罪について 4
明主様御垂示 「神様を押し込めた罪が大変」 (昭和23年4月28日)
信者の質問
「人間の神に対する冒涜の罪の裁きはどんなものでしょうか。」
明主様御垂示
「病気とかまたは非常な苦しみです。」
信者の質問
「その場合、病気の症状で判りましょうか。」
明主様御垂示
「判りますね。一家死に絶える、一人ではすまない。
神社の大木なんか勝手に切るとひどいですよ。
たいてい一家死に絶えてしまう。
神に対する冒涜の怖しさは私もずいぶん体験してます。
その中で一番重いのは、つまりね、昔 神様を押し込めた罪、押し込めたほうに味方した罪がたいへんで、いまはその裁きの時なんです。
いままでの特権階級がそうです。
これからはますますたいへんなんだが、まああまりはっきりは言えません。
結局は祖霊の罪になるわけですね。」
信者の質問
「三毒の中の然毒にはこれが含まれているのでしょうか。」
明主様御垂示
「いやいや含みません。
この裁きに会うとね、つまりわけが判らずに死んでしまう。
ここの町会長は一昨日家内が出会ったとき元気だったんですが、その晩急に死んでしまった。こんなのはそうです。」
明主様御垂示 「唯物論者は相当な罪」 (昭和23年4月28日)
信者の質問
「唯物論者なんかはいかがでしょう。」
明主様御垂示
「そうとうな罪です。いまに見てらっしゃい判りますから。
あれはサタン・・・赤い龍が支配しているんです。」
信者の質問
「この前も宗教家と唯物論者がラジオで対談しておりました。」
明主様御垂示
「ええ私は聞きそこなったですが、私は以前から共産党の赤龍と戦っているんで、いまも戦争中です。
今年中にこっちが勝つでしょう。
二十年前にも共産党の者が私の命を取ろうとして匕首(あいくち)を持ってやってきて、それを畳につき刺して脅迫しました。
そいつは赤龍ですから顔から首まで真っ赤だった。
その要求は金銭上のことではないんですが、それを承知してしまうと私の仕事ができなくなるようなものでした。
私の仕事の邪魔をしに来たんです。」
明主様御垂示 「間違った思想を広めるのは殺人より罪が重い」 (昭和24年1月8日)
「間違った教育をしたり、間違った思想を広めることは罪が重い。
文学者なんかでも間違った思想を広めるのは人間を一人二人殺すのよりももっと罪が重いのです。」
明主様御垂示 「間違った思想を教えることは一番の大罪」 (昭和26年12月8日)
明主様御垂示
「一番の大罪は間違った思想・・・間違って教えることです。
殺人行為というのは、一人対一人だからね。」
信者の質問
「天地間に逆らうということが・・・」
明主様御垂示
「そうですよ。しかし、ただそればかりじゃ、漠然として分からないですよ。天地間の・・・と言ってもね。」
信者の質問
「そういう所から、親鸞、日蓮という高僧でも地獄に落ちるということが・・・」
明主様御垂示
「そうですね。小乗善ですね・・・結局ね。」
信者の質問
「医学で、良いとしてやっているのは・・・」
明主様御垂示
「小乗善だからね。あれは小乗善までいかない。
あれは邪神の計画で・・・悪魔の計画です。
私は今書いてます。邪神がやって、人類の生命を掌握している。
人類を弱らせ、それからやる・・・というね。
小乗とか大乗・・・そこまでいってない。悪のほうです。」
明主様御垂示 「医者の家系は不幸」 (昭和28年7月1日)
信者の質問
「輸血の場合には供出するほうと受けるほうとは、どちらが曇るわけでございましょうか」
明主様御垂示
「しかしたいしたものではありません。
もし受ければ医者が罪を受けます。
だから名医ほどその系統というのは悪いです。とても不幸です。」
明主様御垂示 「看護婦は罪悪のお手伝い」 (昭和24年5月6日)
信者の質問
