教修の時期について


明主様御垂示 「重病人もお光の下付を受けてよい」 (昭和24年7月16日)

信者の質問
「重病人が必死に御守を戴きたがる場合は授けても勿体ない事はないでしょうか。」


明主様御垂示
「授けないのが勿体ない。

病人だったらなるべく大光明如来様の前へ寝かす方がよい。

月経時の御給仕はいけないなど、いろいろ昔の間違った習慣がある。」




明主様御垂示 「生命にかかわる病気は治ってから入信すべき」 (昭和24年10月25日発行)

信者の質問
「生後六カ月の幼児、御浄霊により高熱が続き発汗はなはだしく、全身粟粒大の発疹をし疥癬のようになり、

元気もよく食欲もあり、便通、発汗、順調になりましたけれども、

夜になると四十度以上の熱が出ては汗を非常にかいております。

母親はぜひ入信させていただき、みずから浄霊の希望でありますが家の都合でまだ入信しておりません。

私が総本部へ伺うのでこの病人の浄霊ができなくなりましたので、母親も非常に心配しております。

入信者でない家族の御浄霊は、特にこのような場合は御浄霊を断ったほうがよろしいでしょうか。」


明主様御垂示
「断らなくてもよい。やってやるべきだ。

汗かいたりなど非常によい。症状からみて順調な浄化である。

本当は病気が治ってから入信するのが本当で、病気が治ってありがたく、やむにやまれぬ気持ちで入信するのが本当である。

例えばもし治らないうちに入信して死ぬ場合がある。

入信してから死ぬなんてあんな信仰は駄目だということになる。

すると怨まれる。

特に肺病などはよけいにそうで、入信するとよけいに浄化が強くなる。

肺病は医者にさんざんかかって、もういけなくなってから本教へ来るので、薬毒がうんと溜まってる。

それの浄化が起り、浄霊するとかえって死ぬ場合があるから、特に肺病は治ってから入信するようにしなくてはいけない。

ただ生命に関係のない病気は病気の治らぬうちに入信してもよいが、生命にかかわるのは治ってから入信すべきである。

これなど順調だからきっと治る。そうすれば家の人も判る。


また入信してすぐに光明如来様を祀らせたりせず、だんだん本人が判って信仰が進み、拝みたくなり、ぜひというときになってから祀るべきである。

すべて物事は漸次進んでゆくことがよくそれが順序である。

突然に変わるのは本当でない。


例えば新しく教導所を開く場合、最初はできるだけ小さくする。

人間が赤ん坊から育ち一人前になるごとく、また草木の種子がだんだん二葉から大きく育つ。

それなら根が張り枯れたりなどしない。これが大自然の実相だ。

私などこの仕事は六畳一間から始めた。

信仰も最初は種蒔きであるから話すだけにしておく。

それが育つに従い先方が耳を傾ける程度になったら雑誌新聞を見せる。

そのうちに教修を受けたくなり教修を受けさす。

そのうち病気が治ったりなどして光明如来様をお祭りする。

このようなやり方で入ったのは信仰に動揺がない。

急いで入信したのはいわゆる根が固まっていないから動きやすい。

これはいかなることでもそうである。

おもしろいもので最近新興宗教というと本教が一番目指されるが、決して一番になろうと思ったわけではない。

これも最初は目立たぬようできるだけ大きく見せないようにした。

この点世間とアベコベでその結果一番拡がったようだ。」




明主様御垂示 「生命にかかわる病気は治ってから入信すべき」 (昭和28年6月1日)

