罪について 3
明主様御垂示 「自殺は神様に対する反逆」 (昭和23年12月28日)
信者の質問
「ソクラテスが、獄中でみずから毒杯を仰いで死についたことも、不正に対する抗議かと存じますがいかがでしょうか。」
明主様御垂示
「さあこれは・・・賞めていいかけなしていいか判りませんね。
いかなるときでも自殺はいけない。これは神様に対する反逆になるから。
彼は教育家であって宗教家ではなかったから、自殺がいけないということは知らなかったのでしょう。」
信者の質問
「ガンジーの断食も不義への抗議とみられますが・・・」
明主様御垂示
「あれは「無抵抗の抵抗」といわれるもので、インドではしかたのないことでしょうね。
イギリスもインドに対してはひどいこともしている。
あるときなど、何千人というインド人を虐殺したこともあるのです。
しかしガンジーがこの前ピストルで撃たれて死んだのは御守護がなかったんですね。
御守護があればあんなことにならずに難を避けられたでしょう。
観音教の信者になってたらよかったのですよ・・・」
明主様御教え 「自殺者の無責任」より (昭和25年1月14日発行)
「(一部のみ引用) そうして特に言いたい事はこの種の自殺者に対し、社会の一部には讃美する者さえみらるるのであるが、
この輩はむしろ一種の罪悪を作るといってもいい、
その証拠には最近自殺した田中英光氏のごときは、太宰氏の墓前において自殺したにみても太宰氏の行為に憧れを持ったからであろう、
それのみではない、太宰氏が玉川上流に投身した同じ場所でその後数十人に上る追随者が出たのであるから飽きれざるを得ないのである、
今もってかの数十年前華厳の滝へ飛込んだ藤村操の跡を追うものが、絶えないという事等も右をよく物語っているのである。」
明主様御垂示 「臓器を切り除るのは非常な罪」 (昭和24年11月26日)
信者の質問
「家の姉(兄嫁、二十六歳)が去年二月に大手術をし、子宮に卵巣、盲腸を切り除ってしまったような始末、
それ以来今日迄頭が痛くなったり腸が痛んだり、面白い日が続かないと言っていますけれど、一体どういう訳でしょうか。
また、御力頂いても、片端のような人が丈夫な体になれますでしょうか。」
明主様御垂示
「手術のためである。丈夫になる人とならぬ人がある。
いくら浄霊しても切り除った臓器は出来ぬ。
臓器を切り除るのは非常な罪である。
手術は医学ではない。医術なら切り除らずに治す事である。
これは野蛮人のする事である。これは技術に過ぎぬ。切って除る事を進歩とした。こういうのは何ともいえぬ。
浄霊してみて毒だけを除る。
それで苦痛はそれだけなくなる。苦痛は少くなるが、再び出来ない。
普通の身体にはなれぬ。
そして徳を積む。」
明主様御垂示 「体を傷つける罪は重い」 (昭和26年10月15日)
(信者が魚の目をメスにて疵(きず)をつけたために、40度の発熱、左足の大腿部の腫れ・激痛、身体の硬直、排尿不全となった事例)
「魚の目をメスにて疵をつけたというのは、切ろうとした。
それで膿でも出そうとした。このためです。
私は、針一本でも疵つけてはいけないと書いてあるでしょう。
だから神様のお咎めです。
お詫びが一番良い。他にはなにもないんです。
それを覚るように正守護神がひどく叱ったんです。
お詫びすれば治ります。つまり、神様のいうことを守らなかったからです。
それを心から悔い改めて、お詫びして、それで治っていきます。(中略)
神様は身体に疵をつけるということは非常に厳しい。
ちょっと悪い時に切るとか、突くとかいうのは、霊を信じないことになる。体的を信ずることになる。食い違ってくる。
御守護していたのが、パッと切れちゃう。
そこにもっていって正守護神が怒りますからね。これは良い教えです。」
明主様御論文 「手術について」 (昭和28年1月1日発行)