「私は十五歳より五十歳迄看護婦に就業、十九歳の頃より肋膜、二十八歳にて腎臓周囲炎、三十八歳で眼病(医師は梅毒性と云う)及び神経痛再三起る等々病魔に苦しめられ、あらゆる医療を致しました。
その後は水を沢山飲むようになり、一日四升位飲む程でした。
昨年七月、腎臓病再発、それからは胃、胸、背中等が昼夜の別なく痛み、衰弱は増すばかりで御座いました。
本年一月より御浄霊を受け、二月入信、御蔭様にて大変に楽にして戴き、水も一日五合位にて済むようになり、勿体ない御利益を戴きました。
今迄の職業は光線療法でしたが、今後本教の御手伝いをしたいと思っておりますが、生活の不安もあり、いかにしたらよいかと考えております。
私は今後どうしたらよいでしょうか。」
明主様御垂示
「看護婦は勿論罪悪の手伝いであるからやめた方がよい。(結核と神霊療法)
本教のお手伝いをして決して困る事はない。」
明主様御垂示 「製薬業は大いなる罪」 (昭和24年4月3日)
信者の質問
「主人の里が家伝薬製造業でした。
戦争中廃業致しましたが、最近生計のため製薬を始める事になり、私の方で資本をおろす事になりました。
薬のため私としては誠に不本意に思いますが、親戚の義理合いから、やむを得ず送金致しました。
当日電車の中で怪我をして、勤務先にて無理に傷の手当をされてしまいました。
薬に投資致し、里にこの上製薬を続けさせます事が霊的に罪ではないでしょうか。」
明主様御垂示
「大いなる罪である。盗賊、強盗よりも悪い。(売薬製薬している者は)
神様にお任せして、暫くしてやめる。
一たんやめたものをまたやるのは極くわるい。断然やめる。
祖霊も止める。怪我は祖霊の戒告である。
悪いと信じた事は絶対やめなくてはいけない。やめても先方は困らぬ。
多くの人の身体を悪くする。それを知ってやるのは絶対いけない。
(薬を飲ませたり売ったりする罪程大きいものはない。知らなければ許される)」
明主様御垂示 「お光を焼いた罪」 (昭和24年9月8日)
信者の質問
「昭和二十二年の暮娘が入信し、母親が理解出来ないで昨年九月に御光を焼きました。
その罪はいかなる罪になるでしょうか。
最近母親が入信致したいと改心しているのですが、いかが致したら宜しいでしょうか。御教示御願い致します。」
明主様御垂示
「改心すればそれでよい。(全然罪は消えるのではないが、十分の一位になる)ズーッと罪が減る。」
明主様御講話 「観音様に救われた場合、ある程度観音様に上げないと罪になる」 (昭和10年12月11日)
「も一つ信仰に入ると、だんだん商売が繁昌する。
また、いろいろな御利益もあり、思わぬ金が入ったりする。
そして御利益いただき、それではこれだけ上げようという人はほとんどない。
しかし、観音様のほうは強制的なことはお嫌いですから、なんともおっしゃらぬ。
ですから、観音行をすれば金などは余るくらいになると思うのであります。
いままでのある信仰は、いままである財産なら財産、これを上げろと言う。
観音様はいままでのものは上げる必要はない。
新たに儲けさしてやるから、その儲けたものから上げろというわけですから、財産の減るということはないのであります。
搾取的のものは非常に悪いが、観音様は銀行からいくらでも無限に出すわけではないから、やはり金はいる。
こういった金銭上のことを言ったことはありませんが、たまにははっきり言っておく必要があると思ってお話したのです。
金銭について疑問に思ったり、迷ったりする人もありますし、お話するんですが、
仮に、みすみす死ぬべき人が助かったなら、一生涯尽くすというのが本当なんであります。
世の中の人の心はそうなっている。
観音行は当然のことをするんで、当然のことを世の中の人がすればいいのであります。
当然のことをする人が少ないとすれば・・・
観音様に救われ、ある程度観音様に上げないと罪になる。
そうして、それがせっかく向上しようとする妨げになる。
