徳について


徳を積むには人救いをすべき


明主様御講義 「絶対健康法」 (昭和10年9月15日発行)

「人間に曇りを無くすることが健康法の根本であります。これは光に浴することが一番で光にふれることである。

朝夕観音様を拝む事は光にふれる事で、光に照されることである。

魂に光を受けるから清まるのである。

この光に大、中、小がある。本部が大であり、支部が中であり、自家の観音様が小なのである。

それ故曇りが取れて病気が起らなくなるのである。

観音会に病気が無いのはこれが為である。


又徳を積む事である。

徳を積めばその徳により光が増すのである。

人を救う。善い事をすると感謝となって、光となってその人へ報い来るのであります。

その為その人に威厳が増すから恭敬(うや)まわれるのである。

魂の穢れた人は徳がないから光がない。始終ビクビクしているから卑しく見えるのだ。

徳を積むには神様の事、社会の事、個人を救う事をどんどんやるのである。

その人が仮に病気をしていて人を救うことが出来んというかも知れんが、病気中なれば病気をしながらも人を救う様に世話をするのである。

神様の有難いことを話して神様を信ずる様にするなり、病人なれば神様へ御治療を受けに行く様にする事である。

この様にすれば病人でもその徳により自分の病気が直ちに癒るのであるから余計に神様からお光をいたゞくのである。

信者を一人作らしていたゞくのや導くのは大変な御用である。

その人が他人を救う。

又その救われた人が又救うという様に鼠算式に信者が殖えると大変なことになる。

それが絶対の健康法なのである。

体的本位の健康法は末である。

神様の御用をすれば何を喰べても非常に健康なのである。

滋養も衛生も末の末、夜の世界の最後のものである。

滋養は神様の霊気が一番なのである。」 (「観音講座 第七講座」より)




明主様御垂示 「人を救えば徳をいただける」 (昭和23年8月8日)

信者の質問
「御浄めの力の強い人をお道に達した人と判断してもよろしいでしょうか。

また、講習生を多く出している人も同じくお道に達した人とみてよろしいでしょうか。」


明主様御垂示
「それはこの通りです。

いくら一生懸命でも結果が出なければしかたがない。

神様の御意志は一人でも多くの人を救うことですから一人でも多く救ったほうがよろしい。

救えばそれだけの褒美すなわち徳をいただくのです。」




明主様御垂示 「徳を積むには明主様のお仕事の手伝いをする」 (昭和27年12月1日)

信者の発言
「徳を積めば良いということで、どうすることが一番徳を積むことになるかということをよく聞かれますが、

その一番のことは明主様のお仕事の御手助けになることをさせていただくということが一番良いということでございますから」


明主様御垂示
「それは間接な言い方ですが、直接には人を仕合せにすることです。

要するに徳を積むことです。

それが明主様のお仕事の手伝いをするということになるのです。」






徳と因果律について


明主様御垂示 「前世の徳」 (昭和24年7月23日)

信者の質問
「スポーツの選手などで非常に人気のある人がございますが、これは霊的にはどのような原因によるのでしょうか。」

明主様御垂示
「やはり、祖霊が守護するんですよ。

自分の子孫を助けていることがあるんです。

それからまた、その人が前世でいいことをしていて、当然その名誉を受けるべきであったけれど、死んだりして受けられなかった場合、

今度生まれて来たとき神様から御褒美、報酬をいただくんですよ。」


信者の質問
「団体などで特に人気のある場合はいかがでしょうか。」

明主様御垂示
「それはその団体の首脳者の徳によるんです。

それからそういう団体に入れるってことも、その人が霊的に高いわけですね。」




明主様御垂示 「先祖の徳が子孫を救う」 (昭和29年3月1日)

信者の質問
「母親の執着で、子供が障害者に生まれるという場合に、母親が亡くなった子を思うということは、神様からご覧になって、かなりお許しをいただけると思いますが、