手術は神への冒涜
「日本もそうだが特にアメリカにおいては、近来手術の進歩を誇称し、大いに励行しているが、これは大変な誤りである。
というのは手術の進歩とは、医術の進歩ではなくむしろ退歩であるからである。
何となれば真の医術とは、病に冒されている臓器その物を除去するのではなく、臓器はそのままにしておいて、病だけを除去するのが本当であるからである。
しかもそのため肉を切り、出血をさせ、非常な痛苦を与えるのみか、内部的不具者にするのであるから、医術どころか非医術であるにかかわらず、これを進歩した方法と信じているのであるから、その無智なるいうべき言葉はないのである。
しかも人間は、身体の一部といえども毀損する以上、その影響のないはずはない。
例えば盲腸炎にしても、膿だけ除るのならいいが、医療はそれが不可能なため、虫様突起までも共に切除してしまうのであるから、野蛮極るというべきである。
何となれば造物主は人体に不必要なものは一つも造ってないはずである。
これについてよく医家は盲腸は不必要だとか、腎臓は両方なくても差支えないなどというが、これは全くその必要性が不明であるからで、いかに今日の医学が幼稚であると共に、一面神への冒涜でもある。
何となればそんな理屈をいう医学者自身も神から造られたものではないか。
何よりも盲腸手術後一時は健康になったようでも暫くすると他の病気が必ず起る。
というのは元来盲腸の役目は下半身の毒素排除の機関であるからである。
今それを詳しくかいてみるが、初め毒素は背面右側腎臓部に集溜固結し、少しずつ溶けて盲腸部に移行し固結する。
それがある程度に達するや浄化が起って発熱し溶解される。
その苦痛が盲腸炎であるから、その際右の腎臓部を見れば必ず固結があり、圧(お)すと痛むからよく分る。
そこを浄霊するやたちまち盲腸の痛みは去り、間もなく下痢があって治るのである。
この理によって盲腸炎発病するや、なんら治療もせず、寝ているだけで三、四日ないし一週間も経てば必ず全治し、生命の危険などいささかもないのである。
ところが医師は手遅れになると生命の危険ありとし、手術を奨めるが、吾々からみればその盲点に呆れるばかりである。
右のごとく毒素排除の役目である盲腸がなくなるとすれば、そこへ集溜せんとする毒素は、止むなく腹膜や腎臓部に溜る事となり、それが原因となって、反って盲腸炎よりも始末の悪い病気が起るし、なおまた手術の際の消毒薬が膿化し排除されようとし、種々の病を起す事がある。
それは悪性歯痛、中耳炎、結膜炎、顔面の腫物等である。」 (「アメリカを救う」より)
明主様御教え 「灸治法」 (昭和11年御執筆)
「灸治法には、古来からある艾(もぐさ)灸と、近来相当行われている温灸との二種であるが、
これらは、薬剤療法よりは確かに効果はあるのであるが、
これも体的が主であるから、完全療法ではなく、一時的の場合が多いのである。
且つ人間は造化神が造ったものの中でも、最優秀品である。
その皮膚の色沢、滑らかな肌、隆起曲線の美しさに見るも、到底、他の動物とは比較にならないのである。
特に、婦人の玉の肌と曲線美に到っては、美の極致であるとも言ってよい。
彼の西洋画家が、裸婦を以て美の極致とするのは、全くその通りである。
故に、人間としては神から与えられたる所の皮膚は、弥(いや)が上にも美しく丹精を施すのが、神に対する報恩であり、至情でなくてはならない。
そうしてこの美を、一年でも一月でも長く保持すべく、心掛くるのが本当である。
しかるに何ぞや、灸のごときものを据える結果、点々として火傷である醜き痕跡止め、
一生涯一種の障害者になると言ってもよいのである。
かくのごとく、神の芸術品に対しての冒涜の罪は、必ずや何らかの刑罰を受けなければならないのは当然であるから、
たとえ、治病の効果は相当ありとするも、それ以上の苦悩の因を作るのであるから、到底賛成し難いのである。」 (「新日本医術書」より)