それではいけないからやむを得ずいくぶんでも上げるように言うかもしれませんが、その点をよく認識されたいのであります。
いままでの宗教は、ごく上等で二百円使って百円のお礼をいただく。
しかし観音様は、一円のものを上げるとして、百円の御利益をいただくのであります。
御利益の価値を貨幣に換算するとは卑しいことですが、そういうわけになる。
それで九九円はいただくことになる。それではあまり安すぎるのです。
これはついでですから、本当に救われるために、も少し出しなさいと言われるかもしれませんが、あまりにもたれてもいけず、搾取されてもいけない。
程よくすべてがいいというところに落ちつくのが本当であります。
最近ある信者の方で、この方は非常なある事情で金の御用をしなければならない関係のある方で、いったん死ぬところを助かって、そのとき家庭の事情があって金をお上げして尽くすことができなかった。
それを、少しも痛まず、それだけの御用をさせるために、その人の家を、二、三千円の相場のものを一万四、五千円に売られたんで
一万円というものは、ただでもらったようなものなんですが、
これは観音様がそうされたもので、私のほうでその一万円を借りることになった。
一カ年間五朱の利息で、支払うように観音様からお知らせがあった。
銀行に預けても三分三厘の利息なのに、それを五朱で借りる。
その利で元金もふえるんですから、本当いえば、一万円差し上げねばならぬ事情があるのを、そういうふうにしてすましてくださるのです。
そういう特別の方でありまして、実に大慈大悲の御心と思うのです。
そういう具合ですから、金銭問題について、迷われている方がありましょうが、ほぼこれでお分かりのことと思うのであります。」 (長文は「献金の自由主義」のページ)
明主様御垂示 「神様から御利益を頂きながら御礼をしないのは罪」 (昭和24年7月23日)
信者の質問
「経済的に不遇な方が、さらに病気などの御浄化をいただいております場合、その人が一日も早く健康にさせていただけますように・・・との気持ちから、
その人には話さずに(従って御玉串もお上げすることなしに)教導師が神様に御守護をお願いいたすことはよろしいでしょうか。」
明主様御垂示
「これはね、なかなか厄介なんですよ。
できるだけ御礼をやすくしてやるとか、場合によっては貧乏人にはただでしてやるといったふうに社会事業的にするのは一応もっともなことですがね、
しかし、これはたいへんな間違いなんですよ。
いままでのたいした御利益のない宗教ならいいが、
このすばらしい神様には感謝するのがあたりまえですよ。
以前、私がやっていた時分、ある細君でとても熱心でしたが、ある人がやってもらった御礼を置いてったら多すぎるからって返した人がありましたがね、これはたいへんな間違いですよ。
いくら一生懸命でも根本が違ってますからね。
その細君は震災のとき水に溺れて死んでしまいましたがね。・・・
ですからちょっとここの考え方が難しいんですよ。
不思議なことにはね、私がしていたとき御礼を高くするほど人が大勢やって来たもんですよ。・・・
まったく、これで救われた感謝は金には替えられませんからね。
先にもね、どれくらい御礼したらいいかっていう人があるんで、ありがたいと思う気持ちだけでいい、本当に御礼するとしたらたいへんだから、(笑声)
その時分で、まあ、十万円くらいはしなけりゃならない、(笑声)
だからあんたのできるだけでいいって言ったんです。・・・
実際、価値には替えられませんからね。
いままでのは、まあ一銭上げて家内安穏、商売繁昌、無病息災、なんて願ったもんでしたがね。(笑声)
だから、そういった意味でただでやってやるのはいけません。
その人が罪をきてしまうんです。
神様から御利益をいただいてるのに御礼をしないってのは罪ですからね。
だから治ってから御礼するのは嘘で、治る前に御礼・・・お願いをするのが本当ですよ。
