罪について 1
明主様御垂示 「人間には自由が与えられているので罪を作る余地がある」 (昭和24年6月13日)
信者の質問
「動植物の病気もやはりそれぞれの霊の曇りの浄化作用なのでしょうか。」
明主様御垂示
「この「動物」ってのは人間以外のことでしょ。
学者ってのは仕末が悪い、人間も動物の中へ入れるから。(笑声)・・・
これは動物と植物で違うんです。植物には病気・・・浄化はないんです。なぜなら罪がないから。
だから同様に下等動物・・・犬や猫にも罪はないんです。
罪があるのは人間だけですね。
つまり人間には自由が与えられている、自由が与えられているからこそ地上の経綸ができるんですが、畜生やなんかを人間が使うことができる、そこに人間が罪を作る余地があるんです。
そこで植物には浄化というものはないはずなんですが、虫が湧いたりいろいろするのは人間の罪が植物に発生するんです。
いま、全国的にさかんな松の木の松食い虫なんかは、だから人間が作って、しかもそれを嘆いてるってわけなんですよ。
人間が霊界を曇らせると害虫が発生するんです。すべて人間本位です。
だから地上をよくするのも悪くするのも結局すべて人間なんです。」
信者の質問
「邸内の木なんかが枯れたりする場合はいかがでしょうか。」
明主様御垂示
「そこの主人公の性格で木が弱ったり、枯れたりするんです。
その家が栄えてるとき、徳を積む人が住んでるときは木の勢いなんかも違うもんですよ。
だから庭の木や草を見れば、そこの人の性格が判りますよ。」
信者の質問
「樹木の種類によってもその感受性が違うものでしょうか。」
明主様御垂示
「ええ、違いますよ。松なんか一番感受性が強いでしょう。・・・
だから、植物には霊の向上なんてことはないんです。
いっさいは人間のためにあるんですから。」
明主様御垂示 「行動に表わして初めて罪が発生する」 (昭和24年)
信者の質問
「狐霊が自分の体にいるのが良く解り、その狐が非常に苦しめたのが、お光を戴いてからは苦痛は薄らいだのですが、この狐霊を追払う事はどうしたら良いでしょうか。浄霊は続けています。」
明主様御垂示
「狐霊が憑いてるのは女である。女の七、八割は憑いている。
人間の体欲、物質欲を受持っている。
悪い狐ではなさそうだから、可愛がってやるといい。
人間は絶えず本副両守護神が戦っている。
想念は無限の自由が与えてある。
行動に表わして初めて罪が発生する。
正副霊が思って、それで調和がとれてゆく。」
明主様御教え 「地獄と天国」より
地獄に堕ちる原因は薬剤と罪の行為
「(一部のみ引用) そもそも霊界なるものは地上の空間にあり、天国界、中有界、地獄界というように上中下の三段階百八十段に分れている。
それが霊主体従の経(たて)の法則によって、霊界に起った事象そのまま現界に移写される。
人間でいえば霊が体に移写するのである。
そうして人間の霊体は右の段階のいずれかに属しており、それぞれの籍があって籍の地位通りの運命となる。
すなわち地獄界に籍があれば不幸となり、天国に近づくに従い幸福者となるのであるから、出来るだけ籍を上段に昇らせる事である。
地獄とはもちろん病気、貧乏、争いはじめ、あらゆる苦悩が渦巻いている以上、その通りになるので、私はこれらを救うべく一人一人を天国に引上げているのである。
ではなぜ地獄に堕(お)ちるかというと、それは霊を曇らせるからである。
では曇りとは何かというと、これには二種類あって、一は薬剤、二は罪の行為である。
すなわち薬剤は血液を濁すから、霊体一致の緯(よこ)の法則によって曇るのである。
また二の罪とは恨み、憎み、妬(ねた)み等々で人間の法則と神の律法とを犯すからである。
ところがこれを知らない人間は、苦悩から免(まぬが)れようとして人為的物質的手段にのみ頼るので、全然見当違いであるから、何程骨を折っても無効果であるのは当然である。
