経済観念について 2 (借金2)


明主様御講話 「投資インフレについて」 (昭和26年12月1日)

「今度、農業特集号を出そうと思って、論文を書いています。農林技師で・・・青森県の方で、三年前から非常に研究していて、確かに良いというのがあった。

農林省へ、報告したかとか言ってね、あれは一頁くらいになるが、良い資料でね。

それからお蔭話を見たところが、まだいくらも来てない。


「判りますのは、もっと遅れるようでございます」 (註 茶色の文字は信者の発言)

そうらしいですね。やむを得ず遅れるのはしかたがないが、できるだけ早くしてもらいたい。

特集号にして・・・駅あたりにポスターをして、新聞を売ろうと思っている。

つまり「農業の大革命、五カ年継続すれば五割の増産確実」というようなことを書いて、日本中に・・・できるだけ大々的に知らせようと思う。


「ただ配るより、売らしていただいたほうがよろしいようでございます」

いろいろな点でね。配るのは・・・団体ですからね。農会とか、日本中の新聞社とか、参衆両議院とか、主なものです。農界の原子爆弾ですね。


「新潟のほうで、四年間やらしていただいておりますが、今まで黙って見ていた連中が・・・村で三分の一くらいは・・・入信はしなくても、一反ずつくらいを来年からやりたいと言っております」

それは良い。そういうことの報告を書いて出して下さい。つまり、入信者でなく、普通の人がやるようになると、もっと良いんですよ。
 
つまり、急を要する問題だからね。だから、実行さえすれば・・・できるだけ多くの百姓が実行すれば良いんだからね。

あらゆる問題は、それで解決できちゃうんだからね。

だいたい、二千万石じゃきかない。二千四百万石くらい輸入しなければならない。

金にすれば、千八百億ですからね。千八百億煙になっちゃうんですからね。

たいへんなものです。いくら輸出したところで、さっぴきになっちゃう。

それで、金がないから・・・金詰まりということになる。

商工業者も苦しいということになる。


なにしろ、日本が・・・これからドッジが来て、一番いけないと言うのは、オーバーローンと言ってね、銀行が・・・預金より貸し出しが多いんだからね。

経済界の悪いことがあると、一拠に丸つぶれになる。

日本はアメリカの資本を借りたがっているが、恐らくアメリカじゃ貸さないだろう。

そんな不健全な経済では危なくて貸すことができない・・・と言ったが、そういうわけです。

ドッジはうまいことを言っている。投資インフレだというんです。投資といっても、借金ですからね。

投資インフレというのは体裁良く言ったんだ。本当言えば投資借金です。

日本の今の商工業者くらい、借金の好きなものはない。

自分の金じゃない、借金するのが本当だと思っている。

借金から借金につながっているからね。

だから、一人返さないと、いくらでも・・・それで延長していく。

この経済の・・・固定ということがたいへんな悪いことですね。

つまり甲から乙が借金して、丙が借りて、丁が借りる。

丁がもし、ちょっと何かの原因で支払いができない。

すると丙が迷惑して、乙が返すことができなくなる。

これが借金インフレすれば・・・これだけで食い止めるのを・・・それを食い止められない。こういう状態だらかね。


「医学の注射と同じことで・・・」

そうです。一時抑えだからね。

今度、「抑えつけ文化」というのを書いているんだがね。

何でも押し込めている。経済界でも、犯罪が多いが、ああいった・・・官吏の汚職だとか・・・みんなそうです。

一時的ですよね。ただ、対症療法的にね。」




明主様御講話 「明主様は借金生活で金銭の使い方を学ばれた」 (昭和28年7月5日)

「浮世絵展の方は時々陳列替えをしますが、

今日から三回目の陳列替えをしましたから、この前までのとはまるっきり違います。

そのつもりで見てよいと思います。

今度も博物館のと、それから個人でちょっと持っている人のがいくらか混じりましたが、

とにかくドンドン集まってくるのは奇蹟なのです。

今浮世絵で集まっているのでは、日本で一番だそうです。

それが一年とはたっていないので、去年の今ごろはまるっきりそういう物はなかったのですから、七、八カ月で集まってしまったのです。

実に不思議なのです。

それについて、最近歌麿の霊が憑って、喜んで言ったことと、その意味を書いたのを読ませます。

(御論文「美術品蒐集の奇蹟」発表)