なぜなら、治ってから御礼をするんでは神様を雇ってることになる。
ちょうど人を雇って、これだけ働いたからこれだけ御礼するっていうのと同じですからね。
これじゃ人間のほうが上になって神様は下になってしまうんです。
だから、そのやってもらう前に誠を捧げて神様にお願いすべきなんです。
まあ、こんなことはいまの人にはちょっと納得できないかもしれませんがね。
いままでのは御礼を上げても死んでしまったことが多いんですが、
しかしこれは神様が悪いんじゃなくて、取り次ぎをする人が悪いんです。
悪意でやったんじゃなくても結果的に悪くなってしまうんですがね。
まあ、根本はこうなんですから、この根本を知ってあとは臨機応変にやったらいいんです。」
明主様御垂示 「恩義を忘れた罪」 (昭和26年9月8日)
信者の質問
「熱心な信者の妹の家で、二十年くらい前から井戸の水が出ず、光明如来様にお願いすると良いと言われ、お願いしましたら、
第一回でバケツ一杯出て、二回、三回となるうちに、非常に良い水が出たそうです。
それで、日に十円づつを御奉仕して感謝しなさいと申したそうですが、
二十五日ほどして感謝が薄らいできて、御奉仕の気持ちもなくなり、
姉妹喧嘩となり、恩だけは受けて感謝がないから止まるというと、二、三日して止まりました。
妹も不便を感じ、またお願いしましたら、真っ黒いものが出たそうです。
それで、お前がまだ黒いからだ、と申したそうです。最近は赤い水に変りました」
明主様御垂示
「とにかく、最初恩義を忘れたこと、その罪です。
そこで、そういう魂の人はそうとう曇りが多いので、水によって曇りを取ってくださるんです。
ある程度そうされなければならないんです。
そういうわけで、それでいいんです。
病気でも、お蔭いただいて良くなって、一生懸命感激して信仰しようと言いながら、しないが、
今度はハッとして一生懸命やるが、そのために死ぬような人があります。
本当に、あまりにはっきりしてますね。」
明主様御垂示 「呪われて死ぬほうにもそれだけの罪がある」 (昭和24年12月)
信者の質問
「ある婦人の信者、その人の住んでいる村の鎮守の森にむじながおり、
以前その婦人が隣人に対してあることから怨みを懐き、その人をそのむじなにかけて呪ったところその人は狂い死にしたそうです。
このような場合呪った人と呪われて狂い死にした人との現界霊界の苦しみの因縁はどうなりましょうか。」
明主様御垂示
「これはどっちも悪いですね。
しかし、どっちかって言えば呪われて死んだ人のほうがむしろいいですね。
呪ったほうがずっと悪いですよ。
これは因果応報でそうなるからしかたがないんです。
だから人を呪うって言うのは自分を呪ってるのと同じなんですよ。
人を呪うことによって大きな苦しみを作るんですからね。
しかし、呪われて死ぬほうにもそれだけの罪があるんですよ。
だから「呪ったほうだけいけなくて、死んだほうには罪がない」なんてことは決してないんです。
つまり、呪われて死ぬだけの資格があるんですね。
この信仰に入り神様からの御守護をいただいてれば、いくら呪われたってなんともありませんよ。
そりゃあ、いくらかはありますよ、いくらかはね。
この信仰に入ったってやはり曇りはありますからね。
しかし、苦しみで浄化されるからそれでいいんですよ。」
明主様御講話 「身分の高い者ほど罪は重い」 (昭和28年7月1日)
信者の質問
「神武天皇などが陣頭に立たれてやったことなども、
善政を施くためのものではあっても罪は罪でございましょうか。」
明主様の御垂示
「無論です。
むしろ天皇などは罪は重いでしょう。
身分の高い者ほど罪は重いのです。
明治天皇などもそうですが、いろいろな天皇で地獄に行っているのはたくさんあります。」
明主様御教え 「死後の種々相」より (昭和24年8月25日発行)