しかもこの理を知らすべき機関が宗教でありながら、宗教家もそれを充分 弁えないばかりか、事実を以って示す力もないのである。
ところが喜ぶべし、その絶対解決法が生まれたので、それが我 メシヤ教であるから、ここに人類待望の幸福世界、すなわち地上天国実現の運びとなったのである。」
明主様御教え 「天国と地獄」より (昭和24年8月25日発行)
「(一部のみ引用)
・針の山は読んで字のごとく無数の針が林立している山を越えるので、その痛苦は非常なものである。
この罪は生前大きな土地や山林を独占し、他人に利用させないためである。
・血の池地獄は流産や難産等出産に関する原因によって死んだ霊で、・・・
この原因は生前無信仰者にして、その心と行に悪の方が多かったためである。
・餓鬼道に堕ちる原因は自己のみが贅沢をし他の者の飢餓など顧慮しなかった罪や、食物を粗末にした等が原因
・畜生道はもちろん人霊が畜生になるので、それはいかなる訳がというと生前その想念や行為が人間放れがし、畜生と同様の行為をするからである。
例えば人を騙す職業すなわち醜業婦のごときは狐となり、
妾のごとき怠惰にして美衣美食に耽り男子に媚び、安易の生活を送るから猫となり、
人の秘密を嗅ぎ出し悪事の材料にする強請(ゆすり)のごときものや、戦争に関するスパイ行為等、自己の利欲のため他人の秘密を嗅ぎ出す人間は犬になるのである。
しかし探偵のごとき世のために悪を防止する職業の者は別である。
そうして世の中には吝嗇(りんしょく。けち)一点張りで金を蓄める事のみ専念する人があるが、これは鼠(ねずみ)になるのである。
活動を厭い常にブラブラ遊んでいる生活苦のない人などは牛や豚になるので、昔から子供が食後直ちに寝ると牛になると親がたしなめるが、これは一理ある。
また気性が荒く乱暴者で人に恐れられる、ヤクザ、ゴロツキ等の輩は虎や狼になる。
ただ温和(おとな)しいだけで役に立たない者は兎(うさぎ)となり、
執着の強い者は蛇となり、
自己のためのみに汗して働く者は馬となり、
青年であって活気がなく老人のごとく碌な活動もしない者は羊となり、
奸智に長けた狡猾な奴は猿となり、
情事を好み女でさえあれば矢鱈に手を付けたがる奴は鶏となり、
向う見ずの猪突主義で反省のない者は猪となり、
また横着で途呆けたがり人をくったような奴は狸(たぬき)や狢(むじな)となるのである。」
明主様御教え 「地獄界の続き」より (昭和24年8月25日発行)
「(一部のみ引用)
・修羅道は、俗に修羅を燃やすという苦悩で例えば闘争に負け、復讐しようとして焦慮したり、自己の欲望が満足を得られないために煩悶したりする心中の苦しみが生前からあったまま持続し、修羅道界に陥るのである。 (中略)
・色欲道は読んで字のごとく色欲の餓鬼となったもので、男子にあっては多くの婦人を玩弄物視し、貞操を蹂躙する事を何とも思わず、多数の婦人を不幸に陥れた罪によって陥るのである。
このため地獄においては生前騙され、酷い目に遇った女性群が責めたてる。 (中略)
そうしてこの苦痛たるや、生前罪を造っただけの女の数と、その罪の量とを償うのであるから容易ではないのである。 (中略)
稀には女性にもあるので、自己の享楽または欲望のため貞操を売ったり、姦通をしたり、男性を悩ましたりする事を平気で行なう女性があるが、これらももちろん色欲道に堕ち苦しむのである。
・焦熱地獄は放火をしたり、不注意のため大火災を起こし、多くの人命財産を犠牲に供する等の罪によって落ちる地獄である。
蛇地獄は無数の蛇が集って来るので、その苦痛たるや名状すべからざるものがある。
この罪は自己の利欲のため、多くの人間に被害を与える。 (中略)