今霊界では自分の作った美術品やなにかを競争でここへ持ってこようとしているのです。

ところが持ってくる者はみんな欲張りですから、大いに儲けようとするのです。

そこで私は高い物は買いませんから、霊は大いに煩悶しているわけです。

私の方は、あせらないでほったらかしておくと、結局だんだん安くして納めざるを得なくなるのです。

これはなかなかおもしろいのです。また少し高くしたり、怪しげな物を持ってきたら、きっと知れるのです。

誰かが知らしてくれるのです。それがちょうど、私がチャンと知っているかのようにゆくのです。

私が気に入っても、高いと思って買おうかどうしようかと迷っている時は、

必ず誰かが来て、それは前にいくらいくらで売り物に出ていたと言って、

道具屋がウンと儲けようとすることを暴露するのです。


ですから私の手にはいる時はチャンと相場なのです。

それで私は別に相場を外して安く買おうとは思いませんが、

そうかといって相場外れの物は嘘ですから、買わないでいると、そうすると実にうまく気持ちよくゆくのです。


ですからいろいろな種類がありますが、浮世絵にしろ外国の美術品にしろ、去年の今ごろはまるっきり知らなかったのです。

それが、私としても急に分かるわけはないのです。

それがそういうようで、私が実によく分かっているかのようになるのです。

ですから商売人などが「ホホー、どうしてあんなにお分かりになるのだろう」と思っているようですが、

こっちはそうではないので、フッとそういう気になったり、他の人にヒントを与えられて、それを選(よ)ってゆくのです。

それが長年研究しておそろしく目が利いているかのように見えるのです。

そういうところがなかなかおもしろいのです。

なにしろみんな高い物が多いし、私の方でもだんだん厳密になってゆくので、たいていな物は買いません。

天下一品という物でなければ買わないようにしているのです。

ですからたまにあるとみんな高い物ばかりです。

ですから金には実に苦しむのです。

これは求めて苦しむのだから、別に悲観的なことはないので、やっぱり嬉しい悲鳴なのです。


それで金の使い方やいろいろなことは、私は自分ながら随分うまいつもりなのです。

行き詰まらないように、道具屋の方の払いなども無理のないようにうまくやり、苦しめないような具合にやっているのです。

ですから金の繰り合わせ方は、私は大いに自信があります。

それもこれも昔大いに金に苦しみ、その修業をしたというためもあります。

というのは借金で二十何年間苦しめられたのですから、それが今日非常な学問になっているわけです。

やっぱり神様は、金の使い方やいろいろなことを大いに修業させられたのだと思ってます。

それについて書いてみました。

(御論文「借金二十年」)発表」




明主様御教え 「依頼心を去れ」 (昭和27年2月27日発行)

「つくづく日本の情勢を観ると、現在の日本人くらい依頼心の強いものはあるまい。

この間来朝したかの米国のダレス国務長官顧問にしろ、帰りがけに注意した言葉の中に、

日本は今投資インフレに罹っているといわれたが、全くその通りで、

これを言い換えれば、借金インフレという事になろう。

この言の通り借金の多い事、今日程はなはだしい時代はないであろう。

何よりも銀行のオーバーローンがよくそれを物語っている。

オーバーローンとはもちろん預金よりも、貸金の方が上廻っている事で、

これが国家経済の信用に関わる点は、並大抵ではないと言われている。

これは誰も知っている事だが、日本では大なり小なり、何か事業を計画し、始める場合、必ずと言いたい程借金をあてにする。

恐らく今日、日本人中借金のない人は、暁の星のごとくであろう。

現に農民層でさえ農業手形が年々殖えつつある事実である。

そうして少し大きな事業になると、銀行はもとよりヤレ政府の援助、市町村の信用組合、公共団体等からの借金をあてにして東奔西走している人は、いたるところ見受けるのである。

それがため運動費やら利子やらの無駄な支出は、案外巨額に上るであろうから、

相当儲かる事業でも、結局算盤(そろばん)に合わなくなるのは知れ切った話である。

見よ今日の金詰り、手形の濫発、汚職問題等も、この借金政略が根本となっているのが、そのほとんどであろう。

としたら日本の経済を建直し、今日のごとき金融難、取引の不円滑等の悩みから脱却するとしたら、この点について大いに考慮すべきである。

つまりもっと慎重の上にも慎重にし、期日までには必ず返済出来る目安と、これこれの利子を払っても、充分プラスになる程の利潤を挙げられるという見通しがついてから借金すべきである。