僧侶、神官、教育者等の色情の罪は重い
「(一部のみ引用) 特に世人の意外とするところは情死である。
死んで天国へ行き蓮の台に乗り、たのしく暮そうなどと思うがこれは大違いである。
それを詳しくかいてみよう。
抱き合心中などは霊界へ往くや、霊と霊とが密着して離れないから不便この上なく、
しかも他の霊に対し醜態を晒すので後悔する事夥(おびただ)しいのである。
また普通の情死者はそのその際の想念と行動によって背と背が密着したり、
腹と背が密着したりしてすべての自由を欠き、不便極まりないのである。
また生前最も醜悪なる男女関係、世にいう逆様事などした霊は逆さに密着し一方が立てば一方は逆さとなるというように不便と苦痛は想像も出来ない程である。
その他人の師表に立つべき僧侶、神官、教育者等の男女の不純関係のごときは、普通人より刑罰の重い事はもちろんである。」 (全文は「地縛の霊」のページ)
明主様御垂示 「同じ間違いでも宗教家が犯すと罪が重い」 (昭和24年4月20日発行)
信者の質問
「霊魂を認めない宗教人の死と信仰をもたない一般普通人の死と死後霊界においてどのように異いましょうか。」
明主様御垂示
「宗教家の罪のほうが重い。
すべてその人の位や役柄の高いほど神の咎めは重く、霊界において許されるにも長くかかる。
鳥が神社の屋根へ糞をたれてもお咎めないが、人間がそんなことをすればたいへんだ。
霊を信じない人が霊界へ行くと非常に驚愕するとともにしばらくは痴呆症のようになるものである。」
明主様御垂示 「明主様信仰者が間違った事をすればよけいに滅び易い」
「観音会の人が特別に助かるという事はない。
何宗の人でも善い人は助かる。善徳を積んだ罪の少い人は必ず助かる。
ただ観音会へ入ると、人を助け徳を施す方法と力が観音会は非常にある。
他宗で十年かかるのが一年で出来るだけの違いさはある。
観音会で間違った事をすればよけいに滅び易い。」
明主様御垂示 「上魂者に対するお咎めのほうが厳しい」 (昭和26年10月5日)
信者の質問
「御神書を拝読させていただきますと、霊界に長くいたほど良いとあります。
明主様は再三生まれ変わっていらっしゃいますので・・・」
明主様御垂示
「いやいや、しかし前世の罪があったから、ずいぶん苦しみましたよ。
普通の人より罪があったからよけいに苦しみます。
神様は公平ですからね。
むしろ、上の御魂ほど浄化が強いですよ。
お咎めがひどいですからね。
ただ、いくども生まれ変わってくるというのが一番良いですね。
先祖が古いほどね。
私なんかは本当の大和民族ですからね。
大和民族の宗家みたいなものだからね。
約三千年くらい下積みになっていた。」
明主様御垂示 「下魂者が観音様を描いても罪にはならない」 (昭和26年12月8日)
信者の質問
「絵画、彫刻等で、観音様のお姿を画く場合に、み魂相応の者でない場合は罰ということは・・・」
明主様御垂示
「そんなことはありません。」
明主様御講話 「善行と罪の審判」 (昭和28年7月1日)
信者の質問
「マホメットは弘めるのに、他を征服して弘めたということでございますが、これはどうなりましょうか。」
明主様の御垂示
「罪と手柄と両方になります。
そういうのは差し引になるから割合に軽くなります。
しかし罪だけの償いはあります。
だから非常に良いことをしても、その罪だけは地獄に行くのです。
そこで閻魔大王が、お前は良いことをしたから天国にやる、
しかしこういう悪いことをしたから、一年とか二年は地獄にいろ、ということがあります。」
明主様御垂示 「浄霊を受ければ罪が楽に早く浄化される」 (昭和24年4月20日発行)
信者の質問
「神は浄化を下し給うてお救いくださる反面、苦痛をも与え給うのは罪業の許しの意味でしょうか、
また浄化と関連して死が与えられるということはいかに考えるべきでありますか。」
