている事を説いてみよう。

そうして、右の三段階を細別すれば一段は六十になり、合計百八十段階の層になっている。

私はこれを名付けて霊層界という。

人間が現世に生まれるという事は、神の命によるのである。

生命の命は命令の命と同一であるのも、その意味であろう。

誰しも思う事は、人間は何が故に生まれたかという事である。

この事を真に把握せざる限り、正しい行動も安心立命も得られないのみか、空虚な酔生夢死的人生におわるおそれがある。

しからば神の意図とは何ぞやといえば、この地上をして理想世界、言い変えれば地上天国を建設する事である。

とはいえそれはおそらくその規模において、その構想において、壮麗雄大なる言語に絶するものがあろう事は想像に難からない。

何となれば無限に進歩しつつある文化は、極まるところがないからである。

この意味において現在までの世界歴史は、その基礎的工作に過ぎなかったのである。

そうして神は一人一人それぞれの使命を与え、特長を持たせ、生き更(かわ)り死に替わり、理想目的に向かって前進せしめつつあるのである。

従って善も悪も、戦争も平和も、破壊も創造も、進化に必要なる一過程に過ぎない事を知るのである。


そうして今はいかなる時かは詳細説いたごとく、私の唱える夜昼転換期のそれであり、全世界は今まさに新時代に向かって一大飛躍せんとしつつあり、

今人類は野蛮の衣をカナグリ捨て、高度の文化人たる域に達せんとしつつある事である。

ここにはじめて戦争も病気も貧乏も終焉を告げるのである。

もちろん本医術の出現はそのための先駆であり、核心的のものである。


以上のごとく、神の意図によって断えず人間に命令を下しつつある。

それはいかなる手段によるかというに、霊層界においては人間一人一人の種が存在する。

この種を私は名づけて幽魂という。この幽魂にまず命が下るのである。

しかるに幽魂は人間霊体の中腑にある現魂に向かい霊線を通じて神の命を伝達するのである。

しかしながら一般人間が神の命を直感し得ることは至難であって、ある程度浄化されたる霊体の保有者にして可能である。

それは大多数の人間は、多量の曇りに遮られ感知出来得ないばかりか、その曇りを利用する邪神によっても妨害されるからである。


右の証左としていかなる人間といえども、自己の企図する事が意のごとくならない事や、予想もしない方向に運命が転ずる事があろう。

また人間は常に何物かに支配されいる感や、どうにもならぬ運命の経路を辿(たど)る事があるであろう。

そうして霊層界にある幽魂はそれ自体の階級によって、使命も運命も差別がある。

すなわち上位の階級にある幽魂ほど神命も大きく高級でしかも幸運であり、下位に降る程漸次右と反対で薄幸となり、最下段は最も不幸者となるのである。

何となれば上位は天国に相応し、病なく争いなく物資饒(ゆたか)に歓喜の世界であるに反し、下位に降る程それと反対に、病気、争闘、貧窮に充ちたる苦悩の世界であるからである。


この意味において人間が真の幸福者たらんとするには、まず霊層界における幽魂をして向上せしめなくてはならない。

しからばその方法如何というに、それは霊体を浄める一事である。

本来霊体は曇りの多少によって上昇し下降する。

すなわち浄魂は軽きをもって上昇し、曇魂は重きをもって下降する。

故に浄魂者たらんとするには、善行を重ね、善徳を積まねばならない。

それは相当の時間と犠牲を払わねばならないが、ここに一挙にして霊層界の数十段階を飛躍し得る方法がある。

すなわち本医術の教修を受ける事である。

本医術受教者が異口同音に言う事は、精神的にはまず人生観が一変する。

智慧証覚が豊かになって、事物の真相をよく把握し得られる。

前途に光明を認め、不安は解消する。

楽観的になり、初めて真の安心感を得た。

また物質的には不思議に財物が集まり、不自由がなくなる。

不幸が減り幸福の面が多くなり、実に不思議である。

全く救われた。有難いという感謝の声は日々無数に私の耳や目に入るのである。」 (「天国の福音」より)