・蟻地獄は殺生の罪であって、例えば虫、鳥、小獣等を理由なきに殺生する。
それが蟻となって苦しめるのである。 (中略)
・蜂室地獄は無数の蜂に刺される苦しみで、(中略)
この罪は芸者として多くの男子を悩まし、大勢の妻君が霊界に入ってから嫉妬のため蜂となって復讐したのである。」
明主様御教え 「人間の死後と畜生道」 (昭和25年12月6日発行)
「私は以前から、人間の死後その罪によっては畜生道に堕ち、再生の暁畜生となるという訳をかいた事があるが、
今度その生々しい事実を報告して来たから左に載せるが、これを見たら何人といえども、最早疑う余地はあるまい、
これについていささかここに解説してみるが、いかなる訳で畜生道に堕ちるかという事である、
それは生きている内に、畜生と同様の想念を持ち、畜生のごとき行いをするからで、形は人間であっても、霊はすでに畜生になり切っているのである。 (中略)
しかし畜生道といっても種々ある、というのは、現世における時、その行為に相応するので、
たとえば執着の強い者は蛇、人を騙した者は狐、横着な奴は狸、スパイ行為は犬、無鉄砲な奴は猪、
怠け者は猫、奸智にたけた奴は猿、チビチビ金ばかり貯めたがる人間は鼠、年中ブラブラして活動を嫌う者は牛、
獰猛な奴は虎や狼、またノド自慢を種に罪を作る者は小鳥等に生まれるものである。
特に、○○主義者のごときは、霊界へ往くと悪龍または鬼になるものである。」
明主様御教え 「ご神意を覚れ」 (昭和28年12月2日発行)
「(一部のみ引用) それ以外あらゆる災も同様であって、総ては浄化作用である。
しかし同じ浄化作用でも原因によっては浄化の形も自ら違うのは勿論である。
例えば金銭や物質の罪である。
盗み、遣い込み、人に損をかける、分不相応の贅沢をする等々の罪穢は、やはり金銭や物質で償われる。
世間よく金持の息子などが道楽者で、親の遺した財産を湯水のように使う事なども、
親や祖先の罪障消滅をさせられるのである。
それというのは、祖霊が自分の血統を絶やさぬよう、ますます一家繁栄を望むため、
子孫の中の一人を選んで浄化に当たらせるのであるから、この場合どれほど意見しても糠に釘である。
例えばここに二人の兄弟があり、兄はどら息子で手がつけられないが、弟は律儀真当であるとする。
ちょっと考えると、兄の方が悪く、祖先の名を傷つけるように思えるが、大乗的にみるとその反対である。
何故なれば祖先の罪穢を消す点から言えば、兄の方が上だからである。
というように、人間の考えで善悪は決められるものではない。
また、火事で焼け、泥棒に盗られ、詐欺に遭い、相場や競馬、競輪等で儲けようとして損をしたり、商売の失敗、病気で金を使う等々、
総て物質の罪は物質で浄化されるのであるから、
たとえ人間の法律は免れ得ても、神の律法は絶対であるから、どうしようもない。
従って人間の目を誤魔化す罪は眼病、耳に痛いような言葉の罪は耳の痛みや舌の病、人の頭を痛めるような行為は頭痛、自己の利益のみに腕を奮う罪は腕の痛みというように、
総て相応の理によって浄化が行なわれるのである。」
明主様御論文 「癌病・霊的病気」より (昭和27年御執筆)
「(一部のみ引用) 次は直腸癌であるが、これは直腸部に癌が発生し移動性ではなく、固定的である。
直腸は糞便通過の管であるから、便の通過が妨げられるので、医療は手術によって癌を切り取るので、糞便の通り道がなくなるから、腹部の横の方に人工肛門を造るが、これ程始末の悪いものはない。
何しろ開けっ放しであるから、糞便が溜るだけは、その穴へ絶えず出て来るので、赤子のように始終オシメを当てねばならず、動作によっては腸がハミ出る危険があるので、その辛さは並大抵ではない。
大体の人は死んだ方がましだと歎声を漏らすが、稀にはどうやら泣き泣き相当生きてる人もある。
