入信の意義について
明主様御講話 「神様のお許しがないと入信できない」 (昭和27年12月1日)
信者の質問
「今の神様のことを主にしないというお言葉で、非常にお蔭をいただいたのに御礼をしないというのがありますが、
実はお許しがないからできないのだと考えますと、そういう場合にも、ははあ、お許しがないのだな、と思いますと苦しみません」
明主様御垂示
「そうです。自分はお蔭をいただいていても信仰に入らないのがありますが、
本人は信仰に入りたいのですが、邪魔があったりするのです。
それは何かと言うと、神様が許されないのです。
それからこういうことがよくあります。
熱心な人があって、フッと来なくなり、他のことをやってみたり、いろいろしますが、
そうするとずいぶん馬鹿な奴だと思いますが、そうではないのです。
神様が、お前は入れてやったが汚いものがあるからもっと苦労しろというので、
要するに資格がないというので神様がつまみ出されるのです。
そういう点は解釈のしかたが違うのです。
だから入るということは、その人が入りたいから入っているのでなく、神様がお許しになるから入れるのです。
そこは神様中心に考えると分かるのです。
それから「あいつは邪魔する、酷い奴だ、ああいうのを神様はどうして生かしてある、許してあるのだろう」と言うが、それは神様に何かわけがあるのです。
そのときはそうでも、いずれは何かに使うのです。
ですから要するに人間の判断というものは分からないものです。
神様くらい深いものはありません。
それはあべこべのようなことがあります。(後半省略)」
明主様御垂示 「神様が人間を入信させる」
「入信するには人によって時期がある。時期が来れば入信する。
最後の時期はどうしても入信しなくてはならぬ時である。
人によりいろいろであるから、それは時期が来ないのであるから、それを待つ事である。
人間は人を入信さす力はない。
神様が人を入信さすのである。
人間は橋渡しをするので、手を引くのは神様である。
人間は人間を審判く事が出来ぬと同様で、それだけの権能を与えられていない。」
明主様御垂示 「教修を受けただけでは門に入ったにすぎない」 (昭和24年7月)
信者の質問
「徳を積むとか、徳のある人とか申しますが、この「徳」とはなんでしょうか。
また陰徳を積むとはなんのことでしょうか。」
明主様の御垂示
「徳ってのは人のためとか、世の中のためになることをすること・・・それが徳になるんです。
これをたくさんやることを徳を積むって言うんです。
そして、徳を積むには御浄霊によったり、この信仰に導いたりするのが一番いいんです。
金をめぐんだり、慈善を施したりするのは一時的でね、永続性がないんですよ。
だから、人を永遠に救う信仰に入れるほど、徳を積むのにいい方法は他にないんですよ。
徳を積むと大勢の人が感謝しますからね。
その感謝の光でその人の霊が太り、霊の栄養になるんです。
神道の祝詞に「御霊のふゆを幸倍賜へ」ってのがありますがね、
「ふゆ」ってのは「殖える」で太ることなんです。
太ると光が多くなるから霊層界の上にのぼり、仕合せも、いいことも多くなるんです。
それから陰徳ってのは人に知られないでいいことをすることですよ。
よく、神社の境内なんかに「金何円也」とか書いて寄付の札が貼ってありますね、
あれなんかは人に知られるから陽徳ですよ。
人に知られる場合はそれだけの報いがもう来ているんですが、
人に知られない場合は神様が御褒美をくださいますからね。
同じ徳でも陰徳のほうがよっぽどいいんですよ。
ところが人間ってのは顕れないと気がすまないもんでねえ・・・
なるたけ人に知られないでいいことをするんですね。
そうするとね、神様のほうで何層倍にもして返してくださいますよ。
だから陰徳を積むってのはたいへんなことなんです。
いまの人はこのことが判らないから陽徳ばかりですね。」
信者の質問