明主様御垂示
「罪業の払拭は苦痛によって行なわれるものと神にすがることによって楽にすむ場合とある。
前者は無信仰者の場合であり、後者は信仰者の場合である。
神からの救いの綱が下がってもそれをつかむことのできない人は罪穢が多すぎ霊体が重くてつかむことができないのである。
しかるにその後浄化のため病気災難などの苦痛が起り、それによって罪が減るから霊が軽くなり、救いの綱へ手が届くことになる。
そのようなわけでいくら良い教えを説いても救いの綱につかまり得ない人は、その罪の減るまで時期を待つほかはない。
そのとき無理につかませても落ちてしまう。
しかし右の場合、浄霊を受けれは楽に早く浄化される。
浄霊によっても死ぬのは多くの場合心から神にすがらぬからで、その人の信仰のどこかに不純な点があることが多い。
いっさいを擲(なげう)って神にすがる人は不治とみらるる病もたいていは助かるものである。
信仰の浅い人は危機の場合迷いが生じやすいのでそのとたんに神の救いの綱が切れるのである。」
明主様御垂示 「入信すると罪の消え方が速い」 (昭和24年4月20日発行)
信者の質問
「私の子供二人とも戦死しました。いかなる因縁でしょう。」
明主様御垂示
「子供が戦死したということはやはり一家に罪がそうとうあるので、種々の災いに負けるわけである。
戦争に行っても罪が少なければ決して危い所へは行かない。
戦争に行った信者の息子などほとんどみんな助かっている。
本教団へ入るとみんな罪の消え方が速いからである。」
明主様御垂示 「改心すれば過去の過ちは咎めないのが神」 (昭和23年)
「汚れがあまり溜ると人間の活動に支障を来す故神様が掃除される。
それが浄化である。
神様は霊的で、改心すれば既往は咎めぬのが神の原則である。
罪人を造らぬのが本旨である。」
明主様御講話 「無意識の罪はお詫びすれば許される」 (昭和27年9月26日)
「罪の中でも、意識的に行なう罪と、無意識に知らず知らず行なう罪と両方ある。
それで意識的に行なう罪は非常に重いのです。
それは現界の法律と同じです。
知らず知らず行なう罪は、悔悟してお詫びをすれば許されるものです。
それで今 仏教の方の偉い人の罪は、知らず知らず良いと思ってやった罪だから非常に軽いのです。
それと同じような意味において、医学・・・お医者さんも、気持ちは善ですから・・・動機善だからして、そう深い罪ではないのです。
気がついてお詫びして、今度は別の本当の働きをすれば許されるのです。
けれども罪は罪ですから、やはりそうとうの代償がなくては許されないのです。
これは別の話ですが、お医者さんの子孫というものは、まことに不運です。
これは良く見ると分かりますが、こういうこともそういう現われです。
そんなようなわけで、つまりこれからいろんなことも、そんなような現われが非常にあるのです。
そこで仏界の偉い人たちが今度お詫びするとともに、その代償として大いに働かなければならない。
すると、今にいずれ京都に美術館も造りますから、そんなような意味で非常に働いて、具合良くいくわけです。」
明主様御垂示 「改心しても罪で汚した分は掃除がされる」 (昭和23年8月8日)
信者の質問
「若い男女がその若さの故に一度過ちを犯してしまった場合、精神的にはお互いに理解し合うことができなくてもやはり結婚すべきでしょうか。」
明主様御垂示
「過ちを犯す前によく考えたらいい。
将来結婚するのかあるいは一時的な慰みなのかをよく考えればよい。
考えもせずに過ちを犯したのなら男のほうが悪い。
自分のことを言うのも変だが私も宗教に入る前、女を疵物にすることを非常に怖ろしいと思った。
人妻の場合でも、もしその主人がそのことを知ればいかに嘆き悲しむかを考えると、そういうことは怖ろしい罪だと思った。・・・
だから最初に「この人をはたして自分は幸福にしてやれるか否か」をよく考えることです。」