明主様御講話 「幸運の秘訣」 (昭和29年1月25日)

(御論文 「幸運の秘訣」) 

「まだ少し書き足りないところがあるのです。

今のは経だけを書いたのですが、緯の段階が肝腎なのです。

その緯の段階の、つまり上から下まで何階にもなっている、そこがそのまま写るのですから、

始終うまくゆかない、苦しみや災難があるということは、そういう段階に霊がいるわけなのです。

だからいくら人間が工夫をしてうまくやろうと思って一生懸命にやっても、そうはゆかないのです。

ようやく金を溜めたと思ってヤレヤレと思っていると、どうしても出さなければならないことが次から次へと起こってくるのです。

病気については、信者には問題にならないが、世間一般の人はたいてい、やっと貯蓄ができてまず金の心配はないということになると、必ず病気の心配が起こるのです。

そうしてヤレ入院だ、手術だ、と言って、おそらく溜めた金は残らずふいになって、それでも足りないで借金するというようなことは随分多いです。

というのは、つまり霊層界の地位が地獄にいるから、どうしても地獄のとおりに写ってくるわけです。

だからいろんな、方位が良いとか、あるいは十二支で、午の年の午の月とか、未の月とか、そういうことを気にしたり、方位方角をやっても、決してうまくいったことはないです。