明主様御垂示 「刺青について」 (昭和24年5月23日)
信者の質問
「刺青を好む人がありますが、これは霊的に意味がありましょうか。また、刺青をするのは神への冒涜と存じますがいかがでございましょうか。
明主様御垂示
「無論、冒涜になりますね。霊的な意味はありませんよ。
こんなことをするのは未だ野蛮性が残っているんですね。
北海道のアイヌだとか台湾の生蕃だとかは顔へ刺青してますが、あれはいっそう野蛮ですよ。・・・
お灸だって神に対する冒涜ですよ、きれいな皮膚に火傷の跡をつけるんですからね、はなはだしい冒涜ですよ。」
明主様御垂示 「殺した動物を供養すると罪が消える」 (昭和24年3月1日)
信者の質問
「自家で飼育した家畜を殺して食べることは罪悪になりましょうか。」
明主様御垂示
「家畜類を殺して食うことの可否は一概には決められぬ。
営業で殺す場合は割合に罪は軽いが、そうでないのは重いわけで動物といえども殺されれば怨む。
その怨みもたくさんになると共同して人間に対し恨みを返すことになる。
故に年に一遍くらいまとめて供養してやるといい。
そうすれば罪は消える。
営業でなく自家の家畜を殺す場合は怨みが大きいから必ず供養してやる要がある。
そうしてそのとき幽世の大神様に「その家畜類がこの次は転生して人間に生まれ代わらしてくださるよう」お願いしてやると、かえって大きな功徳となるのである。」
明主様御垂示 「動物の怨みも重なると一つの罪になる」 (昭和26年10月8日)
信者の質問
「家畜を食べる場合には、この次には人間に生まれ変わるようにと言うと、功徳になるとの御教えいただいておりますが、そのように変るものでしょうか」
明主様御垂示
「しかし、お願いする人に資格がなければならない。
だれが言ってもと言うのではない。
その資格によって、神様のほうで許されるからで、だれが言っても、そうはいかない。」
信者の質問
「前世には人間であったものでしょうか」
明主様御垂示
「たいてい、先に人間だったのです。
その場合にそこの系統に飼われることになるものなんです。」
信者の質問
「牛を殺している商売ですが、娘が入信しており、両親は反対ではありませんが、入信しておりません。
牛の供養をさせていただきたいと思いますが、どのようにいたしたらよろしいでしょうか」
明主様御垂示
「形式ですか。」
信者の発言
「さようでございます」
明主様御垂示
「お祀りするときは、白木の位牌かなにかの、霊の名前を書く形のものがありますが、
「牛の諸霊」として書いて、それを光明如来様の、一段低いところに台を置いて、お盛物をして、
光明如来様にお願いして、牛の霊を救いたいから、御守護をお願いしたいということをよくお断りして、
光明如来様より向って、少し左にはずれたところに置いて、
お願いして祝詞と善言讃詞を奏げて・・・喜びますよ。
人間で牛に生まれたものは、どうかふたたび人間に生まれ変るようにお願いする。
人間が牛になったのと生来(せいらい)の牛と両方とがある。
人間が牛になったのは少ないんです。
しかし、本来の牛でも、殺されると怨みますからね。
怨みも重なると、一つの罪になるから、苦しむことになる。
そうしてやれば両方とも救われるから結構です。」
明主様御垂示 「ペットが産んだ子供を捨てるのは罪」 (昭和26年10月8日)
信者の質問
「よく、犬や猫がたくさん子を持ち、捨てたりいたしますが、このようなことはいかがなものでしょうか」
明主様御垂示
「それはいけないですね。罪になりますね。
捨てるのはまだ良いが、殺すのはいけない。罪になります。
捨てる場合でも、良く言ってやる。
家でも飼ってやりたいが、都合で飼っていけないから、
良いところに飼われるように神様にお願いしてやるから。と言ってやるんですね。