この原因は前世時代、人の罪穢の浄化を妨げる行為、つまり罪人から賄賂を取って許したり軽くしたりする行為の罪や、欲のため人に醜行を行わしたり見逃したりした罪等である。
次に割合多いものに子宮癌があるが、この原因は、前生期または今生(こんじょう)期における堕胎の罪であって、つまり闇から闇に流された水児の怨霊が子宮へ憑依するのである。
稀には膣癌というのがあるが、これは不道徳な男女関係による罪である。
次は喉頭癌であるが、これは前生期または今生期において鳥屋などが、沢山の鶏の首を絞め殺した怨霊がほとんどである。
また舌癌は前世時代舌によって作った罪であって、舌のために人に迷惑や苦しみを与えた恨みの怨霊の罪であるが、この外にちょっと気が付かない罪がある。
それは誤った学説や、悪思想や、邪教の宣伝等で、多くの人を誤らせ社会に害毒を流すような罪で、これは多数の人に被害を与えるから、割合重い罪となるのである。
次に頬癌、痔癌等もあるが、これらは滅多にない病気で、頬癌は人の頬を殴打し、損傷を与えた怨みの罪、痔癌は肛門に損傷を与えた怨みの罪等である。」
明主様御教え 「病気の原因と罪穢」より (昭和11年御執筆)
「(前半省略) 第二の個人の罪穢を説いてみるが、これは誰しもよく判るのである。
いかなる人間といえども、生来、絶対罪を犯さないで生きてゆくという事は、出来得べからざる事である。
しかし罪にも大中小、千差万別あって、例えば、法律上の罪もあれば、道徳上の罪もあり、社会的の罪もある。
また行為に表われる肉体的の罪もあり、心で思うだけの精神的罪悪もある。
基督(キリスト)がいった、女を見て妙な心を起しただけでも、姦淫の罪を犯す事になるという戒めは、厳し過ぎるとは思うが、間違ってはいないのである。
かように、たとえ、法律を侵さないまでも、小さな罪、即ち日常、彼奴は憎いとか、苦しめてやりたいとか、姦淫したいとか想うのは、誰しも罪とは思わない程の微細な事ではあるが、これらも長い間積り積れば、相当なものになるのである。
又、競争に勝つとか社会的に成功するとか、とにかく優越的行為は敗北者から怨まれ、羨望される。これらもその恨(うらみ)に依って、一種の罪となるのである。
又、殺生をするとか、怠けるとか、人を攻撃するとか、物質を浪費するとか、朝寝するとか、約束を違えるとか、嘘言を吐くとか、いう様な事も知らず識らず侵す一種の罪である。
かくの様な数限りない罪は、小さくとも長い間には、相当な量となるので、それが精霊へ曇となって堆積さるるのである。
しかし、生れて間のない嬰児は、後天的の罪は無いであろうと思うが、決してそうではない。
すべて人間は、親の膝下(しっか)を離れて、一本立になればともかく、親によって養われてる間は、親の罪穢も分担する事になっているのである。
ちょうど、樹木にたとえてみれば能く判る。親は幹であって、子は枝であり、その又枝が孫である。
幹であるところの親の曇は、枝に影響しない訳にはゆかないのと同じ理である。
この後天的罪穢は、明白に判る場合がよくある。その二、三の例を述べて試(み)よう。
人の眼を晦(くら)ました結果、盲になった二つの例がある。
以前浅草の千束町に、経銀という表具師の名人があった。
彼は贋物を作るのに天才的技術を有っており、新書画を古書画に仕立上げて売付け、何十年もの間に相当な資産を造ったのであるが、
晩年不治の盲目となってから暫くして死んだのを、私は子供の時によく遊びに行っては、本人から聞かされたものである。
今一つは、やはり浅草の花川戸に花亀という道具屋があって、
ある年静岡地方の某寺の住職が、その寺の本尊を奉安して、東京で開帳をしたのである。
ところが、失敗して帰郷の旅費に困り、その御本尊を花亀へ担保に入れて、金を借りたのである。