むしろそういうことを始終気にしている人の方が、運が悪いくらいなものです。

その運が悪いというのは、そこにわけがあるのです。

そういうことを気にかける人は霊が弱いのです。

つまり霊の力が弱いからして、あらゆるものに怯えるのです。

それで霊の強い弱いということは、肉体の健康の強い弱いのと同じことなのです。

だから非常に臆病な人や、物に怯えるような人は霊が弱いのです。

つまりどうせ悪いことをする人は悪の方ですから、それに負けるわけです。

そういうようなわけで、自分の魂を霊層界の高い所におくようにすれば、またそこは良いことばかりが来る世界です。

人間という奴は、悪いことというものは重なって来るものなのです。

私なども随分経験がありますが、なにか災難とか苦しみが来るときは必ず健康が悪いです。

これは誰に聞いてみてもたいていそうです。

やっぱり健康でいる時には運勢ということも良いわけです。


だから信仰に入って浄霊を受けさえすれば、みんな運が良くなります。間が良くなります。

よくお蔭話にありますが、随分金に苦しんだのが、入信してから急に思いもしない金が入ってきたり、楽になるということは、つまり霊層界が上がるからです。

それで、それは神様の光をいただきますから、そこで霊が浄まるから、そこで今読んだように霊が軽くなるから上に上がるのです。

そこは貧乏や金に苦しむところがない世界ですから、そこのところは、はなはだ微妙な問題でいて、一番確実な方法です。

これさえ守り、これさえ信じていれば、運の悪くなる気づかいはないです。

ただ一時は、霊の曇りを取られるために一時的苦しみはありますが、それは決して長いものではないので、それさえすめば必ず良くなるのです。

信仰の妙諦というものはそこにあるのです。

ところが今までの宗教は、そういうことは説かなかったのです。

ということは、光がなかったのです。

あっても月の光で薄いから、そう著しく曇りを減らすことはできないのです。

だからして運勢も、良いことがあるが悪いこともあるというわけで、年中苦労しているのです。

それで、月の神様ということを言いますが、月の光というものは薄いのですが、それ以外に、月というものは暗(やみ)ということがあるのです。

そこで月の光だけをいただいて、まず運が良くても、必ず暗があるから、その時にやられてしまうわけです。

だから今までの世界では本当に運が良くなり、永遠に栄えるということは絶対にできなかったわけです。

それは歴史を見ても分かるとおり、無論天下が長く続かず、それからまた何代もうまくゆくという家はなかったです。

そこでどうしても太陽の光でなければ駄目なのです。太陽の光は毎日必ず出るのですから、太陽に暗はないのだから、悪いことが幾日も続くということはないのです。

そういうようなわけで、どうしても太陽の光でなかったならば本当の幸福は得られないわけです。

一時的しか得られないわけです。

それから運ばかりでなく、すべてがそうです。

だから今までのことはみんな一時的で、続かないのです。

ちょうど病気を薬や医者でやると一時は良くなりますが、必ず元通り再発するわけです。

なにもかにもそうなっているわけです。つまり永遠性がなかったわけです。

運の話はそのくらいにしておきます。」




明主様と御対談 (二) 「貧から解放されるには」より (昭和29年7月28日発行)

明主様信仰者はみんな貧困から脱出できる

明主様御発言
「その前にもういっそう根本的に言えば、人間は霊と体との両方で成り立っているのです。

ところがその霊を認めないのです。

医学というのは体を根本にして研究しているのです。

しかし私の方では霊主体従と言っているのです。

つまり、人間一人ひとりの中心は魂ですが、魂というのは霊界に属していて、体は現界に属しているのです。

この霊界というのは現界と同じで層になっていて、その層は百八十段ありそのどれかに魂は属しているのです。

たとえて言えば地獄にあれば、貧乏、争い、忌まわしい悪いことばかりがあり、

だんだん上に行くに従ってだんだん良くなって、真ん中の中有界というのは、良いこともあるし悪いこともある中位の所です。

それを越すと天国になりますが、ここは良いことの方が多いのです。

良いことばかりが流れているのです。

そこで人間に曇りがあると、罪によって、下の地獄に行きますから、地獄のすべての影響を受けます。

そこで貧乏で苦しむということも、そういった下段の方に影響されているわけです。

籍が下にあるからです。そこでその籍を上にすれば、そういう忌まわしいことが少なくなるから、貧乏やいろんな苦しみはずっとなくなるわけです。

だから籍を上にすれば、嫌でも良いことばかりが来て、悪いことは来ないというわけです。

そこはそういうようなことになっているのですから、しかたがないのです。貧乏もそういうわけです。

今の人間はみんな地獄にいますから、それをだんだん上に引き上げなければならないのです。

ですからメシヤ教の信者はみんな貧乏をしなくなります。」




明主様御教え 「不思議な団体」より (昭和11年御執筆)

御神体奉斎と月次祭参拝により病魔は退散

「我 観音会下付の観世音菩薩の御神体を奉斎して会員となり、

月に一回ないし三回本部の祭典又は講話会に出席をなし、半ケ年か一カ年を経過するにおいて、

一家より病魔が退散するというのは、実に不思議な事である。

一家に病気が無い以上、自然物質は裕かにならざるを得ない。

病人が無く、物質が豊かであるとすれば、不和や争の起りようはずがない。

ここに全く病貧争の不幸は解消する。

こうなった以上、総ては順調に向うのは当然な話である。

これにおいて、いかなる人といえども、感謝の心が湧起しない訳にはゆかない。

その結果として、報恩の心は近親へまでもその恵みを頒ち与えずには措かないという事は必然の理である。

又、その天国的家庭を見た誰もが、その事実に心を動かさずにはおられないから、ついには共鳴者たるようになるのは勿論の事である。」




「問答有用 徳川夢声 連載対談」より (昭和26年5月6日発行)