という訳で現在はいかなる方面でも借金に悩ませられていない人はないくらいで、

そのため経済界に与える悪影響も、案外甚大なものがあると共に、

一朝何かの変動で経済界混乱が起るとしたら大変であろう。


ここで私の事を少しかいてみたいが、私が目下建造中の箱根熱海の地上天国にしろ、その規模の大なる恐らく前例がないであろう。

初めて見た人で驚嘆の声を放たない人は恐らくあるまいと思うが、

世間流に考えたら、開教僅か数年の本教が、どうしてこんな途轍(とてつ)もない物を造る事が出来るのかと、不可解に堪えないであろうが、実は案外苦労はしてないのである。

普通からいえば銀行とか、公共団体の援助くらいは受けられない事もないが、

私は絶対そんな事はしない方針で、あくまで自力でやるつもりである。

これによってみてもすべては神様の御計画であるのがよく分るが、

実は私自身としても最初はビクビクものであった事を考えると、不思議というのほかはない。

何しろ予想もしないようにズンズン規模も拡大してゆくのであるから、全く奇蹟以外の何物でもないのである。

そうして間もなく美術館が出来るが、差し詰め陳列する美術品にしても、何しろ国宝級の物や有名品などになると、到底手に入れる事は難しいし、購入するにも生易しい金では駄目なのは分っているが、ある程度は必要であるから、何とかしたいと思っているが、

これも神様は都合よくして下さるに違いないと安心しているような訳で、むしろ一種の客観的興味さえ湧くのである。

これでは依頼心を去れなどと言えた義理ではないが、その点相手は人間とちがい神様だから、大いに楽観しているのである。」




明主様御教え 「浄財と不浄財」 (昭和10年7月25日発行)

「それは、名前など一切言えませんけれどもある宗教の非常な、熱心な信者がありました。

その信者が、神様の事について、結構な御用をしたんでありますが、

その人は、家賃を何年も払わずにいるんであります。

ツマリ、払うべきを払わないで御用をしたのであります。

で、これは、どういう風に解釈するかと言いますと、

払うべき物を払わぬという事は、例えば、物を買って品物を持って来ても、金を払わぬというのと違いはありません。

家を借りる際には、最初、家賃を払う、家を貸すというので借りたんで、

例えば品物にしても、これは一円だから一円払えば品物を上げるというのと同じであります。

銭を払わないで品物を持ってくるとなると怪しからん事で犯罪になりますが、

家を借りて家賃を払わないのも、桔局同じ事であります。

どうしても、これは盗みであります。

本当から言えば、家賃なんかは一日も、遅らせるべきものではないのでありまして、

一日遅れれば一日、それだけの盗みの罪が構成される事になります。

そんな金で、御用をしても真の神様なら、そんな不浄の金は御使いになるはずがないのであります。

でありますから地代とか家賃とか約束した仕払は、絶対に遅らせるべきものではないのであります。

そういう払うべきものを払わねば、矢張り入るべき金も入るものではありません。


金は昔から、湯水のようだとか、湧くとか言われていますが、全く水のようなもので、

払うべきものを払うとどしどし流れて来るものであります。

金を払わねば入るべき物も滞ってしまうのであります。

霊的に言うと、そうであります。

霊的が体的になるのでありますから、金に困る人とか、豊でない人はどこかにそういう間違いがあるんであります。

そういう間違った事がなければ、困るべきものではないので、それが天地の原則であります。

そういう無理をし人に迷惑をかけて神様の御用をしたって、決して善い事をしたのではないのであります。

よくお寺や、伽藍(がらん)が焼けますが、永久に残る寺は滅多にありません。

日本では、奈良の法隆寺位なものでありましょう。

有名な堂宇はよく焼けます。

それは、そういう不浄な金が多いので、建てたが故であります。


面白い話がありますが、無銭飲食をした者があって、警官が捉えて調べてみると懐に百円持っている。

そんなに金を持っていて、なぜ、そんな事をしたかと訊くと、

その男は阿弥陀様の信者で、これは、阿弥陀様へ百円キッチリ上げるときめてあるんだから、一銭も手を付けられぬ、

外には銭がないから無銭飲食をしたんだと、平気で言ったそうであります。

こんなのが迷信の最も恐ろしいところであります。

それに似た様な事がよくあるんであります。

これは、大変な間違いでありますが、観音信仰はこういう間違いはない、誤魔化しのない、つまり総てが真実であります。

観音様を信仰し、観音行をすれば本当の人間になるから、

人から指一本さされる事がない、争いや苦情が起らないのであります。

争いや苦情が無くなれば裁判所などの必要がなくなって来る。

間違った事をしながら、理屈を付けて誤魔化そうとするから苦情や争いが起り裁判所の必要があります。

世の中の人が皆、間違わないようになった時が大光明世界であります。」 (岡田仁斎)




古参専従者の寄稿 「思い出」 (昭和29年8月4日)