そうして光明如来様に、こうこういうわけで飼えないから、良い飼い主が見つかるように御守護お願いしたいと言う。
そうすると、良い飼い主の所に行きます。」
明主様御垂示 「動物を食うことは一種の小さい罪」 (昭和24年4月20日発行)
信者の質問
「米、野菜のごときも生命があるわけで、それを人間が食うことは生命を奪うことになると思います。一種の罪ではないでしょうか。」
明主様の御垂示
「これは罪と言うべきほどのものではない。
米などは人間必須の食物として神様から与えられたものであるから生物の生命とはちがう。
宇宙一切のものは人間のために存在するのであるから、
いかなるものでも人間のために役立たしむべきが本当である。
動物を食うことは一種の小さい罪にはなるが、供養してやればよい。
その中でも特に鶏、鰻の類はぜひそうすべきである。
よく鰻屋と鳥屋は良くないと言うがそれは供養を怠るからである。」
明主様御教え 「病気の原因と罪穢れ」より (昭和11年御執筆)
敗北者から恨まれると一種の罪になる
「(一部のみ引用) 又、競争に勝つとか社会的に成功するとか、
とにかく優越的行為は敗北者から怨まれ、羨望される。
これらもその恨(うらみ)に依って、一種の罪となるのである。」
明主様御教え 「裁く勿れ」より (昭和28年5月13日発行)
他人の善悪を裁断する行為は神様の地位を冒す
「(一部のみ引用) 私はいつも信者にいっている事だが、アノ人は善だとか悪だとか、御邪魔になるとかならないとかいっている人もあるようだが、
そういう人がまだ少しでもあるのは充分教えが徹底していない訳である。
そうして度々言う通り、人の善悪を云々(うんぬん)するのは、徹頭徹尾神様の地位を冒す訳で、大いに間違っているから充分慎んで貰いたいのである。
それはもちろん人間の分際として人の善悪などいささかも分るはずもないからで分るように思うのは全く知らず識らずの内に慢心峠に上っているからである。
従ってこういう人こそ、実は信仰の門口(かどぐち)にも入っていない証拠である。
また御経綸にしても人間の頭で分るような、そんな浅いものではないので、この点も大いに心得ねばならないのである。
何しろ三千世界を救うというような、昔からまだないドエライ仕組なんだから、余程大きな肚(はら)にならなければ、見当など付くはずはない。
つまり小乗信仰の眼では、節穴(ふしあな)から天井を覗(のぞ)くようなものである。
私は耳にタコの出来る程、小乗信仰では不可(いけ)ない。
大乗信仰でなければ、神様の御心は分るはずはないといっているが、どうも難しいとみえて、間違った人がまだあるのは困ったものである。
明主様御講話 「他人を邪神呼ばわり行為は神様の地位を冒す」」 (昭和27年8月1日)
「(一部のみ引用) 最初に一言話したい事があります。
これは分りきった話なのですが、どうも一番困るのは、何時も小乗信仰はいけないいけないと言っているのに、どうも小乗信仰の人が多いのです。
小乗信仰にもいろいろありますが、一番よくないのは、あの人は邪神だとか、あそこの家には邪神がいるとか言う事ですが、これが一番悪いのです。
ですから私は人を邪神と言う人は、その人が邪神だと言ってありますが、
邪神である、邪神でないという事は、決して人間に分るものではありません。
神様以外には分るものではありません。
それを分ると思うのは、神様の地位を冒している事になります。
ただ自分が邪神にならなければよいので、人が邪神であろうがなかろうが、大きなお世話です。」
明主様御垂示 「悪意を持って人の善悪について発言するのは罪」 (昭和23年11月8日)
信者の質問
「前々回「救いと裁き」についてありがたいお言葉をいただきましたが重ねてお伺い申し上げます。
私どもは日常しばしば他人を批評いたしますが、これも人間には僭越なことでしょうか。