明主様信仰者は実によく災難を逃がれる

「成金というものは没落しますね。

どういうわけかというと、あんな奴が出世しやがったというんでみんなうらやむ。

それが悪霊になってその人を取り巻くからなんです。

感謝の想念は光になってその人へいく。

恨みの想念は曇りになっていく。

光ってくるとだんだんしあわせになるし、曇ってくると病気だとか災難があるわけです。

わたしの信者は実によく災難を逃がれる。

それは科学的に説明できるんです。

御守りを入れてると、御守りから光りが放たれるから、どうしたって災難を受けないわけです。

不思議でもなんでもないんですよ。」




明主様御垂示 「明主様信仰により運命好転」

信者の質問
「観音信仰により個性も変わるものでしょうか。また、個性によって運命も変わるものでしょうか。」


明主様御垂示
「個性は素晴しく変る。従って、運命も大いに変わる。悪くでなく良く変る。

運命はその人の心掛けと行ないでどうにでも変わる。宿命は変えられぬ。

人間は上中下の三段とすれば、中なら中の範囲内で変る。

観音信仰は身体が丈夫に、地位がよくなる。

嘘のような事が沢山ある。」




明主様御垂示 「入信した人は実に運がよい」 (昭和25年)

「使い途になる人間になる事で、それには本当の信仰をする。

そして霊的に浄まる事である。

入信した人は実に運がよい。

救世教へ入らぬと滅ぶ・・・という風な曲解的宣伝は極めて警戒せねばならぬ。

これは専売特許ではない。ただ一番力が強いのである。

「怖さ故の改心はホンマモノでないぞよ」とお筆先にあるが脅迫信仰はいけない。

一つの刑罰によって信仰する・・・という事になる。

立派な人間になる・・・これが本当である。」




明主様御垂示 「入信すると心配が段々軽くなる」

信者の質問
「二十八歳の妹、二十三年九月から重体の病気のため養生中でしたが、

突然に離縁問題が出まして、その話に非常な心配を致しておりますところへ、

他の家に縁づいております二十五歳の弟が家庭の苦しみのため家出をなし、自殺をするところでしたが、御守護を頂きまして有難う御座居ました。

弟はこの家には縁のないもので御座居ますか。

私の家に次々と心配事の出来ますのは、私に何か間違った事があるのでしょうか。

それとも私の家の浄化でしょうか。何卒御回答御願い申し上げます。」


明主様御垂示
「この家に罪穢が沢山ある。

五六七の世になる迄は誰でもそうで、決して心配事がなくなるような事はない。

ただ入信すると段々心配が軽くなる。

自分自身の心配事に相応した曇りがあるのである。

夜の世界の闇が残っており、その闇だけ邪霊が活躍する。

故に邪霊も浄化するものであるから、本当は悪いものではないかもしれない。

ただ、悪い事も年々小さくなっている。」




明主様御講話 「入信後の浄化は小さくて済む」 (昭和28年11月17日)

「それで信仰に入ると浄化があるが、つまり神様の御恵みによって小さくてすむのです。

大難を小難にというわけで、小さくてすむのです。」




明主様御垂示 「災難は御守護によって軽く済む」 (昭和25年5月18日)

信者の質問
「私儀四月初め頃より御神体にお参りの節、毎日瞬間的に神床に金色の大光明如来様が映ります。

五月十日朝起床致しますと、首にかけております御守様が中の袋共紛失致しており、首には空の袋だけがかかっておりました。

吃驚致し、探してみますと枕より一尺位離れた所に置いてありました。

これは私が無意識の中に引出した事と存じます。

早速御神前へ参り御無礼をお詫び申し上げました。

その後、腰と胃が一日三、四回位痛み、同時に上半身が電気に触れたような激痛を感じます。

肩は非常に張り首が回らなくなります。

御浄霊をいただきますと大変楽になりますが、またすぐ元のように痛みます。

いかなる御浄化で御座いましょうか。御伺い申し上げます。


なお、五月十一日、父(K・五十七歳)が茅ケ崎市よりの帰途、バスにて、列車との衝突事故のため負傷、当然生命の無きところを明主様の広大なる御守護を頂きまして軽傷にて済ませていただきました。