そういう愛のために現世で親子共に苦労するというのは、執着ばかりのためでございましょうか」


明主様御垂示
「執着ばかりのためではないのです。

なんとなれば、そこの家に罪穢れが少ないということは、良いことをしているからです。

それは他の信仰でも、良いことをしたり、人を助けたりしてると、そのほうの助けが来ますから、そのために執着が消えてしまいます。

それは、そういった、時によっていい恵みがあります。

それで執着がどこまでもつきまとうということは、そこに曇りがあるからです。

だから相応の理です。

ずいぶん際どいところで助かったりすることも、昔、親なり爺さんが人を助けたりしたことが、その子孫に、やっぱり良いことに現われるものです。

それが世の中の一つの法則になっているのです。

だから良いこともしっぱなし、悪いこともしっぱなしということはないのです。

必ず何かによって酬われるのです。それが因果律です。」






陰徳について


明主様御垂示 「陰徳は何倍も報われる」 (昭和24年7月)

信者の質問
「徳を積むとか、徳のある人とか申しますが、この「徳」とはなんでしょうか。

また陰徳を積むとはなんのことでしょうか。」


明主様の御垂示
「徳ってのは人のためとか、世の中のためになることをすること・・・それが徳になるんです。

これをたくさんやることを徳を積むって言うんです。

そして、徳を積むには御浄霊によったり、この信仰に導いたりするのが一番いいんです。

金をめぐんだり、慈善を施したりするのは一時的でね、永続性がないんですよ。

だから、人を永遠に救う信仰に入れるほど、徳を積むのにいい方法は他にないんですよ。

徳を積むと大勢の人が感謝しますからね。

その感謝の光でその人の霊が太り、霊の栄養になるんです。

神道の祝詞に「御霊のふゆを幸倍賜へ」ってのがありますがね、

「ふゆ」ってのは「殖える」で太ることなんです。

太ると光が多くなるから霊層界の上にのぼり、仕合せも、いいことも多くなるんです。


それから陰徳ってのは人に知られないでいいことをすることですよ。

よく、神社の境内なんかに「金何円也」とか書いて寄付の札が貼ってありますね、

あれなんかは人に知られるから陽徳ですよ。

人に知られる場合はそれだけの報いがもう来ているんですが、

人に知られない場合は神様が御褒美をくださいますからね。

同じ徳でも陰徳のほうがよっぽどいいんですよ。

ところが人間ってのは顕れないと気がすまないもんでねえ・・・

なるたけ人に知られないでいいことをするんですね。

そうするとね、神様のほうで何層倍にもして返してくださいますよ。

だから陰徳を積むってのはたいへんなことなんです。

いまの人はこのことが判らないから陽徳ばかりですね。」


信者の質問
「昭和十九年暮れに教修をいただいた二十七歳の学生、生来気が弱くて悩んでおります。いかがなものでございましょうか。」

明主様御垂示
「この人も、いま話した陰徳を積むのが一番いいんです。

気が弱いってのは魂が弱いんで、魂に力がないんです。

それで、外部から霊線を伝って霊が来るとき、その人の霊が怯えるんです。

ちょうど、板の張ってないヒョロヒョロした木みたいなもんですね。

霊が太って強くなれば怯えることはなくなるんです。

そして信仰が強くなればそんなのはなくなりますよ。

神様がなんとかしてくださるという、神様にお任せしておすがりするという想念が強くなると、気の弱いのはなくなってしまうんです。

信仰がだんだん進むとね、地震なんかがきても・・・まあその瞬間はびっくりしますがね、やっぱり人間ですからね・・・

しかしすぐ恢復してなんともなくなりますよ。神様が守ってくださるから大丈夫だ・・・と思いますからね。
 

なんといっても人を助けて感謝を受けるようにして魂を太らすことですね。

だから、信仰に入っただけじゃ本当ではないんですよ。

信仰に入るってのは、人を救う方法を教わるんですから、教修を受けてから多くの人を助けて、それで本当の御利益もいただけるんですよ。

教修を受けたってのはただ門に入っただけですからね、それから玄関、さらに奥の御座敷にまで行かねば嘘ですよ。」




明主様御垂示 「陽徳は霊界であまり酬われない」 (昭和23年10月24日)