信者の発言
「三十四才の女、二十六年二月入信いたし御用をさせていただいております。

先月二日以来浄化にて床についているほうが多く、ヌラのような物を上げております。

乳房の上、鳩尾(みぞおち)、腕の下に大きいのは指先大、小さいのは小豆大のコチコチした物があります」

明主様御垂示
「押すと痛いですか。」


信者の発言
「あまり痛みません」

明主様御垂示
「熱はありますか。」


信者の質問
「ありません。たまに三十八、九度くらいになる程度であります。

食欲は茶碗半分くらいにて体力は弱っております。

浄霊は一日二、三回いたしますが変化はありません。

入信後間もなく龍神が出て来たことがあります。

三十二才の弟は長男で入信いたしておりますが、両親はまだでございます。

強く反対もしないが入信はしないという状態でございます。

本人の希望で父親に話したことがありますが、今もって分かりません。

龍神と現在の浄化に関係がございましょうか。

今後どのようにいたしたらよろしいでしょうか」

明主様御垂示
「薬毒はどのくらいはいってますか。」


信者の発言
「そうとうにはいっております。

新しいマイシンなどの薬は入れておりませんが、サルバルサンを十五本くらいしているそうで、あとはブドウ糖に栄養剤くらいでございます」

明主様御垂示
「あとはと言うが、それが悪いのです。

あなたは何でもなく思うでしょうが、ブドウ糖などは悪いのです。

これはまず駄目です。

一旦良くなったのですか。」


信者の発言
「ある程度良くなったような状態でしたが」

明主様御垂示
「難しいです。

私に聞いてくれというのでしょうから、私の返事は「娘さんがなおったら信仰にはいりなさい。なおらないうちはよしなさい」です。

信仰に入れてなおすということは原則に外れています。

なおってから信仰に入れるということが本当なのです。

あなたはその理屈は知っているでしょう。

古い本に書いてありますし、また教えてもあります。

それは、命に関わる病気はなおってから信仰にはいるようにするのです。

それから命に関わらない神経痛などは、病気がなおらないうちに信仰にはいっても結構です。

命に関わるようなのは完全になおって、とにかく命の心配がないというくらいになおってから信仰にはいるのが原則ですから、

今の人はまだ曖昧で命に関わる懸念があるから、そういうときに父親を信仰に入れるということは間違ってます。

だからはいらないほうがよいのです。

そうでないと、「信仰にはいればなおると言うからはいったら死んでしまった、メシヤ教というのはいい加減なものだ」ということになるから、骨折って結果が悪くなります。

だから今言ったようにするのです。

信仰でなおすというのが本当ではないのです。

信仰は治療機械のようなものではありません。

「なおってありがたい、こんなに丈夫になった、だからどうか自分もそういった困っている人を助けたい、それには信仰にはいってお力をいただきたい」というのが順序です。

だからその順序が狂っていては、どうせ信仰にはいっても本当の順序にはなりません。

それが理屈にあっているのです。

だからなおりもしないのに信仰に入れるということは理屈に合いません。

また、信仰するからなおしてくれというのでは、とにかくおかしな話です。

それでは神様をいくらか軽く見るというか、そういうことになります。」




明主様御垂示 「生命にかかわる病人は教修を受けてはいけない」 (昭和24年11月26日)

信者の質問
「喉頭癌の人で五十七歳(男)、教修も受け光明如来の御霊鎮もしていただきましたが、

楽にならないので御守護願いを致しましたが、あまり変化がありませんが、いかがいたしたらよいでしょうか。」


明主様御垂示
「喉頭癌は声出ず、食少い。固形物とれぬ。

レントゲン放射しなければ治る。

患部と後ろに塊がある。指で溶かす。

霊力が強くないと溶けない。

ラジウムまたはレントゲンで固めたのは駄目である。絶対に溶けぬ。ラジウムは組織を破壊する。

生命にかかわる病人は教修を受けたり光明如来様をお迎えしてはいけない。

急所を外れ、見当違いすると苦痛をよけい増す。」




明主様御垂示 「生命にかかわる病気は治ってから入信すべき」

信者の質問
「四十四歳の男子、四年前より肺結核、昨年十一月頃より床につき、三十八、九度の熱が持続しております。

本年四月入信以来毎日浄霊を受けていますが、全然熱が取れず、なお、四月末分会長先生の浄霊を頂いた翌日、もの凄く浄化を頂き、脂汗を流して苦しみました。

なお、食欲はありますが大分衰弱しています。右、浄霊法・・・」


明主様御垂示
「難しい。肺結核は殆どこれである。

約四年間に薬飲んでいるから、浄霊をすると薬が溶けて出る。

それで咳、痰、熱が出るので衰弱する。

病気は治るが、衰弱するのでもたない懸念がある。

塊が溶けねば熱が冷めぬ。非常な霊力が要る。

徐々としてやる外はない。一週間に一回か二回やって安静にする。

病気と浄霊を睨み合わしてやる。

生命に関係した病気は治ってから入信するようにせよ。」




明主様御垂示 「病気が治ってから教修を受けるのが正しい順序」 (昭和24年7月3日)