「昭和十九年暮れに教修をいただいた二十七歳の学生、生来気が弱くて悩んでおります。いかがなものでございましょうか。」
明主様御垂示
「この人も、いま話した陰徳を積むのが一番いいんです。
気が弱いってのは魂が弱いんで、魂に力がないんです。
それで、外部から霊線を伝って霊が来るとき、その人の霊が怯えるんです。
ちょうど、板の張ってないヒョロヒョロした木みたいなもんですね。
霊が太って強くなれば怯えることはなくなるんです。
そして信仰が強くなればそんなのはなくなりますよ。
神様がなんとかしてくださるという、神様にお任せしておすがりするという想念が強くなると、気の弱いのはなくなってしまうんです。
信仰がだんだん進むとね、地震なんかがきても・・・まあその瞬間はびっくりしますがね、やっぱり人間ですからね・・・
しかしすぐ恢復してなんともなくなりますよ。神様が守ってくださるから大丈夫だ・・・と思いますからね。
なんといっても人を助けて感謝を受けるようにして魂を太らすことですね。
だから、信仰に入っただけじゃ本当ではないんですよ。
信仰に入るってのは、人を救う方法を教わるんですから、教修を受けてから多くの人を助けて、それで本当の御利益もいただけるんですよ。
教修を受けたってのはただ門に入っただけですからね、それから玄関、さらに奥の御座敷にまで行かねば嘘ですよ。」
明主様御垂示 「入信しっぱなしでは何にもならない」 (昭和24年4月4日)
信者の質問
「四十五歳の男(眼科医、昨年入信)最初肝臓が浄化し黄痘になりましたが、
御浄霊により恢復、その後ここ十日間ほどしゃっくりが連続的に出ており体もそうとう衰弱しております。
本人は以前稲荷を信仰したことがあり狐霊が憑いているように思われます。
またいままでは御浄霊をさせましたが昨日から急にこれを嫌います。
食欲はなく医師は十二指腸潰瘍と言います。お救いいただけましょうか。」
明主様御垂示
「この人は入信してからどういうことをしていました。」
信者の質問
「やっぱり眼科医を続けております。奥さんのほうは御浄霊をしておりました。」
明主様御垂示
「このお道を弘めるほうはやってないんですね。」
信者の質問
「はあ、ぜんぜんやっておりません。」
明主様御垂示
「ですから御守護がないんですよ。
この「入信し放し」っていうのはなんにもなりませんよ。
入信するって言うのは人を救う力と、救うやり方を教わるんですからね。
ちょうど学校へ入って学問をするようなもんです。
だからそれを生かさなくちゃ駄目ですよ。
そして、それを活用した人を神様は御守護なさるんですよ。
神様は一人でも多く助けようとなさるんですからね、人を救わなくちゃ駄目ですよ。
それでなくちゃあ生存の価値がありませんからね、御守護だっていただけませんよ。
この人はちょっと難しいでしょうね。治そうと思っても駄目でしょう。・・・
これは昔のことですがね、本所に眼科医がいて、この人は学校の校医なんかもやっててそうとう信用のあった医者なんですが、
石鹸の水が目に入ってほおっておけば治ったのに薬をつけてこじらせてしまったんです。
それは、その息子が病院の眼科に行っていて最新の療法を尽くしたんで悪くなったんですが、
困りきったあげく私の所へ来たら一週間ですっかり治ってしまったんです。
で、びっくりして当時の講習を受けたのですが、二、三カ月経ってから遊びに来たので、
「どうです、治療をやってますか」って訊いたら、
「いや、とんでもない。第一、この治療で治ったことをだれにも秘密にしている。
これが息子や細君に知れたらなにを言われるか判らない。
それに医師会にでも知れたら除名されてしまう。
除名されたら飯が食えない、絶対に食ってゆけない」って言うもんですからね、私も驚いちまって、
どうしても医者を救うということはできないなとつくづく思いましたね。
こんなのは教修を受けてもなんにもなりませんよ。
それからまた、Nさんね、あれは薬学博士で薬学ではそうとう知られた人ですが、