他人の批判により向上を期し得られるとも考えますが、この点いかがでございましょうか。」
明主様の御垂示
「批判したってかまわない、そんなに固苦しく考えなくてもいいのです。
けれどもね、あの人はいいとか悪いとか決めることはいけないのです。
いいとか悪いとかいうことは人間には判らないことだから。
殊にこっちが明るい気持ちで言うのならいいが、
悪意をもってあの人はいいとか悪いとか言うのはいけないのです。
憎悪の心をもって言うのは罪になります。」
明主様御講話 「他人の善悪を裁断する行為は罪」 (昭和27年4月15日)
「神様に見てもらおうということはあるが、人間を対象とはしないですね。
神様に見ていただく・・・それを対象にしますから、それが本当というわけになる。
だから考え方が、神様中心・・・神様だけに見ていただく、お気に入っていただく・・・これで良いんです。
そういうふうに思っていると、きっと御守護が厚いんですよ。
だからそれが・・・ちょっと今までのいろいろな習慣やなにかもあるので、難しいんですね。その点ですね。
そうすると、あいつは悪いとか、あの教会は間違っているとかいうことは、口に出さなくなる。
思うことはかまわないですよ。神様は想念の自由は許されている。
しかし、行動に出してはいけない。
大体その時の気持ちで、大いに興奮して言うが、それを我慢して言わないと、きっとああ言わなくて良かったということがありますよ。
あいつは悪いと言うが、あとになると、たいてい後悔するものです。
これは信仰の急所ですね。」
明主様御垂示 「文書による悪口の罪が一番軽い」 (昭和26年8月25日発行)
信者の質問
「同じような行為により相手方に悪と思われる場合に、無智のためと、意識しているときと、偏見による正義感のため、などありますが、
霊的に言ってその罪はいかなる差異がありましょうか、例えば腕力で打つ場合とか、口頭とか文書による場合などありますが。」
明主様の御垂示
「無智のためは少ないが、偏見のためはその次で、意識しているためが一番大きい罪である。
その行動については、腕力が一番悪い、言葉がその次で、文書が一番軽いのである。
これらは常識で考えれば判るはずである。」
信者の質問
「明主様の御論文に「之も慢心」を拝聞いたしましたが、
長上、同輩、目下の人に対し非難したり、中傷したりした言葉、行いの罪は霊的に、また体的にいかなることになりましょうか。」
明主様の御垂示
「それに相応する罪で、これもよく考えれば判るはずである。」
明主様御垂示 「財閥、政治家の霊界相」 (昭和25年5月18日)
賄賂の罪による胸から糞便が出る
信者の質問
「十五日夜、財閥の死後の実相を霊査致しましたところ、札(さつ)の山の中に埋もれて苦しんで痴呆症となっております。
大政治家を二名霊査致しましたところ、いずれも最低地獄に呻吟しております。
なお「わいろ」をとった罪にて胸より常に汚物が流出しているということで御座います。右の実否を御垂示御願い申し上げます。」
明主様御垂示
「これは本当である。札を拝んでいたため札で苦しむ。霊界へ行けばウンと苦しむ。
寧ろ呑百姓の方が上である。
親鸞、日蓮なども地獄だし、家康は狸になっている。」
明主様御垂示 「断食は怠けの罪」 (昭和24年3月1日発行)
信者の質問
「仏画に一二人の羅漢が書いてありました。
またお寺に羅漢寺というのもありますが、羅漢について御教えを願います。」
明主様御垂示
「羅漢は一六人がふつうで、一二人は略である。
婆羅門の行者が行をしている姿である。
達磨様も羅漢の親玉ともいうべき人で、面壁九年の行をしていて、満月の夜悟りを開いたと伝えられているが、
婆羅門は難行苦行によりて悟りを開く宗門で、お釈迦様はその苦行を読経に代えたのであるが、いまでも仏教にはその名残りが残っている。