信者の質問
「三十五歳の女、神経衰弱と言われ四年前に教修をいただき、初めはさほどでもなかったのですが

昨年ごろよりだんだん悪くなり、ほとんどしゃべらず、頭を軽く上下に振り口を動かし、いつも口に手を当ててうつむいております。

良いときは御光りをかけふつうの仕事をいたしますが、悪くなると御光りを外し右のようになり、御浄霊を非常に嫌って逃げまわります。

一度、以前に稲荷を信仰したことがあるそうですが、これもやはり狐霊のためでしょうか。」

明主様御垂示
「これは稲荷ですね。狐が憑いてるんですよ。

逃げまわったりするときは御浄霊もよしたほうがいいですよ。

で、祝詞を上げてやるんですね、天津祝詞を。

それから善言讃詞や御讃歌も始終聞かせてやるんですよ。

そうするとだんだんよくなりますよ、狐が萎縮しますからね。

御浄霊するよりもかえってそういうものを聞かせたほうがいいくらいですよ。

眠れますか、この人は。」


信者の発言
「はい、眠ります。」

明主様御垂示
「じゃ、軽いんですよ。・・・

四年も前に教修を受けたんですか。これは早過ぎたんだな。

教修で治すってのは嘘ですよ。

病気が治ってありがたいと思って教修を受けるのが本当なんです。

教修が早過ぎると本当に治りきらないことがあるんですよ。

生命に関係ある病気の場合は殊にそうです。

第一、治ってから御守りをいただくのが順序ですよ。

なるほど治ると判り、ありがたいと思って受けるほうが腹から受けられますからね、それが本当ですよ。

そして、心からありがたいと思うと、自然に手を合わせる気持ちになるもんですよ。

そこで、光明如来様をお祀りして拝みたいという気持ちになるんです。

だからそういうふうにやってゆかなけりゃいけませんよ。


信仰ってのは、押しつけられたり、一時的だったりしたんでは駄目ですよ。

やっぱり、本当にありがたいという気持ちになり、心からやむにやまれぬ気持ちでなくちゃいけないんです。

勿論、時と場合によってはそうはゆかないこともあるから、そういうときは臨機応変にやったらいいんです。

それからまた、先方が御守りをいただいてこの道を研究したいと言って入信を希望するときには、御守りを受けさせていいですよ。

そういうときには大いにいろいろと知らせたらいい。

あるいは、悩みのある人には、光明如来様をお祀りしてお願いするように話してあげるのは結構ですね。」




明主様御垂示 「教修の時期も臨機応変」 (昭和23年7月28日)

信者の質問
「お道に入るのは結構なことだから入んなさいと言ってすすめることはいかがでしょうか。」


明主様御垂示
「厳格にして道に入れようとするのはいけない。

門構えは小さくして入りやすいようにしてやるのがよろしい。

また講習のため教導所に坐っている日数はそのときに応じてすればよい。

最初からやかましいことを言ってはいけない。・・・

治ってから受講したほうがいいというのはね、もし万一のことがあると「あの人は講習まで受けたのに駄目だった」ということもあり、

また治ってからのほうが本当にありがたいという気持ちになってからいただく、これが本当なんです。

治りきる前でも患者が希望した場合は講習してよろしい。

事情により融通をきかせればよい。」




明主様御垂示 「霊的な病人は完治してから教修を受けるべき」 (昭和23年7月28日)

信者の質問
「ある家の子供、急に食事が食べられなくなり十日間水ばかり飲んでおりましたが、

いろいろ訊ねましたら、神様を戸棚へ入れ汚れたものを上にのせていたためで、

さっそくお詫びしましたところたちまち食欲が出て元気になりました。
 
霊的な病人などはすっかり治ってから講習をいただいたほうがよろしいでしょうか。」


明主様御垂示
「ええ治ってからが本当です。

しかし神経衰弱などのごとき元気のない人は受けたほうがよい。」




明主様御垂示 「神経衰弱者の教修は問題ない」 (昭和23年)

「神経衰弱等で元気のない場合、受講さしてよい。

再講習は御守を取替えなくてはいけないような事はない。

但し、本人の希望ならよろしい。

今度の御守「御光」は取替えてはいけない。」




明主様御垂示 「無理に教修を受けさせるのは絶対に駄目」 (昭和25年4月23日)