その人の病気が治りその娘の肺病も治って、奥さんは一心になってましたがね。
まあ、Nさんもとても喜んでたんですが、やっぱりどうしてもできないって言うんです。
薬学の講義のときにどっちを言っていいか判らないって言うんですよ。
で、Nさんを紹介した人がね、医学のほうをやめてこっちを専門にやれって言ったら、止めるのはいいがいまさらそこまではできないって言ってましたが、
あれ以来戦争になって消息がありませんがね。やっぱりお医者は駄目だと思いましたね。」
明主様御垂示 「教修を受けただけでは何にもならない」 (昭和24年4月23日)
信者の質問
「人々はこの尊いお道のお手伝いをさせていただくことにより罪を軽減し、そのお許しをいただく可能性が生まれると信じますが、
未だこのお道を知らない人々が、身近に迫った大浄化に気づいてから悔い改めてもお許しいただけますでしょうか。」
明主様御垂示
「それはお許しをいただける人もあるし、いただけない人もありますよ。
罪のそう多くない人はその時に改心すれば救われますし、多い人は救われませんしね、一様には言えませんよ。
この時にみんな働くんですね、一心になってね。
またその時分にはみんな力が出ますから、非常に働けますよ。」
信者の質問
「まじめに働いていても明日の大浄化は信じられぬゆえ「特にこのお仕事が最善の道とは考えられない。それゆえ明日の裁きがいかようにあるともよい」と考えている人もたくさんあります。
かかる人々は神様からどのようなお咎めをいただくでしょうか。」
明主様御垂示
「これは信者ですか、信者でない人ですか。」
信者の質問
「信者でない人でございます。」
明主様御垂示
「信者でない人ね、こんなもんでしょうね。
まあしかし、まじめに働いててそんなに罪を犯さなければ救われますよ。
信者だからって怠けていてなにもしなければ危いですよ。
信者じゃなくてもいい行いをして正しい心の人は救われますよ。
ただ信者は助かるべき方法を教えていただけるんで、このお道で人を助けることによって罪が減るんです。
ちょうどね、金が手に入っても、ただしまっておくだけじゃなんにもならないし、
またくだらないことに金を使っちゃかえって害になるくらいがおちで、使い道のいい所に使わなくちゃいけません。
その方法をこの信者になると教わるんですよ。
金の使い道は、この教えで使うのが一番有効な道ですからね。
せっかくその道は教わっても、実際にやってゆかなくちゃなんにもなりませんよ。
つまりね、人を助ける最善の方法を教わるのが教修なんですからね、教修を受けただけで、人を助けなければなんにもなりませんよ。」
明主様御垂示 「銀杏切って死亡 (祟られる資格)」 (昭和24年9月16日)
信者の質問
「私の近くの信者、先代と相続人が天刑病で死亡したため夫婦養子を致しました。
夫婦共四年前入信致しましたが、昨年の秋、直径一尺二寸位の銀杏を切りました所、
間もなく義母が風呂の中で急死致し、本年春、子供が引きつけたようになり死亡、夏夫婦共相次いで胸の病で死にました。
現在四才の長男が残っています。生前信仰により救われたいと努力なされたが、親類等の反対により思うに任せぬ状態でした。
いかなる因縁でしょうか。御伺い申し上げます。」
明主様御垂示
「銀杏に憑いていた木龍が怒ったのである。代りの銀杏を早く植えてやる。
入信しても働かなくては何にもならぬ。
碌に活動が出来なかった自分に、弱点があるから祟られる。」
明主様御垂示 「講習を受けて活用しないと罪」 (昭和23年)
「信仰は一種の恋愛である。女のために使うのも神様のために金を使うのも同じ事である。信仰と恋愛とは似ている。
信仰は神秘に対する興味であり、女でも、惚れた女に神秘性を感ずる。
場合によると目的を遂げて恋愛がさめる事がある。
信仰からみれば恋愛は小さなものである。
病気を治すんでない、病気など治ってしまう。助かる方法を知った。また知らす。
その方法を行なわなければ無意味である。