なお断食などもその苦行の一つで、現在は病気の治療などにも行なわれているが、これは傍で見ているほど苦痛ではなく、
また一時的には身体の調子も良くなるけれど、しばらく経てば元通りになってしまう。
のみならず、断食期間中はなんの仕事もできず、かえって怠けの罪を構成することを知らねばならぬ。」
明主様御垂示 「断食は怠けの罪」 (昭和24年4月20日発行)
信者の質問
「断食の功罪。」
明主様の御垂示
「これは一種のバラモンの行であるが、
人間は普通人三度で職業によって四度も五度も食するようにできているのである。
断食は間違っている、そのためその間は生産に影響するからそれだけ怠けの罪を犯すことになる。
故に断食は一時はよくても罪を着ることになる。」
明主様御垂示 「断食は一種の罪悪」 (昭和25年4月20日発行)
信者の質問
「いまから十三年ほど以前、兄は神経衰弱で突然行方不明となり、行者に見てもらいますと水死しているとのことです。
兄が行方不明となってから四年目に姉(次女当時二十一歳)が発狂し、同時に私が左半身、特に頭部の神経痛となり、
私が二十二歳のとき日蓮宗を信仰いたしましたところ、いくぶん小康を得、同時に姉もいくぶんよくなりました。
約一年後また私が再度悪くなりましたので、信仰が足りぬと思い、成田山で二十一日の断食をしてお願いしましたところ、かえって悪くなり、今度は私が神経衰弱のような具合になり、
昨年十月入信させていただき、だんだん快方に向かいました。
なお五十年前本宅の井戸へ過って使用人が落ち死亡したことがあり、
また母の実家で母の叔父にあたる人が肺病になり、脳味噌を食べれば良くなると言うので食べましたが、結局死亡したということなどがあります。
いかにすれば私たちは救われますでしょうか。」
明主様御垂示
「一家によほど罪が多いのである。
断食などは決してしてはいけない。
神様から言えば一種の罪悪である。
また脳味噌などは人間が食べるべきものではないから、決して良くなるわけはない。
正しい信仰によって大いに徳を積むことで、それ以外に救われる道はない。」
明主様御垂示 「釣りは怠けの罪」 (昭和23年6月18日)
信者の質問
「趣味として釣りをするとか、害虫・・・蚊や蝿を殺すことは差し支えないでしょうか。」
明主様御垂示
「差し支えありません。魚釣りもあまり熱中しなければよい。
私も若いころ釣りをやりましたが餌を針につけるので指が紫色になり痛んだのでやめてしまいました。
ときどきやるのならいいですよ。
これは殺生よりむしろ怠けの罪が大きいのです。
人間は働くのが本当です。五体殊に頭をよく使うほうがよい。
頭をよく使うほうが永生きします。
昔から坊さんや学者に永生きが多いのはそのためです。
犬や猫、野蛮人は早死にです。」
明主様御垂示 「囲碁は怠けの罪」 (昭和24年8月3日)
信者の質問
「知識の開発は霊魂の進化を促進させるのでしょうか。
頭脳を使う者ほど永生きするのはそれによって霊魂が進化するため、現世に生存する価値が多いからでございましょうか。」
明主様御垂示
「こういう理屈もありますがね。
しかし、また一面、霊魂が進化すると知識が開発されるんです。
だからどっちとも言えないんですね。
「生存の価値があるから永生きする」ということも大いにありますが、人間の体は活動したほうがいいんです。
殊に頭は全体の支配者ですからね、だから頭を使うほど頭が発達するから永生きするんです。
これもいままでは反対でしたがね。
しかし、心配事で頭を使うんじゃいけませんよ。
それから、麻雀、碁、将棋なんかも非常に頭を使う。
殊に碁なんかは頭を使うもんですが、しかしあれをやってると生産ができない、私も好きだったんですがあれをやり出すとまったくなにもできないんでねえ。(笑声)
あれは怠けの罪ですよ。