信者の質問
「私は昭和二十三年七月入信、十二月御神体をいただきましたがいずれも妻の諒解を得ずにいたしました。

約十月ほど遅れて妻も入信いたしましたが翌日御守りを外し、間もなく私が本部に泊めていただいたことに腹を立て翌日御守りに御無礼いたしました。

私は驚いて、大先生様の御写真、御神体にお詫び申し上げました。これは私の罪でございます。どうぞお許しくださいませ。」

明主様御垂示
「これはお詫びですね。」


信者の説明
「それが、御光りを破いてしまったのでございます。」

明主様御垂示
「破いた? だれが? この細君がですか。」


信者の説明
「さようでございます。御光りを破いて丸め、焚付けにしようとしたそうでございます。」

明主様御垂示
「ほう・・・なにか他の信者なんですか。」


信者の説明
「以前他の宗教をやったことがあるようでございます。」

明主様御垂示
「御光りに御無礼したってのはそういうことですね。」


信者の発言
「さようでございます。」

明主様御垂示
「で、奥さんが教修受けてからですね。」


信者の説明
「はい、前の晩主人が外に泊まったので嫉妬もあったようでございます。どうもその細君には狐霊がついているようでした。」

明主様御垂示
「その御亭主は前になにか信仰してたんですか。」


信者の説明
「なにか稲荷を信仰しておったようでした。」

明主様御垂示
「ま、神懸りじゃしかたがない。しかし、改心しなけりゃいけませんね。

けど、こういうのは細君がよく判らないうちに無理に教修を受けさせたんじゃないですか?」


信者の説明
「そうらしゅうございます。」

明主様御垂示
「そうでしょう、それがいけない。

破いて丸めるのはあたりまえだ、むしろ丸めるほうが本当ですよ。

決して無理に教修を受けさせちゃいけない、命令的に信仰させるのは絶対いけない。

いくら妻でも子供でも押しつけるのは絶対にいけません。

信仰ってものはその人自身の心に湧き起ったものであるべきなんです。

どうしても教修受けたい、やむにやまれず御光りをいただきたいっていうんでなけりゃ、受けさせてはいけません。

お義理や命令で教修を受けるのは、神様に対してたいへんな御無礼ですよ。

そういう人が御守りをかけると御守りが穢れますよ。

そんなのは御守りを非常に安ッポク扱ってるんです。

神様を安ッポクしてますよ。御無礼もはなはだしい。

そういう者に御守りを与えるなんてとんでもないことです。

まあ、これはこのままにしといて、この細君がたいへん悪いことをしたと心から覚って、

どうしても信仰に入れていただきたいと気がつくまではそのままにしといていいです。・・・

これは重大なことですからね、ちょっとした考え方で非常に違ってきますから、ここんとこによく気をつけなくちゃいけません。


間違った考え方と言えば、この間もある人が火事に向かって浄霊したら、風向きが変わって大難が小難ですんでしまった。

ところがその人は「これは焼くべきものを焼かずにすましてしまうんだから悪いんじゃないか」って言ってましたが、そうじゃない、非常にいいことなんです。

つまり、それが神の慈悲なんですよ。悪人も助けなくちゃいけないんです。

火事が起ったっていうのはそこが穢れているからそれを浄化するために焼かれるんですが、浄霊すれば曇りが消えて難を小さくしていただけるんです。

不仕合せはこの浄霊によって消滅するんです。

なにごとでも、人間の苦しみを減らすことは神の慈悲なんですから、

よけいなことはなにも考えないで、無意識に、ただかわいそうだからやってやる、それでいい。

無意識でいいんです。それがやむにやまれぬ慈悲なんですよ。

そして、そうすることがまた、神様の御旨にかなうんですよ。」




明主様御垂示 「家族に内緒で教修を受けるのは臨機応変」 (昭和25年1月20日発行)

信者の質問
「内緒で教修をいただくことはいかがでしょうか。」


明主様御垂示
「まあ、臨機応変にやったらいいんですよ。

けど、家庭争議になっちゃ困りますがね。」




明主様御垂示 「他宗教の信者が本教の教修を受けてよいか」 (昭和23年12月18日)

信者の質問
「他宗教に熱心なもの、または他宗教に入らんとしている者は、それが白紙になるまでは御教修を受けさせぬほうがよろしいでしょうか。」


明主様御垂示
「他宗教を丸っきりはなれてからこの道に入る・・・というようにはっきりしたものでもない。

両方信じているうちにこっちへ傾くこともありますから決めないほうがいいですね。」