金を持ってるだけでは価値なく、使用して初めて価値がある。
講習を受けて活用しないと罪になる。
知った以上人を助ける使命が下ってる。やらねば怠慢の罪が発生する。
時期が切迫すると皆あわてて( )出す。ある時期へ行くと一ぺんに世界的浄化が起る。その時・・・。
火の洗霊は浄霊と同じである。
洗霊は、洗う事であるから火の洗霊はおかしい。火で浄めるんである。
教はお説教である。お説教など力はない。」
明主様御垂示 「教修を受けただけでは罪穢れを除るには不十分」 (昭和24年5月30日発行)
信者の質問
「善言讃詞の三毒、五濁の意味、およびこれを滅するためにはどのような方法がありましょうか。」
明主様御垂示
「三毒、五濁と言うのは仏語ですよ。
三養っていうのは貪(どん)、瞋(しん)、痴(ち)ですね。五濁っていうのはややこしい憶えにくい文字でね、私憶えてませんがね、とにかく、罪穢れの種類を表わすものですよ。
だから、「三毒、五濁」ってのは人間の罪穢れを分類したものですね。
そしてこれを滅する方法はいいことをすることです。
いいことはしないで滅するのだったら苦しむんですね。
しかし、この苦しむほうは骨が折れる割合に効果が少ないんです。
ところが、いいことをするほうは人に喜ばれ尊敬されて、罪が消えるのもとても早いんです。
これが信仰ですね。だから、教修を受けて入信するってことは、穢れを消滅する方法を覚えることと、これを行なうことを知るんですね。
そこで、ただ教修を受けただけじゃ、まあ受けないよりよっぽどいいけれども、
ほんとうに罪穢れを除るにはそれだけでは十分ではないですね・・・」
明主様御垂示 「入信しても罪穢れの半分はすぐには取れない」 (昭和27年2月7日)
信者の質問
「MM(二十七歳)十歳の時、父は三十九歳で生活苦のため頸動脈切断自殺、次男の弟は空襲で機銃弾にて左腎臓盲貫で死亡。
間もなく母が脳溢血から中風を患い、二十二年九月ごろより御浄霊をいただいております。
同年十一月私が入信させていただき、翌年一月弟妹が入信、二月に母とその妹と嫁先の姉が入信させていただき、光明如来様、御屏風観音様を御奉斎させていただきました。
母は御浄霊をいただきながら、眠るがごとく他界(二十三年十一月)いたしました。
翌年八月より妹が、以前頭部に打撲傷を受けたのが再発し、また肝臓の御浄化をいただき、本年に入って、また弟が心臓の御浄化で死亡(十月)。
妹も十一月に死亡いたしました。
二人とも御浄化中なによりも水を欲しがり、吐くくらい飲まぬと収まらず、
特に妹は死ぬ二日前に、なにも思い残すことはないが、水をバケツ一杯飲みたいと言っておりました。
考えてみますと、入信以前に屋根に青大将がいたのを殺したことがございます。
弟妹の死は、なにか霊的関係がございましょうか。
なお、親類は浄土宗の信者で、お道に反対で、会うたびごとに信仰を止めよと迫ります。
今後このままでよろしゅうございましょうか。御教示のほどお願い申し上げます。」
明主様御垂示
「吐くくらい・・・これは蛇の霊ですね。今のままで良いんですがね。
一生懸命信仰をして、人助けをしなければいけないですね。
ここの家は、祖先以来の「メグリ」がたくさんありますからね。
こういうのは、もう一家断絶くらいの運命になっていたんですよ。
それを助けられたんだからね。
やっぱり入信したからといって、すぐ全部罪穢れがなくなってしまうわけじゃないんだから、まあ・・・半分くらいはどうしても早く取れないわけですね。
それで、あとまだ不幸があったわけです。
しかし、こんなもので不幸も打ち切りになったらしいですね。
それから、水を飲みたい・・・これは青大将を殺したそれがくっ憑いているんですよ。
つまり居所がないからくっ憑いちゃうんですよ。やはり祖先ですがね。
そういう場合も、そこの家の「メグリ」が減って浄まっていれば。
そういうのが憑いたり、害をしようとしても、力が出せないんですがね。