会長先生と岡田先生の御浄霊を頂きまして大変傷も良くなりました。

突発の事とて市立病院に入院しておりますが、退院次第御礼に参上させて頂きたく存じております。

本日は父に代り御礼に参上させて頂きました。謹んで御礼申し上げます。今後共御守護の程御願い申し上げます。

右は霊的にいかなる訳が御座いましょうか。御伺い申し上げます。」


明主様御垂示
「袋は無意識にやった。憑っている副守護神が苦しいからやった。

やはり浄化だから、気長に浄霊すれば治る。

災難は決っている。それが御守護によって軽くすむ。」




明主様御垂示 「変質性神経衰弱も入信により治る」

神仏にツバ、小便をかけたい変質者

信者の質問
「現在四十九歳の女、三十三歳の時に神経衰弱にかかり、良くなったり悪くなったりが三ケ年、

その後、神様や仏様の前へ行くと唾・小便をかけたくなるのです。

しかしまたそれをしてはいけないと言う声もするのです。

それは恐ろしくて、四十五歳の九月頃よりのぼせ、四十六歳の六月より床についたままです。

それは起きると悪い事をしたくて、それが恐ろしいのです。

その兄嫁が昭和十二年十二月二十五日弁膜炎にて、道にて倒れたまま死亡しました。

再婚の兄嫁が二十六歳より月のものが無くなり、この家には子供がありません。

この方は現在三十六歳です。今後どういう方針を取ればよいでしょうか。」


明主様御垂示
「信仰へ入ると治る。」






明主様信仰者に人相学は妥当しない


明主様御垂示 「明主様信仰に入信すると人相学は妥当しない」

人間の性格が一番分るのは言葉と動作

「私も人相を覚えようとしたが、信仰に入るとアベコベに変る。

以前芝の石龍子にみてもらった事があるが、実によくアベコベに当っていた。

そこで覚える必要がないから覚えなかった。

一番人間の性格の分るのは言葉と動作である。

よく信者以外の人で私を欺そうとするが、どこか話の中に辻褄の合わない所がある。


以前こういう話があった。

出口王仁三郎氏がある時、その子供が「お父さん火事だ」と言ったが、その時先生は「遠い火事だから行く必要はない」と言った。

近いならただ「火事だ」と叫ぶ。「お父さん」というのは余裕がある。

すべて法があるから注意していれば判る。


話でも、しつっこい人と要領を得ない人がある。急所を突く事が大事である。

日本人は特に下手だ。映画をみていつも感ずる。

映画のタイトルなど実にその表現がうまい。

日本人は封建的であるから下手である。

それは嘘を吐く事を教えられて来たから、私もいろいろの人と話すが、外国に永くいた人の話は要領を得ている。


信仰者はどうも俗界、世間から掛離れてゆく。これはいけない。

映画、ラジオ、新聞を出来るだけみる。

そうして時代の空気に離れぬようにする。

大本教、日蓮宗、天理教、皆仙人臭くなってくる。

本教は宗教臭くない。」




明主様御垂示 「明主様信仰に入信すると人相学は妥当しない」

指紋は運命、性格の印

信者の質問
「指紋には何か意味が御座居ますか、御尋ね致します。」


明主様御垂示
「すべて人間の身体は皆意味がある。

運命、性格等のしるしになっている。特に指紋には意味がある。出口氏は皆流紋である。

人間の肉体はどれでも研究すればある程度まで運命、性格等が判る。疣(イボ)、ホクロ等によっても判る。

信仰によれば人相等も影響しなくなる。

信仰の深い人は人相見と殆ど逆のように変ってしまう。

人相は入信すると逆になる。故に人相を覚える要はない。

天源術など割合い判る。


一番人間の性格の判るのは言葉と態度・・・話の仕方・・・である。

正直にいえば、どっか破綻のない・・・、一番分るのは嘘である。

人を見ると共に自分が要領よく話する癖をつけるを要する。

着物の柄でもネクタイの柄などでも性格が分る。失敗するか成功するかも判る。

話がしつっこくて要領を得ぬ人もあり、簡単に喋って物の真相に当る人とある。

大本信者の時分、出口師の子が「お父さん火事だ」と言った。

すると師は「遠いから行ってみる要はない」と言った。

「どうして判るか」と聞くと「近い火事ならお父さんという事は言わぬ」と言った。成程理屈だ、と言った事がある。