「もう、かれこれ二十年近い以前のことである。

当時、メシヤ様は大日本観音会をお作りになり東京麹町半蔵門の所で御教えを垂れ給いつつ、

病患に苦しむ者を御自ら御救い下されたものであった。

ある日、たまたま借家のことについて、次のような御数えを戴いたことがある。


明主様御垂示
「この頃は何事にも感謝の気持が欠けていていけない。

家等を借りて、住まわして貰っている場合でも、

御蔭で雨風しのげているのに、家主に対する感謝等は更になく、

幾月も払わないで溜めていて、たまたま催促されれば、

どっちが家主かわからないような返事だとは、呆れたものである。

本当から言えば、その月の家賃は前月の末日までに持って行って払うのが当り前で、

その月の終りに払うようでは駄目である。

なぜなら、それはやっぱり借りていたということであって、

「借り」は「仮り」であって、本当ではないということだ。

又、借りは借金であり罪でもある。

しかし、前月末日までに払っておけば借りではない訳だ。

神様は払うべき物を払ってさえ行けば、またお恵み下さるものである」(註 明主様御垂示は以上)・・・というような御教えであった。 


この事を御伺いして、私の生活態度が一変したのは当然であった。

そうだ、今までは何事にも借りずくめの自分であった。

よし、まず何事によらず借りを精算して、本当のものにならなければならない。

家賃からまず実行だというので、必ず前月末日までに届けさして戴いたのであった。

そのため家主は笑顔で迎えてくれるし、

私の所の事については何くれと心好く修繕などしてくれたり、

気持のいい交際が出来て良かったのは勿論であった。


ところがある月の事、翌月の家賃を持って行こうにも金がなくて、なんとも致し方ないという状態が起きてしまったのであった。

当時東京深川の住吉町で、六畳に三畳、二畳の玄関で、家賃は十八円だった。

私は早速御神前にぬかずき

「このように与えられないということは、何か間違っているからでございます。

何卒御許し賜わりますよう。

またどこが間違っているか、何卒御気づかし下さいますように」

と、御詫び申し上げると共に御祈願申し上げたのであった。


ところがである。

平常ならこんな場合一番に必要以上に心配ご苦労するはずの家内が、

いやに落着き払って、心配そうな顔もしないでいるのである。

チト変だなあ、と思っていると、ちょっとばかり、ニコッとして、

「実はあなたには言わなかったが、ずっと前から一銭、二銭、五銭、十銭・・・と倹約して貯めていたんですが、

大方一杯になっているようだから、あれを割って見ましょう」と言って、

柳行李の底から福助の貯金ガメを持出して来たのであった。

「そうか、それはよかった。早速割って見よう。

なんだかお前は、山内一豊の妻みたいじゃないか」などと言いながら大いに喜んだものであった。

そこで一銭二銭五銭十銭と数えて見て驚いたのであった。

(当時修行初めの頃であり、まとまった金が入っている訳がない)

出て来た金が、ちょうど十八円ちょっきり。

家賃の不足が十八円という訳であるから、私もいささか唖然としたのである。

しかし間もなく私は、ハッとしたのであった。 

これは褒めるどころか、御詫び申し上げねばならぬ事だと気付かしていただいたのであった。


それは、その当時の私達の生活は何の余裕もない時の事だし、

今では笑い話の一つだが、着物にしても一夜のうちに袷(あわせ)が単(ひとえ)になったり、

単が袷に縫直されて、やっと御奉仕に事欠かさぬよう御神前に坐らしていただけたという位だし、

またどこの店は一銭安いからといっては遠い所まで歩いて買い物に行く等はざらにあったことだ。


だから、この十八円の貯金なるものは、「今日はお陰でこれだけ貯金さしていただけました」と神様にお礼申し上げてできた天国的なものではなく、

しかも二日や三日で溜まるものではないから、何ヶ月もの間、その貯金ガメに入れている時の想念を思う時、

「もし不慮の何かがあったら」とか、

また、まさか今日は十銭だけ神様を信用されませぬとは思わなくても、

せんじつめれば、そういう事になるではないか。

神様は、私達が為すべき事をちゃんとすれば必要なものは必ず与えて下さるものであると、

他の人には教え導く立場の自分達ではなかったのかと思えは、

申訳なさで一ぱいになり、早速御詫びに参上したのであった。

メシヤ様には御優しく「細かに気づいてよかった」との御言葉をいただいて、明るい気持で帰って来たーあの時の事が、何かにつけて思い出されるのである。

その後、いかなる時、いかなる場合、いかに小さいちょっとした御言葉も、

心にとめて、一つ一つをまず実行さしていただく事を精進さしていただいたのであるが、

今日よりも明日と、段々と幸福にしていただけたのは勿論、

いまは本当にもったいない程結構にしていただき、

いかにしてこの絶大なるお恵みに御応え申し上げればよいのか、ただただ恐れ多い極みである。」

(註 文中「メシヤ様」とあるのは、明主様の昭和29年8月当時の明主様の御尊称である)