信者の質問
「一時的にも気の合ったときは・・・」
明主様御垂示
「離れて別々の道を歩んだらいい。執着があってはいけない。執着をとることです。
事が難しいときは神様にお任せしたらよろしい。」
信者の質問
「妊娠してしまった場合は・・・」
明主様御垂示
「妊娠しても神様にお任せしたらよろしい。
しかしお任せするにしても自分に都合のよいことばかりしててはいけない。
まず心から改心してお願いすることです。
神様は既往をおとがめにならない。
ただ汚したための掃除はしなければならない。」
明主様御垂示 「不徳による罪は被害者が許しても完全には消えない」 (昭和24年3月1日発行)
信者の質問
「自己の不徳のため、相手に迷惑を及ぼしたのでこれを謝罪し相手も許してはくれたものの、なおかつ自己の良心に責められる場合、安心を得られる悟りにつき御垂示ください。」
明主様御垂示
「相手が許したら罪は大方消えているが、それで全部が消えたわけではない。
真の裁きは神様がなさるのだから神様が許したのでなくては完全ではない。
先方が許せば怨みの霊が来なくなるから大きい影響はなくなる。
ちょうど法律に触れるような罪を犯した場合、悔い改め自首しても刑罰は軽くはなるが無罪とはならない、それと同様である。」
明主様御垂示 「罪の償いのための苦しみは楽しみの何倍にもなる」 (昭和24年1月8日)
信者の質問
「性欲は神聖視すべきでしょうか、または獣的なものとして卑しむべきでしょうか。」
明主様御垂示
「これは両方です。
夫婦は神聖ですが、道に外れれば獣で暴行なんか本当の獣です。
それはどこが違うかと言うと罪を作るところが違うのです。・・・
私も中年ごろまではそういう機会がありました。私が花柳界を泳いでいるころ、ある役者の細君と交際してましたが、
二人の間が変だという噂を聞いたので、私は、その役者がこの噂を聞いたらどんなに苦しむかを考え、これはたいへんな罪になると思ったので、それからは交際しなかったことがありました。
また、一時は若い娘を使っていたので交際の機会も多かったのですが、若い娘を一時的の享楽の対象にすればその人の一生を不幸にする、これは忍び難いことだ・・・と思っていたので別に間違いはなかったのですが、
これはいまでもありがたいことだったと思ってます。
人を不幸にするところに罪が発生するんです。」
信者の質問
「相手が未亡人などの場合はいかがでしょうか。」
明主様御垂示
「未亡人でも男に妻があればその妻は悲嘆にくれるでしょう。・・・
罪を作るとね、その罪の償いのための苦しみが一時的の楽しみの何倍にもなるのです。
だからそろばんずくでも合わない話です。」
明主様御垂示 「昼の世界になると大きな罪は侵せない」 (昭和26年12月8日)
信者の質問
「夜の時代の罪と昼の時代の罪は、多少違って・・・」
明主様御垂示
「多少どころか、ぜんぜんだ。
だいたい、夜の時代がなくなると、そんな大きな罪は犯せない。
順序が決まっているからできないんです。
罪が違うとか違わないとかいう比較でなく、不可能になる。」
明主様御垂示 「悪口を言われると罪が消える」 (昭和23年11月8日)
「人から悪口を言われるのは、霊的にはこっちの罪をその人がとってくれるのです。
だからむしろありがたいのです。
その代わり悪口を言うほうは罪を着るのです。」
明主様御垂示 「悪口を言われると罪が消える」 (昭和23年11月28日)
信者の質問
「個人的または団体的悪宣伝に対し、私どもは宗教人としてよい宣伝をもってこれに報ゆるべきでしょうか。」
明主様御垂示
「間違いに対して説明するのはかまわないが、
うっちゃっておいたほうがいいです。
それに災いされて萎縮するようではまだ駄目ですよ。
悪口を言われるのは結構なんです。
悪口は浄化で、それでこっちの罪が消えるんです。」