言葉の節々に注意すればある程度判る。

初対面の挨拶などでも智と不智を知る。法に叶うか叶わぬかである。

自分も急所を言うようにする。

日本人はそういう点一番下手である。

日本人は封建性が長く続いたから、嘘吐くようになっている。

圧迫されているから、物を捻じ曲げて話す。

日本人はよく笑うという、そういう習慣が日本人に着いている。

曲げたり、色つけたりするんで、本当の事が判らぬ点がある。


信者は世の中の俗界と掛離れる傾向がある。

新時代に合ってゆかなくてはならぬ。

出来るだけ新聞雑誌を読む、ラジオを聞く、映画をみる。

時代の空気と掛離れぬようにしなくてはならぬ。

今迄の宗教は世の中と掛離れる事をいいとした。あれでは現代人を救う事は出来ぬ。宗教臭くない事である。」




明主様御垂示 「明主様信仰に入信すると人相学は妥当しない」 (昭和26年9月8日)

信者の質問
「人相、手相は人の話を聞いても、良く当たることがありますが・・・」

明主様御垂示
「当たります。しかし全部は当たらない。当たる率が多いのです。


信者の質問
「変わるそうですが、簡単に変わるものでしょうか」

明主様御垂示
「しかし、今日、明日、変わるのではない。だんだん変わってきます。


信者の質問
「信仰を持っていると良いように変わるものでしょうか」

明主様御垂示
「信仰に入ると良いほうに変わるんです。手相を見てもはずれちゃいます。

以前、石龍(せきりゅう)師に見てもらったがぜんぜん反対です。

反対に解釈すると、実に良かったということになる。」




明主様御垂示 「十二支と九星について」 (昭和23年10月27日)

信者の質問
「十二支と九星との関係について相性、吉凶等を言われますが、その真否を承ります。」


明主様御垂示
「あるにはあるが、信仰に入れば問題でない。

寧ろ反対の場合が多い。(反対でよく当る)

九星は配偶者にいうが、要は自分の霊的段階を上にすればよい。

家相とか方向などよく世間でいうが、私は目茶苦茶に自分の推量で決める。

ここの家の方向なども入る時は気に入らなかったが、入ってみると実によくなっている。

坤の方向に流があり、石と水になっているから金が入る。

大先生のお移りになる家は、門は必ず戌亥(巽か)である。

宝山荘などワザと池を掘らした。

(今迄の世界は夜で日がなく、すべて二段であった)

早雲寮も辰巳に門を作る。

今度は三段で、学校なども小中大・・・九年になる。

今迄は三の数を用いなかった。四年とか八年とか、中学年四年とか、三を用いない。

霊層界が天国の状態におけばすべてよくなる。

今迄はこれを徹底して説いてないから幸福になれぬ。

信仰して不幸になる結果、神仏を否定するのがよくある。

枝の神で利益を与える力がなかった。

一番偉い神が月神であった。」




明主様御垂示 「明主様信仰者に方角、年回りは影響なし」 (昭和25年1月25日)

信者の質問
「家を建て、また修繕する時にあの方向には金神様がおられるとか、

また主人の年廻りが悪いとか言いますが、これは信じて良いのでしょうか。また迷信でしょうか。御伺い致します。」


明主様御垂示
「入信した人は霊が強いから、何の障りも受けぬ。

であるから、そんな事は迷信になる。

家相は少しはある。方角や年廻りなどは少しもない。」






明主様信仰者に対する呪いは効果なし


明主様御垂示 「藁人形の呪いについて」 (昭和26年11月18日)

「こんな呪(註 稲荷の裏の木に人の形を彫り、六寸釘が七本打ち込んであった事例)をされることがありますが、神様の御守護があればなんでもないですよ。

呪ということが間違っているんですからね。

しかし、呪というのは、効かないことはないですよ。なかなか効きますよ。

あれは、怨の霊ですからね。

効くけれども、こっちに神様の御守護がある以上、障りはありませんよ。

しかし、こっちが信仰する神様の力がないと、ある程度やられますが、メシヤ教の神様はなんでもありませんからね。

そんなものは寄りつけもしません。」




明主様御垂示 「藁人形の呪いについて」 (昭和23年7月28日)