その後金を調えて、御本尊を請けに花亀へ行った所が、花亀は御本尊の仏体が非常に高価な買手があった為、売払ってしまったので、
彼は白々しくも、預った覚えはないと言切って、頑として応じなかった。
そこでその僧侶は進退谷(きわま)り、遂に花亀の軒下で首を溢って死んでしまった。
ところが、花亀の方では、仏像で莫大に儲けた金で商売を拡張し、その後トントン拍子に成功して、その頃数万の財産家になったのであるが、
晩年に至って盲目となり、しかも、その跡取息子が酒と女狂で、忽ちにして財産を蕩尽し、
ついには見る影もなく零落し、哀れな姿をして、老妻女に手を引かれながら町を歩く姿を、私は子供の時よく見たので、その謂(いわ)れを父から聞かされたのであった。
これは全く僧侶の怨念が祟ったのに違いはないのである。
今一つは親の罪が子に酬(むく)った話であるが、それは以前私が傭っていた十七、八の下女であるが、
この女は片一方の眼が潰れて、全く見えないので、訊(き)いてみた所が、以前奉公していた家の子供が空気銃で過って、眼球を打ったとの事であった。
なお訊いて試(み)ると、その下女の親爺は、元、珊瑚の贋玉で非常に儲けたとの事で、それは、明治初年頃、護謨(ゴム)等で巧妙な珊瑚の贋玉が出来た。
それを田舎へ持って廻って、本物として高価に売付け、巨利を博したとの事で、その贋玉を高く売付けられた人の怨みが大変なものであったろうと思う。
全くその罪が子に酬って、眼の玉を潰したのである。
しかもその女はなかなかの美人で、眼さへ満足であったら、相当の出世をしたろうにと、惜しくも思ったのであった。
今一つの例は、手首の痛む老人が、治療に来た事があった。
十日以上も治療したが、なかなか良くならない。
不思議に思って、その老人の信仰を訊いてみたところ、〇〇様を二十年以上も信仰していると言うのである。
そこで私はその為であるから、それを拝むのを罷(や)めさしたのであった。
ところが拝むのを罷めた日から、少し宛(ずつ)良くなって、一週間程で全快したのであったが、これに似た話は時々あるのである。
正しくない信仰や、間違った神仏を拝んでいると、手が動かなくなったり、痛んだり、膝が曲らなくなったりする例が、よくあるのであって、これは全く間違った神仏を拝んだ、その罪に因るものである。
これらの例によって察(み)るも、後天的の罪穢も軽視出来ないものであるから、
病気や災難で苦しみつつある人は、この後天的罪穢をよくよく省みて過(あやま)っている事を発見したなら、速かに悔悟遷善すべきである。
今一つは別項種痘の記事にあるごとく、陰性化せる天然痘の毒素である。
故に病気の原因は、先天的の罪穢及び後天的の罪穢及び天然痘の毒素の、この三つが主なるものであると思えば、間違いないのである。」 (「新日本医術書」より)
明主様御教え 「二人の盲の話」 (昭和24年8月30日発行)
「私が十二、三の頃浅草の千束町に住んでいた事がある。
父は古道具屋をしていたのでその仲間であった、当時浅草一といわれた道具屋でHKという人があった(この名は花川戸のKさんだからである)。
この人は六十位の時に両眼つぶれ完全な盲目となってしまった。
その話を父からよく聞かされたので今でも覚えている。その話はこうである。
HKが盲になったのは全く罰が当ったんだ、という事で、
その訳はHKが中年の頃当時静岡県の有名な某寺の住職が相当大仕掛で浅草の観音様の境内を借りて、開帳をした事がとんでもない運命となったのである。
それは予期に反し非常な損をしたので帰山する事が出来ず、止むを得ず本尊の観世音菩薩の像をHKに抵当とし金を借りてようやく帰る事が出来た。
その後数ケ月経て金を拵え、約束通りHKへ行って返金すると共に本尊の返還を求めた。
するとHKは「そんな覚えは全然ない、何かの間違いだろう」といってテンデ取り合わないので、