こっちにそれだけ弱味があるからね。
それで、霊に自由になっちゃうんですよ。
まあ・・・一生懸命に人助けをする。そうして徳を積むんですね。そうするとだんだん良くなりますよ。こういう家はたくさんあるんですよ。」
参考 明主様御垂示 「病気が治っても罪穢が残れば別の苦しみが襲う」 (昭和24年1月6日)
信者の質問
「私共夫妻は三年前御光を戴き今日に到りましたが、私のみは泌尿器関係の浄化激しく、連続的で御手伝いも十分出来ず、
加うるに父が反対して、やる瀬ない日々を送っております。
度々先輩諸先生に御指導を願っておりますが、その通りに実行出来ません。
どうしましたらよろしゅう御座いますか。」
明主様御垂示
「罪穢が未だある。訳があって苦しむのである。
入信してまず第一段は救われたが、未だ家の中までは入れぬのである。
まず健康になったが、罪が病気で除れないとなると、罪穢をとるため他の事で苦しむ。
であるから、反対者があって苦しむのは悪い意味に解すべきでない。
(泌尿器関係は治る。手術しない人なら必ず治る。自分で浄霊する)」
明主様御垂示 「入信は命の継ぎ足し」 (昭和27年3月10日発行)
信者の質問
「人間が、まだ死ぬ資格がないのに、突発的事故で死んだ場合に、まだ霊界に行く資格がないので、向うで苦しんでいるか、ということを聞かれましたのでございますが・・・」
明主様御垂示
「おかしいですね。資格も五角もないですよ。
殺されると言うのは、霊の資格というんじゃなくて、霊の状態ですね。曇っているとかですね。だから、霊が汚れているとかね。
それで、御守護がないと言うんでね。それで、殺されたりする。
本当に魂がある程度浄まっていれば、そういうことはないんです。奇跡的に助かるんです。
だから死ぬ信者が奇跡的に助かるというのは、霊的に助かるべき状態になっているんです。」
信者の質問
「死ななければならないというのは、御経綸で生まれて来たということで・・・」
明主様御垂示
「生まれて来たというんでなく、現にあるんですよ。命のない者ばかりですよ。
危なくてね。もう生きているのが不思議なくらいですよ。
その中で、祖先のうちで良いことをしたのもあるしね。
いろんな者があるからね。
そういうのは、わずかにね。」
信者の質問
「だいたい、メシヤ教に入れていただくというのは、お許しがなければ入れませんので、そのとき・・・命をいただくということで・・・」
明主様御垂示
「そうです。だから、命の継ぎ足しですね。
それは、祖先の骨折りで・・・一生懸命、助けたいのでね。
ちょっと入っただけでも、何年ものだがね。」
明主様御垂示 「神様が命をくださる理由」 (昭和24年10月25日発行)
信者の質問
「私は昨年九月まで長年医薬の厄介になっておりました。
喘息も御浄霊により楽にさせていただき、主人は昨年十一月、私は同年十二月入信いたしました。
まだ御神体はお祭りしてありません。
今年三月ごろからふたたび御浄化をいただき、四月ごろは一時たいへん痩せましたが、
五月ごろよりは午後になると熱が出て、四時五時ごろまでは激しく頭痛発汗があります。
翌日朝は気分がよいのですが、膝のあたりが震えて悪道路を馬車に揺られるように震え、約四十分ほど四回にわたって震えがくるという状態が一日おきにくるのでありますが、なにか霊的な関係がありましょうか。
また今後いかにしたらお救いがいただけましょうかお教えください。」
明主様御垂示
「震えがくるのは寒気で、つまり浄化熱で結構である。
病気はすべて一日おきに善い悪いがある。
光明如来様をお祭りするとよい。
早く治るには信仰に入れば神様がよくしてくださる。
よくしてくださるのは、「ない命をやるから世の人を救え」という意味であるから、ただ治っただけではいけない。
多くの人を救えばますます早く治してくださる。
神様は人間が役に立てばできるだけよくなるようにしてくださるし、また悪くならないようにしてくださる。」