信者の質問
「藁人形を釘で打って人を呪う方法がありますが実際効果がありましょうか。」


明主様御垂示
「ある程度効果があるが、お道に入っていればそんな怨みなんか来ません。」




明主様御垂示 「藁人形の呪と信仰 (明主様人型の御浄霊)」 (昭和23年)

信者の質問
「藁人形に釘を刺して人を呪うのは、どの程度迄相手に影響を与えるもので御座いましょうか。

なかなか治らぬ時は、どう致したら宜しゅう御座いましょうか。右御教示願い上げます。」


明主様御垂示
「呪など観音教に入れば何等効はない。

私はかつて、人間の形をかいて、名をかき入れ、浄霊した事がある。

ある程度効果があった。これは救う方である。

藁人形は悪い。」




明主様御垂示 「呪いへの対処」

信者の質問
「昨年子宮癌手術致しました。

現在は左足が神経痛の状態でございます。

他の婦人がうらんで人形で釘を打ち祈っております。

その場合どう致したらよろしいでございましょうか。御伺い申し上げます。」


明主様御垂示
「観音様の御守護があれば何でもない。」






明主様信仰者の遺体は温かい


明主様御垂示 「信者が死んでも温かい理由」 (昭和24年4月23日発行)

信者の質問
「入信してから死んだ人の体が死後もたいへん温かいのはなぜでしょうか。」


明主様御垂示
「これは入信すると霊的に違ってきて霊が温かくなるんです。

火素が増えるんですね。

この火素が、死んで霊が抜けても残っているわけです。・・・

温かいということは愛の表象です。

よく、あの人は冷たいとか、温かい感じのする人だとか言いますね。

火素は愛の精神から発生するもので、愛の発動の中心は心臓になるのです。

前の本にも書きましたが、心臓は霊界の火素を吸収するんですからね。

温かい人ってのは心臓が強くて熱を多く吸収する、熱の吸収が多いと肺の活力が旺盛になる。

肺は水、水は火によって湯となり活動するんですからね。・・・

寒いときは、晴れた日より曇った日のほうが暖かいんですが、これは曇った日のほうが水分が多いからよけいに火素が働くんです。

私は火素が多いから、ぬるい湯に入っても、上がって一時間、二時間は暑くて暑くてしかたがない。

冬の寒いときでも、風呂に入って一、二時間はタオル一枚ひっかけているだけです。」




明主様御垂示 「信者が死んでも温かい理由」 (昭和24年5月10日発行)

信者の質問
「入信して死亡した人の身体が死後もたいへん暖かいようですが、なぜでしょうか。」


明主様御垂示
「入信すると霊的に異なってくる。

火素が増え、霊が暖かくなる。

それで死んで霊が抜けても暖か味が残るのである。

暖かいとは愛である。

あの人は暖かい、あの人は冷たい人だなどとよく言われるが火素による、すなわち愛の精神から出るのである。

心臓が丈夫だと霊界から火素を多く吸収し、火素が増えると肺の活力が旺盛になる。

ちょうどボイラーと蒸気の関係のようなもので、肺病が冷たい理知的な人に多いのもこのわけである。」




明主様御垂示 「信者が死んでも温かい理由」 (昭和24年6月15日発行)

信者の質問
「入信して死亡した人の体が死後もたいへん温かいようでございますが、なぜでございましょうか。」


明主様御垂示
「入信すると霊的に違ってくる。

火素が増えるから霊が濃くなる。

死んでもそれが肉体に残って温かいのである。

死体が硬直しないのも火素が多いからである。

徳の高い人に接すると温かく感ずるのも火素が多いからである。

すなわち愛情が火素を作るからである。」