住職は進退きわまりHKを恨んだ末軒先で縊死したのである。
もちろんHKはその仏像を非常な高価で外人に売り、それから店も一段大きくなったという話である。
右のごとくその住職の怨恨が祟って盲目者となったのはもちろんで、
しかもその一人息子の跡取りが大酒呑みで数年の間にさしもの財産も飲み潰して家出をし行方不明になったという事である。
その結果赤貧洗うがごとく、親戚等の援助で辛くも露命を繋いでおったような有様で、
その頃よく老妻に手を曳かれ町を歩いている姿を私は度々みたのである。
今一つはやはり私の近所にWGこと、経銀という表具師があった。
これがまた六十歳頃から盲となった。
ここへは私はよく遊びに行って可愛がられたものである。
盲の原因としてはこういう訳がある。
この経銀というのは表具師の名人でしかも贋物を作るのが特技であった。
彼は某絵師と結托した。その絵師は古人は元より応挙、抱一、是真等の偽筆が巧みで私はよく遊びに行っては書く所をみたものである。
その絵を経銀が古びをつけるがこれがまた彼の得意で、特に虫喰いなど本物としが思われない程で、私が遊びに行くとある部屋は締め切って誰も入れなかった。
聞いてみると虫喰いを作るのを人に見せないためである。
この様な訳で全く贋物で人の目を眩まし大儲けをした天罰と聞かされ私は子供心にも天罰の恐ろしさをつくづく知ったのである。
その後私が三十歳頃の事一人の女中を傭った。
その女は年は十八、九でなかなかの美人であったが惜しいかな片一方の眼が潰れているので、
前記の二つの例もあるし私は何かの罪と思ったのでよく聞いたところ、
この女の父は明治初年頃ゴムで作ったニセ珊瑚が初めて日本に現われた事があったその時、
このニセ玉を地方へ売り歩き大儲けをしたとの話で私はなる程と思った。
この女の盲の原因というのは以前奉公をした家の坊ちゃんが、空気銃で冗談にうったのが当って片目が駄目になったとの話であった。」
明主様御教え 「迷信の実例」より (昭和10年代)
阿弥陀様を拝む罪
「昭和十年夏頃、私の所へ来た患者で、一遍は腕及び掌は硬直して曲り、
足は漸(ようや)く歩く位で、絶対に座る事は出来ない、二十二歳の娘があった。
十四五年前からの病気で、いかなる治療を施しても、更に効果はなかったという事である。
それで、普通の治療だけでは難しいので、観音様を祀るべく、その母なる人に、勧めたのであった。
しかるにその母親の返事が実に驚くべき事であった。それはこうである。
自分の家は、先祖代々真宗である、私の宗旨は、医師、灸治、電気だけは許されてあるが
他の療法は、しかも阿弥陀様以外の神仏の御蔭で治して戴くという事は、
大変な罪であって如来様のお咎(とが)めこそ世にも恐ろしいのであるというのである。
そこで、私の方では、私の方で言うようにしなければ治らないとしたならば、どうするかというと、
母親いわく、たとえ一生治らなくても致し方ない、娘一人は、犠牲にしてもよいから、
どこまでも未来で、阿弥陀様の側へ行かれなければならないというのであるので、
最早一言の返す言葉もなく、黙した様な訳である、
これによってみるも、いかにその信念の強いかが判るのであって、常識を失っているかという事が判るのである。
一歩退いて考えてみよ、それ程までに如来様を信じているに拘わらず、一生障害者で通さなくてはならないのは、どうした訳か、
その生きたる事実は、阿弥陀様のアテにならぬ事を証明しているではないか、
そこで私は内々で、その娘だけに言うたのである。
貴女の病気は長い間 阿弥陀様を拝んだその罪である。
なぜなれば、指が曲って、掌を合す事が出来ない。
又腰が曲らないから、額ずく事が出来ない、というのは、間違った仏を拝んだからであると言うたのである。」