信者の質問
「功利的な信仰から自己完成を念願する者も、人の救いに対しては善い結果を見るような場合が御座いますが、

この者の死後の霊界における状態はどのような事になりますので御座いましょうか。」


明主様御垂示
「功利的信仰は勿論本当のものではないが、それも結果がよければよい。

こういう人の信仰は霊界では功績がない。

功利的は、現界ですでに報いられている。

陰徳・・・即ち人に知れない徳こそ霊界では大きいものとなる。

寄進札など人から褒められ、すでに酬いられるから、霊界では酬わるるところが少ない。」




明主様御教え 「毒素の解剖」より (昭和27年12月1日発行)

「(一部のみ引用) ここでいよいよ毒素の説明に移るが、本来毒素とは言わば濁血であり、霊の曇りである事は、既記の通りであって、

曇りとはもちろん悪による罪穢のために発生するもので、この罪穢観は昔から宗教の一手専売のようになっているが、

遺憾ながら今までの説き方は、単に悪い事は罪穢となるからすべからずと言ったような、単純な説き方であるから、

昔の人間ならいざ知らず現代人のごとき智的、科学的の頭脳では、到底納得できるはずはないので、

どうしても理論を体系とし、実証を裏付とした確固たるものでなくてはならないのである。


さてこの世界なるものは、霊界と物質界との構成であるから、人間も同様霊と体とで成立っており、両者密接不離の関係にあって、霊体一致が原則である。

という訳で霊の曇りが体に映れば濁血となり、濁血が霊に映れば曇りとなる。

これが最も重点であるから、そのつもりで読んで貰いたい。

そうして今それを霊の方から説いてみると、人間が悪の行為をするやその罪が霊の曇りとなり、この曇りの溜積がある程度に達するや、ここに浄化作用が発生する。

これが病気、災害、または法による刑罰であって、これに洩れた分が神の律法によって霊的刑罰を受けるのである。

しかしこの刑罰をいかに巧妙に免れ得たとしても、神のそれは絶対である以上、体に移写して大きな苦悩となる。

もちろんこの際の病気は悪性で、多くは生命にまで及ぶのである。

そうして悪の刑罰は、早ければ早い程軽く済むもので、ちょうど借金と同様、返えさずにおくと利子が溜るようなものである。

しかし悪人によっては、人と神との両刑罰を巧く免れる者も稀にはあるが、

それらは死と共に霊界に往くや、罪の重荷によって地獄のドン底に堕ちてしまうので、いかなる悪人も悔悟せざるを得ない事になる。

すなわちここは仏教で唱える無間地獄、神道でいう根底の国、西洋では彼のダンテの地獄篇にある煉獄である。

何しろ光なく熱なく、暗黒無明の世界で、何一つ見えず、凍結状態のまま何百年でも続くのであるから、いかなる極悪人でも往生せざるを得ないのである。

こんな事を記くと現代人は容易に信じ難いだろうが、私は霊界研究の折、多くの霊から直接聞いた話で、一点の間違いはないから、絶対信じて貰いたいのである。


話は戻るが、悪の結果として自責の念が起こるが、この心の苦痛こそ軽い浄化であって、

この時悔い改めればいいが、中々そうはゆかないもので、多くは罪を重ねる事になる。

もちろん曇りといっても罪の大小により、その量も相応するが、それとは別に他動的の場合もある。

それは人を苦しめると、苦しみを受けた人間は怒ったり怨んだりするから、その想念が霊線といって、無線電波式に加害者の霊身に伝達し、それが曇りとなる。

これに反し人を喜ばせ、善を行うと、相手の感謝の念が光となって伝達されるから、それだけ曇りが減るのである。

しかしこれとても陰徳的に本人に知れないようにする程、神の恩賞は大きくなるもので、これこそ厳たる天則であるからどうしようもないのである。

以上が霊界の在り方であって絶対の真理である以上、人間はこれを信じ、これに従うより外はない。

右の通り曇りの浄化作用が病気その他の災いの因としたら、

人間幸福を得たければ悪をやめ、善を行い、霊を曇らせないようにする事である。(後半省略)」