怠けの罪っていうのも大きいんですよ、なにもしないでブラブラしてるのはね。
人間は働くのが本当です、働かないんなら生きてても無駄ですよ。」
明主様御垂示 「怠けの罪は大きい」 (昭和24年8月13日)
信者の質問
「熱心な一信者、ある会社の社長でしたが、昨年の金融停止のため経営困難に到り、やむなくその会社を解散し別の事業をいくつか計画いたしましたが、
それが九分九厘まで行くと壊れるのでこれも神様の思し召しに添わぬものと諦め、
ただ一心に、光明如来様を念じ平静に窮乏生活いたしておりますが、
かえってその友達が心配しある行者に見てもらいましたところ、
祖父のとき家が破産しかけたのを某稲荷を信仰して救われ、
以来ずっと祀っていたのに父の代から祀らないのでその祟りだからさっそく祀るようにと言われたそうですが、これは信じられましょうか。
また、この障りを除くことはできましょうか。」
明主様御垂示
「これは少し変だな。
事業がうまくゆかないから平静に窮乏生活をしているって言うけど、そんなことじゃいけませんね。
これではうまくゆきっこありませんよ、大いに努力しなけりゃ。
そして、たとえ稲荷が祟っていても、この道によって人を救えば稲荷なんか手もつけられませんよ。
どんな稲荷でもね、観音様にちょっとひねられりゃ屁でもない。(笑声)
けど、その人にそれだけの資格がなければ駄目ですよ。
人間の罪の中で一番大きいのは怠けの罪で、これくらい大きいのはないんです。
なぜって、頭だとか手だとかを神様から与えられているんだから、これを役立てないってのは間違ってる。
できるだけ使うべきですよ。
そんな行者なんかこっちから見れば小僧にも当たらないんですよ。
そんなのにかかり合ってるのは、この人がせっかく信仰の門に入ってるのに未だマゴマゴしてるからです。
もっと徹底しなけりゃ駄目ですよ。
かえって反対にその行者を救ってやるくらいでなけりゃ。・・・
自分が行者に救われるっていうんでは、まったく小僧以下ですよ。(笑声)」
明主様御垂示 「午睡の功罪」 (昭和24年8月9日)
信者の質問
「夏季の午睡の功罪・・・」
明主様御垂示
「こういう小さい考えはいけない。」
明主様御垂示 「弁護の善悪」
信者の質問
「極悪非道なる犯人を善人として弁護する。弁護士は霊的に罪はどのようになるもので御座いましょうか。」
明主様御垂示
「これは営業政策である。一種の罪にもなるが、悪人に対する慈悲をする事であるから、そう悪い事でない。」
明主様御垂示 「過剰防衛は罪になる」 (昭和24年1月28日)
信者の質問
「正当防衛は罪になりましょうか。」
明主様御垂示
「実際の正当防衛なら罪になりません。
が、正当防衛を越えると罪になります。
例えば危害がもう加えられないのにさらにやることは罪ですね。」
明主様御垂示 「暴力に対して自分の身を守るのは当然」 (昭和29年4月1日)
信者の質問
「信者の柔道の道場で、普通鹿島、香取の軸でございますが、光明如来様の御神体を奉斎いたしましてよろしいでしょうか」
明主様御垂示
「良いです。柔道といっても、昔は武術に使ったが、あれは大いに体を練るためにやるのだから、平和的の意味です。
おまけに柔道は、私もやったことがあるが、人を殺(あや)めるというのではなくて、防御です。
暴力に対する一つの防御だから、当然のことです。
ところが、柔道は身を守る護身術ということになってますが、それを喧嘩の道具にするというのですから間違ってます。
喧嘩の道具も、先からやってくれば、自分を擁護しなければならないから、それはしかたがないので、大いに擁護してよいですが、
それが反対になって、あいつはシャクに障るからやっつけてやれということになると、それは防御の範囲を越えるからいけないのです。
そういうことは柔道の先生はよく言いますが、それを若い連中はなかなか守れないです。」